26.  コモデ ③

文字数 12,835文字

完全に未完成のものになりますが、もう公開してしまいます。(四分のできー!)。
じゃないとニコデモが、ドバ総司令が、忘れ去られてしまうのでー!。
③までの連続性の中にて先のものも消化されることを希望いたしますー!。 天村崇
 

             STARLESS AND BIBLE BLACK



その夜、明け方近く屋敷に戻った男はもう眠りにつくことはなかった。先程に交わされた会話の内容が頭から離れなかったからだ。そそくさと本日執り行われる式典参加の支度をすませたあとは窓辺にて、夜の静寂にその持たれてある思いを溶け入らせてながら、もうまんじりともすることはなかった。先に彼と交わした言葉の数々を思い出しながら。そしてやがてには訪れるであろう懸案としての事態の成り行きに関して思いを馳せながら、その顔を曇らせていたのであった。



その明け近い夜空は余りにも清く澄んでおり、また大気がやけに親密にして親愛なるものとして覚えられていた。なぜか自分を包み込む一切が、身近に感じられていたのであった。それは今までに感じたことなどないほどまでに穏やかな限りにして覚えられて、またいたく自己肯定感を促すかのようにしてこちらの思いを包んで支えてくれているかのようだった。されども斯くの如き深き満足にあっても、ニコデモのそのこころの内は Starless and Bible Black にて表わされるそのこころの状態にしかありはしなかった…。



我があの方に対して、排斥を指揮することはもうないであろう。それに加担することも到底あり得ない…。これだけは誓って言える。もう既に私は知ってしまったのだから。あの方が真実、神の子なることを…。もう勝手の私たるものは死んでしまったかも同然だ。何か別物のような気がする。恐らくは何かの憑き物たるものが完全に落ちてしまったのだ。あの方との会話の中において…。だが…ことは避けがたくして持ち上がりゆかんと思われる…。やがてに、ことは動き出すこととなるであろう。そして、間違いなくその目的たるは果たされてしまうこととならん…。

神を奉じるべくしてのその我らが、その役職に重責を持って付きたるのその我々が、神の子たるあの方をやがてにおいては力ずくもて排除する行いに出るよう至らんとは…。なんと罪深いことを我らは為さんとしていることか…。だが、その過ちとしての行いこそが、ヒトの子らが背負うその根源としての罪を解消することになるのだとあの方は仰った…。

かってのその昔、モーゼが蛇を挙げたるが如くして彼自身も挙げられねばならぬとあの方は仰ったのだ…。あの方はすべての成り行きを見通しておられる…。そうであったとしても、敢えてその事態たるをも受け入れようとされているのか…。分からない…。その犠牲になんの意味があるというのか?!。その目的が、その意義たるが!?。それのことによっていったい何が変わるというのであろうか?!。神は彼が供物としていたらんことに何をお考えになっているのか?。彼への刑罰をもってして如何にしてヒトの子が救われると言うのだ?。メシアたるものは確かに来たりにて、今まさにヒトの子らを救わんとして、自ら危機たる状況へと歩みゆかんとされている。その果に、その尊き命を投げ捨てんとされているのだ!。死へと自らを渡してしまって、そしてまた見えなくなってしまわれるおつもりか!?。その彼を殺すこの我等はなんと罪深き存在たるものであることか!…。ならばそれは罪のいや増しにしかならないのではないか。否、また新たにして、今度はもう決定的なるまでに罪深きなるを行い為すことにしかあらずなる…。それを犯す我等が、如何に救われんようなると言うのだ?。我のみにおいてでは、その事態たるものは決定的なるまでの絶望を引き起こすこととにしかなるまい!。我等の存在、そのものにとってしても、もう…。








その後においてであってさえもまた日は登ることになるのであろうか?。神はそれでもその我等に対してこの太陽を与えてくださることになるのだろうか?。これほどまでに美しい朝日が…また登ることなどが、以降にも本当にあり得るというのだろうか?…。なんと清々しくも、かつ穏やかな朝であることか…。この美しき限りの日々のこの先に、その痛ましき限りの出来事が謀られ確実に成し遂げられてしまうときが、やがてには訪れることになるというのか?!!。ことはまず避けられまい…。なんと皮肉にして残酷な…、また我らが民族にとって、そのことがいかに不吉なるものにしかあらじことなるか…。
















〈了〉



補足:

聖書にて記録されたる以降のニコデモに関してを添えておく。

後に誹謗中傷の思いに駆られてイエスに詰め寄ってきた、暴徒と化している群衆らを相手に、彼は決死の奮闘たるものをしている。イエスが窮地たるものに陥ってたこのときに、彼を救わんとして、その最中にて声を発してた。『先ずは兎に角、彼の言い分を、彼の話を聞いてからにしたしましょう!』と。場をなんとか穏便に治めようと努力されていたのですね。このときに群衆等においてその糾弾の先鋒にたっていたのがニコデモ自ら所属するパリサイ人の派閥によってなるグループだったのだ。だから、ニコデモにとって、この行為はかなりにリスキーなものであったはず…。(7:50)

ところで、あのイエスとの会見の夜、ニコデモは、お供えとして、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきてた。約33キロと記録されており、それはそれは常識はずれの、ごっついお布施だったのだ!。いや、というか、ニコデモのイエスに対しての、直接会見に至るその前における評価が、いかほどのものであったのかがこの事において伺い知れるのではありませんか?。(19:39)

ニコデモの最後の登場は、イエスの死後、そのお葬式においてである。イエスの処刑後、使徒や他の弟子たち、アリマタヤのヨセフと

イエスの遺体を引き取って、埋葬してた。

個人的な憶測:
当然に、後に彼もイエスの復活を知ったことであろう。もしかしたら側でぐらい彼を目視にて確認できたた?。彼はそのことに、どれほど喜び、そして感動して、神に対しての祈りを行ったことであろうか。そのときに一切のすべてを理解して、彼は本当はえらく賢いもん、そしてやっと安らかなる心持ちへと完全に至り得たであろうことが想像できます。



おしまい。


今回使用した写真はとりあえずのものでしかありません。
たぶん、これから変更されます。枚数減らしたり、置き換えたりのことです。
いや、たぶん、もっともっと枚数増えてゆくな…。後半部においては。
写真におけるその構成の効果こそが、この③においての課題だったのです。




後は、全部蛇足です。

できたら一生読まないでもいいかと思います。

たいしたもんではないんで…。

ここまでの内容と比べれば陽炎みたいなもんなんです。

あの薄羽蜉蝣みたいなもんなんです…。

封印しといてください。


  敬具


  天村








スロットルここにきて全開!。野暮用としての記述がまだ山程残ってるー。


悪しき蛇に傾いて、其れの誘導たるものに我知らずの内に乗ってしまったならば…、其れの思惑たるものに、ズバリ嵌ったならば…、其れが向かわしめようとするところの、こころの状態へ己が意志もて好んで勇んでなったのならば…、それはもうまさに罪としての、その際たる行いと云わざるを得ない…。

何故か?。

其れは神に敵対する存在となったからだ。ご意向たるもに逆らい彼と成り変わらんとしたところで神の寵愛を失い本来属すべくのその上位界から放逐されて地の底へとに落された。そんな彼だからこそ、神が寵愛するところのヒトたる存在を(ねた)(そね)(うらや)んで是を間違った方向(

)神の(かいな)からこぼれ落ちるよにしてやろうと思った。これの実行が誘惑になる。なんでだかは知らんが許せなかったのだ。この人間たるものが。(この理由は知る必要はないが、まわりを見渡せば、如何な動物であっても、

、普遍的なる反応ではあることは察せれるかと思います。ハイアラーキーたるものがあるが故の暗黒面でもあるし、また上位に向かわせるべくしてのフォースとしての役割として備えられたるの感情なのだとも言えるかも…。)

そんで原初におけるヒトが、エデンに属してその生存を送る中、其れはまずイヴを懐柔することに成功する。そんで、無事ヒトのすべての中に入ることができたのだ。『女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた 』。ことは其れの出現時点において、既に影響はもう始まっていたのだと思う。だからなのだ、あの実が、イヴにとって食べないでおくには余りにも魅力的なるものと思えてしまっていたのは。その味わいたるやきっと「めくるめくまでにビビッドなるもので、果したれば最高の満足感たるものを味あわせてくれる」。そうに違いない!。これは既に確信としての予感だったのだ。さすが女性。また直感として既にこれは知られていたのだ!。確かにまさにその通りとなるのだけれど、まあここは、それは一種の幻術に嵌ってしまってたんだろって思ってあげなければならない。その現実にはあらざるものを、まるで本物だとリアルであると、覚えさせるところの暗示力こそが、其れが最も得意とする、また有効にヒトたる存在に対しては果たしうる分野なのだから。霊感。インスピレーション。天啓。こういったものをヒトに其れは与えることができる。それこそが彼のヒトに対しての介入の手段なのだから。また本来、万物(プラクリティー)を操作管理支配する権限を備えた上位存在体であるからこその働きかけたものもある。要は、霊格が滅茶苦茶高くって、落ちぶれたるとはいへ、この地球の物質次元に限定するならば、最早一種の神たるものとしての存在でしかないのだ。問題はだ!ヒトに関してのそれの思いとしては悪意しかないってこと…。

これの支配下に堕ちた人間は、それの色に染まってもう然るべくの、あるべくしての贖罪の道の途上にはもういなくなってしまった人間、それからは脱落してしまった人間でしかない。そうなったからには、まわりの正常にして健康的な生存の軌道にある人々に災いするべくの存在となってしまう。ならばだ、彼は取り除かれなければならない。罪人たるを断じるを名目として…。


Re: 人身供犠の現象学。

【生贄】とはいったいどんな意味がるのだ?。やたらと血生臭い話ばかりが聞こえてくるのだが…。【供犠】たるもには本当に意義があるのか?。【人柱】たるものの効能は誰がいつそれに気づいたのか?。自分が語るともなればその考察はやはり経験において観察したこと感じたことに基づいてそれに根ざした形でのものになる…。

ビジネスの世界は怖い。それはヒトの欲が渦巻いているから。この世が弱肉強食たることの現実が、最も顕著に色濃くして反映している世界である。誰もが皆、己が成果たるものを追い求めて熱心に日々励んでいる。ここに魔物たるものが潜むようなってしまう。それが何故にか存在を獲得してことの成否に関して介入を行ってくることになる。その正体はバランサーなのだとハッキリと宣言しておこう…。

先ずヒトの求めるものがある。群れとしてのその共同体として望むことがある。農業やってんだったら、定期的に天よりは雨が降ってほしい。適宜なる日光照射も。また生育において相応しい温度の安定も。根本の根本はヒトのその勝手な立場、それにおいての了見からの願望であることに尽きる。自然は基本安定的に循環をしているが、これもときよってはこちらの思惑を外れてくる。雨が降らない。曇りが多くて日光の照射が少ない。夏場になっても気温が何故か上がらない。場合によっては今年の夏みたいに雨ばかりの日が続く。収穫においては凶作になることが見通される。期待する成果たるものが達成し得ないのではないか?。いや、大きくマイナスにまで転落する可能性もでもがでてきている。このままいけば幾人かは首を括ることになるやも知れない…。

ヒトがかってに世界に対して投げかけるその求めに対して、贄たるものが求められような案配になってしまうまで。その贄たるものは命に象徴されるものでしかない。だから誰かの命を犠牲にするってのは極事にして至って稀なことであろう。それに例えるに等しい適うものであるってのがほとんどだ。その事に関しての関係者の誰かが、その社会人生命を著しく毀損されることをもって初めてことは成立することになる。具体的には仕事への熱心さが、ある失望において、もう今後は保てなくなる行い得なくなってしまうみたいな感じ。願い大きければ、またことにおいての失望も大きくなる。ましてや、自分独りだけが、その利潤たるものに一切ありつけないようなってしまったのならば、もうたまらんことになるだろう…。いやことの成立後に自分はその分け前にありつけないように関係者らにおいて蹴落とされてしまった。阻害された。はみ子にされてしまったのだ!。分け前たるものを少しでも多くする為に…。

例えば実際にあった例では、話の伝手を見つけてきたとある商社の人間がいた。発端としての取次役として。その引き合いにおいてはメーカーが製品を新規に開発しなければならなかった。この過程が一番大変。でもこの課題たるものをなんとかやっつけて無事に求められる製品を開発できました〜だ。それで万事よろしく新規のビジネスが一つ起こるんだ。だが、ここで、そのメーカーは自分と関係深い他の商社を通して製品の販売をすることを要請してくる。販売経路において二社もの商社を経ると利益が減るので、最初の口利き役としての商社をそのラインから外すことを強行に行ってしまう。関係者の誰もがことの成立に大いに期待をかけていたんだ。なんせその仕事の展望はすべての自動車メーカーへと販路が広がってゆくことが明らかであったのだから。この仕事は成立後、予測通り、長く太く大いに大量にて販売は広がってゆくこととなった。









刻印が打たれたのだ。

それも前代未聞のものが…

簡単に語るならば世界の構成を先ずは三部として考えるのがいい。

天国界と地上界と地獄界。

天国界は元の出自。

我が現実に活きているのがここ地上界。

そんで、死後の可能性として天国に還るか地獄に落ちるかがある。


言葉のイメージを広げる為に少し表現を変えてみよう。


天国はこの宇宙の構成における上位の世界。
地上世界としての地球は、その宇宙を構成する階層から言えばかなり低い位置に属する。このことが意味するところは大変に原始的で野蛮で生活をする上で不便である。額に汗して働かなければならない。老化をもってのその最後は残酷なるものでしかない。
地獄はゴミ箱になる。中のものは焼却をもって無へと還されるまで。

スタートが上位界で。そんであることによるその展開の結果がここ地球における生存。その貴重な生存期間中に然るべくの成果を果たせなかったものは、死後地獄行になるまで。

簡単なモデル。













聖書にある彼の語った文言をよく読むのがよい。
彼は最初から知ったもの、理解してあるものとして語っている。
この世における通常のものとしては持ち得ない境地からことを語っている。

最初から確信犯として語っていた…。

このことはおかしいのだ。いや、絶対におかしくなければいけない。ヒトの子の一員として生を受けたのならば、ヒトたるにおいて我らと同じくして染まることは避けられないのだから。同じ影響力の支配下からスタートするにしかない。頭の良い子、やけに理解の早い子、とても聡明な子であったとしても、やはり、同じヒトとしての出来上がりであったことに違いはなかったはずなのだ!。

またそうでなければならなかったはずだ。同じヒトとしての制限を弱さを知る者でなければならなかった。同じヒトとなってみないと分からないこともある。何が、どうなって、こうなって、ヒトは過ちとしての道に進んでいってしまうのか?。その原因を、我が身の内のこととして理解されなばならなかったはずだ!。そして先ずは我が身においてその問題を解消することが課題になる。他者に教えるのであれば、そのあとのことだ。


彼においては旧約聖書を読むにおいて、色んな所で、自分のことが書かれていること気付いた。これは不思議な話だ。何故かこれは自分に関してであることが分かったのだから。最初からキリスト(メシア)救世主としての使命が自分にはあるのだということが自覚されていた。だから、救いたる事象の、その対象は、全人類規模のものとして了解されていたのだ。

まともであればあるほど、現実主義者であればあるほど、このミッションを受け入れることは難しくなる。覚悟を持たれたることこそが、一つの奇跡。どえらい決断になる。ならばだ、ことはかなりの深み、この世の理でさえ超える深度での状況の把握が必要になる。いや、ことは現界しているこの宇宙の構成そのものに手を加えることにも等しいものだったのだ。もうそうなればヒトの世の知識や経験をもってではどうにもならない。


ここで考察の想像の空想の対象となるのが、あの失われた30年間についてだ。イエスはどこでなにをしていたのか?。これに関しては情報が一切ない。現実的な根拠はエジプトの地にての話しぐらいか…。ことは霊知に関わる。ならばだ聖霊の導きにおいて然るべくしての道筋として遠くアジアにまでも足を伸ばされていたことが想像できる。チベットとヒンドスタンは当然として、秘境としてのアジア内陸部その奥地。ある種の秘教としての知識の息づく源泉としての霊地。これは地下水脈の如くして突如然るべくしてかの地点に現れてはまた消えてまたこんどはこの地点ににて現れるまでのもの。まるで伝説の桃源郷の如き場所になる。*自分にとってはあの人や娘の人のご自宅だったし、本の中においてだったし、もういろいろ。そういったものは望むものにおいては当然に引き当たることとなってる。

学ぶ必要があったのは魔法だった。魔術とヒトらが呼ぶところの秘儀。ここで、もう先に答えの一つを語ってしまおう。最大の難事は、大宇宙のすべてと連結してあるこの地球に生きる人類、この圏内に限定されて生存している極小点としての個人が如何にその他すべてに対して影響力を及ぼすことができるのかに関わるになる。ことは一過性の結果であってはならない。ヒトの子の表現通り、以降永続的なる結果を果たさなければならないのだから。ことの核心的なる部分は自分とのコネクト(接続)に尽きる。繋がりがあるならば、その相手に結果を及ぼすことが可能になる。自分の一部として、大宇宙にその承認を求めることが可能になる。ならばだ、後は、自動的にことは果たされることとなるではないか!。その数がいくらいようが、そのものたちが生きていようが死んでいようがもう関係なくなる。我は死して再び生へと返り咲いた身なるぞよ!。一心同体と成り得た上は、同じくしてことは果たされることとなる…。


この辺に関してはプログラムの執行をイメージするのがよい。ある種自動的に本人おいては自発的にことは起こり進展する。先ず前提は「果たしてこの宇宙はシステムなのかどうか?」があるが…。これに関しては数学的のみにて表記確認再現されうる法則なるものに根拠をもたれるのがいい。またはコンピューターにおけるプログラムの有用性においてでもいい。とにかくそうであることを疑うのはむしろ難しいのではあるまいか?。ある種の知的センスが確信を持つためには必要とされるのではあろう。プログラムは実行執行手順として定まったもので、これの前には構想としてのプランニングがある。ないはずないではないか…。ではその構想は誰によるものなのか?。彼の構想においてすべては今ある姿にて存在している。その存在の核心を明かすならば命を持つかの如くしてになる。地球は生きていますか?。では月は?。岩や、河や、山は?、草木は?。涅槃経の一節にある「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」はそれらのものにも仏性なるものが宿ると説く。まあ命とか魂みたいなもんなんでしょう。本来的には日本人としての心情に型として嵌っている思いではあるのだが。

すべてが複雑に、ある意味混沌として絡み合って関係しているのがこの宇宙。遠い辺境の彼方、片田舎といえども、ことは関係ない。いや関係は断たれてあることなどは絶対にあり得ないのだ!。ならばだ、このシステムに関与する、これにおいて新たに組んだプログラムたるものを作用させるに於いてでしか救済はありえないではないか!。魔法や魔術で語られるものが実際如何なるものでそこに現実性たるものがあるのかどうかは文字数の関係上本稿においてはやらないが、あれはあれで一つの科学なのだとは言っておこう。いや、自分としてはそれはもう現実的にして実際的なるものである。ただしね〜、あれは、あれ単独で取り組むことにはリスクがありすぎる。エゴの求めにおいてに傾くのは100%間違いのないこと。ならばだ、神への祈りの”行”にて求めたるを来たらしめるの方がずっと健全なる結果につながることだろう…。呪は下手すれば予期せぬ反動を来たらしめるからね。制御なんかできっこない。信仰そのものがこれもまた一種のマジックだって言えなくもない…。神のご意向、その結果に、ただ身を収めるの。

閑話休題。イエスの採択したその方策はずばり魔術だ。ことの核心たるものは、イエスが事実、神の子として存在していたことにある。これは定めとして元からそうであったのかもしれない。
だが、自分としては、彼は、こと現実において、実際に、その事実に至りついたるのヒトだったのだと強く主張したい。100%の覚醒をヒトとして果たしてる…。このことが間違いなく先の失われた30年において果たされている。これは間違いのないことなんだ。帰納法的にそうでなければ、彼はあれほどまでに的確に、教えを語れるわけがないのだから…。理解を求めたいのはヒトが現在ある状況に関しての我が身のことと理解されていて、自分はそれを突破超越することに成功できてこそ、後人として後に続く者達に語ることが適切にできるのだから。実はヒトの子のそのすべては神の子であるとも言えるんだ。だからイエスの果たしたそのなんらかの解脱は誰にもみな可能性がる。あの水の火の洗礼を経て、神に立ち返るならばの話にはなのだが。神の子として完全に自己を完全に意識して把握してからが表においての活動の開始になる。ここからが聖書にて記録されたる内容になる。だから存在がもう完璧に違ってる。上位次元に繋がりながらのここ物資次元における顕在になる。上位次元が何かっていうと、それはプランニング担当領域のことになる。つまりは求めが現実において自動的に反映がなされるってことになる。だから、不治の病の治癒や、死人を生き返らせたり、無限に食べ物を取り出したり、盲のヒトの目を開かせたり、水をワインに変えたり、気狂いのヒトから憑いていた悪霊を追い出したり、肉体が腐れ落ちる伝染病のヒトを清くしたり、いつでもどこでも誰とでものユビキタス(偏在)が適うようになってたのも上位次元に本来属するその身であったからこそ。*(悪霊もまた異次元存在体でこの世のヒトでは通常はどうしようもない。)


この100%覚醒体であるってことはもう神に等しい存在だったことになる。ならばだ、我らは彼の語る言葉をよっく吟味しなくてはならない。人神たる方が何を我らに話すのか…。ことは圧倒的なる権威を携えての説得力しかないわ!。聞けるだけでも幸いとしか憶えられない。ああだこうだを言う余地はまったくない。両刃の剣たる言葉の前では、如何な人間であったとしても逆らえるわけがないのだ。何故なら、根源の主たる方よりの御言葉なのだから。だから、ここにてもヒトは選り分けられてしまうのだ。こころ頑なるのままに反発心をもってあくまで盲目聾唖の体もて彼を否定拒絶排斥するのか、それとも平身低頭の様もて彼の軍門に降るのか。そのどちらかに間違いなくなる。これ本質良心魂が決定権を持つのか、それとも虚栄心プライド自負心執着に染まり切った人格エゴがそれをもって反応するかの違いでしかない。自分の身分立場それを脅かす存在として憤り満タンにて極端に攻撃的にでるのか…。彼が語る弁をよく聞かなければならない。ことはあくまで世情に、その実情に合わせた、よく汲んだものとなっている。


ちょっとここでコラム的にイエスが使徒たちを宣教に各個単独で赴かせるときにアドバイスした内容を見てみよう。如何に彼が現実派、つまりは、ことの実践を経てきた人間であったことが分かる。マタイの10章8〜20から一部抜粋。

値いなしに受けたならば、値いなしに与えよ。

ケチ臭い真似してんじゃないよって。愛の感情からことは行わたんだってこと身に沁みて分かれよ…。ならばだ、今度はお前の番だって。駆け引きなんてヒトの世だけでの習わしごとなんだから。大体がだ…大本からどんだけのもん受け取っていると思うんだ?。
  
財布の中には金・銀または錢をもつな。
旅用のバッグも、二枚の下衣も、変え用の靴も、杖ももつな。
働く人間が、その食物を得るのは相應しきなり。

遠出して、長くに渡って見知らぬ地方に逗留を行う人間にとってこれは勇気がいることになる。もう恐ろしすぎる。こういったさすらいにも等しき旅をイエスを行ってきたのだ。でもその目的は人類を救うといった崇高なものだった。(このことはあとから臨むならそういった表現になるまで。ことの本質は人々人類への愛の思いがすべてだったのだ。)だからだったのだ、だからこそだったのだ、ことはすべていつもどこででもなんとかかんとかなってくれていたのは。彼は必要な天が定めるところの苦難は避け難しだが、ことその生存においては野山の鳥の如くして神が面倒見てくださることを既に確信していた。実際彼においてはそうだったのだ。だから〜、お前たちもそのことを実地をもって悟れよと…。あたり前のこととして、世界がその反映を返して寄こしてくることになるんだってー。方円の器の話がこれに通じる。この世は不思議な反映を返してみせるー。

いづれの町いづれの村に入るとも、その中にて相應しき者を尋ねいだして、
立ち去るまでは其處に留れ。その人の家に入らば平安を祈れ。

ヒトを(会社を)見る目を養いなさいって。他人の誰にでも甘えるんじゃないよって。他人は得てしてそんなことが適う存在じゃないんだから。いろいろと労をとって、真剣に努力してから、相応しき相手ってのを見出しなさいって。候補が百あったて選べるのは嵌まれるのはただの一人、ただの一社だけなんだから。無事にそこが正解であったのならば、その相手には祝福を願って、感謝してあげなれば。平和であること。庇護に恵まれますこと。順調に家業が発展されますようにって…。

人もし汝らを受けず、汝らの言を聴かずば、その家その町を立ち去るとき、足の塵をはらへ。

縁切りを徹底的にせよと。この辺にある種の知恵というか、魔術に関しての知識の匂いがする。日本人はかっては高価なるものにおいての中古品を嫌った。何故ならば、前の持ち主の不運が持ち越されてくると勘ぐったからだ。これはある意味その可能性としてはありうる。その”リンク”を辿ってなにかが作用してくることも当然あり得るのだから。

視よ、我なんぢらを遣すは、羊を豺狼のなかに入るるが如し。
この故に蛇のごとく(さと)く、鳩のごとく素直なれ。

ここは、この世の現実を知ってるからこその忠告でしかない。実践的なるアドバイス。ここにおける彼の根付く世界観とは何であろうか?。天に登りし、天と和合を果たしたるの蛇がその象徴になっている。そのエデン時代にチートで手に入れた知恵たるものを天の価値観において存分にその環境においては活かせよなって。軸心が先ずいるんだ。それが鳩の如くに素直であれ。何事にも引っかかりを持たないようにって。相手の求めにには素直に従ってなさいって。これなかなかできないことだ。だって、その相手ってのがまた天の価値観なんか一切関知しないそんざいなんだから。エゴ丸出しの存在。でもその社会や環境を牛耳っている存在なんだから、そこでうまくやっていこうとするらば、逆らわないのが一番。この行為は自分のエゴにおいての反応を弱める殺す行為にもつながるのだから。だが、しかし、状勢の把握は怠りのないように。相手の弱点弱みをきっちりと見抜いて見定めて、ときと状況の整いの元に必要とあればそれを突けばいい。うまく相手を利用できるようにと。ただし、この行為の目的はあくまで天との関わりを意識したところでの必要性に限定されるまで。自己の卑属にしてなる思いにて行ってはならない。そうなればそれはただの地を這う蛇と同じになるではないか。天駆ける羽のある蛇としてありなさいって。

宣教活動をおこなってて、なんらかの窮地においやられたときには、如何に何を言はんと思ひ煩ふな、言ふべき事は、その時、授けらるべしこれ言ふものは汝等にあらず、其の中にありて言ひたまふ汝らの父の靈なり。

心配懸念が持たれるのはヒトの性。あれこれ先もって思案するのもヒトの性。でもそれはすんなって。だって、それは妄想にしかすぎないのだから。ありもしないことに、未だ到来もしていない未来に関してヤキモキするんじゃないって。そんでもしも、本当に窮地としての場に立たされたなら、そのときに思うことを素直に語ればいいだけの話し。下手に自分の正当性やら順当性やら面子やらその身を守らんとしての言を吐くなって。人々への愛をもっての奉仕にはげんでいるんだって思いのみにて、自然と思い浮かんでくるその言葉のみを話せよって。そん時にこそ真にその存在たるものが問われることとなる。なんにも浮かんで来ないんだったら、もうそれまでのこと。なんにしたって向こうが決める処遇にこちらは従うまで。

覆われたるものに(あら)わにされぬはなく、隱れたるものに知られぬは無ければなり。

「天網恢恢疎にして漏らさず」に意味は同じ。



Re: 「あっそうだ~…こうしとけばよかったんだ~」のはなし!。

自分にとっての他者たるものは、対象としてその実在を確認しようとしたその瞬間に、紛うことなき実在として確定されてしまう。だが、しかし!、其れ以外の中途半端な無自覚なる指向時においては、実在と、幻想としての非実在の両極を絶えず行き来しているにすぎない存在と化す。
両者は、共に、独立した個別なる存在を、努力おいて獲得していない限りにおいては、巨大なる意志において、それの然るべくしての目的に沿って、無自覚/無意識にて動かされているに過ぎない…。これは主体として、またそれにとっての客体としても~の両者の成立ちにおいての話である。[ゼンジー浪速こと天村崇]

幻想性としての、それとしての出現となっている。誰もが皆、無自覚なるがままに誰かにとっての映画に出演している。監督、脚本家、演出はまた別にいるのだが、その彼等が存在を直接に探知されることは絶対にあり得ない…。

*特に自分みたいに穿ったところのその了見にて、ことの真実に関してを敢えてもて見極めんとするものに対しては、その対応は万全にして完璧なる形で執行されてしまっている…。結局、その完全なる様子にて疑いはかえって深くなりゆくばかりかな…。否、そうであるが故にかえって、悪いが、既に「確定」と、自分の中では確信されてしまっているまで…。



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