24. コモデ ②
文字数 30,125文字
構成分けました。③までいきます。
先のまとめとして追加:
火と水の洗礼において、実際、何が果たされるのかについては、以下が参考になる。
なんぢら、我を「主よ主よ」と呼びつつも、何ぞ我が言ふことを行はぬか?。凡 そ我が元に
きたりて、我が言を聽 きて、その教えたるものを、真 に行 ふ者は、如何なる人に似たるかを教しえん。即ち、家を建つるに、地を深く掘りもて、基 たるを据 ゑし人の如しかな。洪水いでて、激流その家を衝 けども、動かすことは一切能 はず。これ聽 きても実際には行 はぬ者は、基 なくして、家をば濁流 襲い来たりて、その家を衝 きたれば、またたく間にも崩 れして、その破壞 の様は、はなはだしくも酷 きものとなるらん…。(ルカ福音書6-46〜49改)
同じく”水”の例えが使われている。自分の説は恐らくはここをベースに考えられているのだと思う。なんらかの出来事において当然それは当事者にとっては悲劇や事故や惨事のことでしかないのだが、生活の基盤たるものが吹き飛んでしまう。いや失礼、押し流されて跡形もなくされてしまう。この状況たるを迎えるたるにおいて神たる存在を強く意識するようになる。多分やっとこさ、初めて…。直接的には新約におけるイエスの教えの数々をになる。苦節たるを乗り越えるのに神の助けを祈り求めることになるので、あれら教えの言葉にしがみつくことがその信仰の証しになる…。
要は水による前段と火による後段の両過程をもってワンセット。それらを伴に連続的に経ることによって、その結果的にて〜の意味において、信仰としてのその世界観はある意味やっとこさ完成する。そこんところのことを天国への入場と呼んでいるんだろね。内部において、某 かの認知を司ってある内部のフォーメーションが変化するんだ。本人にはそのことはまったく分からんのだけれどもね。気づかない気づき得ないことなのだけれども…。
もし幸いにして無事に、ことが試練たるものが乗り越えられたのなら、定められた課題たるものがその当人において成し遂げられたのなら、その暁には信頼が抱かれることになる。持たれることになる。「 なぜか?」。神はそれとなくしての介入をもって彼を救ってくださるからだ。そうなることを観じて、自然と察して、そうでありけることを確信して、彼の信仰心は真にこころからのこころの底からの、誠実にして真剣なるものとなる。不動なるものと、やっとこさそこにおいて初めてなる。樹は育たないこととには未だ樹ではないんだ。そうとは実は呼べないんだ…。金たるものも、また同じ。その純度をそれなり上げないとことには、金としてのその姿をその威光たるを顕すことはできないんだ、ないんだ…。そうして、そうなったならば、その暁には、またの再びの悲劇たるの悲惨なるのできごとの往来があったとしても、前の様に、闇雲に狼狽して、根拠なくしての怯えに憑かれして、恐怖して、存在の薄きの、まさにそのものの態度たる、意味なくして唯のいたずらの、こころの惑乱右往左往へと流されることもなかろうよっと。ただ口にアーメンを唱えて、こころ静かに、安らかなるがままに、おることもできようと…。それは彼が既に、悪しきことも善きことも、快なることも不快なることも、伴に、神からの賜物として快く受け入れることのできる、その心の境地たるものにたどり着きておるが故に、正に、それこそが天国への参入状態と呼ぶべきの事態たるものを果たしているが故にて…。
恐らくはヨハネによる水の洗礼はこんな感じだったと思う。ことはあくまで象徴的な表しにすぎない。過去を、世俗とのつながりを、旧来の自分としてのあり方を、一旦、全部、根本から捨ててしまう。水で洗い流す。洗って清める。世界との関係のそのあらましを、完璧に、全部リセットす〜るー!。その
続いては、ちょっと繰り返しになるが…
風は己が好むところに吹く、汝その聲を聞けども、何處より其れ來りしか、そして、また、
何處へ其れ往くかを知らず。すべて靈によりて生るる者も、また、斯くの如し…
ここにて、語られているのは、”聖霊”のことにしかないな。風に例えられるのは、それがあくまでも完全に自由自在で、かつ自由闊達なるその様子をもって、活動を、顕現を、そのお働きたるものを表わすからでしかない。ヒトの目からは一切とらえがたきものとしてなのだ。その活動に関しての予測は一切つかない。然して且つ、超自然にして超絶的なる力を振るうものなのだ。なにせ、三位の一翼を担う存在であり、神と同義、同体でもあるとも言えるのだから…。無事、これからの関与に恵まれたるの人間、そして、それとの関係を樹立して、保てている人間もまた、その行動は、やることは、為すことは、ヒトにその予測はつきがたし哉…。
追記:
聖霊たるものの、その本質、本分としての働きが、何であるかは実地に知るしかない。自分には、それに関しての推理推測推論はあるが、未だ公然と語るまでにはいない。でもね私の創作のすべての
続きましては青銅の蛇…
これに関しては、ことは簡単であると同時に、その解釈は奥深くして、
また、こと解説ともなれば、それは余りにも、" Risky " …。
モーセ、荒野にて、蛇 を擧 げしの如く、人の子もまた必ず、擧 げらるるべし。
すべて、神を信ずる者の、彼によりて、永遠の生命を得んことが爲に。
ここでイエスが語られていることのその意味たるものを理解するためには、やはり出典元たる民数記の21章3〜9をも理解しておく必要がある。ことの意味が通りやすいようにとの思いの元、
それの前に先忘れん内に一つ〜…。刑に処せられるべきなのは蛇そのものなのだ。これが表わすところはサタンなのだとハッキリ言ってしまおう。この行為がヒトにおいてはできなくなってしまっているので罪深くしてのそのヒトの業が故に、その異常なる生活習慣の長きによって渡ったがゆえにて、その傾向性が強化されてしまっているので、完全に無辜たるイエズス神の子が、その事態たるものをそのものを根底から一旦解消すべく敢えてで、あれと同じくして屠られる必要性があったのだ。供犠におけるその両者の性質がまったく違うこと、ずばり真逆であることにー核心的なる意味たるものはある。このことに皆さまの関心と注目を集めておきたく存じますー!。(どんな理屈で、またどんな仕組みで、それがそういうことになるのか?。このことにおいての解答はその理解は話者には未だもってありませーん!。)
Re:では開演!
先ずは見すぼらしきの限りの出で立ちにしてなる人々、その大群が、僻地の荒れ果てた土地、延々と広がるままなだけで、草木もまばらにして険しいだけの大地を、ただ黙々と、延々と、歩いている…。そんな様子をご想像くださいまっせ〜。たぶんこのまんま自死することを、その覚悟をあえてをもってでも受け入れる、そうするをもってしてで…、信仰における愛たるものの発露、その証明こそが、ことの、この行軍をなさしむる上での、意思決定を形作る。覚悟をする上での、術式、共同観念、共有物語になってたんだろ…。←最初に現実としてあって、物語となって、それを真実心から信じて改めて求むる証明するにおいてそのヒトの子等によって改めて世界創造なされる、反映が現実において果たさてしまうこととなるっと。この循環においてのその一環としての場面かもね…。
モーゼに率いられたイスラエル民は、ホル山から進み、紅海の道を通って、エドムの地を回ろうとした。だが民達は、その道程をゆくことに、モーゼの導きに従ってついてゆくことが既に堪えがたきものとなっている。 民たちは、神とモーセとに向かって、もんくを、苦情を、非難不満の恨みつらみの言葉を、あからさまに、もう誰をはばかることもなく、荒々しきの声もて、発するようになっていた…。
「あなたたち(神とモーゼ)は、なぜ、我等、イスラエルの民を、安心してそれなりに
満ち足りて暮らしていたエジプトから、強引なる誘いをもって連れ出し、その挙げ句に、
こんな荒野などで、死なせようとなされるのか?!。ここでは碌に食べ物も手に入らない。
水さえ出ない痩せた土地ではないか !!。あるとしても、粗末にして粗悪なるものばかり。
泥水しか飲めん。もうそんなもんで糊口をしのぐのは、もう我等には我慢ならんわー!!!」。
そこで、
そのことが為に、イスラエルの民の内、多くのものが
このような事態となったことに、民たちは、恐れ、慄き、大いに戸惑ひて、
急ぎ、モーセの元に行って、こう言った、
「我等は、主に刃向かってしまいました。また、あなたにも大ひに刃向かいをしました。
不平を言うこと、文句を口にすること、偉そうに罵詈雑言を発するにおいて、
罪たる行いを犯しました。どうが、蛇を、我等の元から、取り去ってもらえるよう、
主に、お願いしてやっては頂けないものだろうか?」。
そこで、モーセは、民達の為に、彼等の求めに従って、神に祈りを捧げた。
すると、主は、モーセの、その祈りに応えて、こう言われたのだ:
「火にて溶かしたる(の金属)をもって蛇を造りそれを竿の上に掛げるがよい。そのすべての
噛まれた者たちが、それを
ができるであろう」。
モーセは、青銅を火でとかして、一匹の蛇を造り、それを竿の上に掛けて置いた。すべての、
蛇に噛まれた者達の内、その青銅の蛇を、仰ぎ見たるの者たちは、生き伸びることができた。
原典をどっかで先に確認しといてください。なぜならば上記は自分の理解をもってかなり加筆されてしまっているから。なんと!原典にない文言までもが添えられてしまってい〜るーw。
追記:
40年間ってのを考えたときにこれはまずありえんだろう…ッて思うんだ。そんなに長期の放浪生活は現実的には不可能であろうと…。じゃあまったくのデタラメで過大表現なのかっていうとそうとは限らない。多分すべては喩えとしての表現であると見做すべきなんじゃないだろうか?。そこまでの長き年月を当て嵌めせざる得ない程の苦心惨憺たる放浪の期間は確かにあったのだと。そう語る述べることが許される程のその誇張をもってでしか語ることのできない血と汗と涙の放浪遍歴としての事態があったんだ…。もしも、仮にだが、40年間に渡っての放浪が事実であったとしよう!。ならばだ、何が想定され得る?。「海をも渡っているな」が自分のその答えになる…。日本にも来た?…。
さてっと閑話休題。上記文中における【
ヒステリーのことでしかないわな〜…。
簡単に言えば、”癇癪 ”。「切れちゃった」。
そうなのよ。理不尽極まりないにして不条理なるの目に会わされたならば、更に、それがいつ果てることもなく延々と長きに渡って続くのであるならば、(記録ではのべ40年間)、ヒトのこころにおいては当然な話として欲求不満たるものものが溜まって募ってゆく。そしてやがてにはその事態によっての大爆発たるものが引き起こされてしまう時節たるものが必ず間違いなくやってくる〜…。「うんうん…」(大きくうなずいている人が何故かここにいるー!)。
その事態を《神が送られた》》と表現する所に解釈の難しさがある。「ヒステリー起こしやがった」の一言で片付けることができなくなる。もう一段深い意味もて、解釈することが必要になってくる。それもだ、ヒステリーたるものの正体を、その原因を、蛇もて表している所に、なにやら奥義たるものが潜んでいるような…、それを汲ませるべくしての誘導があるように思えてしょうがないんだ…。
みなさんサイドにて、先に考えてみてください。
そのときの参考としてこれ上げとく。
これって、最近どっかで見た絵にはなりますよね?。
さて、何処だってでしょうか?
あれは聖霊の働きにおいて布石になってたようですね。
これに関してはここで自説たるものを先に公開しておく:
ことは表現としてのメッセージたるものを含んでいるまで。ヒステリーたるものの発生は機械的なる反応のものでしかない。生理的なあくまでも自然な反応でしかない。ストレスたるものがかかればヒトはヒステリーをやがてには間違いなく起こしてしまうもんなんだ。要はそのストレスたるものとの関係、それが起こりうる事態においての意識の持ちようにこそ課題たるものが設定されているのだ。そこに〜、第三項としての《調停者》を意識することができるのであれば〜、つまりは神ね、そこに起こるべくしてある機械的な反応を従来とはまた違った反応へと変えることができる。ずばり信徒たればそうせざる得なくなるんだ。そう在らざるを得なくなる。側 にことに厳しいお父様が控えているのだから!。ことは錬金過程の参入へと変わる。すべてのことは神のご意思としてとらえられてあるならば、そこに味合われるストレスは受苦としてのものと意識されて忍耐力の向上、意志力の練磨へと振り向けることが可能になるのだ。この不思議を知るヒトにおいてはことは怒りへと簡単に自然につながってゆくのではなく、喜び感謝さえをも覚えることのできる尊い恵みの機会として意識され、そのこころの持ちようによって、すべての内面における反応は変わってしまい得るのだ。(これはやはり異常にして不自然極まりない態度ではあるんだけどね)。そしてだ…、何事においても終わりたるものはやってくるものなのだ。それはいつまでもいつ果てることもなく、永劫に、永遠にってわけじゃないんだ。各自においての、その設えられたるの状況たるものおいて、(神が)想定されたるの課題が無事完全に果たし終えられるまでのことでしかないのだ!。*止まない雨はない/明けぬ夜はなし/上空千メートルからたとえ落ちたとしても地上にては必ず間違いなく止まりうる。…うん?。
ここに…地獄たるものの、その真の正体、源泉たるるその理由と、その如何についてを詳察することができるのではないだろうか?。苦しみたるものは決してなくなりはしないのだ。だが、それの消化において、ことそれにおける態度にて、救いとなるべくしての可能性たるものは確かに存在してる。ほん些細なその認識を持つか持たないかで、《調停者》たるものの存在を意識するかしないかだけで、ことの展開としてのその結果は簡単にその道を分けてしまうようなるのである…。
老婆心からの追記:
あんましバカみたいに真面目であるのもいかがなものかなって思うよ。神がヒトに求めるところのその枢要なる奥義としての部分を言うと、機械性なる発現を彼は好まないってのがあるんだ。つまりは、ある状況ってものにおいては、ことは馬鹿らしいって判断をもって、さっさとその環境から現場から状況から逃げるってのも正解になるってこともあるにはあるんだ〜。賢くあってねっ!。
理解たるものに向けての考察は
面の現実と、見えざる裏側においての事象において…。
そう、これは吊 るされたるの、”蛇”なんだ。
衆目の前にて、処刑された、磔刑に処された、
そして○○○○にされてある状態…。
日本の文化圏において該当するものを探すなら、
それは獄門たる「晒 し首 」の刑になる。
おいおいおい…似てるじゃねへかよ〜
その舞台たるもののT字のデザインまでもがー!。
そんで、こいつは西部開拓時代における絞首刑ってやつ。
舞台そのものと、ことの表しとしての意義と目的は同じだ…。
そんで、最後のダメ押しついでに、このタロットカードを改めて。
こいつはつ「
よく見てくださいね、何故か男は
*実はこのカードはわたくしことこの天村のことをずばり指し示している。
*中々気づかれないが彼は微笑んでいるんだ。吊るされたるにも関わらず。
ことの始末として広く世間に向けての表し。それの公開の前には刑罰たるものが実際に行われている。その執行の様子は通常は秘されてある。そのことが確かに果たされたことを、その結果のみを、世に向けては公開する。一般の人々の目に晒 すまで。この公開の意義は、その効果は、その真の目的たるは、”見せしめ” だ!。
追記:
その刑の執行そのもののを、つまりは殺処分の過程そのものを世間に公開する必要はない。あまりにもショッキングな内容なもんなんでね。通常においてはイエスの磔刑も例外であったのだと思う。あんときはそうせざる得なかったのだろう。両陣営(体制側とヒステリー状態の民衆)の意向に沿ってで、そうしたまでのこと。じゃないとあの場が収まらなかった…。ここで言いたいのはことの実際は隠されるべきもの、隠蔽されるのが当たり前だろうってこと。火葬場へ行ってその焼却の過程のそのものを見たいと思う人はいまい?。だから、その本当の経過内容は伏せられている。その代わりに、ことの完遂の証しとして、裏方の本来の目的である見せしめの為にも、その結果に関しては公開される必要があるまで。その公開のことを例えて暗喩をもって(竿の上に掛げられたるの蛇)が用いられているのだ。
さてっとこっからは私めによる独善的にしてまた畏れ知らずなんる関係者らにことが知られたらなら即刻ゴルゴがダース単位ですっ飛んでくる、もしくは獄門磔 の憂き目にあわせられてまう、五寸 (釘)打たれてまうワイのこととなんるー、これは先に既に言ったった、やったったは避けられまいーの、ファンキーモンキーベイビーたるるの戯言なるるの、たる、るら、るらら〜♪……。「だからー(稲ちゃん)こっからは読むのは〜もう止めておきましょ〜!」って。オーソドックスな世界観からしたらことは全くの誤解も誤読の蠱毒のおっぱっぴーの、本来の真相真実からしたら異常なるまでに乖離逸脱しまくりたるの解釈たるるらららのレバニラ炒め〜メ〜メ〜メ〜…、完全独自の、完全無欠のロケンローラー!ワタシら女にヒスされてーの、突発性癲癇によりたるの我知らずしての喚 かば独白にして声の一切遠からずーの、届かざるーの、…「誰が猿やねん?!」の、届かざりしーの、我一切あとのことは知らんぜよの、ながめせしまの太平楽の世の如くしててのててててーの、奇想天外なるなんる〜の馬鹿げた痴なる読み読解それの世に向けてのお披露目に如かずしての〜、歪曲のみにての曲解だらけの、♪そんれ〜に〜ひっまみれてよっ〜とくらーの、そこんとこよろしくねっ!の、その尽 くにて戯けてもうたったれいば、自分でも最早既に何言ってのか分からんままよの、そのまんまにての、それのみにての、それれひ〜での妄 想 っとだけよん〜♡の、痴れごとなんだもんネー!。(筒井康隆氏並び8.6秒バズーカー並びに小島氏並びにアラジン並びに間寛平氏並びに吉幾三氏並びに加藤茶氏、その他諸々降臨の儀)
悪いが立ち入り禁止の呪文を唱えさせてもらう。入場したモノにはドえらい呪いってやつがかかっちまうんだからな。そらもうほんとにおそろしいことがその当人には起こることとなる。
「イッタラアカンユウタッテンカラホンマニイウタトオリシテクレントアルツモ~テシモテモ
シランカラナアンサンタチチチ天罰アタッテモワッシシランカイナーモウモウホンマニ!」
天村崇
今まさに本件においての仮説たるものを披露せんとしているところ。
そのことの余りに畏れ多きが故に、こんな姿になってしまっている…。
それを行うに相応しい出で立ちへと衣替えさせて頂きましたー!
君たちに、あの道中において一体何があったのか、そのときには実際何がなされたのかについてお話しよう…。不満を募らせ痛くストレスを囲っていた男達の中に一人、頓 に、やけに、いきりたっていた、おかしくなっていたやつがいたのさ。ずばり、頭のイカれた異常にケッタイなやつがさ…。道中、こいつは絶えず、いつもして、声高に喚き散らしていたもんだ。そんで、何を言ってたのかと言うと皆に引き返すようにだって。奴隷の身分であろうが、なんであろうが、なんだってかまわないじゃないかーーーって...。そう〜皆を口に泡して煽ってたんだ…。群れの皆からしたら、急進派のリーダーって何故か目されてたな。痛くボルテージたるものが高かったもんだったから…。まあそんな男だったのさ…。
奴は当然な話として、道中の然るべき場所にて、そこに至ってから撲殺されたのさ。モーゼによってね…。それはまったくの当然にして至極自然な流れとしての出来事でしかなかった。集団ヒステリーたるものが昂じて、それによって、群れにおける人々のこころってやつは荒れに荒れ果てていたもんだからね。その場を収める為には、ことの中心に間違いなく位置していたそいつを、徹底的にリンチ(粛清)をもって殺してしまうことの他に、有効な手段たるものはなかったんだ。こいつは言ってみれば、見せしめにされたってことにはなるわな…。
ところであのモーゼたる人間はやはり並の人間ではなかったんだが、ある種のことに関しては余り世間一般的には知られていない。それはヤツの戦闘能力に関してだ。ヤツは武闘派も武闘派、数知れない修羅場にて、もろ実戦の最中にて鍛え上げられてきたるの、バリバリの特級武闘派戦士だったのさ。そして、これは謎なんだが、彼は齢を重ねても、そのかなりの高齢に至っても、まったく衰えたるものを感じさせないその驚くべき戦闘能力と体力たるものをその身にて保ってたんだ。絶えず、いつでも、何処ででも、たとえその相手が天使であったとしてもだ。我の意を邪魔をするようならば、力づくをもって、これを容赦なく退けてきてた。一撃の元に、それが超常のものであったとしても有無を言わせずに葬り去ってたな。一旦ことにあたれば、非情にしてまた精密機械の如くしての鮮やかさをもってだった。その誰も真似することのできない人体破壊の殺傷の制圧の大技の数々をもってして!。それは極端に残酷なるものだった…。いや、それをも遠に通り過ぎたるの、まさに芸術的なる域にまでに達したるのその荒事の妙技。まさにアートそのものだった…。ことは堪えに堪えられての、その圧縮を溜めに溜めしての、そのフル充電の元になされてあった。一旦動き出したならば、それは、迅速なりてのその神速に達するをもって、その恐ろしき巨体から繰り広げられたならば、まるで山が動くかのように感じられてのそのままに、凄まじき限りの制圧の嵐に巻き込まるるをもって、その場にては、殺戮たるものが延々と繰り広げられることとなっていたのだ!。
モーゼには角があったそうな…。こめかみのところから二本。こんな風に…。
(額の両側に、人差し指を立てた拳 をもってくる)
ヒトとして彼は、彼だけは、神たるものとの実体と相対することができたのだ…。このことは何を意味するのだろうか?。後世の人達はこのことがまるで分かっていない…。このことがどれだけ異常なることであったのかを…。尋常でない精神力と余程肝が座ってなければ、そんなことはできっこないのだ。彼は、かって神の助けを借りてではあったが、海を割ることさえもできた人間だ…。彼に本当に角が生えていたって訳ではない。見た目には唯の高齢者でしかなかったであろうに。やけに体躯がよくって、よく鍛え上げられた筋肉質の体をもってはいたが…。
空恐ろしいまでのエネルギーを宿しておりながら平気の平座でいたって平静にでいることができてたのだ。それの導体と最早完璧に成り果ててしまっていたにも関わらず…。ときに彼のその荒々しい本性が、露わにされたときにのみ、周囲のヒトの目には彼の額に二本の角のようなものが現れ出ていることに気づくことができた。やはり彼モーゼは、並の人間ではなかったのだ。そんものでは、もう遠の昔に、なくなってしまっていたのだ…。彼は、主たるその存在と一体になっていたのだ。絶えずそうではなかったとしても、ときに彼が乗り移ったかのようになってしまっていた。そう…、ことは、そうした中においてなされたのだった。怒りに任せてことを乱暴に治めようとしたわけではない。奴を、手にする
かの者の有様は、
そのことが為されたるの、その事態の渦中においては、誰もが皆一様に、何故にか、あまりに異常なる圧迫感たるものがその場を支配して覆ってしまっていることに驚いていた。それはモーゼ本人が発していた迫力等であるとともに、また彼を依代とていたその本体たるものが実際には発していたものなのだとも言える。それは余りに巨大にして怖ろしい限りの威圧感を備えたものであったのだから。はっきり言って、そこにいた誰もが、神聖たるものが与っての出来事であることが理屈なくして理解がされていたのだ。
休息中において、いつもにもまして、穏やかならざるその際どき激高の様にて、喋り続ける男。彼より立ち上る空気はまわりの多くのもののこころをそれなりにとらえて、また彼色にて染めていってた。モーゼは静かに立ち上がり、彼の方に威厳あるその重厚なる立ち振る舞いにて近づいてゆく…誰しも皆の注目が自然と何故にがモーゼに集中していってた。無意識にではあるが何かが起こることを誰もが、殆どのものが、即座に、ピンと察していたのであった…。男は興奮の余りにか、はたまた即時の自己陶酔によるものなのか、モーゼの接近に気づくのがかなり遅かった。気づいたそのときにはモーゼは彼の直ぐ側にたっていたのだ。そして、その巨躯をもってしてのダイナミックにして渾身の振り切りによって、その一撃の元、男の命は即座に失われてしまっていたのであった。そして被害者たるのはこの男だけではなかったのだ。それは断罪の開始、それの鈍き血しぶきあげての擊音としてのゴングに過ぎなかった。彼に近しい者達、その色に染まるが既に恒常的になっていた彼の仲間たち、それは両手による数えをかなりにずっと越えていたのだが、猛然と巨躯たるは連続的に彼等をも順次屠り倒してゆく。その余りの勢いが、速さが為に、誰一人、逃げることも、戦うこともできないままに。無残にも撲殺されて大地に転がっていた…。
その場を支配してあった極端に厳粛にして、また空恐ろしくもまさに鬼気そのものによってなる圧倒的なる厳正さの前に、それはまさに突然の嵐の如き暴力の雰囲気においてではあったのだが、誰もが皆、ことは然るべきしての断罪なることが理解されてしまっていた。いつの間にか、底しれぬ、得体の知れないムードが、その場を覆ってしまっていたのだから。それはあまりにも非日常の空気であり、余りにもその超常的なることの印象を彼等人々のこころに印象として刻んでいた。ことのすべては、その中に、ことの全体において、一ミリの狂いもなく、完全に、完璧にして、感じとられてしまっていた…。
その一瞬において、皆は、完全に目を覚ますことになっていたのだ。不満、いらだち、怒り、つらみ、恨み、呪いとしての念を紡ぐにおいて、それを促進していた蛇の最たるものが、正にそのものが、目の前にて、一撃の元、その憑依体とともに討ち滅ぼされてしまっていたのだから…。
どうしたものか、なぜにか、人々の中にあって、モーゼのおこなったことに対して糾弾の声をあげるものは、非難の声を上げるものはただの一人もいなかった。ことの一切の目撃おいて、自分たちが、何かの夢に深く陷っていたことに、キチガイじみた騒乱を起こそうとしていたことに気づくことができていたのだ。改めて、神たるものの来臨を、そのご意向を、モーゼのその姿の背後に観ることが、感じることができた。そして、思ったのさ、自分たちに、選択の自由は元から最初からないのだと…。その試練が如何に過酷なものであろうと、そうなろうとも、それがいつ果てることもなく続くものであったとしても、自分たちにはあくまでそれに付きそうことにしか生存の道はないのだと…。悲しみと侘しさと絶望と諦観の限りにおいて覚えられたるは、また悟れられていたのは…、ただ主なる神を、信じることにしか、我等の使命は、その存命の可能性はないのだということだった…。
ハイ、こっからは蛇たるものが何なのか、その正体とは果たして一体何なのかについて妄想してゆくよ…。ええひーめんどくさいわーーーもう簡単にでゆく〜。先ずはラフスケッチやって、あとからだんだんと完成してゆくよっと。語り部のイメージも誰か探さなくっちゃ〜…。
「チェ〜ンジ・ゲッター・ヨギー!」
天村崇’
雰囲気だすべくお着替えしてきましたー♡。
宇宙の創造は七段階を経て最終的に月に至って、そこでお終い。そこがデッド・エンド。ヒトは「神の似姿として造られた」。この言葉の意味は、宇宙全体の構造を、その構成をそのまんまにして、その身に備え持っているってことになる。全体の転写をもってその創造はなされたのだ。七層の創造とその七段階の展開のそのすべてのあらましがその身にては転写され、刻印がなされておる。このことの結果は、ヒトたるものは、そのもって生まれた性質上、大宇宙のすべての展開と照応関係にあるってことになる。ただし、このことは、然るべくしての、つまりは自覚的意識的なる共振が果たされたならばの条件づきにはなるのだが…。だがことにおいて、特に付け加えて、無理にも述べておくならば、一切合切を受け取ることはしてはならんということなんじゃ。向こうにおいても、選ぶべき歓迎すべきの作用の力と、拒むべきの避けるべき厭うべきの力てっのがあるんじゃ。それもこれも、あれもこれも、ときと場合によっては、その順位も順番も大きく変わるので、当人の出来不出来は当然な話ではあるのだが、特別に、特段に、こうだああだということはできん…。
ヒトたるは物理的には最下層の界にて存在しているんだが、この人間ってやつはほんと特別で、宇宙のその全体構成構造をミニチュアにしたもんなんだってことが言える。Gもベルゼの中で、ヒトの体内には、あれら七階層のそれぞれに属する、それぞれの界にて限定される物質までもが浸透やら合成によってその体の内には存在しているって言ってるわい。そうすることが実際可能なのじゃ。これは、はっきり言って、異常なる事態、正にヒトたるものが特別なる存在であることを証しするにたりる真実にして事実なのじゃ。
この絵は補完として揚げておく。七階層との関わりが七つのチャクラにて表わされている。いやそこんところに掲載の目的はない。意識すべきなのは、天頂のその上の向こう側に、なにか別の世界があるってこと。そして、下方のデッドラインを越えての、その下にも、なにかまた別の世界があるってこ〜とー!…。そこにとある空想科学幻想小説家は【無底】っていう存在を夢想しておるんじゃが…。
カバラにおける生命の樹とか、ヒンドスタン文化が語るところの人体におけるチャクラ、まっ次いでに言っておけば北欧神話におけるユグドラシルは、この宇宙が創造されてきたその展開を、結果としての構造をもって、表しているまでのことなのじゃ。こうなってああなってこうなりましたじゃ。して、これの興味深いところは、人間の体構造も、それと正しくよく似た同じ構成になっているってこ〜とー!。
つまりはじゃ、あれらは宇宙のありましを表わすと同時に、人間存在のそのありましそのものをも表しているってことになるんじゃ。あくまでもモデルとしてではあるじゃがの…。それが何かの役に立つのかって?。こいつ、つまりは、あれらの目的たるものに関しては、この話者は、はっきりと、胸を大きく張って、膨らませて、精一杯の誠実さをもって、こうお答えしておこう「知らねへ!」と…。
「チェ〜ンジ・ゲッター・板長 ー!」
天村崇’’
このヒトは自身が語る通り、余りにも自身の感情において素直すぎるんだ。
正直に過ぎる。このことがまわりには迷惑というか厄介至極というか…
空気読めないというか、その本人たるものが空気そのものの創造者なんだ!。
すべて同じ。宇宙の構造を表わすと伴に、人間そのものをも表している。このモチーフをずばり同じくして言葉でやっているのが、”創世記”になる。そこには展開の運動が流れがある。
過去であり未来(可能性)でもありえる。転写って概念をキーワードとして自分は持つ様なった。*この概念の味噌たるものはだ、なんら物理的な干渉なくして、一切は即時即応で、一瞬にしてことは整っちまうってことにあるんだ。たとえその間に、何百光年の開きが、お互いにあったとしてもだ!。物事の背後にて働く一種の投影のことになる…。
さて蛇だ。こっからが本論だ。なんか知らんが蛇たるものがさんざ、そこら中で絶えず登場してくるではないか!。そしてだ、これは脱線になるのだが、タコのおばけみないなんもんまでもが最近この私の意識のスクリーン上には写り込んできてやがるー。「フングルイ・むだむだ...」わけの分からん呪文唱へながらに〜!。
これって何?。こいつっていったい何やの?。クンダリーニって呼ばれているがこれだけじゃ何のことやらさっぱり分からん。まっ分からんものなりに勝手にイメージたるものを湧かせて膨らませて、正に〜
それは性行為へと向かわせるべくしての本能からの要請、それの実務的にして実体的なる強制力たるもの…。否、それを作用の主たる道具とするなにか。それは生命エネルギーだとか、霊的フォースだとか、まるで妖怪みたいなものだとか、訳わかなん説明が多いのじゃが、とにかく、まずハッキリと一つ言えることは、ヒトの頭や通常の感覚では絶対にとらまえることのできない、なにか得体の知れない感知不能の代物なんだってことー!。
この話者たるものは宿命にして宿縁なのか、とある事故的にして例外なる機会に恵まれて、それに偶然遭遇してしまって、こいつを実体化させることになってしまっても〜てる。そのことの経緯に完全に口を噤ませてもらうぜ。本当の意味で、厳密にして正確に、然して更には誠実にで、あれやこれやを全部語るとなると自己の罪深さの全公開になってしまうんでね。流石にそんな恥ずかしいことはようやらんわ…。あくまでも、それとなしの触り程度の話で許してもらいたい。
*以下は未だ初稿においてのラフスケッチ。これから完成させていきます。
ただ、それを知るヒトたるものが語るならば、なにがどうなったせいでかは知らんが、観れる感知できるヒトが、それに関して、それを描写するならば…、それは分厚く、弾力質なること著しくしての、逞しくものたうちまわりながら、手も足もないのに、迅速に、まるで滑るかのようにして体内を脳内の表層そして顔面の面少し入ったところにおってそこで絶えず蠢動しとる。最近では左顔面に痙攣までもがこいつのせいで引き起こされておる次第じゃ。なので結果として正しく蛇のようななにかなのだと語ることになっちまうんじゃ…。手っ取り早くで表現するなばだそうなんじゃがなっ。もっと正確にいうとこいつは非常に複雑な構成やら形態をもっておってな〜、丹田に根を強固に持つ形にて主に人体の前面部にその所在をかこっとる。こいつが確かに人間の中にはいるんだ…。自分ほどに、たちの悪いものとしてではないだろうが…。あの降りてきたシャッターたるものの正体とは正しくこいつのことじゃったんじゃ…。
ところで、Gは、こいつの名称に、更にその働きの特徴の一つを
敢えて抜粋してくっつけて新たなる名称を与えている。
クンダリーニ + バッファー「緩衝するもの」= クンダバッファーって。
このことの意味をざっと語ってしまおう…。それは、クンダリーニたるものは特段にゼロか1かのものなどではなくって、それなりに老若男女誰を問わずして機能しているものなんだ。それを完全に出力100%にする事態ってのは、また格別なるものとしてあるにはあるのだけれど…。この世にヒトとして生まれ落ちたなら、これとの関わり合いは男女伴に性別を問わずして避けられない。たいへん身近なものなんだ。多分、おそらく、小学生の高学年くらいからはそれは影響を及ぼし始めている。
ことの構成を言っておくならば、それは確かに性欲を引き起こす、なんらかのurgeの範疇にあるものであると一言で括ることはできる。だが、それは、動物においてのものと比べれば、格段に別物ものになっている。それらのプログラム構成の中に、また独自の、完全に本来のそれからは独立した、奇っ怪なる生体エネルギープログラムとでも呼ぶしかないものが備わっているんだ。これは
簡単に言えば、マインドは、それとの関わりにおいて何故かどうしたものかいたく従順で、簡単に迎合してしまうんだ。完璧にそれと同調してしまっている。おそらく相性が良いだろな…。上位プログラムとしての支配権をそれはもってるんだろう。そんで、なにが起こるかというと、夢うつつの性的幻想を妄想を自動的に自分の頭が勝手に紡いでしまっているんだ。それは現に見る夢なのだというのが一番ピンとくることだろう。
だいたいマインドたるものは、あたりかまわず目につくものそのすべてに差異性たるをどんどん見つけては、そこに意義やら価値やらを生み出して見出してしまうもんなんだからね。訳わからん文化コード大系ってやつのことさ。まさにそれを熟知した上で、向こうは攻勢を仕掛けてくる。最初からこちらの弱みたるものを握っている。ならばだ…勝てると思う?。
ここにそれの制御を果すべくしての、同じ上位圏にその出自を持つ魂、本質、良心が関わらないのであれば、そとは、ハスナムのそれとしての傾向性を強めてゆくまで。自己幻想が突拍子もなく奇天烈にしていかれたものになってゆく…。自己イメージが正にガイキチのそれになってしまうのだ…。大変重要なことは、それは性に留まらないだ。エゴが求めっるその対象に対しておそろくべき幻想性を羽ばたかせることが適う。いや、寧ろ、それを好んで促進する生きたる力なのだ。多分これは、サタンと同列のものになる…。
これはね〜、ことを即物的にって言ったら失礼なんだけど、簡単にして十全にして終わらせるってことを阻むようになってしまうんだ。場合によっては、その果てしなくの、また罪深きの性的ファンタジーってやつをどんどん湧かせてそれの虜に自分からなってしまう。なんやら知らんがそっちの妄想世界の方が、豊かに思えてきて、そっちの方に重きをおくべく傾きたるものが起こってしまうんだ。そんで、とどのつまりは習慣として定着してしまっている。
多分クンダリーニなるものは、とてもインスパイアーラブルな、天啓としての尋常ならざる作用力たるものを、その摩訶不思議にして、ヒトの本たる魂にたいしても余りにも魅力的なるの効果を秘めているんだろう。可能性の一つは、これはルシファーなのだと言えるのかもしれない。本体ではない。それの写し身たるもの。一種の別立ての天使が我々の内にはいるんだ。これとヒトの魂との関わりにおいて、こちらの対応の如何によって、それもまたいろんな成長変化を遂げる。場合によっては、真にサタン的なるものになってしまうことも在り得るだろう。自分として特に強調しておきたいのは、それは別立てだってことだ。それはまた独自の意思たるものをもっている。なんらかの目的を、志向を、嗜好を、それとしてもっているのは確かだ…。一つ変な体験を述べておくならば、禅定に入るのには、それなりに苦闘としての節がある。このときに何かの関与を覚えた記憶がある。それは何をどうやって、またどこから立ち現れたものなにかは分からない。突如、性的妄想力による影響がマインド内に走り出していた。その世界に自分を取り込もうと染めて完全に巻き込もうとしていた。その事態と向こうの思惑たるものに気づくことが出来ていたので直感的に悪しきと断じてこれを不快として退けた。下方の方へと。それは禅定に向かう行為、その意志を嫌っている。だから本格的に阻むべくして出てきたのだ。そして、夢うつつの状態に是が非でも引き留めようとしていた。彼の幻力をもってしてなるその性的な妄想の連続連想の中にて染め上げようとしていた。それを不快なりと、邪なるものの干渉と断じた自分は、それが来た道、下方へと押し返していた。この行為はかなりの修羅場における切羽詰まった際どい限りの断行であったことは告白しておく。それは現実を超えての圧倒的に魅力ある世界としての提示であったのだから…。すると、その途端に、最高レベルの禅定に自分は一瞬で入ってた。激変だった。きれいに澄んでしまってて、それは大変心地よいものだった…。こういった経験は一度っきりだけどね。
それはマインドのみならず、感情にも、中立 ちとして働き、それへの関与を果たしてしまう。すべて最初から完璧にこちらのことを理解している。こちらの好みを、自分より理解している。そういった意味で、マインドは主たる自分を裏切ってあちらに簡単に協力するようになったいるんだろうね。ここに上位の司令コードうんぬんの発想がでるんだ。まさしく変幻自在なる妖しくも魅力的なる存在だ。逆らえば、これを厭えば、嫌えば、それは例えではなく、実際に、恨みを込めて脳に爪を立ててくる…。当に、たらしこみたるもののエキスパート。男の感性、美意識からすれば、よだれの出る程の、超一級のいい女なんだけど、それを制御するとなれば、こちらはイエスクラスの存在でなければそれは無理だ。不可能!。ならばだ、それとの戦いにおいては、主のご尽力を、彼のご協力をお願いするにしかないのだ!。Ab hoste maligno defende me.
「アップホステ マリーニョ デフェンデメ」(悪しき敵より、悪魔より、われを護り給え)この祈りもお飾りなんかじゃない。日常茶飯事に唱えられてこそだ。戦いたるものが実際に行われていることの、その証にもなる。
それは、ヒトの夢見たるものを深くするもの。それをより深化させるもの。より高度化するもの。よって、その個人の内的世界を豊かにするもの。ただし、それは現実には根拠たるもをもってはいない。あくまでも、その彼、個人の観念世界においての、彼にとってのみの妄想でしかないのだ。
するってとだ…個人の世界たるものが、そこでの個人的なる拘りたるものが生まれて強化されていっちまう…。そのことの結果における実際のその生存の内容や、そのことにおいて、外から、客観的に見たら如何なる人間に写ってしまうようになるのかについては…!、もう語るのはやめておこう…。字数がいくらあっても足らなくなる。
ことにおける問題の、その最大にして最凶のものだけ言っておこう。愛に関わることに関しての感性を失ってしまう。それとの全体性としての関わりができなくなる。我が意、我が思い、我が好みに凝り固まってしまっているのだから。それで自己の世界を作り上げ、そこに籠もってしるのが実態になるから。
そうなったならば、すべては自己にとって、都合良しだけの世界になる。つまりは矛盾さえも感じなくなってる。覚えなくなってる。だって我良しの世界なんだから。ブレーキたるものが、自制をかけるべくしてのものが、そこには、誰も、何も、存在していないのだから。
この辺が、バッファー「緩衝するもの」をくっつけた理由なんだろう。硬い硬い鎧がいつの間に形成されてしまっている。ぐるんぐるん、延々と、なにかにおいて、想念が凝らされてきたもんだから。その想念たるものを立ち上げ、それ以降の展開のプロモートをしてくれていたのが、いるのがアレのことになるんだ…。
果たしてクンダリーニはそれ独自の独立した意思たるものはあるのだろうか?。多分それは独自のものを獲得することはできるはずだ。何故なら自分においてを話すなら、それはもう完全に独立した意思たるものを持っている。それもこの自分の意思からすれば、まったく反したるものを。それはそれはもう悪意たるものとしか言えないまでものものを…。そうこれは既に言ったことだが、それは、ヒトにとっての、真に身近にしてある悪魔たるものになる…。
*本体のとしてのアレはまた別ね。
我、その個人の求める夢にて彼を籠絡せんと欲す。
天には絶対に戻らせまいと、還らせまじと。
我と伴に滅ぶことを、永遠の業火にて焼かれんことのみを祈願して、祈念して。
追記:
新約におけるユダ書1-8にこんな箇所がある。
In the very same way, these dreamers pollute their own bodies,
reject authority and slander celestial beings.
まさにかくの如くにして(ソドムとゴモラの人々のこと)、
これらの
己が自身の体をー、【汚した、汚染した、堕落させた】。
そしてまた、権威たるものを拒絶し、
そして上位界に属する
この箇所において、ちゃんと理解して翻訳されているものは残念ならが一個もありません。
そんなに難しいとこではないんだけれどねっ。
ポイント二点。
1)ドリーマーとは、一体さてはてなんぞや?なんのことを言っておる?
これに関してを、自分はこれまで長々と説明してきてるんだと思うんだけど!。
だからもういいでしょう?。
2)celestial beings における訳が何故にあないに抽象的な表現になっているのかな?
たとえば、共同訳と口語訳では伴にこなってる...「栄光ある者たち」。
なにこれ?。celestial を訳するにおいて困ったんだろな。
あれはそのまま、天の/天界の/階層宇宙における上位界における/でいいのに。
それにBeingが足されるならば、それはもう天使だろ。
要はあのソドムにおいて天使がヒトの姿となって衆目を集める状況があったのだ。
そしたら見目麗しい美しき男性であったにも関わらず、
「抱かせろ抱かせろ、おらにあんたを抱かせろって」ヒトの途絶えることがなかった。
あのエピソードを踏んでるまでのこーとー!。
さて、ときを34年間を経て、自分の中におけるアレは今はどうなっているのか?。それは相変わらずあるはあるが、いるにはいるが、自主的にして能動的なる動きはほとんど停止してしまっている。睡眠中に夢をもって働きかけることもなくなった。
*いやこないだホント久方ぶりにありました!。金縛りにして、手を掌を摘むかのようにして下へと連れて行こうとしてた。振り払うのにかなり苦労したけど、強制的に強引に体を動かすを持って、その状況を脱することができた。ホント十年ぶりぐらいのことではあるな…。これ書いたからなのかも知れない…。つまりはだ、未だ、まだまだ、危ない状況下にあるってことなんだ…。2021.11.01追記
創作においては一部自分はそれを敢えてで作用することを許してもいるんだけれどね…。感覚的に異物として捉えられているまで。果たしてそれだけなのか?。このことは語るのがめんどくさいのと、他人とっては、一切なんら参考にならないので、ここまでと致します。サンキュー
もうそれは断末魔においての叫びをあげるが如くしての挙動をみせるまで。狂ったAI、月のゲルギアみたいになってしまっている。こちらの手綱の方がもう今となっては圧倒的に強いので、もうなにもどうしようもないのだ。にっちもさっちもいかなない。まっ一種の硬直状態。その最後のあがきたるものが、そのこちらへの影響が、あの『聖アントニウスの誘惑』における様子のことになる。死ぬまでには決着付けたい…。←だから導きにおいても、ヒトは求めて願って祈らなければならないのだ。
これはいい表象だ。月と太陽が愛をもって調和してる。月は満ち欠けを連想するようにことは女性的なるものを表している。これは更に連想の翼を広げるならば、変化をキーワードとして次々にまた違う言葉が概念たるものが浮かんでくることとなる。”相対性”なんて概念も当然そこに意味を込めることができるであろう…。さて、ならばだ、太陽の方はどうだ?。引き算的に男性ってか?。完璧に正解。ならばそこに込められたるの意味とは何なのだ?。その男性ってはどういった意味でのものなのだ?。これは太陽に紐付けられてにおいての意味にて限定される。多分それは一貫した某らかのポリシーみたいなものなのかもしれない。自己の価値観たるものにおける絶対性。それがなんにおいで、なんにもとづくものであったとしても、ゆくゆくは扁壺にして頑固なるものに行きつくことだけは確か。扁壺になったのには、年月の重ねにおいて軋轢が多かりしことの故なり。そのことの事態の表し、そのことが結果においてのことでしかない。その味わい深さたるものの真の価値は彼はそれでもその彼が信じるところの、真実なるものを、離さなかったことにある。もしこれを信仰に置き換えることができるなら大変立派なことではある…。見過ごされやすいのは両者を調和させているところの外周の円。これにおいては循環としての意味もあるし完全調和たるものの意味もそこにはある。循環は回転運動によって表わされているのだが、この意味は動きは外見からでは分からない。読むヒトの努力あってこその読解になる。またこの循環たるものは円における回転運動の他に、ピストンの往来みたいに、縦の垂直運動に置き換えることも可能だ。登っていって…最上階についたなら今度は下るまで。そして、下りきったなら今度は上に登ってゆく…。この縦の運動に置き換えた場合には、当然な話しとして、あのヤコブの梯子がなんであるのかも考察の対象にしなくちゃならなくなる…。また、片や、あのエニアグラムにおいて表わされているオクターブの法則もだ。無限音階。一音の中にはまたスケールを違えてのオクターブが含まれている…。このことにおいて重要なのは、各スケール単位にてその世界内においての法則はまったく違うものになるのだということ。このことに意識がないと安易に当て嵌めをしてしまうこととなる…。ヘプタパラパーシノク、トロゴオートエゴクラット等の概念たるものをもね。先の調和たる機能を果たしている円たるものの、その奇っ怪にしてなるその効力たるものに感銘を受けたなら、また忘れないでいれたならば、そこではトリアマジカムノ、つまりは三の法則においての関係たるものを絶えず何において当て嵌めてみることをも習慣にできることだだろうさ…。そして、上方向に向けてが核心になるのだが、それは螺旋運動をもって果たされていることの事実に、また同じくして下に向けての、本意としては歓迎してないその移動も、螺旋形をもってそれは為されているんだということに気づくことができる。向かうべきは上なのか、それとも下になるのか、これは当人たちの好むところにおいてでしかない。ただヒトはパンのみ生きるにはあらずなることは、こころに留めておくべきことかなっと…。すべては最初からきまっている。往くものは往くし、行かないものは何をどうしたって行くわけがないのだ…。
これはKCのアルバム「太陽と戦慄」において使われた絵なんだけど、実はこれは良くないんだ。上のものとの違いを観て欲しい。結果としてこれは不完全な表現に落ちてしまっている。
観るものに誤解を招いて呼んでしまう。なんでもかんでもありがたがっちゃ〜だめなのだ。
自分の確固たる信頼できるメジャーたるものをもって慎重に物事は測っていかなくっちゃね。
天村崇は”大法螺吹き”だかんねー!。
クレタ人よりも、もっともっと、ずっとずっと…
ネット環境を利用しての成り済ましをもって、もう何人にも無限に増殖して嘘をつくんだ。
再び、ジョーカー登場!
何を何処まで語っていいものか思案してる…
「 そうだな、まずはさておき、歌からだ…」
♬「思へばー遠〜くへーきた〜もんだー」ってか〜?!。悪いが真のメインイベントたるものが残っちまってんだ。それはもう大概にしてくれよなって言われてしまう程の内容たるものを含んじまってる。できればそんな話は仮説であったとしても聞きたくなかったって、後で言われちまうようなそんな話だ…。俺様もまさか、あのことに関しての真実について、思い当たり、そんで、それを公にて語ることになろうなどとは露とも思っていなかったさ…。そうさ、ことは、あの楽園におけるアダムとイヴの犯した罪たるものの、その真実に、その実態に迫ることになるんだから…。あの蛇たるものがなんだったのか、彼等が犯した罪たるものは真実のところなんであったのか?。これらの問に真っ向から即物的にしてシンプルに答えることになっちまうんだから…。
ほんと…悪い冗談以外のなにものでもない話しをこれからする。
できれば即刻シャットダウンして寝ちまいな…。
それが何より一番だ。
あとで後悔してもしらんからな…。
なにせ、妙に説得力だけはあるのだから。
たとえ間違っていたとしても、それをまともに否定することは誰にもできないことだろさ…。
だからさ、言うのさ、止めときなって…。
もう、その説たるものにガッチリ嵌まっちまって抜け出せなくなるから…。
Re: ことの真実。
アダムとイヴが元々生きて所属していた世界はエデンの園と呼ばれている。エデンは語源的には”喜び”や”歓喜”の意味を表わす。その原初としての状態は、正しくそういった感情を持つに相応しい環境だった…。
では、その状態とは一体どういったものであったのか?。これに関してはブラックボックスとしておきたいのだが、仮説たるものを一つご披露しておこう…。
それは、如実に、「神、我等と伴に坐せる」の状態。一切合切が伴に、であるのと同時に、それの内にの話しでもある。各個としての明確なる意識の分離はあるにはあるが、それは、付与されてある役目において機能性にて、その根拠をおいているまで。例えば人の体内において、とある臓器を心臓と呼び、またある臓器を肝臓と呼ぶのと同じこと。そこに区分けはあくまでも便宜上のものでしかない。心臓が肝臓を意識することはあってもそれは全体の機能においてそれを意識するまでのこと。ある意味、意識において分断はあり得ない。
すべては然るべくしての関係性、その与えられた役目において、全体としての最適性を目的として、そのことを適切なる指針するにおいて成り立っていた。お互い、なんの引っ掛かりもないままにー!。
ならばだ、この地球に生きる我々とさしたる違いはないではないか!と言いたくなるのだが、エデンにおける生命の有り様は効率性において、こちら世界のものと比べれば、天と地ほどの開きがあるのだと思っておいてくれたまえ。w。そもそもからして、役割としての内容がもう段違いなのだ。ある意味、かってな想像に過ぎないのだが、天使らがやってるその仕事みないなものだったに違いまい。原始的なる生命種の面倒をみること…。
閑話休題。ヒトはアダムとイブの二人っきりってこともなかったろう。それなりに沢山居たことだろう。そのはずさ…。
さて、ことの、あの事件のあらましについてに入ろう…。
Re:「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった」。
原文をKJ版においてみておこう。
Now the serpent was more subtil(subtle) than any beast of the field which
the LORD God had made.
subtle:
微妙な、とらえがたい、名状しがたい、いわく言いがたい、つけにくい、
微細な、敏感な、緻密(ちみつ)な、巧みな、巧妙なの意味になる。
どこでどう間違えたのかは知れないが狡猾をもってくるのはあまりに恣意的に過ぎる…。おそらくは「
だから、この辺の表現に自分の感触たるものを持ち込むならば、あの蛇ってやつは、クンダリーニのこと以外にはありえないわけさ。それは現在、すべての人類に備わっている摩訶不思議なるエネルギー体のことなんだが、エデンにおける環境においては人類にそれは備わっていなかった。
外部から、それは入ってきたものになるんだ。だから表現としては、蛇がある日、彼等のところにやってきてがことの始まりになっている。
まあ、とにかくこっからは端折らせてもうよ。
それは独自の意思においてだったのか、それとも神の隠された思惑において、知らずの内にそれを行ったのかは分からない。とにかく、アダムとイブに代表されるそのころの人類の中で、その摩訶不思議なる効力を発揮することになった。
それは一体なんであったのかというと…このことに関しては遠に何処かでやっているので、今回は簡単にでいこう…。
一切の実態としての関係性をなくして、個人のマインドそれ単独、単体において、よって、対象に関しての認知が適うようになった。それも自由自在にだ。独自の見識たるものが持てるようになった。そこにこそ、クンダリーニたるものによる、それ固有の働き、夢見を幻想を促進する作用力によって、ことが極端にリアルなのだと思い込まされる認識されてしまうことろが味噌になる。一種の幻想を伴っての催眠だ。LSDみたいなものか…。
なんのことを言っているかというと…、先ず、これは現在、完璧に取り込まれて縛られてある生活世界、その世界秩序からの完全なる開放ってことにはなる。これはあくまで、結果としてのその一側面に限っての話しにはなるのだが…。これは、マインドにおける認知に限っての話しにはなる。それまでの話しにしかない。
そう、すべては、観念的なるに尽きる、個人としての思考、その内的世界の獲得にある。
また、そのことは同時に、認識の対象に関して、それにおいて、自由なる価値付けが、自在なるイメージの付与が可能になることとなった。
ことが以前とその後との違いを分かりやすく説明すると、
自己と他を分ける境界面が、私をこの肉体と意識するところに造られた。
外部に関しての認識は、それの意識のスクリーン上に、
あくまでも主観的なる印象のままに投影されたものになる。
別の表現におけるアプローチを…。
ことの一切を認識する主体たるものが本来的なるものから別なるものへとシフトした。また認知や理解をするにおいて必要とされる情報の入手経路、処理の手順、また情報そのものの言語が完璧に完全に変わってしまった。me → I へだ。そのことは世界を一新したのだと言える。前から言っている通り、対象を、自己から完全に切り離した/切り離された状態で、主観的に観ることを可能にしたのだ。自ずから然るべくして知れるから、自らが吟味をもって考察を加味を加えて知るへと。
ある意味、そこには無限の可能性があるにはあると言える。全てにニュートラルにあって、公平無私にあれて、そこに愛たるものが備わっているのならばの話にはなるのだが…。何せ、そのシフトにおいてのイメージの投影は、現実に変革を改変を持ち込むことが可能なのだから。そう、人間は、神に等しくして、創造の奇跡を、その魔法の原理そもものを、使うことが可能な存在なのだから…。
だが、それは、全体を深く、広く、高く、隈なく、全部を、全員を、すべてを完璧に理解できて慮ることが出来てこその話にはなるわな〜。その拙いこころのままに、未熟なる精神のままに、好き放題やられても真実のところ、困るってわけさ。多分、この辺が理由なんだろね。楽園を追い出されたのは。またサタンたるものが天から落されることとなったのは…。
追記:
自分は…G の考えを採用するものだ。彼の言がサウンドするからなだけでー。クンダリーニは夢を見させるもの。それは決してヒトにとって歓迎するものにはあたらないと…。問題はその夢をヒトは現実と認識してしまうところにある。場合によっては、その夢は、神の似姿としてのヒトの能力において本当に現実化しまうのかも知れない…。もしそこに確たる境目がないのであれば、眠れるヒトのいては、ことはどちらも同じであるならば、これはとんでもないトラップであると言わざるを得ない。しかしだ、自分の経験においては、現実はどうも終局的には意地の悪い結果を用意するようにできている。皮肉にして、悪意ある流れを用意する。ここにおいてはあの聖墨菲(まふぃ)の法則に関してを参考にするのがよかろう。仮説を一つ用意するならばヒト存在は未だ未完成で、その創造の魔力ではどっかで狂いが生じてきてしまう。反動で求めと逆のことが起こってしまう。閑話休題。プラクリティーの現れに関して、その意義をどう観るかは人それぞれの考えによる。自分においてはそれは、あくまで生たるものをすべて無効にする迷宮としての現れたるものに如かずだ。これを破るには突破するには、ことは意思的なる存在を獲得するにしかない。そのことは同時に某らかの目的を自己の意思において定めて、これを為すとセットとなる。このことは現実にしっかり根付くことを意味するものでしかない。それを覚醒させて、なにか特別な存在になるなどという考えはすべて過ちへと誘導するものにしかありえない。覚醒たるものは、クンダリーニたるものの関与を、一切断ち切ったところにこそ、その可能性を開くことになる。これは大変に困難なことでしかない…。まったくもってことは皮肉な展開をみせている。本来これの危険性に自覚的であるべくのヨーギ達が、むしろそれに重きをおいて自説たるのを説いているのだから…。ある意味、あのパートクドルグ義務のみを念頭において、与えられたその機会に、これのみを意識して行っているだけでいい。なにか特別なる存在にーなどと考えること自体が、既に、あれの作用の元にあることの証でしかないのだから。タイプ4がこれ語っているのもまた皮肉な話だ…。
とにかく、アダムとイヴに何が起こったかだ?
経緯に関しては分からんからブラックボックスにしておいて、
いざ、クンダリーニによるその効力が発揮されてどうなったのか。
お互いの外見上の違いが極端に意識されることとなってしまってた。
そこに性において誘因が、異常にして極端にして刺激されるようになってたんだ。
要は、外見に惹かれての、そこにおける魅力が圧倒的になってしまってた。
ならば、その後のできごとたるものが、どういったものであったかは語るまでもあるまい。
彼等は肉においての交接へと、怒濤の如くして、即座に至ってしまっていたのだよ。
それはまたこれまでに行ってきたセックスとはまったく違ったものであった。
これも先の認識の話と同じ話なのだ。
その行為において快たるものを感じる主体、それが形成されるフォーメーション、
感覚の伝わるその経路、その相手たるものの認識のとらえ方、そのイメージが、
ことごとくにしてこれまでのものとは違ったものへと変わっていた。
めくるめくまでに〜、一切が、
そしてそのキメセクたる行為を行った事態は、神からして二つの意味において許すことの出来ない、また歓迎のできないことだった。ヒトは、罪人としての烙印を押され、楽園より追放される運びとなってしまった…。そのシフトにおいてことを行うが習慣化する。それに向けてのトレンドが形成されてちまった。ことは性行為だけにとどまらない事態となっていた。過ちとしての、罪深くきものとしての、そのあり方が常態となってしまった。自覚的に元の正常なる軌道へと還ることは、もはや自力では不可能となってしまっている...。
ある意味、自由に思うがままにイメージを相手に投げかけることができるってことは、ヒトにとって、大変魅力的なことなのかも知れない。現実たるものは、長き時をかけて、じっくりと、ゆっくりと、立ち現れてくるもんだしね。
ことは外形、見た目の話だけじゃあまったくないんだよって。
中の、そのヒトの本質を見定め、見抜けなくっちゃって。
それと、自分のものとの相性こそが、一番肝心なるもんなんだって。
性は、肉における交接たるものに凝り固まってしまった。
それ以外の、エレクトを起こさしめる内容たるものを僕たちは知らない。
我等は、愛において、その相手を、やはり同じくして、その肉体として捉えている。
それ以外に、どうやって、その相手を知る術があると言うのだ?
でもね、その相手の核たるものを、現実にしっかりと意識できてて、その上で、
それと交合を果すってことは、それは、どえらくエロチックな体験にはなる。
胸の薄いも厚いも、目鼻顔立ちも、そんなことは、もうどうでもよくなる…。」
最後に、この格言を添えておく。
『愛、それも意識的に行われるもの。これは同じものを反応として相手に呼び起こす』
要は、男さん次第なのだよ。
本来としてのものに、健全なるその生来のあり姿たるものに、還らなくっちゃ…。
ことの結果は、一生あなたについてまわることになるのだから…。
ここはかなり、言葉足らずですが、ここまで。全体的に未完成。そのうち、気が向いたら改稿かけて、完成もさせます。
アダムらにとっても、それは最初の内だけは〜の話でしかなかったのだよ。その鮮烈さってやつの話しさ。その体験も段々と鈍きものへと変わってゆくんだから。結局、ヒトってのは、それがなんであったって刺激には慣れちまうもんなんだ。ことは、その習慣性の獲得をもってして、完了したってことにはなっちまってる。アレが悪質にして悪辣なることの証拠は、ときどき、敢えて努力して、苦心して、ヒトに新たなる刺激ってやつを加えにくるところにある。それはまめに、怠りなくにだよ。よりその習慣性を強化して、より強固にせんが為にさ。あたり、まわりを見渡してみなよ。そして”よっく”しっかりと吟味してみなよ。みんな、ぜんぶ、その目的のおいて用意されたるのものでしかないことが分かるから。ことは最終的には個人の内的世界にてすべてが完結するようになっていってる。リアルとしての相手はもうすぐ必要なくなる。状勢はなぜかそっちの方に移行していってる。(女も異常と呼べるほどまでまでに我儘に振る舞うようなっちまってやがる。まるでもう確たる未来なろとうものはないのだと予感したかのごとくに。)その方向に押しやって、追い詰めて、入り込ませて、潜り込ませて、そんで、もうにっちもさっちも行かなくなったところで、まったく新規の、ディズニーランド的世界が開示される手はずなんだ。(VRだけにとどまる話ではない。)これに取り込まれてしまったならば、知ってしまったならば、もう以前の状態に帰ってくることは戻ることは完璧に出来なくなるだろうさ。これもまた直ぐにも訪れるものでしかない。ネット環境におけるポルノの解禁が、その氾濫が、緊急事態宣言が、ことのお膳立てになったいたな…。*ここは嘘偽り戯言です!。
追記:
一つ言わず、語らず、触れずにきることがある…。
そもそもの、ことの本当の始まりとしての事件を。
エデンにおいてイヴに対して蛇はアプローチをかけたじゃない。
そしてイヴはその作用に、抗えなかった。
何故だ?。大人になりたかったから。
ならば、もし蛇がアダムにアプローチをかけたならどうなってた?。
この質問そのものが元からありえないんだけど...。
ことの成否は、性的な魅了、誘惑に対しての
このことを別なる側面から捉えるのならば、頭が固いひと、柔らかいひとに対しての効能。
その違い。空隙、空乏多くしてのその成り立ちとしての人間と、
肋骨意外、完全なる構成の人間。そして、女性、イヴが背負わされている懐胎、出産としてのその機能、役割、本分…。基本、受け身としてのその性分であること…。
男女が結ばれるのは、愛を前提としてのものとしてあらねばならない。
これが基本にして、人としての摂理。
ここに歪みが入ったのだ。
このこと
簡単に云えば、性的快感のみが、交接において主導してしまってるその様、その姿。
安全性、安定性を求むる、本来としての女性ならば、蛇の誘惑に乗ることは
だがだ、イヴはその性的誘惑の作用からは、逃れられなかったのだ。
何故だ?。若くしてあったから。また基本前提は、不死だったから。
この辺に、また死を定めることが自然なる処置と、なったことの理由もあるのかも知れない…。
本然性から切り離されるがことのクリティカルなマター。第1段階。
そして、自己の身勝手なプロジェクション、投影において、他者を認識する。第二段階。
*それはすでに吾は汝なり、汝は我なりではなくなってしまってる。
ここにーってことでもないんだが、性的なる蛇が持つ支配してあるチャームが、
なんの枷も、制約もないままに、解き放たれてしまう。
ここに、完全に肉としての、それの欲望にのみ支配されたセックスが、
繰り広げられることとなった。結実としてのその第三段階。
とにかく、新鮮なる強烈なる快感、それ
そして、これとしてのあり方が、癖になった。常駐することと、なった。
この辺の事態は、浮気としてのそのリスキーな行為がなぜになされるのかを考えてみればいい。
大なり小なり、そこに起こってある、化学反応においては、理解が持てると思う。
ことのそもそもの悪しくして、また相応しくしてのその習慣がなんのか?。
これが分からなければならない。もう分からなくなってしまってるで、あろうが。
他者を自分とは別個に、完全独立、無関係なるものとして認識してしまってるが一つ。
*これがそもそもからしての間違い。
そして、対象と完全に切り離された状態で、その対象に対して、間違った、幻想としてのイメージを投げかける。投げかけてしまっている〜。しかし、当人は、そうだとは気づかない。理解ってはいない。確実にそうだと思いこんでしまってる〜!。
また、以前の繰り返しになってしまうのだが、愛と恋愛は違うのだ。
そして聖書においてでは、恋愛は、狂気であると、書かれて、記されてある。
蛇は、彼岸の彼方に、所在するばかりではなく、我らの体内においても、実体あるエネルギーとして所在している。非常に旺盛にして、アクティブに活動をしている。特に若いときにはもう信じられないほどまでに。それは人生の約50年〜70年においてその影響を大いに振るってしまっている。ほとんどやん...。
この呪いとしての状態環境を解くには、一つしかない。
ことの発端としてのその誤った認識を無効化することにしか……。
あなたは、その人の本質を、魂を、同調することをもって、識ることができますか?。
その上でをもって、愛する、愛していますか?。
これができる、できたなら、また自分を捨てることも、容易なことだ。
子どもから大人になる。そこにある違いはなんだ?・
重心の所在場所と、マインドにおけるその構成の複雑さ、強固さでしかない。
両者間においてのその構成には、なんら違いは、元々からして存在してない。
基本、あるべきは、始まりとしての、その最初のフォーメーション、あの状態になる……。
拝
ことは、畏ろしい内容を含み、またその展開を示してきている。
一つに、私の経たるの、その真実の記録たるもの。
二つに、語られたるの、個々の、そのすべての内容が。
三つに、私が為してきている、その創作の展開そのものが。
それらにて果たされる相乗効果もまた、ヒトを選んでのことにはなるのではあろうが…
神たるものの存在、その証明になるのではないだろうか?。
天村 崇
礼
み〜んな、こいつが、
考えたことだかんな…。
先のまとめとして追加:
火と水の洗礼において、実際、何が果たされるのかについては、以下が参考になる。
なんぢら、我を「主よ主よ」と呼びつつも、何ぞ我が言ふことを行はぬか?。
きたりて、我が言を
岩の上に
、固く建てられたる
が故なりて。されど土の上に
建てたるの人の如し。同じく”水”の例えが使われている。自分の説は恐らくはここをベースに考えられているのだと思う。なんらかの出来事において当然それは当事者にとっては悲劇や事故や惨事のことでしかないのだが、生活の基盤たるものが吹き飛んでしまう。いや失礼、押し流されて跡形もなくされてしまう。この状況たるを迎えるたるにおいて神たる存在を強く意識するようになる。多分やっとこさ、初めて…。直接的には新約におけるイエスの教えの数々をになる。苦節たるを乗り越えるのに神の助けを祈り求めることになるので、あれら教えの言葉にしがみつくことがその信仰の証しになる…。
要は水による前段と火による後段の両過程をもってワンセット。それらを伴に連続的に経ることによって、その結果的にて〜の意味において、信仰としてのその世界観はある意味やっとこさ完成する。そこんところのことを天国への入場と呼んでいるんだろね。内部において、
もし幸いにして無事に、ことが試練たるものが乗り越えられたのなら、定められた課題たるものがその当人において成し遂げられたのなら、その暁には信頼が抱かれることになる。持たれることになる。「 なぜか?」。神はそれとなくしての介入をもって彼を救ってくださるからだ。そうなることを観じて、自然と察して、そうでありけることを確信して、彼の信仰心は真にこころからのこころの底からの、誠実にして真剣なるものとなる。不動なるものと、やっとこさそこにおいて初めてなる。樹は育たないこととには未だ樹ではないんだ。そうとは実は呼べないんだ…。金たるものも、また同じ。その純度をそれなり上げないとことには、金としてのその姿をその威光たるを顕すことはできないんだ、ないんだ…。そうして、そうなったならば、その暁には、またの再びの悲劇たるの悲惨なるのできごとの往来があったとしても、前の様に、闇雲に狼狽して、根拠なくしての怯えに憑かれして、恐怖して、存在の薄きの、まさにそのものの態度たる、意味なくして唯のいたずらの、こころの惑乱右往左往へと流されることもなかろうよっと。ただ口にアーメンを唱えて、こころ静かに、安らかなるがままに、おることもできようと…。それは彼が既に、悪しきことも善きことも、快なることも不快なることも、伴に、神からの賜物として快く受け入れることのできる、その心の境地たるものにたどり着きておるが故に、正に、それこそが天国への参入状態と呼ぶべきの事態たるものを果たしているが故にて…。
恐らくはヨハネによる水の洗礼はこんな感じだったと思う。ことはあくまで象徴的な表しにすぎない。過去を、世俗とのつながりを、旧来の自分としてのあり方を、一旦、全部、根本から捨ててしまう。水で洗い流す。洗って清める。世界との関係のそのあらましを、完璧に、全部リセットす〜るー!。その
開始
たることの象徴としての刻印。続いては、ちょっと繰り返しになるが…
風は己が好むところに吹く、汝その聲を聞けども、何處より其れ來りしか、そして、また、
何處へ其れ往くかを知らず。すべて靈によりて生るる者も、また、斯くの如し…
ここにて、語られているのは、”聖霊”のことにしかないな。風に例えられるのは、それがあくまでも完全に自由自在で、かつ自由闊達なるその様子をもって、活動を、顕現を、そのお働きたるものを表わすからでしかない。ヒトの目からは一切とらえがたきものとしてなのだ。その活動に関しての予測は一切つかない。然して且つ、超自然にして超絶的なる力を振るうものなのだ。なにせ、三位の一翼を担う存在であり、神と同義、同体でもあるとも言えるのだから…。無事、これからの関与に恵まれたるの人間、そして、それとの関係を樹立して、保てている人間もまた、その行動は、やることは、為すことは、ヒトにその予測はつきがたし哉…。
追記:
聖霊たるものの、その本質、本分としての働きが、何であるかは実地に知るしかない。自分には、それに関しての推理推測推論はあるが、未だ公然と語るまでにはいない。でもね私の創作のすべての
流れ
、展開
、その尽きざる連続
は、それによる誘導が効いていることは確かだと思う。続きましては青銅の蛇…
これに関しては、ことは簡単であると同時に、その解釈は奥深くして、
また、こと解説ともなれば、それは余りにも、" Risky " …。
モーセ、荒野にて、
すべて、神を信ずる者の、彼によりて、永遠の生命を得んことが爲に。
ここでイエスが語られていることのその意味たるものを理解するためには、やはり出典元たる民数記の21章3〜9をも理解しておく必要がある。ことの意味が通りやすいようにとの思いの元、
強意訳
にて、その箇所を訳出をさせていただきました。それの前に先忘れん内に一つ〜…。刑に処せられるべきなのは蛇そのものなのだ。これが表わすところはサタンなのだとハッキリ言ってしまおう。この行為がヒトにおいてはできなくなってしまっているので罪深くしてのそのヒトの業が故に、その異常なる生活習慣の長きによって渡ったがゆえにて、その傾向性が強化されてしまっているので、完全に無辜たるイエズス神の子が、その事態たるものをそのものを根底から一旦解消すべく敢えてで、あれと同じくして屠られる必要性があったのだ。供犠におけるその両者の性質がまったく違うこと、ずばり真逆であることにー核心的なる意味たるものはある。このことに皆さまの関心と注目を集めておきたく存じますー!。(どんな理屈で、またどんな仕組みで、それがそういうことになるのか?。このことにおいての解答はその理解は話者には未だもってありませーん!。)
Re:では開演!
先ずは見すぼらしきの限りの出で立ちにしてなる人々、その大群が、僻地の荒れ果てた土地、延々と広がるままなだけで、草木もまばらにして険しいだけの大地を、ただ黙々と、延々と、歩いている…。そんな様子をご想像くださいまっせ〜。たぶんこのまんま自死することを、その覚悟をあえてをもってでも受け入れる、そうするをもってしてで…、信仰における愛たるものの発露、その証明こそが、ことの、この行軍をなさしむる上での、意思決定を形作る。覚悟をする上での、術式、共同観念、共有物語になってたんだろ…。←最初に現実としてあって、物語となって、それを真実心から信じて改めて求むる証明するにおいてそのヒトの子等によって改めて世界創造なされる、反映が現実において果たさてしまうこととなるっと。この循環においてのその一環としての場面かもね…。
モーゼに率いられたイスラエル民は、ホル山から進み、紅海の道を通って、エドムの地を回ろうとした。だが民達は、その道程をゆくことに、モーゼの導きに従ってついてゆくことが既に堪えがたきものとなっている。 民たちは、神とモーセとに向かって、もんくを、苦情を、非難不満の恨みつらみの言葉を、あからさまに、もう誰をはばかることもなく、荒々しきの声もて、発するようになっていた…。
「あなたたち(神とモーゼ)は、なぜ、我等、イスラエルの民を、安心してそれなりに
満ち足りて暮らしていたエジプトから、強引なる誘いをもって連れ出し、その挙げ句に、
こんな荒野などで、死なせようとなされるのか?!。ここでは碌に食べ物も手に入らない。
水さえ出ない痩せた土地ではないか !!。あるとしても、粗末にして粗悪なるものばかり。
泥水しか飲めん。もうそんなもんで糊口をしのぐのは、もう我等には我慢ならんわー!!!」。
そこで、
主は
、火の蛇を
、民たちの内に
、送られた
。すると、蛇は
、民たちを噛んだ
。そのことが為に、イスラエルの民の内、多くのものが
死ぬこととなった
…。このような事態となったことに、民たちは、恐れ、慄き、大いに戸惑ひて、
急ぎ、モーセの元に行って、こう言った、
「我等は、主に刃向かってしまいました。また、あなたにも大ひに刃向かいをしました。
不平を言うこと、文句を口にすること、偉そうに罵詈雑言を発するにおいて、
罪たる行いを犯しました。どうが、蛇を、我等の元から、取り去ってもらえるよう、
主に、お願いしてやっては頂けないものだろうか?」。
そこで、モーセは、民達の為に、彼等の求めに従って、神に祈りを捧げた。
すると、主は、モーセの、その祈りに応えて、こう言われたのだ:
「火にて溶かしたる(の金属)をもって蛇を造りそれを竿の上に掛げるがよい。そのすべての
噛まれた者たちが、それを
仰いで
、それを見上げる
ならば、そのものたちは生き伸びることができるであろう」。
モーセは、青銅を火でとかして、一匹の蛇を造り、それを竿の上に掛けて置いた。すべての、
蛇に噛まれた者達の内、その青銅の蛇を、仰ぎ見たるの者たちは、生き伸びることができた。
原典をどっかで先に確認しといてください。なぜならば上記は自分の理解をもってかなり加筆されてしまっているから。なんと!原典にない文言までもが添えられてしまってい〜るーw。
追記:
40年間ってのを考えたときにこれはまずありえんだろう…ッて思うんだ。そんなに長期の放浪生活は現実的には不可能であろうと…。じゃあまったくのデタラメで過大表現なのかっていうとそうとは限らない。多分すべては喩えとしての表現であると見做すべきなんじゃないだろうか?。そこまでの長き年月を当て嵌めせざる得ない程の苦心惨憺たる放浪の期間は確かにあったのだと。そう語る述べることが許される程のその誇張をもってでしか語ることのできない血と汗と涙の放浪遍歴としての事態があったんだ…。もしも、仮にだが、40年間に渡っての放浪が事実であったとしよう!。ならばだ、何が想定され得る?。「海をも渡っているな」が自分のその答えになる…。日本にも来た?…。
さてっと閑話休題。上記文中における【
火の蛇
】って一体何?。ヒステリーのことでしかないわな〜…。
簡単に言えば、”
そうなのよ。理不尽極まりないにして不条理なるの目に会わされたならば、更に、それがいつ果てることもなく延々と長きに渡って続くのであるならば、(記録ではのべ40年間)、ヒトのこころにおいては当然な話として欲求不満たるものものが溜まって募ってゆく。そしてやがてにはその事態によっての大爆発たるものが引き起こされてしまう時節たるものが必ず間違いなくやってくる〜…。「うんうん…」(大きくうなずいている人が何故かここにいるー!)。
その事態を《神が送られた》》と表現する所に解釈の難しさがある。「ヒステリー起こしやがった」の一言で片付けることができなくなる。もう一段深い意味もて、解釈することが必要になってくる。それもだ、ヒステリーたるものの正体を、その原因を、蛇もて表している所に、なにやら奥義たるものが潜んでいるような…、それを汲ませるべくしての誘導があるように思えてしょうがないんだ…。
みなさんサイドにて、先に考えてみてください。
そのときの参考としてこれ上げとく。
これって、最近どっかで見た絵にはなりますよね?。
さて、何処だってでしょうか?
あれは聖霊の働きにおいて布石になってたようですね。
これに関してはここで自説たるものを先に公開しておく:
ことは表現としてのメッセージたるものを含んでいるまで。ヒステリーたるものの発生は機械的なる反応のものでしかない。生理的なあくまでも自然な反応でしかない。ストレスたるものがかかればヒトはヒステリーをやがてには間違いなく起こしてしまうもんなんだ。要はそのストレスたるものとの関係、それが起こりうる事態においての意識の持ちようにこそ課題たるものが設定されているのだ。そこに〜、第三項としての《調停者》を意識することができるのであれば〜、つまりは神ね、そこに起こるべくしてある機械的な反応を従来とはまた違った反応へと変えることができる。ずばり信徒たればそうせざる得なくなるんだ。そう在らざるを得なくなる。
ここに…地獄たるものの、その真の正体、源泉たるるその理由と、その如何についてを詳察することができるのではないだろうか?。苦しみたるものは決してなくなりはしないのだ。だが、それの消化において、ことそれにおける態度にて、救いとなるべくしての可能性たるものは確かに存在してる。ほん些細なその認識を持つか持たないかで、《調停者》たるものの存在を意識するかしないかだけで、ことの展開としてのその結果は簡単にその道を分けてしまうようなるのである…。
老婆心からの追記:
あんましバカみたいに真面目であるのもいかがなものかなって思うよ。神がヒトに求めるところのその枢要なる奥義としての部分を言うと、機械性なる発現を彼は好まないってのがあるんだ。つまりは、ある状況ってものにおいては、ことは馬鹿らしいって判断をもって、さっさとその環境から現場から状況から逃げるってのも正解になるってこともあるにはあるんだ〜。賢くあってねっ!。
蛇
みたいに…。理解たるものに向けての考察は
二領域
からのものなる。面の現実と、見えざる裏側においての事象において…。
そう、これは
衆目の前にて、処刑された、磔刑に処された、
そして○○○○にされてある状態…。
日本の文化圏において該当するものを探すなら、
それは獄門たる「
おいおいおい…似てるじゃねへかよ〜
その舞台たるもののT字のデザインまでもがー!。
そんで、こいつは西部開拓時代における絞首刑ってやつ。
舞台そのものと、ことの表しとしての意義と目的は同じだ…。
そんで、最後のダメ押しついでに、このタロットカードを改めて。
こいつはつ「
吊るされた男
」(the hanged man)ってやつになる。よく見てくださいね、何故か男は
逆さま
に吊るされてますよね?。*実はこのカードはわたくしことこの天村のことをずばり指し示している。
*中々気づかれないが彼は微笑んでいるんだ。吊るされたるにも関わらず。
ことの始末として広く世間に向けての表し。それの公開の前には刑罰たるものが実際に行われている。その執行の様子は通常は秘されてある。そのことが確かに果たされたことを、その結果のみを、世に向けては公開する。一般の人々の目に
追記:
その刑の執行そのもののを、つまりは殺処分の過程そのものを世間に公開する必要はない。あまりにもショッキングな内容なもんなんでね。通常においてはイエスの磔刑も例外であったのだと思う。あんときはそうせざる得なかったのだろう。両陣営(体制側とヒステリー状態の民衆)の意向に沿ってで、そうしたまでのこと。じゃないとあの場が収まらなかった…。ここで言いたいのはことの実際は隠されるべきもの、隠蔽されるのが当たり前だろうってこと。火葬場へ行ってその焼却の過程のそのものを見たいと思う人はいまい?。だから、その本当の経過内容は伏せられている。その代わりに、ことの完遂の証しとして、裏方の本来の目的である見せしめの為にも、その結果に関しては公開される必要があるまで。その公開のことを例えて暗喩をもって(竿の上に掛げられたるの蛇)が用いられているのだ。
さてっとこっからは私めによる独善的にしてまた畏れ知らずなんる関係者らにことが知られたらなら即刻ゴルゴがダース単位ですっ飛んでくる、もしくは
悪いが立ち入り禁止の呪文を唱えさせてもらう。入場したモノにはドえらい呪いってやつがかかっちまうんだからな。そらもうほんとにおそろしいことがその当人には起こることとなる。
「イッタラアカンユウタッテンカラホンマニイウタトオリシテクレントアルツモ~テシモテモ
シランカラナアンサンタチチチ天罰アタッテモワッシシランカイナーモウモウホンマニ!」
天村崇
今まさに本件においての仮説たるものを披露せんとしているところ。
そのことの余りに畏れ多きが故に、こんな姿になってしまっている…。
それを行うに相応しい出で立ちへと衣替えさせて頂きましたー!
君たちに、あの道中において一体何があったのか、そのときには実際何がなされたのかについてお話しよう…。不満を募らせ痛くストレスを囲っていた男達の中に一人、
奴は当然な話として、道中の然るべき場所にて、そこに至ってから撲殺されたのさ。モーゼによってね…。それはまったくの当然にして至極自然な流れとしての出来事でしかなかった。集団ヒステリーたるものが昂じて、それによって、群れにおける人々のこころってやつは荒れに荒れ果てていたもんだからね。その場を収める為には、ことの中心に間違いなく位置していたそいつを、徹底的にリンチ(粛清)をもって殺してしまうことの他に、有効な手段たるものはなかったんだ。こいつは言ってみれば、見せしめにされたってことにはなるわな…。
ところであのモーゼたる人間はやはり並の人間ではなかったんだが、ある種のことに関しては余り世間一般的には知られていない。それはヤツの戦闘能力に関してだ。ヤツは武闘派も武闘派、数知れない修羅場にて、もろ実戦の最中にて鍛え上げられてきたるの、バリバリの特級武闘派戦士だったのさ。そして、これは謎なんだが、彼は齢を重ねても、そのかなりの高齢に至っても、まったく衰えたるものを感じさせないその驚くべき戦闘能力と体力たるものをその身にて保ってたんだ。絶えず、いつでも、何処ででも、たとえその相手が天使であったとしてもだ。我の意を邪魔をするようならば、力づくをもって、これを容赦なく退けてきてた。一撃の元に、それが超常のものであったとしても有無を言わせずに葬り去ってたな。一旦ことにあたれば、非情にしてまた精密機械の如くしての鮮やかさをもってだった。その誰も真似することのできない人体破壊の殺傷の制圧の大技の数々をもってして!。それは極端に残酷なるものだった…。いや、それをも遠に通り過ぎたるの、まさに芸術的なる域にまでに達したるのその荒事の妙技。まさにアートそのものだった…。ことは堪えに堪えられての、その圧縮を溜めに溜めしての、そのフル充電の元になされてあった。一旦動き出したならば、それは、迅速なりてのその神速に達するをもって、その恐ろしき巨体から繰り広げられたならば、まるで山が動くかのように感じられてのそのままに、凄まじき限りの制圧の嵐に巻き込まるるをもって、その場にては、殺戮たるものが延々と繰り広げられることとなっていたのだ!。
モーゼには角があったそうな…。こめかみのところから二本。こんな風に…。
(額の両側に、人差し指を立てた
ヒトとして彼は、彼だけは、神たるものとの実体と相対することができたのだ…。このことは何を意味するのだろうか?。後世の人達はこのことがまるで分かっていない…。このことがどれだけ異常なることであったのかを…。尋常でない精神力と余程肝が座ってなければ、そんなことはできっこないのだ。彼は、かって神の助けを借りてではあったが、海を割ることさえもできた人間だ…。彼に本当に角が生えていたって訳ではない。見た目には唯の高齢者でしかなかったであろうに。やけに体躯がよくって、よく鍛え上げられた筋肉質の体をもってはいたが…。
空恐ろしいまでのエネルギーを宿しておりながら平気の平座でいたって平静にでいることができてたのだ。それの導体と最早完璧に成り果ててしまっていたにも関わらず…。ときに彼のその荒々しい本性が、露わにされたときにのみ、周囲のヒトの目には彼の額に二本の角のようなものが現れ出ていることに気づくことができた。やはり彼モーゼは、並の人間ではなかったのだ。そんものでは、もう遠の昔に、なくなってしまっていたのだ…。彼は、主たるその存在と一体になっていたのだ。絶えずそうではなかったとしても、ときに彼が乗り移ったかのようになってしまっていた。そう…、ことは、そうした中においてなされたのだった。怒りに任せてことを乱暴に治めようとしたわけではない。奴を、手にする
青銅の杖
もて、一撃にて撲殺したことを言っているのだが。ことは然るべくしての、つまりは神のご意向の反映としてなされたまでのことだった。かの者の有様は、
その状態は
、根本的からにして、遠に、既に、忌むべきモノ、まさにそれそのものだった。撃ち滅ぼされるべきものとして、そこに結実してあった。禍々しくもおぞましきのそのトレンドにおいて、それにおいて結晶化してしまっていたんだ…。悪しき蛇の無尽蔵なる開放たるその事態を迎えてのことを言っている。それの好きなようににおいて一切を投げ捨ててしまってた…。まさに最悪の禍々しい限りのヒステリーの状態に入ってた…。そのことが為されたるの、その事態の渦中においては、誰もが皆一様に、何故にか、あまりに異常なる圧迫感たるものがその場を支配して覆ってしまっていることに驚いていた。それはモーゼ本人が発していた迫力等であるとともに、また彼を依代とていたその本体たるものが実際には発していたものなのだとも言える。それは余りに巨大にして怖ろしい限りの威圧感を備えたものであったのだから。はっきり言って、そこにいた誰もが、神聖たるものが与っての出来事であることが理屈なくして理解がされていたのだ。
休息中において、いつもにもまして、穏やかならざるその際どき激高の様にて、喋り続ける男。彼より立ち上る空気はまわりの多くのもののこころをそれなりにとらえて、また彼色にて染めていってた。モーゼは静かに立ち上がり、彼の方に威厳あるその重厚なる立ち振る舞いにて近づいてゆく…誰しも皆の注目が自然と何故にがモーゼに集中していってた。無意識にではあるが何かが起こることを誰もが、殆どのものが、即座に、ピンと察していたのであった…。男は興奮の余りにか、はたまた即時の自己陶酔によるものなのか、モーゼの接近に気づくのがかなり遅かった。気づいたそのときにはモーゼは彼の直ぐ側にたっていたのだ。そして、その巨躯をもってしてのダイナミックにして渾身の振り切りによって、その一撃の元、男の命は即座に失われてしまっていたのであった。そして被害者たるのはこの男だけではなかったのだ。それは断罪の開始、それの鈍き血しぶきあげての擊音としてのゴングに過ぎなかった。彼に近しい者達、その色に染まるが既に恒常的になっていた彼の仲間たち、それは両手による数えをかなりにずっと越えていたのだが、猛然と巨躯たるは連続的に彼等をも順次屠り倒してゆく。その余りの勢いが、速さが為に、誰一人、逃げることも、戦うこともできないままに。無残にも撲殺されて大地に転がっていた…。
その場を支配してあった極端に厳粛にして、また空恐ろしくもまさに鬼気そのものによってなる圧倒的なる厳正さの前に、それはまさに突然の嵐の如き暴力の雰囲気においてではあったのだが、誰もが皆、ことは然るべきしての断罪なることが理解されてしまっていた。いつの間にか、底しれぬ、得体の知れないムードが、その場を覆ってしまっていたのだから。それはあまりにも非日常の空気であり、余りにもその超常的なることの印象を彼等人々のこころに印象として刻んでいた。ことのすべては、その中に、ことの全体において、一ミリの狂いもなく、完全に、完璧にして、感じとられてしまっていた…。
その一瞬において、皆は、完全に目を覚ますことになっていたのだ。不満、いらだち、怒り、つらみ、恨み、呪いとしての念を紡ぐにおいて、それを促進していた蛇の最たるものが、正にそのものが、目の前にて、一撃の元、その憑依体とともに討ち滅ぼされてしまっていたのだから…。
どうしたものか、なぜにか、人々の中にあって、モーゼのおこなったことに対して糾弾の声をあげるものは、非難の声を上げるものはただの一人もいなかった。ことの一切の目撃おいて、自分たちが、何かの夢に深く陷っていたことに、キチガイじみた騒乱を起こそうとしていたことに気づくことができていたのだ。改めて、神たるものの来臨を、そのご意向を、モーゼのその姿の背後に観ることが、感じることができた。そして、思ったのさ、自分たちに、選択の自由は元から最初からないのだと…。その試練が如何に過酷なものであろうと、そうなろうとも、それがいつ果てることもなく続くものであったとしても、自分たちにはあくまでそれに付きそうことにしか生存の道はないのだと…。悲しみと侘しさと絶望と諦観の限りにおいて覚えられたるは、また悟れられていたのは…、ただ主なる神を、信じることにしか、我等の使命は、その存命の可能性はないのだということだった…。
ハイ、こっからは蛇たるものが何なのか、その正体とは果たして一体何なのかについて妄想してゆくよ…。ええひーめんどくさいわーーーもう簡単にでゆく〜。先ずはラフスケッチやって、あとからだんだんと完成してゆくよっと。語り部のイメージも誰か探さなくっちゃ〜…。
「チェ〜ンジ・ゲッター・ヨギー!」
天村崇’
雰囲気だすべくお着替えしてきましたー♡。
宇宙の創造は七段階を経て最終的に月に至って、そこでお終い。そこがデッド・エンド。ヒトは「神の似姿として造られた」。この言葉の意味は、宇宙全体の構造を、その構成をそのまんまにして、その身に備え持っているってことになる。全体の転写をもってその創造はなされたのだ。七層の創造とその七段階の展開のそのすべてのあらましがその身にては転写され、刻印がなされておる。このことの結果は、ヒトたるものは、そのもって生まれた性質上、大宇宙のすべての展開と照応関係にあるってことになる。ただし、このことは、然るべくしての、つまりは自覚的意識的なる共振が果たされたならばの条件づきにはなるのだが…。だがことにおいて、特に付け加えて、無理にも述べておくならば、一切合切を受け取ることはしてはならんということなんじゃ。向こうにおいても、選ぶべき歓迎すべきの作用の力と、拒むべきの避けるべき厭うべきの力てっのがあるんじゃ。それもこれも、あれもこれも、ときと場合によっては、その順位も順番も大きく変わるので、当人の出来不出来は当然な話ではあるのだが、特別に、特段に、こうだああだということはできん…。
ヒトたるは物理的には最下層の界にて存在しているんだが、この人間ってやつはほんと特別で、宇宙のその全体構成構造をミニチュアにしたもんなんだってことが言える。Gもベルゼの中で、ヒトの体内には、あれら七階層のそれぞれに属する、それぞれの界にて限定される物質までもが浸透やら合成によってその体の内には存在しているって言ってるわい。そうすることが実際可能なのじゃ。これは、はっきり言って、異常なる事態、正にヒトたるものが特別なる存在であることを証しするにたりる真実にして事実なのじゃ。
この絵は補完として揚げておく。七階層との関わりが七つのチャクラにて表わされている。いやそこんところに掲載の目的はない。意識すべきなのは、天頂のその上の向こう側に、なにか別の世界があるってこと。そして、下方のデッドラインを越えての、その下にも、なにかまた別の世界があるってこ〜とー!…。そこにとある空想科学幻想小説家は【無底】っていう存在を夢想しておるんじゃが…。
カバラにおける生命の樹とか、ヒンドスタン文化が語るところの人体におけるチャクラ、まっ次いでに言っておけば北欧神話におけるユグドラシルは、この宇宙が創造されてきたその展開を、結果としての構造をもって、表しているまでのことなのじゃ。こうなってああなってこうなりましたじゃ。して、これの興味深いところは、人間の体構造も、それと正しくよく似た同じ構成になっているってこ〜とー!。
つまりはじゃ、あれらは宇宙のありましを表わすと同時に、人間存在のそのありましそのものをも表しているってことになるんじゃ。あくまでもモデルとしてではあるじゃがの…。それが何かの役に立つのかって?。こいつ、つまりは、あれらの目的たるものに関しては、この話者は、はっきりと、胸を大きく張って、膨らませて、精一杯の誠実さをもって、こうお答えしておこう「知らねへ!」と…。
「チェ〜ンジ・ゲッター・
天村崇’’
このヒトは自身が語る通り、余りにも自身の感情において素直すぎるんだ。
正直に過ぎる。このことがまわりには迷惑というか厄介至極というか…
空気読めないというか、その本人たるものが空気そのものの創造者なんだ!。
すべて同じ。宇宙の構造を表わすと伴に、人間そのものをも表している。このモチーフをずばり同じくして言葉でやっているのが、”創世記”になる。そこには展開の運動が流れがある。
過去であり未来(可能性)でもありえる。転写って概念をキーワードとして自分は持つ様なった。*この概念の味噌たるものはだ、なんら物理的な干渉なくして、一切は即時即応で、一瞬にしてことは整っちまうってことにあるんだ。たとえその間に、何百光年の開きが、お互いにあったとしてもだ!。物事の背後にて働く一種の投影のことになる…。
さて蛇だ。こっからが本論だ。なんか知らんが蛇たるものがさんざ、そこら中で絶えず登場してくるではないか!。そしてだ、これは脱線になるのだが、タコのおばけみないなんもんまでもが最近この私の意識のスクリーン上には写り込んできてやがるー。「フングルイ・むだむだ...」わけの分からん呪文唱へながらに〜!。
これって何?。こいつっていったい何やの?。クンダリーニって呼ばれているがこれだけじゃ何のことやらさっぱり分からん。まっ分からんものなりに勝手にイメージたるものを湧かせて膨らませて、正に〜
それによる力を借りて
になるのじゃが、勝手気ままなる解釈を、歴然としたるの態度もて、講釈ほばさせていただこう!。後遺症がひどいんだ…。もう治らないかも?。それは性行為へと向かわせるべくしての本能からの要請、それの実務的にして実体的なる強制力たるもの…。否、それを作用の主たる道具とするなにか。それは生命エネルギーだとか、霊的フォースだとか、まるで妖怪みたいなものだとか、訳わかなん説明が多いのじゃが、とにかく、まずハッキリと一つ言えることは、ヒトの頭や通常の感覚では絶対にとらまえることのできない、なにか得体の知れない感知不能の代物なんだってことー!。
この話者たるものは宿命にして宿縁なのか、とある事故的にして例外なる機会に恵まれて、それに偶然遭遇してしまって、こいつを実体化させることになってしまっても〜てる。そのことの経緯に完全に口を噤ませてもらうぜ。本当の意味で、厳密にして正確に、然して更には誠実にで、あれやこれやを全部語るとなると自己の罪深さの全公開になってしまうんでね。流石にそんな恥ずかしいことはようやらんわ…。あくまでも、それとなしの触り程度の話で許してもらいたい。
*以下は未だ初稿においてのラフスケッチ。これから完成させていきます。
ただ、それを知るヒトたるものが語るならば、なにがどうなったせいでかは知らんが、観れる感知できるヒトが、それに関して、それを描写するならば…、それは分厚く、弾力質なること著しくしての、逞しくものたうちまわりながら、手も足もないのに、迅速に、まるで滑るかのようにして体内を脳内の表層そして顔面の面少し入ったところにおってそこで絶えず蠢動しとる。最近では左顔面に痙攣までもがこいつのせいで引き起こされておる次第じゃ。なので結果として正しく蛇のようななにかなのだと語ることになっちまうんじゃ…。手っ取り早くで表現するなばだそうなんじゃがなっ。もっと正確にいうとこいつは非常に複雑な構成やら形態をもっておってな〜、丹田に根を強固に持つ形にて主に人体の前面部にその所在をかこっとる。こいつが確かに人間の中にはいるんだ…。自分ほどに、たちの悪いものとしてではないだろうが…。あの降りてきたシャッターたるものの正体とは正しくこいつのことじゃったんじゃ…。
ところで、Gは、こいつの名称に、更にその働きの特徴の一つを
敢えて抜粋してくっつけて新たなる名称を与えている。
クンダリーニ + バッファー「緩衝するもの」= クンダバッファーって。
このことの意味をざっと語ってしまおう…。それは、クンダリーニたるものは特段にゼロか1かのものなどではなくって、それなりに老若男女誰を問わずして機能しているものなんだ。それを完全に出力100%にする事態ってのは、また格別なるものとしてあるにはあるのだけれど…。この世にヒトとして生まれ落ちたなら、これとの関わり合いは男女伴に性別を問わずして避けられない。たいへん身近なものなんだ。多分、おそらく、小学生の高学年くらいからはそれは影響を及ぼし始めている。
ことの構成を言っておくならば、それは確かに性欲を引き起こす、なんらかのurgeの範疇にあるものであると一言で括ることはできる。だが、それは、動物においてのものと比べれば、格段に別物ものになっている。それらのプログラム構成の中に、また独自の、完全に本来のそれからは独立した、奇っ怪なる生体エネルギープログラムとでも呼ぶしかないものが備わっているんだ。これは
対マインド
を想定して、後から、外部から持ち込まれてきたものなのだと言える。Gもそう解説している。簡単に言えば、マインドは、それとの関わりにおいて何故かどうしたものかいたく従順で、簡単に迎合してしまうんだ。完璧にそれと同調してしまっている。おそらく相性が良いだろな…。上位プログラムとしての支配権をそれはもってるんだろう。そんで、なにが起こるかというと、夢うつつの性的幻想を妄想を自動的に自分の頭が勝手に紡いでしまっているんだ。それは現に見る夢なのだというのが一番ピンとくることだろう。
だいたいマインドたるものは、あたりかまわず目につくものそのすべてに差異性たるをどんどん見つけては、そこに意義やら価値やらを生み出して見出してしまうもんなんだからね。訳わからん文化コード大系ってやつのことさ。まさにそれを熟知した上で、向こうは攻勢を仕掛けてくる。最初からこちらの弱みたるものを握っている。ならばだ…勝てると思う?。
ここにそれの制御を果すべくしての、同じ上位圏にその出自を持つ魂、本質、良心が関わらないのであれば、そとは、ハスナムのそれとしての傾向性を強めてゆくまで。自己幻想が突拍子もなく奇天烈にしていかれたものになってゆく…。自己イメージが正にガイキチのそれになってしまうのだ…。大変重要なことは、それは性に留まらないだ。エゴが求めっるその対象に対しておそろくべき幻想性を羽ばたかせることが適う。いや、寧ろ、それを好んで促進する生きたる力なのだ。多分これは、サタンと同列のものになる…。
これはね〜、ことを即物的にって言ったら失礼なんだけど、簡単にして十全にして終わらせるってことを阻むようになってしまうんだ。場合によっては、その果てしなくの、また罪深きの性的ファンタジーってやつをどんどん湧かせてそれの虜に自分からなってしまう。なんやら知らんがそっちの妄想世界の方が、豊かに思えてきて、そっちの方に重きをおくべく傾きたるものが起こってしまうんだ。そんで、とどのつまりは習慣として定着してしまっている。
多分クンダリーニなるものは、とてもインスパイアーラブルな、天啓としての尋常ならざる作用力たるものを、その摩訶不思議にして、ヒトの本たる魂にたいしても余りにも魅力的なるの効果を秘めているんだろう。可能性の一つは、これはルシファーなのだと言えるのかもしれない。本体ではない。それの写し身たるもの。一種の別立ての天使が我々の内にはいるんだ。これとヒトの魂との関わりにおいて、こちらの対応の如何によって、それもまたいろんな成長変化を遂げる。場合によっては、真にサタン的なるものになってしまうことも在り得るだろう。自分として特に強調しておきたいのは、それは別立てだってことだ。それはまた独自の意思たるものをもっている。なんらかの目的を、志向を、嗜好を、それとしてもっているのは確かだ…。一つ変な体験を述べておくならば、禅定に入るのには、それなりに苦闘としての節がある。このときに何かの関与を覚えた記憶がある。それは何をどうやって、またどこから立ち現れたものなにかは分からない。突如、性的妄想力による影響がマインド内に走り出していた。その世界に自分を取り込もうと染めて完全に巻き込もうとしていた。その事態と向こうの思惑たるものに気づくことが出来ていたので直感的に悪しきと断じてこれを不快として退けた。下方の方へと。それは禅定に向かう行為、その意志を嫌っている。だから本格的に阻むべくして出てきたのだ。そして、夢うつつの状態に是が非でも引き留めようとしていた。彼の幻力をもってしてなるその性的な妄想の連続連想の中にて染め上げようとしていた。それを不快なりと、邪なるものの干渉と断じた自分は、それが来た道、下方へと押し返していた。この行為はかなりの修羅場における切羽詰まった際どい限りの断行であったことは告白しておく。それは現実を超えての圧倒的に魅力ある世界としての提示であったのだから…。すると、その途端に、最高レベルの禅定に自分は一瞬で入ってた。激変だった。きれいに澄んでしまってて、それは大変心地よいものだった…。こういった経験は一度っきりだけどね。
それはマインドのみならず、感情にも、
それは、ヒトの夢見たるものを深くするもの。それをより深化させるもの。より高度化するもの。よって、その個人の内的世界を豊かにするもの。ただし、それは現実には根拠たるもをもってはいない。あくまでも、その彼、個人の観念世界においての、彼にとってのみの妄想でしかないのだ。
するってとだ…個人の世界たるものが、そこでの個人的なる拘りたるものが生まれて強化されていっちまう…。そのことの結果における実際のその生存の内容や、そのことにおいて、外から、客観的に見たら如何なる人間に写ってしまうようになるのかについては…!、もう語るのはやめておこう…。字数がいくらあっても足らなくなる。
ことにおける問題の、その最大にして最凶のものだけ言っておこう。愛に関わることに関しての感性を失ってしまう。それとの全体性としての関わりができなくなる。我が意、我が思い、我が好みに凝り固まってしまっているのだから。それで自己の世界を作り上げ、そこに籠もってしるのが実態になるから。
そうなったならば、すべては自己にとって、都合良しだけの世界になる。つまりは矛盾さえも感じなくなってる。覚えなくなってる。だって我良しの世界なんだから。ブレーキたるものが、自制をかけるべくしてのものが、そこには、誰も、何も、存在していないのだから。
この辺が、バッファー「緩衝するもの」をくっつけた理由なんだろう。硬い硬い鎧がいつの間に形成されてしまっている。ぐるんぐるん、延々と、なにかにおいて、想念が凝らされてきたもんだから。その想念たるものを立ち上げ、それ以降の展開のプロモートをしてくれていたのが、いるのがアレのことになるんだ…。
果たしてクンダリーニはそれ独自の独立した意思たるものはあるのだろうか?。多分それは独自のものを獲得することはできるはずだ。何故なら自分においてを話すなら、それはもう完全に独立した意思たるものを持っている。それもこの自分の意思からすれば、まったく反したるものを。それはそれはもう悪意たるものとしか言えないまでものものを…。そうこれは既に言ったことだが、それは、ヒトにとっての、真に身近にしてある悪魔たるものになる…。
*本体のとしてのアレはまた別ね。
我、その個人の求める夢にて彼を籠絡せんと欲す。
天には絶対に戻らせまいと、還らせまじと。
我と伴に滅ぶことを、永遠の業火にて焼かれんことのみを祈願して、祈念して。
追記:
新約におけるユダ書1-8にこんな箇所がある。
In the very same way, these dreamers pollute their own bodies,
reject authority and slander celestial beings.
まさにかくの如くにして(ソドムとゴモラの人々のこと)、
これらの
夢見るものたちは
、己が自身の体をー、【汚した、汚染した、堕落させた】。
そしてまた、権威たるものを拒絶し、
そして上位界に属する
天使存在
たるものたちに、不遜なる言葉を吐いた。口を利いた。この箇所において、ちゃんと理解して翻訳されているものは残念ならが一個もありません。
そんなに難しいとこではないんだけれどねっ。
ポイント二点。
1)ドリーマーとは、一体さてはてなんぞや?なんのことを言っておる?
これに関してを、自分はこれまで長々と説明してきてるんだと思うんだけど!。
だからもういいでしょう?。
2)celestial beings における訳が何故にあないに抽象的な表現になっているのかな?
たとえば、共同訳と口語訳では伴にこなってる...「栄光ある者たち」。
なにこれ?。celestial を訳するにおいて困ったんだろな。
あれはそのまま、天の/天界の/階層宇宙における上位界における/でいいのに。
それにBeingが足されるならば、それはもう天使だろ。
要はあのソドムにおいて天使がヒトの姿となって衆目を集める状況があったのだ。
そしたら見目麗しい美しき男性であったにも関わらず、
「抱かせろ抱かせろ、おらにあんたを抱かせろって」ヒトの途絶えることがなかった。
あのエピソードを踏んでるまでのこーとー!。
さて、ときを34年間を経て、自分の中におけるアレは今はどうなっているのか?。それは相変わらずあるはあるが、いるにはいるが、自主的にして能動的なる動きはほとんど停止してしまっている。睡眠中に夢をもって働きかけることもなくなった。
*いやこないだホント久方ぶりにありました!。金縛りにして、手を掌を摘むかのようにして下へと連れて行こうとしてた。振り払うのにかなり苦労したけど、強制的に強引に体を動かすを持って、その状況を脱することができた。ホント十年ぶりぐらいのことではあるな…。これ書いたからなのかも知れない…。つまりはだ、未だ、まだまだ、危ない状況下にあるってことなんだ…。2021.11.01追記
創作においては一部自分はそれを敢えてで作用することを許してもいるんだけれどね…。感覚的に異物として捉えられているまで。果たしてそれだけなのか?。このことは語るのがめんどくさいのと、他人とっては、一切なんら参考にならないので、ここまでと致します。サンキュー
もうそれは断末魔においての叫びをあげるが如くしての挙動をみせるまで。狂ったAI、月のゲルギアみたいになってしまっている。こちらの手綱の方がもう今となっては圧倒的に強いので、もうなにもどうしようもないのだ。にっちもさっちもいかなない。まっ一種の硬直状態。その最後のあがきたるものが、そのこちらへの影響が、あの『聖アントニウスの誘惑』における様子のことになる。死ぬまでには決着付けたい…。←だから導きにおいても、ヒトは求めて願って祈らなければならないのだ。
これはいい表象だ。月と太陽が愛をもって調和してる。月は満ち欠けを連想するようにことは女性的なるものを表している。これは更に連想の翼を広げるならば、変化をキーワードとして次々にまた違う言葉が概念たるものが浮かんでくることとなる。”相対性”なんて概念も当然そこに意味を込めることができるであろう…。さて、ならばだ、太陽の方はどうだ?。引き算的に男性ってか?。完璧に正解。ならばそこに込められたるの意味とは何なのだ?。その男性ってはどういった意味でのものなのだ?。これは太陽に紐付けられてにおいての意味にて限定される。多分それは一貫した某らかのポリシーみたいなものなのかもしれない。自己の価値観たるものにおける絶対性。それがなんにおいで、なんにもとづくものであったとしても、ゆくゆくは扁壺にして頑固なるものに行きつくことだけは確か。扁壺になったのには、年月の重ねにおいて軋轢が多かりしことの故なり。そのことの事態の表し、そのことが結果においてのことでしかない。その味わい深さたるものの真の価値は彼はそれでもその彼が信じるところの、真実なるものを、離さなかったことにある。もしこれを信仰に置き換えることができるなら大変立派なことではある…。見過ごされやすいのは両者を調和させているところの外周の円。これにおいては循環としての意味もあるし完全調和たるものの意味もそこにはある。循環は回転運動によって表わされているのだが、この意味は動きは外見からでは分からない。読むヒトの努力あってこその読解になる。またこの循環たるものは円における回転運動の他に、ピストンの往来みたいに、縦の垂直運動に置き換えることも可能だ。登っていって…最上階についたなら今度は下るまで。そして、下りきったなら今度は上に登ってゆく…。この縦の運動に置き換えた場合には、当然な話しとして、あのヤコブの梯子がなんであるのかも考察の対象にしなくちゃならなくなる…。また、片や、あのエニアグラムにおいて表わされているオクターブの法則もだ。無限音階。一音の中にはまたスケールを違えてのオクターブが含まれている…。このことにおいて重要なのは、各スケール単位にてその世界内においての法則はまったく違うものになるのだということ。このことに意識がないと安易に当て嵌めをしてしまうこととなる…。ヘプタパラパーシノク、トロゴオートエゴクラット等の概念たるものをもね。先の調和たる機能を果たしている円たるものの、その奇っ怪にしてなるその効力たるものに感銘を受けたなら、また忘れないでいれたならば、そこではトリアマジカムノ、つまりは三の法則においての関係たるものを絶えず何において当て嵌めてみることをも習慣にできることだだろうさ…。そして、上方向に向けてが核心になるのだが、それは螺旋運動をもって果たされていることの事実に、また同じくして下に向けての、本意としては歓迎してないその移動も、螺旋形をもってそれは為されているんだということに気づくことができる。向かうべきは上なのか、それとも下になるのか、これは当人たちの好むところにおいてでしかない。ただヒトはパンのみ生きるにはあらずなることは、こころに留めておくべきことかなっと…。すべては最初からきまっている。往くものは往くし、行かないものは何をどうしたって行くわけがないのだ…。
これはKCのアルバム「太陽と戦慄」において使われた絵なんだけど、実はこれは良くないんだ。上のものとの違いを観て欲しい。結果としてこれは不完全な表現に落ちてしまっている。
観るものに誤解を招いて呼んでしまう。なんでもかんでもありがたがっちゃ〜だめなのだ。
自分の確固たる信頼できるメジャーたるものをもって慎重に物事は測っていかなくっちゃね。
天村崇は”大法螺吹き”だかんねー!。
クレタ人よりも、もっともっと、ずっとずっと…
ネット環境を利用しての成り済ましをもって、もう何人にも無限に増殖して嘘をつくんだ。
再び、ジョーカー登場!
何を何処まで語っていいものか思案してる…
「 そうだな、まずはさておき、歌からだ…」
♬「思へばー遠〜くへーきた〜もんだー」ってか〜?!。悪いが真のメインイベントたるものが残っちまってんだ。それはもう大概にしてくれよなって言われてしまう程の内容たるものを含んじまってる。できればそんな話は仮説であったとしても聞きたくなかったって、後で言われちまうようなそんな話だ…。俺様もまさか、あのことに関しての真実について、思い当たり、そんで、それを公にて語ることになろうなどとは露とも思っていなかったさ…。そうさ、ことは、あの楽園におけるアダムとイヴの犯した罪たるものの、その真実に、その実態に迫ることになるんだから…。あの蛇たるものがなんだったのか、彼等が犯した罪たるものは真実のところなんであったのか?。これらの問に真っ向から即物的にしてシンプルに答えることになっちまうんだから…。
ほんと…悪い冗談以外のなにものでもない話しをこれからする。
できれば即刻シャットダウンして寝ちまいな…。
それが何より一番だ。
あとで後悔してもしらんからな…。
なにせ、妙に説得力だけはあるのだから。
たとえ間違っていたとしても、それをまともに否定することは誰にもできないことだろさ…。
だからさ、言うのさ、止めときなって…。
もう、その説たるものにガッチリ嵌まっちまって抜け出せなくなるから…。
Re: ことの真実。
アダムとイヴが元々生きて所属していた世界はエデンの園と呼ばれている。エデンは語源的には”喜び”や”歓喜”の意味を表わす。その原初としての状態は、正しくそういった感情を持つに相応しい環境だった…。
では、その状態とは一体どういったものであったのか?。これに関してはブラックボックスとしておきたいのだが、仮説たるものを一つご披露しておこう…。
それは、如実に、「神、我等と伴に坐せる」の状態。一切合切が伴に、であるのと同時に、それの内にの話しでもある。各個としての明確なる意識の分離はあるにはあるが、それは、付与されてある役目において機能性にて、その根拠をおいているまで。例えば人の体内において、とある臓器を心臓と呼び、またある臓器を肝臓と呼ぶのと同じこと。そこに区分けはあくまでも便宜上のものでしかない。心臓が肝臓を意識することはあってもそれは全体の機能においてそれを意識するまでのこと。ある意味、意識において分断はあり得ない。
すべては然るべくしての関係性、その与えられた役目において、全体としての最適性を目的として、そのことを適切なる指針するにおいて成り立っていた。お互い、なんの引っ掛かりもないままにー!。
ならばだ、この地球に生きる我々とさしたる違いはないではないか!と言いたくなるのだが、エデンにおける生命の有り様は効率性において、こちら世界のものと比べれば、天と地ほどの開きがあるのだと思っておいてくれたまえ。w。そもそもからして、役割としての内容がもう段違いなのだ。ある意味、かってな想像に過ぎないのだが、天使らがやってるその仕事みないなものだったに違いまい。原始的なる生命種の面倒をみること…。
閑話休題。ヒトはアダムとイブの二人っきりってこともなかったろう。それなりに沢山居たことだろう。そのはずさ…。
さて、ことの、あの事件のあらましについてに入ろう…。
Re:「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった」。
原文をKJ版においてみておこう。
Now the serpent was more subtil(subtle) than any beast of the field which
the LORD God had made.
subtle:
微妙な、とらえがたい、名状しがたい、いわく言いがたい、つけにくい、
微細な、敏感な、緻密(ちみつ)な、巧みな、巧妙なの意味になる。
どこでどう間違えたのかは知れないが狡猾をもってくるのはあまりに恣意的に過ぎる…。おそらくは「
霊妙なりける
」が日本語としては妥当なるものであったことだろう…。ところでしかし、Mostを使っていないところには「上には未だ上がいるよ」の隠されたメッセージになってるんだろうね。最後、見逃さないように、敢えてで言っておく。それは神様製によるものなのだ…。だから、この辺の表現に自分の感触たるものを持ち込むならば、あの蛇ってやつは、クンダリーニのこと以外にはありえないわけさ。それは現在、すべての人類に備わっている摩訶不思議なるエネルギー体のことなんだが、エデンにおける環境においては人類にそれは備わっていなかった。
外部から、それは入ってきたものになるんだ。だから表現としては、蛇がある日、彼等のところにやってきてがことの始まりになっている。
まあ、とにかくこっからは端折らせてもうよ。
それは独自の意思においてだったのか、それとも神の隠された思惑において、知らずの内にそれを行ったのかは分からない。とにかく、アダムとイブに代表されるそのころの人類の中で、その摩訶不思議なる効力を発揮することになった。
それは一体なんであったのかというと…このことに関しては遠に何処かでやっているので、今回は簡単にでいこう…。
一切の実態としての関係性をなくして、個人のマインドそれ単独、単体において、よって、対象に関しての認知が適うようになった。それも自由自在にだ。独自の見識たるものが持てるようになった。そこにこそ、クンダリーニたるものによる、それ固有の働き、夢見を幻想を促進する作用力によって、ことが極端にリアルなのだと思い込まされる認識されてしまうことろが味噌になる。一種の幻想を伴っての催眠だ。LSDみたいなものか…。
なんのことを言っているかというと…、先ず、これは現在、完璧に取り込まれて縛られてある生活世界、その世界秩序からの完全なる開放ってことにはなる。これはあくまで、結果としてのその一側面に限っての話しにはなるのだが…。これは、マインドにおける認知に限っての話しにはなる。それまでの話しにしかない。
そう、すべては、観念的なるに尽きる、個人としての思考、その内的世界の獲得にある。
また、そのことは同時に、認識の対象に関して、それにおいて、自由なる価値付けが、自在なるイメージの付与が可能になることとなった。
ことが以前とその後との違いを分かりやすく説明すると、
自己と他を分ける境界面が、私をこの肉体と意識するところに造られた。
外部に関しての認識は、それの意識のスクリーン上に、
あくまでも主観的なる印象のままに投影されたものになる。
別の表現におけるアプローチを…。
ことの一切を認識する主体たるものが本来的なるものから別なるものへとシフトした。また認知や理解をするにおいて必要とされる情報の入手経路、処理の手順、また情報そのものの言語が完璧に完全に変わってしまった。me → I へだ。そのことは世界を一新したのだと言える。前から言っている通り、対象を、自己から完全に切り離した/切り離された状態で、主観的に観ることを可能にしたのだ。自ずから然るべくして知れるから、自らが吟味をもって考察を加味を加えて知るへと。
ある意味、そこには無限の可能性があるにはあると言える。全てにニュートラルにあって、公平無私にあれて、そこに愛たるものが備わっているのならばの話にはなるのだが…。何せ、そのシフトにおいてのイメージの投影は、現実に変革を改変を持ち込むことが可能なのだから。そう、人間は、神に等しくして、創造の奇跡を、その魔法の原理そもものを、使うことが可能な存在なのだから…。
だが、それは、全体を深く、広く、高く、隈なく、全部を、全員を、すべてを完璧に理解できて慮ることが出来てこその話にはなるわな〜。その拙いこころのままに、未熟なる精神のままに、好き放題やられても真実のところ、困るってわけさ。多分、この辺が理由なんだろね。楽園を追い出されたのは。またサタンたるものが天から落されることとなったのは…。
追記:
自分は…G の考えを採用するものだ。彼の言がサウンドするからなだけでー。クンダリーニは夢を見させるもの。それは決してヒトにとって歓迎するものにはあたらないと…。問題はその夢をヒトは現実と認識してしまうところにある。場合によっては、その夢は、神の似姿としてのヒトの能力において本当に現実化しまうのかも知れない…。もしそこに確たる境目がないのであれば、眠れるヒトのいては、ことはどちらも同じであるならば、これはとんでもないトラップであると言わざるを得ない。しかしだ、自分の経験においては、現実はどうも終局的には意地の悪い結果を用意するようにできている。皮肉にして、悪意ある流れを用意する。ここにおいてはあの聖墨菲(まふぃ)の法則に関してを参考にするのがよかろう。仮説を一つ用意するならばヒト存在は未だ未完成で、その創造の魔力ではどっかで狂いが生じてきてしまう。反動で求めと逆のことが起こってしまう。閑話休題。プラクリティーの現れに関して、その意義をどう観るかは人それぞれの考えによる。自分においてはそれは、あくまで生たるものをすべて無効にする迷宮としての現れたるものに如かずだ。これを破るには突破するには、ことは意思的なる存在を獲得するにしかない。そのことは同時に某らかの目的を自己の意思において定めて、これを為すとセットとなる。このことは現実にしっかり根付くことを意味するものでしかない。それを覚醒させて、なにか特別な存在になるなどという考えはすべて過ちへと誘導するものにしかありえない。覚醒たるものは、クンダリーニたるものの関与を、一切断ち切ったところにこそ、その可能性を開くことになる。これは大変に困難なことでしかない…。まったくもってことは皮肉な展開をみせている。本来これの危険性に自覚的であるべくのヨーギ達が、むしろそれに重きをおいて自説たるのを説いているのだから…。ある意味、あのパートクドルグ義務のみを念頭において、与えられたその機会に、これのみを意識して行っているだけでいい。なにか特別なる存在にーなどと考えること自体が、既に、あれの作用の元にあることの証でしかないのだから。タイプ4がこれ語っているのもまた皮肉な話だ…。
とにかく、アダムとイヴに何が起こったかだ?
経緯に関しては分からんからブラックボックスにしておいて、
いざ、クンダリーニによるその効力が発揮されてどうなったのか。
お互いの外見上の違いが極端に意識されることとなってしまってた。
そこに性において誘因が、異常にして極端にして刺激されるようになってたんだ。
要は、外見に惹かれての、そこにおける魅力が圧倒的になってしまってた。
ならば、その後のできごとたるものが、どういったものであったかは語るまでもあるまい。
彼等は肉においての交接へと、怒濤の如くして、即座に至ってしまっていたのだよ。
それはまたこれまでに行ってきたセックスとはまったく違ったものであった。
これも先の認識の話と同じ話なのだ。
その行為において快たるものを感じる主体、それが形成されるフォーメーション、
感覚の伝わるその経路、その相手たるものの認識のとらえ方、そのイメージが、
ことごとくにしてこれまでのものとは違ったものへと変わっていた。
めくるめくまでに〜、一切が、
異常なまでに
、新鮮だったってかーーー!。そしてそのキメセクたる行為を行った事態は、神からして二つの意味において許すことの出来ない、また歓迎のできないことだった。ヒトは、罪人としての烙印を押され、楽園より追放される運びとなってしまった…。そのシフトにおいてことを行うが習慣化する。それに向けてのトレンドが形成されてちまった。ことは性行為だけにとどまらない事態となっていた。過ちとしての、罪深くきものとしての、そのあり方が常態となってしまった。自覚的に元の正常なる軌道へと還ることは、もはや自力では不可能となってしまっている...。
ある意味、自由に思うがままにイメージを相手に投げかけることができるってことは、ヒトにとって、大変魅力的なことなのかも知れない。現実たるものは、長き時をかけて、じっくりと、ゆっくりと、立ち現れてくるもんだしね。
ことは外形、見た目の話だけじゃあまったくないんだよって。
中の、そのヒトの本質を見定め、見抜けなくっちゃって。
それと、自分のものとの相性こそが、一番肝心なるもんなんだって。
性は、肉における交接たるものに凝り固まってしまった。
それ以外の、エレクトを起こさしめる内容たるものを僕たちは知らない。
我等は、愛において、その相手を、やはり同じくして、その肉体として捉えている。
それ以外に、どうやって、その相手を知る術があると言うのだ?
でもね、その相手の核たるものを、現実にしっかりと意識できてて、その上で、
それと交合を果すってことは、それは、どえらくエロチックな体験にはなる。
胸の薄いも厚いも、目鼻顔立ちも、そんなことは、もうどうでもよくなる…。」
最後に、この格言を添えておく。
『愛、それも意識的に行われるもの。これは同じものを反応として相手に呼び起こす』
要は、男さん次第なのだよ。
本来としてのものに、健全なるその生来のあり姿たるものに、還らなくっちゃ…。
ことの結果は、一生あなたについてまわることになるのだから…。
ここはかなり、言葉足らずですが、ここまで。全体的に未完成。そのうち、気が向いたら改稿かけて、完成もさせます。
アダムらにとっても、それは最初の内だけは〜の話でしかなかったのだよ。その鮮烈さってやつの話しさ。その体験も段々と鈍きものへと変わってゆくんだから。結局、ヒトってのは、それがなんであったって刺激には慣れちまうもんなんだ。ことは、その習慣性の獲得をもってして、完了したってことにはなっちまってる。アレが悪質にして悪辣なることの証拠は、ときどき、敢えて努力して、苦心して、ヒトに新たなる刺激ってやつを加えにくるところにある。それはまめに、怠りなくにだよ。よりその習慣性を強化して、より強固にせんが為にさ。あたり、まわりを見渡してみなよ。そして”よっく”しっかりと吟味してみなよ。みんな、ぜんぶ、その目的のおいて用意されたるのものでしかないことが分かるから。ことは最終的には個人の内的世界にてすべてが完結するようになっていってる。リアルとしての相手はもうすぐ必要なくなる。状勢はなぜかそっちの方に移行していってる。(女も異常と呼べるほどまでまでに我儘に振る舞うようなっちまってやがる。まるでもう確たる未来なろとうものはないのだと予感したかのごとくに。)その方向に押しやって、追い詰めて、入り込ませて、潜り込ませて、そんで、もうにっちもさっちも行かなくなったところで、まったく新規の、ディズニーランド的世界が開示される手はずなんだ。(VRだけにとどまる話ではない。)これに取り込まれてしまったならば、知ってしまったならば、もう以前の状態に帰ってくることは戻ることは完璧に出来なくなるだろうさ。これもまた直ぐにも訪れるものでしかない。ネット環境におけるポルノの解禁が、その氾濫が、緊急事態宣言が、ことのお膳立てになったいたな…。*ここは嘘偽り戯言です!。
追記:
一つ言わず、語らず、触れずにきることがある…。
そもそもの、ことの本当の始まりとしての事件を。
エデンにおいてイヴに対して蛇はアプローチをかけたじゃない。
そしてイヴはその作用に、抗えなかった。
何故だ?。大人になりたかったから。
ならば、もし蛇がアダムにアプローチをかけたならどうなってた?。
この質問そのものが元からありえないんだけど...。
ことの成否は、性的な魅了、誘惑に対しての
耐性に
関わってくる。このことを別なる側面から捉えるのならば、頭が固いひと、柔らかいひとに対しての効能。
その違い。空隙、空乏多くしてのその成り立ちとしての人間と、
肋骨意外、完全なる構成の人間。そして、女性、イヴが背負わされている懐胎、出産としてのその機能、役割、本分…。基本、受け身としてのその性分であること…。
男女が結ばれるのは、愛を前提としてのものとしてあらねばならない。
これが基本にして、人としての摂理。
ここに歪みが入ったのだ。
このこと
こそが
ある意味、原罪における行為としてのその実態、その事態事実になる。簡単に云えば、性的快感のみが、交接において主導してしまってるその様、その姿。
安全性、安定性を求むる、本来としての女性ならば、蛇の誘惑に乗ることは
本能的に
、つまりは然るべくしてのその本来性からは、ありえない、承諾し得ない、あまりにも危険で恐れ多いことになる。だがだ、イヴはその性的誘惑の作用からは、逃れられなかったのだ。
何故だ?。若くしてあったから。また基本前提は、不死だったから。
この辺に、また死を定めることが自然なる処置と、なったことの理由もあるのかも知れない…。
本然性から切り離されるがことのクリティカルなマター。第1段階。
そして、自己の身勝手なプロジェクション、投影において、他者を認識する。第二段階。
*それはすでに吾は汝なり、汝は我なりではなくなってしまってる。
ここにーってことでもないんだが、性的なる蛇が持つ支配してあるチャームが、
なんの枷も、制約もないままに、解き放たれてしまう。
ここに、完全に肉としての、それの欲望にのみ支配されたセックスが、
繰り広げられることとなった。結実としてのその第三段階。
とにかく、新鮮なる強烈なる快感、それ
だった
のだ。そして、これとしてのあり方が、癖になった。常駐することと、なった。
この辺の事態は、浮気としてのそのリスキーな行為がなぜになされるのかを考えてみればいい。
大なり小なり、そこに起こってある、化学反応においては、理解が持てると思う。
ことのそもそもの悪しくして、また相応しくしてのその習慣がなんのか?。
これが分からなければならない。もう分からなくなってしまってるで、あろうが。
他者を自分とは別個に、完全独立、無関係なるものとして認識してしまってるが一つ。
*これがそもそもからしての間違い。
そして、対象と完全に切り離された状態で、その対象に対して、間違った、幻想としてのイメージを投げかける。投げかけてしまっている〜。しかし、当人は、そうだとは気づかない。理解ってはいない。確実にそうだと思いこんでしまってる〜!。
また、以前の繰り返しになってしまうのだが、愛と恋愛は違うのだ。
そして聖書においてでは、恋愛は、狂気であると、書かれて、記されてある。
蛇は、彼岸の彼方に、所在するばかりではなく、我らの体内においても、実体あるエネルギーとして所在している。非常に旺盛にして、アクティブに活動をしている。特に若いときにはもう信じられないほどまでに。それは人生の約50年〜70年においてその影響を大いに振るってしまっている。ほとんどやん...。
この呪いとしての状態環境を解くには、一つしかない。
ことの発端としてのその誤った認識を無効化することにしか……。
あなたは、その人の本質を、魂を、同調することをもって、識ることができますか?。
その上でをもって、愛する、愛していますか?。
これができる、できたなら、また自分を捨てることも、容易なことだ。
子どもから大人になる。そこにある違いはなんだ?・
重心の所在場所と、マインドにおけるその構成の複雑さ、強固さでしかない。
両者間においてのその構成には、なんら違いは、元々からして存在してない。
基本、あるべきは、始まりとしての、その最初のフォーメーション、あの状態になる……。
拝
ことは、畏ろしい内容を含み、またその展開を示してきている。
一つに、私の経たるの、その真実の記録たるもの。
二つに、語られたるの、個々の、そのすべての内容が。
三つに、私が為してきている、その創作の展開そのものが。
それらにて果たされる相乗効果もまた、ヒトを選んでのことにはなるのではあろうが…
神たるものの存在、その証明になるのではないだろうか?。
天村 崇
礼
み〜んな、こいつが、
考えたことだかんな…。