11.  テサロ

文字数 22,351文字

初稿!!! 2万4千日を所望いたしまするーーー。崇


Re: テサロニケにいるキリストの信者となってくれたものたちへの手紙 (by パウロ)

何故か、どうしたものか、知らぬ、分からねどもーの、とにかく今回はパウロ…。

パウロは自分にとっては苦手も苦手(できれば関わり合いを持ちたくない)そういった存在に
なる。まあ自分とは、ほぼ間違いなく対極になるな。また一方、意識をせざるえない存在でも
ある。なぜならばー彼の人生におけるその改宗ドラマは、その展開が、自分の場合と類型的に
はほぼ同じだから。自分には元々のしっかりした確たる信仰に関わる土台がないのでー、
”ちと”と言うか、もうめちゃくちゃ引け目ホば、劣勢感ホば覚へてハしまうわけなのだがー!。

パウロは、元々は、”ギチギチ””ガチガチ”、もう「バリバリ」のユダヤ教におけるエリート
官吏さん。その気性はまさに勇猛果敢なるタカ派

。非情にして冷徹、熱血にして鉄血、
異教徒らの流血好みたるの【漆黒のハウンド】との異名もて呼ばれてたとか、呼ばれてなんかいなかったりとか…(ここは怪しい)。そもそもはキリスト教徒への迫害においては”一番槍”として前線に勇んで立つをモットーとしておられた方。これを、神への信仰においての『まったき正義』と信じて疑わず、むしろそのものの証しとして、いやさかに好まれていた極右の鑑。それはそれはご熱心に、情熱的に、異教徒らの討伐においては異常なる高ぶりをもって励まれておられた…、ご活躍をあそばされていた方ー!。(ここはご本人の述懐に基づいてるからねー)

なのでー、転向において、彼の被った潜ったであろう軋轢はー、想像もつかない程の振幅の
ものであったはずー。恐ろしいまでの確執苦悩の狂奔が伴った改宗ドラマであったはずーー。
それが、調和的に成立をなしえたのは、あくまでも、天上よりの、主の直接的なコンタクトがー、(それも言葉を伴っての)あったればこそーーー!。

まあいい…とにかく始めよう…。4:3から…。

おっと!、先言うとかな…、本稿は、

たるものを目指す目的にはいません。
まったくもってありませ〜ん。皆さま各位におかれましての、理解が、承認が、
無事、完遂されること

、それ

、私めの本懐にてでございます〜。
そこで、今回当方において採用されたるのその方針とは!

 「

、それを読者の口に

いってみよーーー!!!」
                              


                      読者




         〆〆 〆〆〆 「 いざスタート!」 〆〆〆 〆〆



                    なうひ

                ら〜い・あ〜ん・とーく…

It is God's will that you should be sanctified: that you should avoid sexual immorality;

神の御心としては、あなたがたに、お求めになられるところは…
あなたが清められた状態に至るべくして毎日頑張っていてほしい、このことだけだ
つまりは、端的に言っておくならば、道徳的観点から見て、
それに外れた性交渉たるものは避けて然るべきことなのだ。


は、「全一性への復帰」として理解されるべきかな〜と思う。
 単純にして善良な、もうバカとしか言えない状態への突入になる。されど、核心においては
 彼は覚醒している。これはイエス/ノーの確執を絶えず正しき信仰に寄ってしのぎ生き延び
 てきた事実/事態を表わす。数々の炎に焼かれ、火だるまになって燻されてきたるをもって
 純正にして健全なる状態に返り/帰り至った。注)全体性ではない。”全一性”。
*でだ、特に、

きつく注意しておかなければと言うことで、とりあげ
 られるのが、誤りとしての、罪となること100%間違いのない性交渉。いや性関係と言った
 ほうがいいか…。どういう意味において言ってるのかというと、「不純なる」とかの
 意味で。実体的な話をするならば、この行為は魂の純一性を著しく毀損するといった
 結果を招くことになる。同時に奉じて従うべくの法から、価値感倫理観からの逸脱も
 意味している。
*この誘惑は、日常的において、あまりにあふれかえっており、しかも人の思いたるものに
 強力に働きかけてしまうものなので、特別に、力を込めて、注意を喚起してくれている。


that each of you should learn to control his own body in a way that is holy and honorable

あなた方は、それぞれ、彼自身の肉体であるところの、そのものを制御できねばならない。
その実際は、徳たるものの備わりたる形とは如何に?を絶えず思い願い忍ばせて。
そして相手に対しては、尊ぶべきの思いを(たずさ)え、(いだ)きもて…。

*his own body は、原義では「器」となっている。
 神が定め給いた”一対(いっつい)”、その鍵と鍵穴たる関係も暗黙の前提としてあるとすべきかと。
 要は奥さんとの関係において旦那さんの責任は大きいのよんって。
 主体性と受容性の関係性が生来的に”型”として定められたもんとしてある。
 ここに理屈を挟む余地はない。
*繰り返しとく。男性たるもの、各自一人ひとりは、おのが家庭を築くにあたっては、
 この課題をよくわきまえて生活しなさいよって。
*しかしだ!、

を制御するって…とてつもない難事業でしかないな。
 こころを広く、深く、タフにで準備しとくしかないよー。力づくは最後の最後の手段。
 ボクは妻も娘もできてません。そうならざる得ない事情ももありましたからね…。哀。
 主のバックアップを只管に待ち望むまで。無常ならざるものなし。

not in passionate lust like the heathen, who do not know God;

神を意識することなく知ることもない無信仰の人間のように、
情欲の、その情熱的な衝動のままに、行動へと走るようなことがあってはならない。

*過ちとしてのそれは、つまりは不倫は、余りにも日常ありふれてしまってる。
 この落とし穴に、はまらないよう、”よっく”、気をつけていなさいよっだ。
 監督者の存在(神/天/道理)も、ときにブレーキとしての役にたつ。
 なんらかの信仰にあることは、警官がいつも絶えず側について見張ってるに等しくなる。 

and that in this matter no one should wrong his brother or take advantage of him.

そして、この汚らわしき欲情において、兄弟たる人々に対して、不正を働くようなまねを
してはいけない。むしろ、あからさまに言うならば、”彼を利用してはならない…。


*本ケースでは同じ信仰においてつながるグループ内での話し。
 同志としての誰か、その彼の女と寝たならば、それは彼を

ことに
 なるんだって。なんとなく泥臭い人間劇が想像される。正直これはどうでもいいな…。

 

頻繁に、接する友人の彼女は、何故か、どうしたものか、”痛く”魅力的に
 思えてきてしまうものだ。完全にサインコードに支配された、錯覚としての思い込みに
 過ぎないのだが…。また他人の所有物たる奥さんは、どうしたものか、抱きたいと、
 奪いたいと思ってしまう。これもサインコードが関わっている。

 他人のものはー、何故かー、良く観えてしまう、良く思えてきてしまう。
 完全にそれは勘違い。現実に、まったく根付いていない認識。現実は全く関係してない。
 悪しき誘惑としての外部からの働き!。

 この劣情は、一旦火がつくと、強力なドライブとなってしまう。ベースは純粋に動物的な
 本能なのだと思う。見境なく他人の所有管轄する畑に種まきをしたい。駄目、つまりは、
 その行為が罪であるからこそ、禁忌破りの違反であるからこそ、その実行は最高!
 との思いともなる。

 心理的な関係性において、距離感を保つことを意識すことがとにかく大事。
 ある一線を越えてしまうと、逸脱してしまうと、自動的に劣情は沸き起こりだし、
 そうなるともう両者ともに停止は難しくなる。

 よき関係をお互いの努力によって築けるようならなきゃいけない。
 片一方だけの努力ではこれは不可能。だから基本、無理か…。

 これも本能による超強力なる支配力によってなのだが…、
 オスは他のオスの種によってできた嫁さんの子は絶対に排除する。
 それも非情にして冷酷なるマナーもて。 


The Lord will punish men for all such sins, as we have already told you and warned you.

主は、これらすべての行いのにおいて、ひとを罰せられる。
このことは、既に、私達はあなた方に知らせて警告しておいたはずだ…。


*何故か?。この一事が特に取り上げられているのは何故(なにゆえ)だ?
 法の精神たるものの根本が、ヒトのみが果しうる理解しうる愛にあることを忘れては
 いけない。これは純粋性においてその効力は大きく発揮されることとなる。ひとのこの
 有限たる人生においての課題は、魂(本質)を、動物性に逆らうことによって湧き起こる
 ”火”において、より純化させることだと言っていいだろう。金の精錬とか端的には”鍛える”
 で表現されていることだ。

 この純化とは真逆の効果を及ぼす行為、ひとがこれに走ることを、特に神は忌み嫌われる。
 不純化、つまりは混乱/混沌/複合化、つまりは合金(アロイ)へ逆行頽落現象を引き起こす
 ことになるからだ。だから厳しい懲罰をもってこのことの進展を阻もうと努力されている。

 そこまでしなきゃならない程、危険性としての要素がそこにはあるのだ。

*変成たるものが然るべく果たされなければならない。長く時間がかかるものなのだが、それ
 が果たされきったなら、また違った要素が必要として付け加わってくる。その段階において
 は、もしかしたら処罰はなく、むしろ愛もてそのときの相手たるは愛してあげれなければ
 ならないのかも知れない。まあ寡婦さんは基本いたわってあげなければならない存在である
 ことは確か。関係はないことに…。


For God did not call us to be impure, but to live a holy life.

神が我々に呼びかけ、招かれたのは、不純に堕とすためにではなく、
徳を備えた聖なる人生を、生きるようさせようとしてのことだった。

*純粋性に背くものはすべて基本、神の思いからしたら、すべて駄目よと。これが原理原則。
 不純なる思い、この言葉によって表される行いは不倫の他にもいろいろたくさんあります。
 その思い、衝動に、全力をもって逆らえと…。
*金の精錬のイメージがすべて。熱をもって、少しづつ不純物を溶かし、
 焼き尽くし、

、それらを取り除いてゆく。
 これに逆行するような真似は絶対にするなって。意外と時間はないんだ。


Therefore, he who rejects this instruction does not reject man
but God, who gives you his Holy Spirit.

しかるにて、この忠告を無視することは、ひとをではなく、神ご自身を拒絶するに等しい。
その神たるや、ご自身の霊を、あなたに新たなる命として分け与えてくださる方である
にも関わらず。

*意訳も甚だしいな…。
 問題は「his Holy Spirit」の取り扱い。「

あなたに与える方」が正しい。
 でもこの表現はあまりに奥義に関わりすぎてる。だから訳は簡略化にて日和った。
 内容的には、終局においての、聖霊を与えられてのその新生は、特段の変容たるものに
 なるの

が含意されている。


Now about brotherly love we do not need to write to you,
for you yourselves have been taught by God to love each other.

ともがら(同胞)に対しての愛に関しては、なにも書き送る必要はないであろう。
あなた方自身が、お互いを思いやるにはどうしたらいいかは、
神の指導に恵まれて、日々に研鑽を積んできているはずであろうから。

*好き嫌いは相性による。そこには偏向が必ず潜んでいる。片や、愛は、好きとはまた完全に
違うものになる。世界に対しての認識/理解の深まりにおいて、自然と内からかってに発露してくる/噴出してくる一方的な思いとしてのものになる。それは見境なくして、かってに起こり〜、誰彼構わずに放たれてある”なにか”。ある意味「独善的なもの」でしかないな。そうとしてでしかありえない。「人類みな兄弟」が、彼が何故を問われて答えるときの常套句となる。言い訳としてこれしか思い浮かばない。でもそれは、彼においてはもうあられもない現実なんだ。もう色々と考慮すること自体が、鬱陶しくて、めんどくさくなっちゃってしまってる。そんな人間は外から観ると、ただ愚かな人間としか写りゃあしないだろうがね。その発現も、然るべくの試行錯誤をへることにおいて、それなりに

有効性ある形を徐々に見出していく、獲得してゆかねばならないものなのであるのも確かだ。不思議なのはさー、ひとには共感能力ってのがあるんでー、その手の放射は確実に、避けがたくして相手は受け取られてしまうことになっててー、如実に、こちらとの共振は強制的ではあるんだがー、自然と引き起こされてしまうことになんだけれどー。その相手に引き起こされたる、自覚されてしまう認識内容は、そのひとの感受性の鋭さにもよるんだけれど、それぞれ違うみたいなんだけど、なんか変に楽しいとか、どうもなんでか嬉しいとかの思いを感じられてしまってられることが多いみたいな…。w。ここ全文読めた?。


And in fact, you do love all the brothers throughout Macedonia.
Yet we urge you, brothers, to do so more and more.

そして事実、あなた達は、マケドニア全土に散らばる兄弟たちを
心から愛そうとしてくれている。
されど、我々は、あなた達兄弟に、あえて檄を飛ばすをもって求めたい。
更に、もっともっと、その愛たるを行いなさい、その愛を与えなさいと。


*ここは察するに、現地マケドニアの信仰初心者におけるその行動の様子に、
 物怖じ、警戒、不安、なにやら照れ臭いといった調子があるのをみて
 パウロからすれば歯がゆい思いをしこたましてまう羽目となってていたのでしょう。

*細かな世間的常識からの配慮やら区分やら区分けなどとっぱらっちゃって、
 とにかく愛たるものは行いなさいだ。とにかく、直接に/間接的に、関わる相手に対して、
 言うこと/なすこと等、その” 行為 ”の背景にはその対象への愛が展開してないといけない。
 いやじゃないとおかしいんだよって。大ぴらに愛を求める訴える必要はぜんぜんないだが、
 だた

主旋律となって機能してないとだめよって。
 もっともっとできるよ、やれることはもっともっとあるだろがって。
 「愛を行うことにおいて、現行、人々は臆病にすぎる。」(G)


Make it your ambition to lead a quiet life,
to mind your own business and to work with your hands, just as we told you,
so that your daily life may win the respect of outsiders
and so that you will not be dependent on anybody.

我々が先に説いたように…
あなたの目標たるを「平安無事なる日常を構えるよう努力する」に設定してなさい。
あなたの仕事たるものの全容をよくわきまえて、必須なることは手ずから果たすよう
努めなさい。そうしておれば、あなたは周りから尊敬を日常的に勝ち得ることとなる。
そして、あなたは、誰それかに、依存することも、もう必要ではなくなる…。


*ここでは quiet life をどう理解するかが課題。
 他人との関係性において波風を立てないの一言が最善の訳となるであろう。
 これが「何故立つのか」の原因究明がまずは必要。端的にはお互いこころに”引っかかる”
 からだ。大概プライドの障りが原因。これを回避する最善手は、自己のプライドは捨てるが
 一番。正確に自己観察がなされるならば、これは簡単なことなのだ。何言われようが/され
 ようが、意にも介さなくなってしまっているの状態に至るが課題。主の/聖霊による導き
 たるものが、これのサポート、環境造り。その、あった事実だけは意識にて、しっかり認識
 されるが、不思議と、まったく心には障らなくなってしまってるーへと変成してくれる。
 本人においてさえも気づくのが難しい霊妙なる日常における奇跡。
 信徒冥利につきる箇所ーーー。w。

*自分の仕事、その責任の重きを、しっかり自覚してなさいって。
 ことを果たす為すに際して、だれか他人を当てにしたり、使ったり、頼ったりはせず、
 自分の力だけで果しなさいって。これって意外と、意識してやってみると、大変な負担、
 大きな苦しみを伴う作業となる。それも完璧に!やるとなれば…。←(神は完璧なので
 同じくあなたもそうであるよう努力してなさいって。)
 例えばだ、食卓のテーブルを食後きれいな状態に復帰させておく。家族がいい加減ならば
 あなたがやればいいだけの話し。清潔好きのあなたがやるのだから、面倒だと感じるのは
 毎度のこととなる。毎度毎度、嫌気がさされてしまい、もうそうすることは止めたくなる。
 投げ出して食べたものにやらせればいいって思うようになる。
 ここでも Intentional Suffering が課題として横たわってきてるまでー。w。

*平易にして単純な言葉なれど、実際そこに潜む意味は深くて大きい。

Brothers, we do not want you to be ignorant about those who fall asleep,
or to grieve like the rest of men, who have no hope.

我が兄弟たちよ、私達は、あなたがたに、眠りに落ちているものたちに関して、
もう無関係であるとしたり、無視したり、見捨てるような思いもてでいて欲しくはない。
もしくは、福音の要諦を知らずして、まったく理解せぬままの、よって実行もなき
無信仰者らがするように、(死者達のことを)嘆き悲しむことのないように。

*強引なる意訳をここでは行っている。
  fall asleep は、本来は死者のことを前提としていると連想すべきなのだが、
 私はここでは敢えてやんない。Gの訓戒をフラグメンツから受け取っているから。
 生きて生活はしているのだが、その生の有様は眠りの状態にあるにも等しい。
 こういった人々のことをも対象として語っているのだとも取れるとする。

*我々やあなたがたとして語られる人々はイエスを受け入れたことによって、
 信仰者と呼ぶべき存在となった。そうなるとイエスの教えを日常生活において
 意識して送ることが課題となる。よって、信仰が日々に試されることとなり、
 もう眠りにあることは絶対に許されなくなる。

*キリスト教の物語展開としては、死は三段階に分けられて考えられる。
 生きてはいるが、死んでいるにも等しい、深き眠りにある状態。
 現実の生体反応の停止としての死。
 復活の承認をイエスより得られず、魂が地獄の炎で焼き滅ぼされてしまう完璧なる死。

*だからこの物語に準ずるならば、死より生へと再び還る可能性を胸にいだけるわけさ。
 だから、死者たるものたちに向けての感慨も無信仰者と比べればかなり違ってくる。

*要は温かい思い眼差しで、死者たるものたちも見守って上げなさいだ。
 "ぶっつり"線引きをして、彼らを忘れ去ったり、もしくは惜別の、
 いらぬ悲しみに暮れたり、浸ったってばかりにならないようにって。


We believe that Jesus died and rose again and so we believe that
God will bring with Jesus those who have fallen asleep in him.

私達は、『ジーザスが

死んで神によって

命を与えられ

』、

これは実際起こった奇跡としての出来事なのだとして信じている。
だから、もし、ヒトが、ジーザスへの信仰において、主との絆を築き、そして、
これを保ちたるままに死の眠りについたならば、やがてに、ゆくゆくには、
神はジーザスとともに、この死して見失われた死者たるを、
『再び、命ある状態へと引き上げ、戻し賜われる』この展開あることに信頼をおくのです。

According to the Lord's own word, we tell you that we who are still alive, who are left till the coming of the Lord, will certainly not precede those who have fallen asleep.

主、(みずか)らの、(

)、お言葉によれば…

我々、これは未だ現在も現世にての生に、とどまるものとしての意味なのだが、
我々は、主が再び来られるまでの間、この世に取り残されたるものとしてある。
主の再来臨における、究極的な救済においても、我々が、死の眠りに入ったものたちよりも
先に、

がなされることは(絶対に)ない。


*この部分は特別なのだ。おそらくはパウロのみが知り得る情報に基づく。
*連想されてしまうのが、マタイ20:16「後の者が先になり、先の者が後になる」の一節だ。
 こいつも解釈するのが難しい。エニグマチックな内容だ。
*極端なる私論を以下に述べさせていただく:

 ヒト本来の生来的な浅ましさ、そしてそれが故の性急なる心の動きを(いさ)める。
 同時に妬み嫉みの思いを持たない、芽生えさせないように、との計らいとしての
 メッセージだったんじゃないかな?。

 一つ、喩えとして…:

  悟り(解脱)を得るべくして、奮闘する僧侶がいたとしよう。
  彼は熱心に修行を長年に渡ってつづけている。
  また広く衆生に向けて教えを熱心に布教活動を行っている。
  すると、彼の教えの信者の中から、なんと悟りを得たものが出た。
  教えを授けた僧侶よりも先に、あの心身脱落を果し得てしまった…。

 このぼんさんがその事態を知ったなら、どんな思いを抱いただろうかね?。
 大喜びしてくれた?。いや、ないな…。全力をもって尽くしてその事態そのものを
 疑ったことだろう。
 まあ熱心なるキリスト教徒であることに励むことはとても大切なことなんだけど、
 このぼんさんみたいな心情にはなるのはおよしよの釘刺しだったんじゃないかな?。
 その辺の意味合いで、イエスはパウロに、直接的にで何らかのメッセージを発したの
 かもしれない。

*とにかくにも、
 

に生存しているキリスト信仰者らは、なんらかの特別なミッションの元、
 その生は準備されたものたちとなのであろう!。脱線になるのでここまで…。

For the Lord himself will come down from heaven, with a loud command,
with the voice of the archangel and with the trumpet call of God,
and the dead in Christ will rise first.

なぜなら、主イエスご自身が、天の御国より、この地上へと再び降臨されるときには…
それは大号令とともに始まり、大天使の声ありて、神のトランペットが鳴り響く、
その最中のことになるのだが…、

初めてに、キリストに連なりて亡くなった死者たちが、まず復活を果たし、
次いで、引き上げを賜ることとなる…。

After that, we who are still alive and are left will be
caught up together with them in the clouds to meet the Lord in the air.
And so we will be with the Lord forever.

その後、我々、未だ生きて、この地上に取り残されている者たちが、
彼らとともに引き上げるようなされる。

我々は、上方へとに挙げられて、空の雲の中で、主と相まみえることとなる。
そして、その(あかつき)には、われらはもう永遠に主と共に在ることとなるのだ。

Therefore encourage each other with these words.

よってしかるにて、やがてに間違いなく起り来たらむ、そのことの説明において、
希望を胸に抱いて、お互いに励まし合って、暮らしていって欲しいと願うばかりなのです…。


大型介入:
*ここは特別にして格別なる表記内容となる。
*にわかには信じられないただの夢物語、妄想願望、彼の夢想としてしか受け取り難い部分。
*「にっ、しては」、やけに確信をもって、語っているようにもおもえるのだが?。
*パウロは、天よりキリストが、直接言葉をもってコンタクトした人間だ。
 つまりは、主が働き手として定めるに足りると、判断された特別なる人間になる。
*それが、頭のメッチャ固いバリバリのパリサイ派で、キリスト者に対して強行にして
 容赦なき迫害をおこなっていた人物あるにも関わらずだ。その霊的体験によって、
 百八十度の方向転換を改宗において果した人物でありことだけは忘れてはいけない。
*パウロも、間違いなくキリストに連なる霊感によってヴィジョンを得てる。
*だから、なにかを確実に観てしまっているのも確か。確実に何かを知ってしまっている。
*彼が語ったことは、彼の願望や理論や想像だけでは済まされないなにかがある。
*彼が語った内容において考慮されるべきなのは、その折に得た霊的ビジョンを、
 正しい内容へと彼が翻訳することができたのか?この一点においてだけ…。

さて、ここは『携挙』に関わる。それが起こるであろうことの唯一の根拠とされる
箇所となるのだが、少し、妙な、違和感を自分なんかは憶えてしまう…。

話の流れからすれば、単純には、先立った者たちへの悲しみに暮れているマケドニアの
同志たちを、その辛い状態から回復させようと、勇気づけようとして、突如、この話と
しては別格な、どこでも聞いたこともないような内容が、急遽、差し込まれてきてしまって
いると感じてしまうのです。ならばだ…、この内容は、あまりに過剰にすぎる!。

おとぎ話的な話しをもって、慰安に励み過ぎたのではないかとも…邪推してしまうのです。
各自、皆様のご判断にお任せ致します。敬具


追記:

世にて語られるところの「携挙」…。

もし、それが、起こるのならば、それは物理的な、実際の移動なんかではないだろう…。ことは、もしかしたらなのだが、上位に在る、普段はまったく使われることのない機能、高次感情センターと高次知性センターとしてのチャクラが強制的にをもって開かれたしまうのかも知れない。するとだ、これは準備ができていた者たちに限ってのこととはなるとは思うんだが、それらを通しての状況把握が、それらにおいての自己の結びたるものが、それによってへの方に重心移動たるものが起こってしまうのだ。自然とね…。その身は未だ地上にあるのだが、開かれたるの第三の目のビジョンにおいて、それまでには覚知できなかった、捉えることのできなかった認識が持たれるようになる。すると、

イエスの所在が確認されてしまうようなことにもなるわけさ。その所在は物理的な座標になどではいない。まったく未知なる次元においてのこととはなるのであろうが、開かれたるの、そのビジョンにおいては、それがハッキリと観ることができるようなってしまっているのかもしれない…。もしかしたら、心話において、会話さえも適うようなってしまっているのやも知れない…。

自分がここを書いたのは、ことを唯物論的なフレームで考えて、それを盲信することに警告を
発するためなんだ。You Tubeなんかにおけるキリスト教の権威者たちが、みなこれに染まってしまっているんでね。なんか

救済のイメージたるものを誰もが皆、持ちたいんだろけどね。って言ったって〜、空中に引き上げられた雲の中で主と再開するってだ…何人いると思ってるんかね?…。また主はお一人のはずなんですけど…。

だいたいだ!、父なる神が本当に、白き輝く髭を生やしているなんてことが本当であるわけない。そんなこた〜少し賢い児であればすぐに気づいていしまうこと…、分かること!。これもあくまで現実において、教えを嵌め込まんとしての、ヒトの狭量なることを原因としての幻想に過ぎない。それに溺れることが信仰ではないはずだ…。

同じくして、イエスが本当に白い雲にのって再来臨するなどと、みなは本当に思っているのだろうか?!。あれはヨハネがその観たビジョンにおいて、彼のマインドにおいてよって、翻訳されたるの内容にしかすぎない。それでしかない…。言葉によってでは伝達し難きを無理して翻訳を行ったものでしかないんだ。

ことは確かに起こる。再来臨は確かに絶対にある。だが、そのことの実際は、あれらのビジョンに表された「何か」としてでしかないんだ。たぶん、それは想像だにつかない、非日常的な事態においての出来事になるであろう…。

心構えとして持つ分には、なんだって構いやしないんだがね…。

表現として語られた内容を、たとえとしてのものを、観念をもって述べられたその様子を、

そのまま、字義通りに、言葉通りに信じることだけは、ひかえたほうがいい。

それだけは止めといたほうがいい。敬具



5-1

Now, brothers, about times and dates we do not need to write to you,
for you know very well that the day of the Lord will come like a thief in the night.

さて、兄弟たちよ、再臨のときが、その審判の日が、いつのことであるのかを、
私達が、あなた方に、書き知らしめる必要はないであろう…。
なぜなら、主が再び来られるその日とは、まるで「夜間に盗人が忍び来たらむ」ようにして、
まったく不本意なる状況にあってであることをあなは知っているのだから。

*イエスご自身でさえ、そのときがいつなるかはご存知ない。
 その開始は、あくまで父なる神のご一存による。

While people are saying, "Peace and safety," destruction will come on them suddenly,
as labor pains on a pregnant woman, and they will not escape.

人々が「まったく平穏無事この上ない」と思って生活しているその時節に、崩壊動乱破滅は
突然やってくる。それは、まさしく妊婦が出産にさいして味わう、陣痛の如くして。
すべての人々にとって、避け難き、絶望的な状況として。

*全人類まとめての新生が、そのときには起こるので出産が喩えとして念頭に
 あったのだろう。
*惑星規模での変動が、まったくの災厄の顔を備えて、その時節には起こってしまう。
*こと、もう、そこに、起こりたれば、問うは一切必要とされず。
*その状況のことを甘く考えていてはいけない…。


But you, brothers, are not in darkness so that
this day should surprise you like a thief.
You are all sons of the light and sons of the day.
We do not belong to the night or to the darkness.

そうあれども、あなた方はもう暗闇に生きてはいないのだから、
この日が、あなた方を、盗人の訪れが如くをもって、驚かせることはないであろう。
あなた方はみな光の子、日の光の下に生きたるものなのだから。
私達は、暗夜に、もしくは暗黒たるものに、属したるにはもういない。

*なにか、驚天動地の災厄たるものがおこったとしても、
 さしたる驚き動揺たるを、心には覚えないと。
*真の信仰生活としての積み重ね、その結果としての境地ってのが期待されているんだろね。
*ここも重要なので言っとく:
 光は明晰、明確なること。ことは真実の基に生きてなさいに尽きる。
 暗黒/暗闇は、その逆に過ぎない。要は現実的なことがまったく分かってない。
 知らないの状態。そのことの結果は、現象としては、迷妄/妄想/思い込み/我執、の只中に
 生きているだけとなる…。
 

So then, let us not be like others, who are asleep, but let us be alert and self-controlled.

そうであるならば、盲目の人々の如くとはならず(それらの人々は眠りの状態にあるのだが)
されど、私達自身は、内にも外にも警戒を怠らないで、自己抑制の状態に絶えず留まるように
していようではないか!。

For those who sleep, sleep at night, and those who get drunk, get drunk at night.

なぜならば、あれら、眠れる人々にあっては、夜にはもう完全完璧に眠りたるものに落ちて
しまっているし、そして、酒に酔うを好む人々にあったれば、夜においては前後不覚の
状態になってしまうのがもう当然なのだから…。

*意訳強ですね。でも内容的にはこっちが正解だとは思うんだわー。
*念の為に、口語訳では『眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである』となっている。
*要は、前段の、「夜に忍び入る盗人の如くにして訪れる急事」に関わっている。
 その緊急事態に然るべく対処できるよう、絶えず目覚めた状態にいるべく努力して
 なさいって。
*酒に酔うのを好むについては、それは絶えず”

”を求め探している状態。
 そんで、手っ取り早く仲間で集まって酒を飲むのさ。これは分かりやすい例えとして。 
*実際の話しをするならば、自己意識(人格)としての内容がもうそれで一杯なのさ。
 それに駆り立てられているだけの毎日ってだけ。止むに止ませぬ思いにてってだけ。
*目覚めて在るは、もうこれはそれらエゴとしての働きが止んだ、
 つまりは心身脱落の起こっての後の状態のことになる。
*真の自己想起は、そのマインドたるものが静まって、もしくは、
 その自己中なものとしての働きこそが死滅滅却され平定され尽くしてこそ、
 ぞんざいに言えば、頭ん中が”空っぽ”の状態になってこそ、
 初めて、自然と起こり得るものになる。
*この状態にあることを、つとめて努力するようにと、
 それに至って、そこに留まることを、パウロは信徒らに求めている。


But since we belong to the day,
let us be self-controlled,
putting on faith and love as a breastplate,
and the hope of salvation as a helmet.

されど、私達は、陽の光の下に、その元に、生きることを選択したものならば、
自らをよくわきまえ、然るべく自制されたるヒトとして生きようではないか!。
信仰たるるを、現実に生き抜かんとするその意思、そして正にその為の、
信仰の真髄たるる愛そのものを、甲冑の”胸当”として、身につけて、
そして救済への希望こそを、”兜”として、頭に冠って!。

*「鎧兜に身を包み」が必要となる訳だ…。
 何に対して、何の脅威から鎧兜をもって身を守るのか?。
 信仰に生きることは、そうすることによって然るべく備わってくる状況は、
 まるで”合戦”か、なにかのようなことなのか?。
*これは、レトリックとして鎧兜を用いる訳ではない。
 実際に、それは戦にも等しい状況に間違いなくなる。
 だから、完全に『YES』になる。
*極論的には、敵は己のこころの動きになる。
 その原因となるものが外にあろうが、内にあろうが、本当のところは関係ない。
*敵は正に自分の内にいるのだ…。いる”ものたち”になる…。
*それらの敵を撃退する術において、最も有効にして必要とされるのが、
 キリストへの”信仰”(頭)と”愛”(胸)をすべてにおいての基調とする行動選択になる。
*敵は余りにも強力で強大で、また恐怖を掻き立てる存在であるのもまた真実だ。
*でっあるからこそー、”勇気”が、然るべくの状況の整いにおいて間違いなく試される。
 そんでー、合戦に生きる精神を暗に求められておられるまで…。


For God did not appoint us to suffer wrath but
to receive salvation through our Lord Jesus Christ.

神は、み怒りにおける激憤をもって、私達に、苦しむべくの定めを与えられたわけではない。
むしろ我らが主、”イエス・キリスト”を通じて抜本的なる救済を得さしめようとなされたのだ。

*神の、天の激憤によって、災禍、苦しみたるものが人間には備えられる。これは道理。
*ここに、二種類の苦しみがあるということになる:
 一つはキリストの教えに従わんと、それらを実行によって証せんとする奮闘に伴う苦しみ。
 一つは神など知らぬ存ぜぬを決め込んで、我欲のまま無責任に生きたに伴う苦しみ。
*「他者において」はすべて幻、無関係なるものと見て、
  自分が(よすが)とする道を確立すべき。
*その道を外れることは一生の期間中において、もう絶対に許されない。(こっわ〜)


He died for us so that, whether we are awake or asleep, we may live together with him.

彼、キリストは、我々の為に、(十字架上にて)死なれたのだ。
我々が目覚めてある、もしくは、もう死の眠りについてしまっているに関わらず、
わたしたちみなが、彼と共に生きることとなるであろう。

*直訳としてはこんな感じなんだけど…ちょっと穿った解釈をしてみよー!。
*キリストの大事業は完了した。これは前にもどっかで言ったけど、
 超大魔術の完遂がなされたのだ。その効果はもう全地球レベルで、そのスケールにてで
 今現在も機能し続けている。(聖霊も重要な役割をはたしている。)
*それはもう絶えず、すべての個人を窺っているのさ。”

”を見つけるべくして。
 その個人においての救済の可能性の萌芽を絶対に見逃すことのないようにと…。
*まあ、言いたいのは、深く眠りの状態にある人々においても、
 彼の関与は絶えずいつもあるかもよ?ってこと。
*そうであるからこそー、自分なんかは捕まっちゃたんかもね。w。

Therefore encourage one another and build each other up, just as in fact you are doing.

然るにて、お互いに励ましあって、かつ互いに高め合うよう、心がけてください。
現に、今、正に、あなた方がそうしているかのように…。


5-12

Now we ask you, brothers, to respect those who work hard among you,
who are over you in the Lord and who admonish you.

さて親愛なる兄弟たちよ、我々は、あなた方に、お願いしたいことがあるのだが…。
あなた方の中で、労苦している者たちのことを、尊敬してやってはもらえないだろうか。
主の御教に関して、あなた方よりも理解としては上位にあるもの達のことなのだが。
あなた方に教説をおこなう、その役目にある人々のことになる…。

Hold them in the highest regard in love because of their work.
Live in peace with each other.

彼らを、崇高なる役目に、服している方々なのだと思って、敬ってあげてほしいのだ。
どうか、愛ある眼差しをもって。
彼らが、主より与えられた仕事を果たさんと、労苦に励む、その実際の姿において…。

平穏を、お互いの努力にって保てるように、
平安なるを、恵みとみなして、お互い大切にして、
平和に包まれて、お互いに生きておれることこそが、
もう既にそれは奇跡であると、そう思っていてもらいたいのだが…。


And we urge you, brothers,
 warn those who are idle,
 encourage the timid,
 help the weak,
 be patient with everyone.

そして我々は、あなた方兄弟に、強硬なる姿勢をもって命じておかねばならないことがある。
 怠惰なるが常なるものにあっては、これらには厳重に訓戒を発したまへよ。
 臆病なるものらにあっては、これらに勇気づけするを心がけよ。
 弱きにあっては、彼らを見捨てたり無視したりすることなく、
  でき得る限りにおいて助けを行ってあげるように。
 誰にあっても、忍耐の必要性が、そこにはあるのかもしれんと、
  自制を絶えず心がけておくように。

*要は”育み”が課題としてあるのだ。
 ヒトは不思議なことに自分が過去どんなだったかは忘れてしまう。完璧に!。
 つまりは、ことが出来なかった、果たせなかった時節における自分のことはだ。
*変化というか、成長やら意志の増強やら、精神的なタフさの獲得やらは、後転的なものに
 過ぎない。なのにー、出来て当たり前だとか言って、未だ未熟なる他人に対しては厳しい
 批判を下しがち。根が短気なのよ。だから鍵に為るのは、善き結果をもとめるのならば、
 忍耐と愛のキャパ。多分これが、これらの発達こそが、神の本当の目的なのだ…。
*タマスに関してはこれは要注意だ。これが増強されてしまうことだけは避けねばならない。
 特に幼年期においては特に。怠惰にあっては、その持ち時間は、妄想にのみ費やされる
 こととなる。これは本質的には、世界からの断絶を、自ら果たすの事態となっている。


Make sure that nobody pays back wrong for wrong,
but always try to be kind to each other and to everyone else.

誰も、悪をもって悪に報いることなど、絶対しないように。
されども、われわれ自身においては、お互い、誰に対しても、
いつも親しみの思いを持つように。
更には、それが、誰であったとしても、同じくあれるように。

*ここ、とみに重要。
*もう「目には目を歯には歯を」では完全に違う。
 これは人類が真理に対しての目が開いてきたから、
 教えはもっとレベルの高い内容へと変更されてしまったのだ。
*悪しき行いは秩序における違反。これが後追いで伝播すること増幅されてゆく、
 この展開こそが、食い止めねばならない事態。
 この役目のみに伏しておれよと。真の、最終的な裁断は、天が行うこととして。
 あなたは黙って控えていなさいって。神の秩序の中に居なさいって。
 ラジャス(激質)とタマス(消沈)が暴走し、その勢いを増すことこそが、
 避けねばならない事態。
*怒りの前に、愛があることに感謝を忘れず、それの尊びを深く憶えて、それに住まいして、
 生きるようしてなさいーって。人類みな兄弟の思いにていつも幸せであることを自覚して、
 生存してなさいーって。w。

Be joyful always;

いつも喜んでなさい。
神への感謝もて。
それ一杯で。;

*とどのつまり、すべては神による設えでしかないのかもね。
 善きことも悪しきことも。あなたの今に対応した神よりの反映。それが世界。
*もしかしたら、あなたの他には、神以外には、
 誰も本当には存在していないのかも知れない。
*もしそうであったならば、
 あなたは、神に、どのように、何と、語りかけるのだろうか?。
*嘘やおべんちゃらは一切、通用しませんからね!。


pray continually;

絶えず祈りを忘れずに;

*言い換えるならば、「神へのフィードバック」を絶えず行ってなさいーって。
*彼とあなたは、ある面、二人三脚なのだから。
*あなたからの情報提供を行って、微調整がなされるを欠かさぬようにーって。

*当然に、彼は、こちらが言わぬとも全部お見通し。
*でも、あなたからの主体的になされる発信を求められいるのだ。
 それの確認の中で、あなたの成長を、更に、然るべく、
 促進させる為の環境が新たに設えられるんよーって。


give thanks in all circumstances,
for this is God's will for you in Christ Jesus.

あらゆる、いかなる環境下にあろうとも、感謝しておれるように。
それこそが、イエスキリストにあっての、
あなた方自身に向けて、神がご用意された試練であるのだとして。

*ケンピス編纂のあの書の中にもあったよね。
 もうそうなったなら、あなたにとって、あらゆることが”幸いなる”へと変わってしまう。
 これこそが本当の奇跡なのだよと…。
*変容の神秘。
*まともにその変容工程をくぐったものにしか、その摩訶不思議なることは分からない。


Do not put out the Spirit's fire;

精神における、その炎を、消してはならない。

*これがまた難しい課題なんだ。
*信仰をまっとうするの意気込みや気概、その精神のことなんだが…。
*ゼンマイは巻き戻ってしまう。だから間違いなく締め直さなきゃあなんなくなる。
*違うな…だから”いざない”ってやつは、避けがたく四六時中で、
 起こってくるもんなのさーかな?。
*祈りが腑抜けたものにならないようにって、ご配慮なんだろ。
*しかしだ、長く続けていると、神に、自分が求める、その祈りの内容そのものが、
 あまりにくだらない代物ばかりだってことにも気づくようなってゆくわけさ…。
*Spirit's fireにおける上昇/下降/順行は絶対にある。この変動は避けられない。
*神の実在とその関与を日常において見いだせなくちゃならない。
 帰納的に、でしかそれはありえんのだが…。
*認識において、新鮮なるショックを、自ら率先して然るべき停滞状況の中においては、
 到来させれなければならない。警戒心を非常時として上げて絶えず注意を利かしておく。
 一切の嘘ごまかしを自分にしてはならない。場合によっては神をも忘れる。
 その、観念でしかないものは

…。それは【在る】しかならないなにか。
*眠っていてではまずこのことは不可能…。求めよ!さらば与えられん。
*最後の最後まで、そのランプの火は、ちゃんと油注してメンテナンスして、
 守り、灯し続けていなさいよって。このことはすんごく難しい課題ではある。
*じゃないと、主に、見つけてもらえないから。その閉幕の時節において…。


do not treat prophecies with contempt.

先に預言者らによって語られたる内容についてを、侮りをもって軽んじてはならない。

*パウロによる携挙の話を軽んじやしないけど、あれは仲間を失ったことによって
 悲嘆に暮れている者たちに向けての話しであった訳なのだから、平時にことさら
 特別なることとして取り上げる、念頭に留める必要はないって思うんだ。
*これが映画の題材として使われた際には、毀損としての働き、効果しかないなと思った。
*本体としての教え、その精髄としての要項たるらを忘れてはならない。
*そのときは、そのときのことまで。
*預言関係は、あくまで覚悟を決める為の根拠としてあるだけでもう十分。


Test everything. Hold on to the good.

すべてにおいてよく吟味を行う。
善きものを手放すことのないように。

*なんでもかんでも、軽々しく取り込んではいけないって。
*自分に判断力なんてものはないんだって最初から思ってなさいって。
*だからこそ慎重に慎重を重ねて、よっく確かめててからにしなさいーって。
*本当に良いものは少ないんだから、それを幸運にも手にしたのならば、
 も~絶対に、それを手放したりなんかしてはいけない。
*もう同じそれが(彼女が)来ることはないから…。


Avoid every kind of evil.

あらゆる邪なるものとの関わりは、これらを避けるべく生活しているように。
それらからは、心/精神としても肉体としても、極力、遠く離れておれよ。

*今日日ほど、身近にこの邪なるものの関与が溢れかえっている時代もなかったんじゃ
 ないかなー。
*奴等はメディアをすべて支配下においてる。
 ネットももうだめよ。瞬く間に組織的運営の元での情報提供になってしまった。
*エロを煽るもの。白痴的な振る舞いを芸と称して世に曝すもの。
 恐怖を梃子にしてなにかを吹き込もうとしているもの。あやふやな未来予知の話し。
 非日常の話でいらぬ好奇心ばかりを煽るもの。ヒステリックな扇情を煽らんとするもの。
 金になるはなし。出世の為の戦略戦術。即物的な効果を唄う薬。etc.。
 
*簡単な見分け方は、背後に組織だったものがあるかどうか。
 その場合には、たいがい見栄えよくって、構成がしっかりしてる。
 つまりは妙に洗練されている。そしてMCはよく修練を積んだであろう役者さんで、
 見栄えの良い美人/美男子さん。ならば当然に、バカでかい出費があった訳だから、
 確実にそれを回収して更にリターンを得るべくのスキームが背後には敷かれている。
 もしくは計画された何らかの意識コントロールを目的としたものだ。
 絶望感とか失望感とか狂気とか…、とにかく日本人のやる気を失わせる…。 
*彼らは所詮は操り人形にすぎない。お金がもらえるから何の理解もなくやってるだけ。
*戦略としては「真なることから切り離し、虚妄の大伽藍の中に封じ込める」だ。
 ピノキオって、読んだことあります?。


May God himself, the God of peace, sanctify you through and through.
May your whole spirit, soul and body be kept blameless at the coming of
our Lord Jesus Christ.

(私達はあなた方のために祈っておりましょうぞ!)
 まったき平和の内に在られる神、ご自身が、あなた達を徹頭徹尾に清め給わんことを。
 我らが主、イエス・キリストがご再臨賜る際には、
 そのときには、もう既に、あなた方の精神のすべてが、魂も肉体においても、
 一点の非も打ちどころがない、一切陰りも見当たらない状態になっていますようにと。


The one who calls you is faithful and he will do it.

あなた方に、呼びかけを行われた方は、誠実であることこの上なく、
よって、その清めを、彼は、間違いなく、存分に、執り行ってくださいましょうぞ。


Brothers, pray for us.

兄弟たちよ、我々の為にも、祈ってやってください。


Greet all the brothers with a holy kiss.

祝福の表しとして、頬へのキスを挨拶としての習わしとしなさい。


I charge you before the Lord to have this letter read to all the brothers.

主の前において、私は、あなた方に、
この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かすことを義務付けます。


The grace of our Lord Jesus Christ be with you.

我らが主、イエス・キリストよりの恩寵が、皆様に、恵まれてありますように…。



〈了〉





あとがき:

自分の抱くテーマにおいて、パリサイ人の種に関する話が一つある。
Pharisees (I) [真面目という名の呪縛]で始め、その次の(II)の執筆中、
腰砕けとなってしまったのだ…。その理由は、語り手と聞き手の立場の違いを突如、
図らずしも自覚してしまったが為にだ。好き放題語ったならばこれほど残酷な話はなくなる。
誰も好き好んで、かたぐるしい作法に、従っているわけではないのだから。
生活が、家族への責任がかかっているからこそ、それに染まらざる得ないのだと…。

パリサイ人の種は、自分の語彙としては「プロトコル」への過剰偏重になる。もう病気。
法律だ規則だ制度だって言えば良いんだけど、あえて聞き慣れぬこのPC用語を採用した。
それは、…最近で言えば、不急不要の目的で、昼であろうがなんであろうが街ん中へと
出歩くことのないようにって。マスクは絶対に着用。こういった決め事に関しての話し。

これは破れんから…基本。

プログラムに逆らうには、より上位のプログラムに関わるCODE、
これの入力が絶対に必要となる。

それが愛なんだって。

この辺の話をするなら、パウロの

教説が最高のたたき台としてのテキストになる。

再起動は、どこかでしなければならない…。

そのための布石、助走として今回の稿はあります。


   謝


天乃村勇鉄斎実篤



蛇足:

なんでか分からんが、日本電産の永守重信社長には、このパウロのイメージをみてしまうんだ。
彼のことは詳しくはまったく知らんのだけど。かれの本のタイトルしか知らんのだけれども。



どこにこの稿の真の目的があったのかはもうお分かりですよね〜…。敬具


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み