23. コモデ ①
文字数 13,729文字
本稿はあれだわ…ドバ総司令を救わんとしての一つの企て。
彼とニコデモを括 れるとしたら、その共通項は何だ?
それは所属する社会において実権を握るをもって、その組織においての要職にあること。社会は秩序たるものを必要とする。間違いなく。絶対に。それは規律であり掟であり法律であり、律法と呼ばれるべくしてのもの。それは権威ありてこそ制定することが可能になる。しかして、その権威たるものの実際は、それの実体たるものは、構成員たる各個に向けての強制力としての暴力システム。まさしく、これによる恐怖こそが、その正体にして本質なのだ…。
ここに主権たるを要求する別次元のものが登場してくる。それがイデであったりイエスであったりするまで。両者ともにその背景は超越的なる、天上的なるの、神的なるものになる。ヒトにはまったく寄らず関わりなしの所にて、権威たるものの根拠が、据えられ、構えられて、また与えられてしまってる…。
これは、由々しき大事 になる。何故ならば、社会たるものが寄って立つ、基盤そのものが、その全てが、ひっくり返ってしまうことになるのだから…。
ドバも、ニコデモも、なんとか折り合いを付けて
そこで、先ずは、相手をよく知ろうとする。ドバもニコデモも、その相手には人知を超えた、なにか、特別なる大いなる力の、背景があることだけは直感されていていた。いや、遠の、既に、畏れを抱きつつ、一切を投げ出して、平伏したいという衝動を自らの内においては囲 っていた。ジレンマの中にあるのも彼等においての共通項。これは、彼等が真に優秀であったことの証しだ…。ドバにはそのチャンスはなかったのだけれども、ニコデモにはそれがあった。なので、この解説をもって、彼等を共に、供養してあげたいと思いますー。
先に、原文においてをご確認ください。
そのときにご確認していただきたいのは、イエスが、どう観ても、知るヒト以外にあり得ないであろうといった言動を繰り返していること。このことは、そのままに、彼が真実を、語っていることになる。ならばだ、えらい話しを、ここで、彼はしていることになる…。
また、ニコデモがイエスの話が分からないことの、その事態には何を観ることができるのか?
先に、これに関しての答えを言うならば、彼等には既に体験が失われて久しいのだ。
ことの一切は教条主義の成れの果てにあるといった現実にしかない…。
形骸化こそが、ときをかたるにおいてのキーワードたるる。
牧者たるものの元を、その側 を、大挙して離れ、さまよい出 たるの羊の群れ…。
これが現在の私達、そのすべての人類の姿なのです。
後々に、大挙して、ダベリとしての解説が組み込まれることとなります。
もう一つ、これをやる理由を言ってしまうと、他の権威者、アカデミーの重鎮ら、
また牧師さん等、プロフェッショナルらによる解説の、それらのすべてが的外れであると、
何故か自分には思われてしまうんだ…。
分かりにくくって、ポイントそのものの抽出が完全に抜けてる。
とにもかくにも、このヨハネ福音書の第三章は、とても重要な箇所になる。
チャレンジは、これもまた、主の思し召しなのかも知れない…。
補足:
【教条主義とは?】
状況や現実を無視して、ある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度。
【形式主義とは?】
形式主義とは、一般に事物の内容よりも形式を重んずる立場。
共に評価することはできないのだが問題の核心はどうしてそういったものへと変質を来していってしまうのかにある。ことはそうすることにおいてでしか神を聖性たるものを我々の文化的意識の中に据えて守り続けることができないからだ。あくまでも逆説的なものであるに如かず。本体を離れて、形式たるものに、強固に偏執的なるがまでに固着するようなってゆくまで。頭、人格への偏りが大きすぎるがその原因。それそのもの実体を離れて、観念においてそれを念ずる意識する留め置くへと流れていってしまうのだ。原因はあれだ…私はいつもいそがしい、やるべきことやらねばならないことが多く過ぎる。お金儲けとしての仕事が、それにつながる行いが、すべてになったしまっているからだ。目の前で絶えずその顕現たるもんは為されており、目に止めることはいと簡単だというのに。救い難きの凡例、まさにそれそのものだと思う…。
Re: 開演その一、原本版。
ヨハネによる福音書3章1〜21節の抜粋:
ここに人 にて名 を”ニコデモ”といふ人あり、
宰 ”なり。 許 に來 りて言ふ…
ニコデモ:
先生(Rabbi)、我 は、汝 が、神 より來 る師 なるを知 る。神 、もし、汝 と偕 に
在 さずば、汝 が行 ひたる、あれらの徴 は、誰 にも、為 し能 はざりきなる。
イエス:
まことに、誠に、汝に告ぐ。人は新 たに生 れずば、神の國 を見ること能 はず…。
ニコデモ:
人、はや老 いぬれば、爭 で、生るる事を得んや?、
再び母 の胎 に入りて、生 るることを得んや???
イエス:
まことに誠に、汝に告ぐ、人は、水 と靈 とによりて、生れずば、神 の國 に入 ること能 はず。
肉 によりて、生 るる者は、肉 なり、靈 によりて、生 るる者は、靈 なり。 なんぢら新 に生 る
べしと、我 が、汝 に、言 ひしを怪 しむな。 風 は己 が好 むところに吹 く、汝 その聲 を聞けども、何處 より其 れ來 りしか、そして、また、何處 へ其 れ往 くかを知 らず。すべて靈 によりて
生 るる者も、また、斯 くの如 し…。
ニコデモ:
『いかで、斯 かる事 が、あり得 ようや??!』
イエス:
なんぢは、イスラエルの師 にしてありながら、猶 、かかる事どもをも知らぬのか?!。 理解できぬのか?!。……。誠に、まことに、汝 に告 げん、我 は、知 ることを語 りて、また見 しことを證 したまで。然 るに、汝 ら、その證 たるを、受け入れず。 われ地 にてのことを言 ふに、汝 ら信 じざれば、天 のことを言 うにおいては、爭 でそれを信 ぜようや!?。 天 より降 りし者、即 ち人の子 の他 には、天 に昇 りしものなし。 モーセ、荒野 にて、蛇 を擧 げしの如く、人の子もまた必 ず、擧 げらるるべし。 すべて信 ずる者の、彼によりて永遠 の生命 を得 んことの爲 に…。
それ、神 は、その獨子 を賜 ふほどに世 を愛 し給 へり、すべて彼 を信 ずる者の亡 びずして、永遠 の生命 を得んためなり。 神、その独り子なるを、世に遣 したまへるは、世を審 かんが爲にはあらず、彼 によりて、世 の救 はれんが爲 なり。 彼を信ずる者は審 かれず、信ぜず者は、既に、審 かれたり。
神の獨子 の名 を、信 じざるが故に。 その審判 の結果こそが、是 なのだ…。光 、人の世にきたるも、人、その行爲 の惡 しきによりて、 光 よりも、暗黒 を、愛 したる。すべて惡 を行 ふ者 は、光 を憎 みて、光には來 らず。その行爲 を、その内 に思 い巡 らすところを、責 められんが爲 に…。 眞 をおこなふ者は、光 にきたる。 その行爲 こそ、神によりて行われたるの、其の顯 れであり、また証 しなることの爲 なり…。
〈了〉
補記:
観念その総体。
最重要ポイントは
そして「水と靈とによりて、生れずば…」の部分。
風は吹きたいところを吹くもかもね…。
現在の、この稿にお付き合い頂けている方であれば、そのことが何を意味するかにおいて、
この私めが、如何なる解説を添えるかは、もう既に予測が着くことではないでしょうか?。
今回のはおふざけがやりにくい。
マジオンリーしかないな。
では、後ほど…
ドバ・アジバ 兼 ニコデモ
「またもや、あの蛇めまでもが関係しとるではないかっ!」
Re: 開演その二、
先生!、わたしは、あなたが、神 の元よりの、真実の師 なることを、知 っております。
神 たるものがあなたと伴にいなければ、あなたが行った、あれら奇跡たるものの徴 は、
誰 によっても、如何 なる手段 をもってしても、為 し得ない類 のものなのですから!。
本当のことを、真実の丸出したる説明を、あなたにはしておいてあげよう…。
ヒトは、新 たに生 れることがなければ、神の國 たるを、真 に理解 することはない。
最早 、老 いぼれと成り果てたなら、ヒトはどうやって生まれることなどができるのですか…?
再び母 の胎 に入 り、生 れるなどいうことが、どうやったら可能だとおっしゃるのですか!!?
私が今言ったことは、ぜんぶ本当のことだ。ヒトは、水 と靈 による仲介 をもってしての洗礼 を経 ないことには、真 の新生 たるものには至 りえないのだ。その事態 が整 わないことの限り、神 の國 たるものに入 ることはできない。 肉 によって、生 れたる者は、その肉 のままにいるにしかない。だが、靈 において生 れ靈 になる。 新 に生 れるべしと、私が、あなたに言 ったことを、怪 しんではならない。疑念たるものに引っかかって、不信へと傾いてはならない。私が今言った其 のままを、あなたのこころに、収めておきなさい。 風 は、其 が好 むところに吹 くまで。あなたは、その風が、今に有るを知れども、何処 から其 の風 が來 るのか、そしてまた、何處 へと其 れが赴 き往 くのかについては知ることはできない。すべて、靈 によって、それにおいて生 れたること、そのこと事態、そしてまた生 れたる後の彼等も、そういった案配 によってのものとでしかあり得ない…。
しっしっ、しかしー!、どうしたら、どうやったら、斯 くの如き事 が、
起 こり得 ると、適 い得 ることだと、為 し得 るのだと仰 るのですかー??? !!!。
あなたはユダヤ教の権威ある指導者としての、その立場に身をおきながら、そんな事さえ分からないのかい?!。 今一度、言っておく、私は真実 に基 づいて事 をあなたに話してるまでだ。私は知 りたることを語 り、また見 たるを証言 しているまでにしかいない。なのに、あなた方、この世の人々は、その証言 たるものを聞 き入 れない。 私がこの世においての真実 を語 るのに、あなた達が、其 れを信 じないのであれば、完全に未知としてなる、天 においてのことを語るならば、どうやって、其 れを信 じることなどができえようか?。 天 より降 りし者の他 、即 ち、此 の私の他 、天 に昇 りしものはない…。 かっての、その昔、モーセ荒野 にて、蛇 を擧 げしの如くして、(此の)人の子もまた必 ず擧 げられねばならない。 すべての、神を信 ずる者たちが、彼(イエズスご自身)によって、永遠 の生命 たるを、得 んことが適 わんが爲 に…。
それ、神 は、彼のただ一人の子を賜 うるほどまでに、この世 に生きるヒトの子たる者を、愛 してくださっているのだ。すべてものたち、彼 、即ち神を、信 じる其の者たちが、亡 び去 ることのないようにと。更には、永遠 の生命 たるものを、彼等に遣 し給いしたるのは、世 を審 かんが為 になどではない。彼 によって、世 が救 はわれんが爲 になのだ…。
彼を、信ずる者は、審 かれず、信ぜざる者は、既に、審 かれたる。神の獨子 たる、其 の者の名 を、信 じざるが故に。 審 きたるものの、其 の結果こそが、是 なのだ…。光 、この世にきたるも、人、その行爲 の惡 しきが故なりて、 光 よりも、寧 ろ、暗黒 たるの方を、好 みて、愛 して、選 びとりたる…。
すべて、惡 しきを行 ふ者 たちは、光 を厭 ひて、嫌 いて、憎 みて、侮 りて、光 の方 に来ることはない。その己が行爲 たるものを、責 められないようにとの思ひこそが隠されたるの動機にて。 眞 を行う者、真実 を求める者、ヒトを愛する者、誠 の実 りある生活 を送らんとする者は、光 にの方へと、間違 いなく歩 み来 ることとなるであろう…。 斯 くの如 きの、その行動 の違 いこそが、神によっての采配 たるものの、その(不可知なる)力 の顯 れであり、また、彼の(不可触なる)在 たることを証 しすべくしての、その反映 なのだ…。
〈了〉
補記:
↑ 最後の部分。逆照射としてでしか、帰納法的においてでしか、知り得ない。察し得ない。
Probably it follows so でしかアプローチできない。ならばだ、ことはヒトを選ぶことになる。
Absolutely it follows something でしか事を認めない受け付けないヒトってのが多いんだから。いや、たとえ、そうであったとしても内容によってはヒトは無視する。認めることを避ける。まわりを見回して皆がそうだとなってからことを信じる。信用する。「知らんけど」って最後に添えながら…。
Re: 開演その三、解説編。
さて、解説!。
二方向というか、二領域からになるな。一つは個人的な体験を元にした総括として。
もう一つはニコデモをあくまで外部の無関係なる対象として。かなり非情なる扱いによって。
この二つをぐっちゃんぐっちゃんにして、筆の赴くままにーで…だべってみよう!。
先ずは思いつくままに。
無軌道なるを寧ろ良しとするその考えの、その連想の赴くままに…。
ことは、その実例として、既に描いて、描かれてしまってる。その中において、読者にはあまり気づかれないていなと思われることについて語っておこう。エニアグラムなるモデルにおいては、それは運動において理解されなければならないとのGよりの示唆がある。身体感覚においてその軌道たるものの型を刷り込んでおく必要がある。←その運動パターンを頭においてではなく身体感覚にて、結晶化にしておく必要がある。何故か?。自分を取り巻くその世界、また自己の内にて一時も休むこともなく進行しているその生理世界、その両方の世界にておこる変化に、気づくべきことがあるからだ。それは運動、もしくは進展のその実相において、その運動の型をもってしか気づけないことがあるのだから。頭の注意力では追いつけない。よって見出すことはできない。身体感覚と連動した形でしか、身体感覚において獲得された運動モデルをセンサーとして用いない限りは、そこに潜む現実においての普遍なる法則性たるものに気づくことはできないのだから…。
その結果として、知られるべきことの一つは、未来が、それにとっての過去たる現在に干渉してきているってこと。このことの前提は、未来たるものは、今においては、既に確定されているってことになる。恐らくは延々と未来永劫って訳ではないんだ。今の現在に関わる事態としては、それは既に、動かしがたきものとして確定されてある。*可能性としては、そこには神のご意思、恣意性たるものも介入していてこその話なのかもしれないが…。
例えばだ、自分のケースにおいては、あそこでの、あの会談が大変重要な布石になっていた。あの待場照美先生(仮)の予知においての、そのことの印象においての、先生の言葉が、決定的なるもの、つまりはマジック・ワードとなっていた。その未来は確定されたものだったのだ。それを元に、自分の元にはあの言葉が届けられてしまってた。
そして、後に、いくつもの、数えられないほどの状況の条件の整いの元、自分はその言葉を発してしまう…。そして、そこにて、第三者、つまりは聖霊の介入の元に、あの事態たるものが起こったのだった。
それは、ほんとうに、幾つもの幾つもの、無数の条件の重なりにおいて、初めて起こりうるものだった。その全ては間違いなく何者かによって、然るべくして用意されてきたものだったはず。最終的な、最も肝心なるきっかけは、あくまで、その個人に委ねられてのものではあったが…。
そして、幸いなることに、その奇跡たるものは、起こったのだった…。
そう、あれは事実だ。本当に起こったことだったんだ。この自分には、まったく予期せぬ形にて。そして、後で、いろいろと考えてみて思ったんだ。ことは神的なるものの干渉なくしては起こり得ないと。そのことは、決定的に自分の世界観を変えてしまってた。もう決して元に戻ることなど絶対に不可能なまでの刻印たるものを、衝撃を、こころにおいて刻むことを果たしてしまっていた。生まれて初めて、この世の真実たるものに辿り着くができてた。そのことに、こころは安心を覚え、そして安らぎたるものを迎えていた。繰り返しておく、生まれて初めて…。
風は、それが好むところを、それが吹きたいと思う所に吹くまでなのだと…。そして、また、彼開かば、誰によりても閉じることは叶わず。また、彼がそれを否 めば、その道たるは閉じれば、もう誰によりても入ること開けることも決して叶わないのだと…。
これらのことは何を言っているのだろうか?。
すべてを統べてある、神たるものが、本当に実在しているってことが核心的なる真実。ならばだ、我力や我意にては、どうにもならないことがあるってことだ。すべては彼が創造されたるの、その彼の世界の、その内においてのことでしかない。そうとしかなりえないのだ…。
そして、また、何よりもの真実は、その彼は、この我ら人類のことを本当に気にかけて下さっている。それも、その全能のままに、一人一人のことまでをも委細微細に渡って、考慮して下さっている。愛して下さっているからこそ、善導するにおいて、こころを砕き、また労をとってくださっているのだ。ただただ恐るべき事態、その存在なることを、ここには観なければならない。
ただし!、彼が、彼こそが標準になるんだ。それはヒトが思い描くような、考えられるような、そんな甘ったるいものなんかではないのかも知れない…。それは厳しい厳しい、ときにおいては、その相手によっては、その状況においては、極端に非情にして残酷なまでの存在たられる。ことは、その余りに愛の深きが故の、その愛情の裏返しとしての、反映なのだといえる…。
エニアグラムは単なる人格のタイプ論なんかじゃない。それは真に、苦労してい、意識的に在るにおいて、果たされるべき
自分なんかでは、あれやこれやのシリーズの創作において、それを如実に覚えている。
簡単には完成させてくんない。だから自分なりにあれやこれやの策をもまた労してる。
スピンアウトにおいてまた枝葉を伸ばしたり、過去の内容と連結関連させたり…。
あの蛇の登場は然るべきしてのものだったのだと、今になって合点がいってる。
〈続くよ…まだまだ、延々と…〉
神の国に入る。これは言葉のたとえであると同時に、現実の事であるとも言える。そこに物理的なる空間の移動はない。人間が現行において縛られてある認知の、そのすべてが改められてしまうまでのことなのだ。ことは体験において。すべてのヒトの志向は外部におけるヒトが作りしものばかりなのだ。端的には経済システム、社会環境のことになる。喰うためにだ。その内において、自己のアイデンティティを確立するために。ある意味、それは確固とした基盤を持つものではない。水面にての泡沫が如しものにしかない。つまりはバブル。そういったものに過ぎないのに、それにしがみついている我らは、板子一枚下は地獄の漁師たるものに過ぎない。でっだ、そんなことは忘れてしまうのだ。見ないように、考えないようにする。してる。元々の現実たるものが幻想に過ぎない…。
それらはあくまでマインドが、既に勝手に取り込んだ文化コードにて、即時、然るべきとと思われる認識たるものを用意してくれているまでのものに過ぎない。それらコードには本来的に、歴史はあったとしても、根拠たるものはない。例えば国境たるものを考えてみればいい。誰が決めた?。民族としてのアイデンティティ、それを包む界面たるものが、それの真実の必要性であったまで。明確なる区分を、私達は生きるにおいてどうしても必要とするのだから。エゴにおいては…。まっ、とにかく、完全に自動化された、それにおいての機械的反射ってやつにおいての創造にて、現実たるものは構成されているのだ。この状態を、”夢”の中に居るって言ったとしてもそれはあながち間違いではない。その世界観たるものは、生まれてからしばらくしてから、直ぐに、その構築が始まる。この世に馴染むにおいて。だんだんとそれに染まって、従うようになってゆく。また過去世からの持ち越し分であるその習慣性も絶対にあるであろう…。
だからイエスの言う「生まれなおす」は、その世界観を一回、一切を、徹底的にご破産にすることの意味にしかない。その無自覚に無意識に依ってたったいる、その基盤たるものを一旦解消してしまうのだ。そのいい加減な未完成にすぎる、ある意味病気を患っているヒトたるものによっての世界をだ。そして、次には、真実としてのこの世、この世界、この宇宙においての、根本的なる、真にあからさまなる真実に、現実に、リアルたるものに
そうすることにおいてのみにて、また新たなる世界観において生きることが可能になる。
これを、この事態を、この転換を、天国への入場と言っているまで。
決して、彼方のおとぎの国へのことを言っているわけなんかじゃない。
ずばり、今、まさにここにおいての、あなたの心持ちにおいての、話しなのだ…。
『人は、”水”と”靈”とによりて、生れずば、神の國に入ること能はず』。
水に関しては、あのアニマクリスティの歌詞における...『アクァラテリス クリスティ、ラヴァメ』(訳:「御脇腹 からの水、われを洗い清め給え」が連携している。
それらは一体、何なのか?。何を意味しているのか?。
生まれるとは、どういうことなのか?
アニマクリスティの方においては、「私の目からは分かりませんが、主から観て、私の霊の成長において不必要と思われるもの、障害となっているものは、
先ずは”水”において…
これを一言で言えば、寄って立つそのすべての地盤、生をおくっているにおいて必要とされている、もしくは執着をもって関係がもたれている、その基盤たるものごとの、総破壊、総撤去を為さしめるべくして到来する、なにかなのだとしておこう…。前に自分は、それは大水のようなもの、正しく、ヒトがときに味わうところの、洪水のようなものだっと言った。
それは生活環境のすべてを押し流していってしまう。そのあとには、またゼロから一切を始めなければならなくなる。いや、掃除や後片付けが大層難儀な形で残っているので、大いなるマイナスポイントからになる…。場合によっては、そのことのショックのあまりに、気力たるものは萎え果ててしまい、後のこれからやらねばならないことの、あまりの大きさ多さが故に、こころは完全に折れてしまうことになってしまうのかも知れない。
これは喩えだ。だが、その事態の意味としては限りなく近いものになると思う。
では、実際のヒトの人生においては、その事態たるものはどんなものになるのだろうか?。
幼くして、自分の養育者たる親を失った。ふたりとも、一遍に!。
親の、自分が、やっている事業が倒産した。
借金が、もう完全に返せなくなって、夜逃げすることになった。
仕送りが、給付が、不意に、突如打ち切られた。
仕事が忙しくて忙しくて、楽しくって楽しくって、家族のことを忘れ果てた…。
難病にかかる。
左目がとうとう見えなくなってきて、大好きなテニスができなくなってきた。
嫁が旦那が不倫してる。
地方の過疎地へと転勤を命じられた。
いつも仲良くしていた仲間との縁が切れた。人間関係ってほんと移ろいやすい。
老衰を理由に施設に放り込まれた。子供に騙された。金も取られた〜。
そこはこの世における真の地獄とでも言うべき処だった…。
交通事故を起こしてしまい多額の賠償請求がきた。
娘が不良に、息子が引きこもりの上に、更にネットゲーム三昧になっている〜。w。
飼っている猫が、犬が、行方不明になったー。ww。
奥歯、みんな抜かれてもうて飯のなにもかもが美味しくなくなってしまったー。www。
癌を宣告された。余命は、あといくばかりもない…。
まあこんなところ…。
盲のヒトが、ある人が手をあてて呪いを唱えたなら、見えるようになっている…。
難病が突如治ってしまっている。
死んで弔って埋めたはずのあのヒトが生き返ってる。(ラザロ)
波立つ湖面に向かって命令したら、荒れ狂う波が一瞬で収まっていた。
食べ物を、天に祈ってから割いたなら、それは尽きることなく、
無限に、まわりの人々に振る舞うことができてた。
完全に刺殺されたはずのあの人が、今、目の前を歩いているではないか…。
部屋の中に忽然とあの方が現れた。(テレポーテーション…?!)
これらも、そうだと言えば、「そをだ」ということになる…。
どちらのグループにおいても、その内容たるものは、自分の人生において、長くに渡って培われてきた、常識や世界観たるものが、突如、余儀なく、変更せざるを得ない事態なのだと言える。それはもうことごとくにして
それは世間的には不幸なる事態としか言えないものだ。辛酸たる生活を味合わざる得ない。だが、しかし、その事態の到来は、そこに味わう悲惨さは、また一つの、幸運なる可能性をも秘めているのだ。これまでの長きに渡る人生において、ガッシリ、同体と成り果てたる現実なるものと、一旦、距離をおくことが可能になるのだから。完全なる逐次同一化が、ひょんなことから途絶えてしまうことに不可能になってしまう。それは世界からの逸脱であい脱落であり危機的事態ではあるのだが、そのことによっての虚脱感、絶望感は、とんでもなく根深く、癒やすことの難しいものではあるのだが、そこには、その状態であるからこそ、為し得る、適い得る、可能性たるものがあるのだ。それは、真の現実において、自分が本当に取りうる、取るべきの、関係性たるものを再構築することになる。この言葉は抽象的に過ぎるのだが、詳細は別に譲ろう。2Fなんかにそれはあるのだから…。簡単に言えば、自分はこの体ではない。また外界として自分が感知する、その多くは、その殆どは、幻みたいなものに過ぎない。むしろ、それらの背後にて、ことを支配して居られる方こそが実在のものとして認識されようになる。意識されるようになる。世界の意味たるものが、また新たに別なるものとして構築されることになる…。これがもし決定的なるがまでに確信されてしまったならば、次には、どうゆうことになるか分かるだろうか?。それは自己において結晶化された現実になるんだ。そしてもうそれを疑うことも、元の状態に戻ることも決してできないようになる。いや、そんなことは不可能になっているのだ。ならばだ、当然な話として、自己を標準として、今度は他人を、周りの人たちを、観ることに、計ることになる。そして、不思議なことにとはなるのだが、後の後には、彼等が彼女等が、以前の自分がいた状態にあることを知るようになる…。彼等を彼女らを、未だ、肉において生きている状態にある人と認識することになる…。これは思い込みなんかではないんだ。相対しては、妙な違和感が、その相手には覚えられる/察せられるようになってしまう。ある種の、こちらとの断絶を如実に感じるので、あくまで、言葉にするならば、ああいった表現になるまで…。悪意としての言葉ではないんだ。少し悲しいといった思いが、いつもつきまとってきてしまうことになるんだけどね…。
それは、その事態は、ある表現においては、「天国への参入」たる事態とも言えるのだ。ことのすべては、喜びとしてのできごとも、悲しみとしてのできごとも、それらのすべてが、アーメンたる思いにて、受領されることになるのだから…。そのような幸運な再構築へと至るべくして、その導きとして、神のご意向においてなされる不幸こそが、その事態の到来こそが、水に依る、洗礼たるものの意味になる。
これはあくまでも、幸運なる展開においてのお話し。ただただ、あくまで、悲惨なるのまま終わるケースは、山の如くしてある。多くが首をくくるか、列車に飛び込むしか、できることは、脱出たるの道は残されていない。
神の関与が、神たるものへの気付きが、伴ってあるのかどうかが、
そこに運命の分かれ道たるものがあるのかもしれない…。
続いては、火の洗礼において…
先の水による洗礼は言わばリセットに至るべくしてのもの。
その後には、新たなる内部フォーメーションを整える、築き上げる必要性がある。
獣としての本能をドライブとして、その欲望の対象において、特殊なコード大系を構築しているのが人間。大人になる過程において、それらのすべては身体化されて、ほぼ自動的に、即座にて、外界のすべては認識されてしまう。そこに、なんら疑いを持つこともなく。それが真実であるか、本当なのか、それが具体的な根拠を持つのか持たないのかはさしたる問題とはされない。暗黙の了解ごととして、なんとなく、そうであるで、ことは分かるし、それで足りるのだ。多分、文化コードといったものは大気を媒体として、もしくは集合無意識の場を、その伝達の経路として、ヒトをダイレクトに介さずとも受け取られるものなのかも知れない…。とにもかくにも、共同観念において社会コード文化コードたるものは形成されているのだ。それは移り変わるゆくもの。泡沫の如きが世間の様。そこには世界たるものおける、真に核心的なる現実が欠けている、それからは遮断されていると言える。ヒトは夢うつつの物事に泣いて笑っているに過ぎない。幻において右往左往してるに過ぎない。それはヒトたるものの呪われた性なのだ…。
この事態が。強制的にして、突発的にで、破壊されてしまう人達ってのがいるんだ。この事態こそが、ある意味、恩寵によっての恵まれであるらしい。イエズス・キリストの言において、なのだが。そうした境遇においてこそ、ヒトではない神たる超越者にすがることへと、思いの舵たるはとられ得る。困ったときの神頼み。悲しいかな、ヒトは、そうした状況においてでしか神を意識することはないんだ。できないんだ。できるだけ長く、死ぬまで、その楽しい夢見にて耽っていたいから…。だからこそ、その不遇たる状況は恵まれともなるんだ。そうして、そうやって、彼等彼女等は信仰に目覚めることができるようになるのかも知れない。神たるものを意識するようになっているのだから。でもそれは、切っ掛けであって、未だそれでしかなくって、世界たるものの喪失に、絶望の、無力たるの状態あるに過ぎない。その神たるものも、未だ、観念としてのそれに過ぎない。
だからだ。そこに、新たなる内部フォーメーションを築くべくしての課題が横たわっていると言うのは。そのことの実際内容は、旧来の癖としての、習慣としての、長きの生において骨身に染み付いしまっている、自動性との自己同一化との戦いたるものが避けられない。従来のあり方を、その脱落となった今において、大きな変更を成し遂げなければならない。それは闇雲に行うことではなくて、ちゃんとガイドたるものに従った形で行うしかないんだ。いや、そうすべきなんだ。その教本となるのが新約聖書。これに限定される。なぜって、それはその言葉を信じるならば、「善き知らせ」としての、最新の神よりの伝達が、含まれたものになるのだから。先ずはそれに沿ってことを意識する、ことを行うってのが指針になる。それであることによって、そうすることによって、神たるものの意識に自分たるものを映し出すことが適うのだから。
それを為すことは、簡単なことではない。真実なるを、そは現実なりを、得心する為には、然るべくしての、プロセスを経るしかない。その確認作業がいるんだ。それは少しづつ少しづつにして具体的なるものとして認知されてゆく。たゆまず歩み続けるならばの話だが…。そしてやがてには、引き返すことの叶わないまでの境地たるに、決定的に落ち着くことになる。そして、もうそうなったならば、振り返り見て、それまでに当然のごとくして根深く伴っていた苦境たるものも、幸いなるものとして思えるようになってしまっている。そして、なによりも、神たるものはもう観念としてのそれではなく、実在なるものとして、はっきりと心の中に、定まることと成っている。あいも変わらず、ずっと、いるのかいないのか、判らないままの、そのお姿でありながらも…。
すべての行程には確執葛藤が避けがたくして伴ってくる。それらをもって、火によっての洗礼なのだと仰っているのだと思います。そこにおいてのドラマのすべてが、主のお計らいにおいて、お膳立てによって、もたらされたるの恩寵としての恵みたるものだったのです…。
『あなたにとっての十字架たるものを、背負って、私の後をついてきなさい』
これが最も簡単なガイドの一文になる。もう既にご存知ですよね?。
②へとつづく…
彼とニコデモを
それは所属する社会において実権を握るをもって、その組織においての要職にあること。社会は秩序たるものを必要とする。間違いなく。絶対に。それは規律であり掟であり法律であり、律法と呼ばれるべくしてのもの。それは権威ありてこそ制定することが可能になる。しかして、その権威たるものの実際は、それの実体たるものは、構成員たる各個に向けての強制力としての暴力システム。まさしく、これによる恐怖こそが、その正体にして本質なのだ…。
ここに主権たるを要求する別次元のものが登場してくる。それがイデであったりイエスであったりするまで。両者ともにその背景は超越的なる、天上的なるの、神的なるものになる。ヒトにはまったく寄らず関わりなしの所にて、権威たるものの根拠が、据えられ、構えられて、また与えられてしまってる…。
これは、由々しき
問題
なのだ。ことは、ドバも、ニコデモも、なんとか折り合いを付けて
現状を
維持したかった。現行の我ら優位としての
、その秩序を守りたかった。更には、これから後の、”我等”としての繁栄を、安寧を、確固としたるものにせねばならないとの目的意識もそこにはあった。それこそが彼等が為すべきの、本当の役割であり、また重責でもあったのだから…。そこで、先ずは、相手をよく知ろうとする。ドバもニコデモも、その相手には人知を超えた、なにか、特別なる大いなる力の、背景があることだけは直感されていていた。いや、遠の、既に、畏れを抱きつつ、一切を投げ出して、平伏したいという衝動を自らの内においては
先に、原文においてをご確認ください。
そのときにご確認していただきたいのは、イエスが、どう観ても、知るヒト以外にあり得ないであろうといった言動を繰り返していること。このことは、そのままに、彼が真実を、語っていることになる。ならばだ、えらい話しを、ここで、彼はしていることになる…。
また、ニコデモがイエスの話が分からないことの、その事態には何を観ることができるのか?
先に、これに関しての答えを言うならば、彼等には既に体験が失われて久しいのだ。
ことの一切は教条主義の成れの果てにあるといった現実にしかない…。
形骸化こそが、ときをかたるにおいてのキーワードたるる。
牧者たるものの元を、その
これが現在の私達、そのすべての人類の姿なのです。
後々に、大挙して、ダベリとしての解説が組み込まれることとなります。
もう一つ、これをやる理由を言ってしまうと、他の権威者、アカデミーの重鎮ら、
また牧師さん等、プロフェッショナルらによる解説の、それらのすべてが的外れであると、
何故か自分には思われてしまうんだ…。
分かりにくくって、ポイントそのものの抽出が完全に抜けてる。
とにもかくにも、このヨハネ福音書の第三章は、とても重要な箇所になる。
チャレンジは、これもまた、主の思し召しなのかも知れない…。
補足:
【教条主義とは?】
状況や現実を無視して、ある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度。
【形式主義とは?】
形式主義とは、一般に事物の内容よりも形式を重んずる立場。
共に評価することはできないのだが問題の核心はどうしてそういったものへと変質を来していってしまうのかにある。ことはそうすることにおいてでしか神を聖性たるものを我々の文化的意識の中に据えて守り続けることができないからだ。あくまでも逆説的なものであるに如かず。本体を離れて、形式たるものに、強固に偏執的なるがまでに固着するようなってゆくまで。頭、人格への偏りが大きすぎるがその原因。それそのもの実体を離れて、観念においてそれを念ずる意識する留め置くへと流れていってしまうのだ。原因はあれだ…私はいつもいそがしい、やるべきことやらねばならないことが多く過ぎる。お金儲けとしての仕事が、それにつながる行いが、すべてになったしまっているからだ。目の前で絶えずその顕現たるもんは為されており、目に止めることはいと簡単だというのに。救い難きの凡例、まさにそれそのものだと思う…。
Re: 開演その一、原本版。
ヨハネによる福音書3章1〜21節の抜粋:
ここに
パリサイ
ユダヤ人
の”夜
、イエスのニコデモ:
先生(Rabbi)、
イエス:
まことに、誠に、汝に告ぐ。人は
ニコデモ:
人、はや
再び
イエス:
まことに誠に、汝に告ぐ、人は、
べしと、
ニコデモ:
『いかで、
イエス:
なんぢは、イスラエルの
それ、
神の
〈了〉
補記:
光は
、真実なる、現実なる、実際なるへと置き換えてください。暗黒は
、嘘偽り、虚妄、ただの思い込み、文書、文言、ヒトによりての観念その総体。
最重要ポイントは
生まれなおす
の部分。そして「水と靈とによりて、生れずば…」の部分。
風は吹きたいところを吹くもかもね…。
現在の、この稿にお付き合い頂けている方であれば、そのことが何を意味するかにおいて、
この私めが、如何なる解説を添えるかは、もう既に予測が着くことではないでしょうか?。
今回のはおふざけがやりにくい。
マジオンリーしかないな。
では、後ほど…
ドバ・アジバ 兼 ニコデモ
「またもや、あの蛇めまでもが関係しとるではないかっ!」
Re: 開演その二、
意訳
版。先生!、わたしは、あなたが、
本当のことを、真実の丸出したる説明を、あなたにはしておいてあげよう…。
ヒトは、
再び
私が今言ったことは、ぜんぶ本当のことだ。ヒトは、
得た
者は、しっしっ、しかしー!、どうしたら、どうやったら、
あなたはユダヤ教の権威ある指導者としての、その立場に身をおきながら、そんな事さえ分からないのかい?!。 今一度、言っておく、私は
それ、
得させん
が為に…。 神が彼の子を、この世へと彼を、信ずる者は、
すべて、
〈了〉
補記:
↑ 最後の部分。逆照射としてでしか、帰納法的においてでしか、知り得ない。察し得ない。
Probably it follows so でしかアプローチできない。ならばだ、ことはヒトを選ぶことになる。
Absolutely it follows something でしか事を認めない受け付けないヒトってのが多いんだから。いや、たとえ、そうであったとしても内容によってはヒトは無視する。認めることを避ける。まわりを見回して皆がそうだとなってからことを信じる。信用する。「知らんけど」って最後に添えながら…。
Re: 開演その三、解説編。
さて、解説!。
二方向というか、二領域からになるな。一つは個人的な体験を元にした総括として。
もう一つはニコデモをあくまで外部の無関係なる対象として。かなり非情なる扱いによって。
この二つをぐっちゃんぐっちゃんにして、筆の赴くままにーで…だべってみよう!。
先ずは思いつくままに。
無軌道なるを寧ろ良しとするその考えの、その連想の赴くままに…。
ことは、その実例として、既に描いて、描かれてしまってる。その中において、読者にはあまり気づかれないていなと思われることについて語っておこう。エニアグラムなるモデルにおいては、それは運動において理解されなければならないとのGよりの示唆がある。身体感覚においてその軌道たるものの型を刷り込んでおく必要がある。←その運動パターンを頭においてではなく身体感覚にて、結晶化にしておく必要がある。何故か?。自分を取り巻くその世界、また自己の内にて一時も休むこともなく進行しているその生理世界、その両方の世界にておこる変化に、気づくべきことがあるからだ。それは運動、もしくは進展のその実相において、その運動の型をもってしか気づけないことがあるのだから。頭の注意力では追いつけない。よって見出すことはできない。身体感覚と連動した形でしか、身体感覚において獲得された運動モデルをセンサーとして用いない限りは、そこに潜む現実においての普遍なる法則性たるものに気づくことはできないのだから…。
その結果として、知られるべきことの一つは、未来が、それにとっての過去たる現在に干渉してきているってこと。このことの前提は、未来たるものは、今においては、既に確定されているってことになる。恐らくは延々と未来永劫って訳ではないんだ。今の現在に関わる事態としては、それは既に、動かしがたきものとして確定されてある。*可能性としては、そこには神のご意思、恣意性たるものも介入していてこその話なのかもしれないが…。
例えばだ、自分のケースにおいては、あそこでの、あの会談が大変重要な布石になっていた。あの待場照美先生(仮)の予知においての、そのことの印象においての、先生の言葉が、決定的なるもの、つまりはマジック・ワードとなっていた。その未来は確定されたものだったのだ。それを元に、自分の元にはあの言葉が届けられてしまってた。
そして、後に、いくつもの、数えられないほどの状況の条件の整いの元、自分はその言葉を発してしまう…。そして、そこにて、第三者、つまりは聖霊の介入の元に、あの事態たるものが起こったのだった。
それは、ほんとうに、幾つもの幾つもの、無数の条件の重なりにおいて、初めて起こりうるものだった。その全ては間違いなく何者かによって、然るべくして用意されてきたものだったはず。最終的な、最も肝心なるきっかけは、あくまで、その個人に委ねられてのものではあったが…。
そして、幸いなることに、その奇跡たるものは、起こったのだった…。
そう、あれは事実だ。本当に起こったことだったんだ。この自分には、まったく予期せぬ形にて。そして、後で、いろいろと考えてみて思ったんだ。ことは神的なるものの干渉なくしては起こり得ないと。そのことは、決定的に自分の世界観を変えてしまってた。もう決して元に戻ることなど絶対に不可能なまでの刻印たるものを、衝撃を、こころにおいて刻むことを果たしてしまっていた。生まれて初めて、この世の真実たるものに辿り着くができてた。そのことに、こころは安心を覚え、そして安らぎたるものを迎えていた。繰り返しておく、生まれて初めて…。
風は、それが好むところを、それが吹きたいと思う所に吹くまでなのだと…。そして、また、彼開かば、誰によりても閉じることは叶わず。また、彼がそれを
これらのことは何を言っているのだろうか?。
すべてを統べてある、神たるものが、本当に実在しているってことが核心的なる真実。ならばだ、我力や我意にては、どうにもならないことがあるってことだ。すべては彼が創造されたるの、その彼の世界の、その内においてのことでしかない。そうとしかなりえないのだ…。
そして、また、何よりもの真実は、その彼は、この我ら人類のことを本当に気にかけて下さっている。それも、その全能のままに、一人一人のことまでをも委細微細に渡って、考慮して下さっている。愛して下さっているからこそ、善導するにおいて、こころを砕き、また労をとってくださっているのだ。ただただ恐るべき事態、その存在なることを、ここには観なければならない。
ただし!、彼が、彼こそが標準になるんだ。それはヒトが思い描くような、考えられるような、そんな甘ったるいものなんかではないのかも知れない…。それは厳しい厳しい、ときにおいては、その相手によっては、その状況においては、極端に非情にして残酷なまでの存在たられる。ことは、その余りに愛の深きが故の、その愛情の裏返しとしての、反映なのだといえる…。
エニアグラムは単なる人格のタイプ論なんかじゃない。それは真に、苦労してい、意識的に在るにおいて、果たされるべき
こと
においての、その進展性の法則性の抽出になる。あらゆるスケール内におて、同じパターンを確認することができる。それは普遍的なるものの抽出なんだ。だから、日常において、それを実際に確認できない限り、それのメリットは限りなき薄さにて限定されてしまう。この薄い薄い領域のみにて、あれやこれや偉そうなこと言ってる人々の多いこと多いこと…。結局は、彼に倣う、彼に近づく為に、彼を真に理解する目的にてで、これは消化されるべきなんだ。”彼”ってのは神さまのことになるんだが…。自分なんかでは、あれやこれやのシリーズの創作において、それを如実に覚えている。
簡単には完成させてくんない。だから自分なりにあれやこれやの策をもまた労してる。
スピンアウトにおいてまた枝葉を伸ばしたり、過去の内容と連結関連させたり…。
あの蛇の登場は然るべきしてのものだったのだと、今になって合点がいってる。
〈続くよ…まだまだ、延々と…〉
神の国に入る。これは言葉のたとえであると同時に、現実の事であるとも言える。そこに物理的なる空間の移動はない。人間が現行において縛られてある認知の、そのすべてが改められてしまうまでのことなのだ。ことは体験において。すべてのヒトの志向は外部におけるヒトが作りしものばかりなのだ。端的には経済システム、社会環境のことになる。喰うためにだ。その内において、自己のアイデンティティを確立するために。ある意味、それは確固とした基盤を持つものではない。水面にての泡沫が如しものにしかない。つまりはバブル。そういったものに過ぎないのに、それにしがみついている我らは、板子一枚下は地獄の漁師たるものに過ぎない。でっだ、そんなことは忘れてしまうのだ。見ないように、考えないようにする。してる。元々の現実たるものが幻想に過ぎない…。
それらはあくまでマインドが、既に勝手に取り込んだ文化コードにて、即時、然るべきとと思われる認識たるものを用意してくれているまでのものに過ぎない。それらコードには本来的に、歴史はあったとしても、根拠たるものはない。例えば国境たるものを考えてみればいい。誰が決めた?。民族としてのアイデンティティ、それを包む界面たるものが、それの真実の必要性であったまで。明確なる区分を、私達は生きるにおいてどうしても必要とするのだから。エゴにおいては…。まっ、とにかく、完全に自動化された、それにおいての機械的反射ってやつにおいての創造にて、現実たるものは構成されているのだ。この状態を、”夢”の中に居るって言ったとしてもそれはあながち間違いではない。その世界観たるものは、生まれてからしばらくしてから、直ぐに、その構築が始まる。この世に馴染むにおいて。だんだんとそれに染まって、従うようになってゆく。また過去世からの持ち越し分であるその習慣性も絶対にあるであろう…。
だからイエスの言う「生まれなおす」は、その世界観を一回、一切を、徹底的にご破産にすることの意味にしかない。その無自覚に無意識に依ってたったいる、その基盤たるものを一旦解消してしまうのだ。そのいい加減な未完成にすぎる、ある意味病気を患っているヒトたるものによっての世界をだ。そして、次には、真実としてのこの世、この世界、この宇宙においての、根本的なる、真にあからさまなる真実に、現実に、リアルたるものに
基づいて
、世界観たるものを再構築しなければならない。そうすることにおいてのみにて、また新たなる世界観において生きることが可能になる。
これを、この事態を、この転換を、天国への入場と言っているまで。
決して、彼方のおとぎの国へのことを言っているわけなんかじゃない。
ずばり、今、まさにここにおいての、あなたの心持ちにおいての、話しなのだ…。
『人は、”水”と”靈”とによりて、生れずば、神の國に入ること能はず』。
水に関しては、あのアニマクリスティの歌詞における...『アクァラテリス クリスティ、ラヴァメ』(訳:「御
それらは一体、何なのか?。何を意味しているのか?。
生まれるとは、どういうことなのか?
アニマクリスティの方においては、「私の目からは分かりませんが、主から観て、私の霊の成長において不必要と思われるもの、障害となっているものは、
私の好む好まないを一切考慮せず
、強制的にであっても構いませんので、お取り上げください」が、その祈りのメッセージ内容。先ずは”水”において…
これを一言で言えば、寄って立つそのすべての地盤、生をおくっているにおいて必要とされている、もしくは執着をもって関係がもたれている、その基盤たるものごとの、総破壊、総撤去を為さしめるべくして到来する、なにかなのだとしておこう…。前に自分は、それは大水のようなもの、正しく、ヒトがときに味わうところの、洪水のようなものだっと言った。
それは生活環境のすべてを押し流していってしまう。そのあとには、またゼロから一切を始めなければならなくなる。いや、掃除や後片付けが大層難儀な形で残っているので、大いなるマイナスポイントからになる…。場合によっては、そのことのショックのあまりに、気力たるものは萎え果ててしまい、後のこれからやらねばならないことの、あまりの大きさ多さが故に、こころは完全に折れてしまうことになってしまうのかも知れない。
これは喩えだ。だが、その事態の意味としては限りなく近いものになると思う。
では、実際のヒトの人生においては、その事態たるものはどんなものになるのだろうか?。
幼くして、自分の養育者たる親を失った。ふたりとも、一遍に!。
親の、自分が、やっている事業が倒産した。
借金が、もう完全に返せなくなって、夜逃げすることになった。
仕送りが、給付が、不意に、突如打ち切られた。
仕事が忙しくて忙しくて、楽しくって楽しくって、家族のことを忘れ果てた…。
難病にかかる。
左目がとうとう見えなくなってきて、大好きなテニスができなくなってきた。
嫁が旦那が不倫してる。
地方の過疎地へと転勤を命じられた。
いつも仲良くしていた仲間との縁が切れた。人間関係ってほんと移ろいやすい。
老衰を理由に施設に放り込まれた。子供に騙された。金も取られた〜。
そこはこの世における真の地獄とでも言うべき処だった…。
交通事故を起こしてしまい多額の賠償請求がきた。
娘が不良に、息子が引きこもりの上に、更にネットゲーム三昧になっている〜。w。
飼っている猫が、犬が、行方不明になったー。ww。
奥歯、みんな抜かれてもうて飯のなにもかもが美味しくなくなってしまったー。www。
癌を宣告された。余命は、あといくばかりもない…。
まあこんなところ…。
盲のヒトが、ある人が手をあてて呪いを唱えたなら、見えるようになっている…。
難病が突如治ってしまっている。
死んで弔って埋めたはずのあのヒトが生き返ってる。(ラザロ)
波立つ湖面に向かって命令したら、荒れ狂う波が一瞬で収まっていた。
食べ物を、天に祈ってから割いたなら、それは尽きることなく、
無限に、まわりの人々に振る舞うことができてた。
完全に刺殺されたはずのあの人が、今、目の前を歩いているではないか…。
部屋の中に忽然とあの方が現れた。(テレポーテーション…?!)
これらも、そうだと言えば、「そをだ」ということになる…。
どちらのグループにおいても、その内容たるものは、自分の人生において、長くに渡って培われてきた、常識や世界観たるものが、突如、余儀なく、変更せざるを得ない事態なのだと言える。それはもうことごとくにして
強制的なる
の限りにおいての事件なのだ!。それは世間的には不幸なる事態としか言えないものだ。辛酸たる生活を味合わざる得ない。だが、しかし、その事態の到来は、そこに味わう悲惨さは、また一つの、幸運なる可能性をも秘めているのだ。これまでの長きに渡る人生において、ガッシリ、同体と成り果てたる現実なるものと、一旦、距離をおくことが可能になるのだから。完全なる逐次同一化が、ひょんなことから途絶えてしまうことに不可能になってしまう。それは世界からの逸脱であい脱落であり危機的事態ではあるのだが、そのことによっての虚脱感、絶望感は、とんでもなく根深く、癒やすことの難しいものではあるのだが、そこには、その状態であるからこそ、為し得る、適い得る、可能性たるものがあるのだ。それは、真の現実において、自分が本当に取りうる、取るべきの、関係性たるものを再構築することになる。この言葉は抽象的に過ぎるのだが、詳細は別に譲ろう。2Fなんかにそれはあるのだから…。簡単に言えば、自分はこの体ではない。また外界として自分が感知する、その多くは、その殆どは、幻みたいなものに過ぎない。むしろ、それらの背後にて、ことを支配して居られる方こそが実在のものとして認識されようになる。意識されるようになる。世界の意味たるものが、また新たに別なるものとして構築されることになる…。これがもし決定的なるがまでに確信されてしまったならば、次には、どうゆうことになるか分かるだろうか?。それは自己において結晶化された現実になるんだ。そしてもうそれを疑うことも、元の状態に戻ることも決してできないようになる。いや、そんなことは不可能になっているのだ。ならばだ、当然な話として、自己を標準として、今度は他人を、周りの人たちを、観ることに、計ることになる。そして、不思議なことにとはなるのだが、後の後には、彼等が彼女等が、以前の自分がいた状態にあることを知るようになる…。彼等を彼女らを、未だ、肉において生きている状態にある人と認識することになる…。これは思い込みなんかではないんだ。相対しては、妙な違和感が、その相手には覚えられる/察せられるようになってしまう。ある種の、こちらとの断絶を如実に感じるので、あくまで、言葉にするならば、ああいった表現になるまで…。悪意としての言葉ではないんだ。少し悲しいといった思いが、いつもつきまとってきてしまうことになるんだけどね…。
それは、その事態は、ある表現においては、「天国への参入」たる事態とも言えるのだ。ことのすべては、喜びとしてのできごとも、悲しみとしてのできごとも、それらのすべてが、アーメンたる思いにて、受領されることになるのだから…。そのような幸運な再構築へと至るべくして、その導きとして、神のご意向においてなされる不幸こそが、その事態の到来こそが、水に依る、洗礼たるものの意味になる。
これはあくまでも、幸運なる展開においてのお話し。ただただ、あくまで、悲惨なるのまま終わるケースは、山の如くしてある。多くが首をくくるか、列車に飛び込むしか、できることは、脱出たるの道は残されていない。
神の関与が、神たるものへの気付きが、伴ってあるのかどうかが、
そこに運命の分かれ道たるものがあるのかもしれない…。
続いては、火の洗礼において…
先の水による洗礼は言わばリセットに至るべくしてのもの。
その後には、新たなる内部フォーメーションを整える、築き上げる必要性がある。
獣としての本能をドライブとして、その欲望の対象において、特殊なコード大系を構築しているのが人間。大人になる過程において、それらのすべては身体化されて、ほぼ自動的に、即座にて、外界のすべては認識されてしまう。そこに、なんら疑いを持つこともなく。それが真実であるか、本当なのか、それが具体的な根拠を持つのか持たないのかはさしたる問題とはされない。暗黙の了解ごととして、なんとなく、そうであるで、ことは分かるし、それで足りるのだ。多分、文化コードといったものは大気を媒体として、もしくは集合無意識の場を、その伝達の経路として、ヒトをダイレクトに介さずとも受け取られるものなのかも知れない…。とにもかくにも、共同観念において社会コード文化コードたるものは形成されているのだ。それは移り変わるゆくもの。泡沫の如きが世間の様。そこには世界たるものおける、真に核心的なる現実が欠けている、それからは遮断されていると言える。ヒトは夢うつつの物事に泣いて笑っているに過ぎない。幻において右往左往してるに過ぎない。それはヒトたるものの呪われた性なのだ…。
この事態が。強制的にして、突発的にで、破壊されてしまう人達ってのがいるんだ。この事態こそが、ある意味、恩寵によっての恵まれであるらしい。イエズス・キリストの言において、なのだが。そうした境遇においてこそ、ヒトではない神たる超越者にすがることへと、思いの舵たるはとられ得る。困ったときの神頼み。悲しいかな、ヒトは、そうした状況においてでしか神を意識することはないんだ。できないんだ。できるだけ長く、死ぬまで、その楽しい夢見にて耽っていたいから…。だからこそ、その不遇たる状況は恵まれともなるんだ。そうして、そうやって、彼等彼女等は信仰に目覚めることができるようになるのかも知れない。神たるものを意識するようになっているのだから。でもそれは、切っ掛けであって、未だそれでしかなくって、世界たるものの喪失に、絶望の、無力たるの状態あるに過ぎない。その神たるものも、未だ、観念としてのそれに過ぎない。
だからだ。そこに、新たなる内部フォーメーションを築くべくしての課題が横たわっていると言うのは。そのことの実際内容は、旧来の癖としての、習慣としての、長きの生において骨身に染み付いしまっている、自動性との自己同一化との戦いたるものが避けられない。従来のあり方を、その脱落となった今において、大きな変更を成し遂げなければならない。それは闇雲に行うことではなくて、ちゃんとガイドたるものに従った形で行うしかないんだ。いや、そうすべきなんだ。その教本となるのが新約聖書。これに限定される。なぜって、それはその言葉を信じるならば、「善き知らせ」としての、最新の神よりの伝達が、含まれたものになるのだから。先ずはそれに沿ってことを意識する、ことを行うってのが指針になる。それであることによって、そうすることによって、神たるものの意識に自分たるものを映し出すことが適うのだから。
それを為すことは、簡単なことではない。真実なるを、そは現実なりを、得心する為には、然るべくしての、プロセスを経るしかない。その確認作業がいるんだ。それは少しづつ少しづつにして具体的なるものとして認知されてゆく。たゆまず歩み続けるならばの話だが…。そしてやがてには、引き返すことの叶わないまでの境地たるに、決定的に落ち着くことになる。そして、もうそうなったならば、振り返り見て、それまでに当然のごとくして根深く伴っていた苦境たるものも、幸いなるものとして思えるようになってしまっている。そして、なによりも、神たるものはもう観念としてのそれではなく、実在なるものとして、はっきりと心の中に、定まることと成っている。あいも変わらず、ずっと、いるのかいないのか、判らないままの、そのお姿でありながらも…。
すべての行程には確執葛藤が避けがたくして伴ってくる。それらをもって、火によっての洗礼なのだと仰っているのだと思います。そこにおいてのドラマのすべてが、主のお計らいにおいて、お膳立てによって、もたらされたるの恩寵としての恵みたるものだったのです…。
『あなたにとっての十字架たるものを、背負って、私の後をついてきなさい』
これが最も簡単なガイドの一文になる。もう既にご存知ですよね?。
②へとつづく…