32.  無題

文字数 8,971文字



         https://www.youtube.com/watch?v=T7Dcun7O9H4

            マタイ13:44と45において少し考えてみよう。
         これはマラナタ3月5日「天にある傷のない真珠」を聞いてて、
             どうにもこうにもしっくりこなかったからだ。


         あれの引用元となる聖書におけるその部分をまずは抜粋:


         44)天国は、畑に隠してある「宝」のようなものである
               人がそれを見つけると隠しておき、
            喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、
                そしてその畑を買うのである。

      45)また天国は、良い真珠を捜している「商人」のようなものである。
          高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、
                そしてこれを買うのである。


面白いのは構文上主語(S)と補語(O)が”逆転”において語られてしまっているまでなのだ。そしてそのどちらもが、 S も O も、天国と、イコールとして括られてしまっている。


            天国 = 宝     天国 = 商人


さて、自分として気になる、どうしても引っ掛かってしまうポイントを上げてみよう...。


具体的には「天国=イエス」ってことになるわな…。その天国たるものは、イエスを信仰することによってこ〜そーーその

ってやつが、適うことになるんだって…。だから〜、

いと…。拡大解釈のやりすぎ。これって、したら

やつやって…。そうした上で、言葉を継げば継ぐほどに、そのすべての語りは、どうしたものがぼやけていってしまう…。彫り深くして単純明快なるものであらなくっちゃねっ。これは、このことは、聖書たるものの記述法、それの最たる特徴になっている。


あのマラナタより…

キリストご自身が高価な真珠である」←彼が基づくところの義、語り伝えるところの義たるものには、一つとしてシミも傷もない。つまりは欠損として欠けたるところが全くないということだ。続いて、ちょっと意訳とはなるが「彼が備え持ってあるその知識や知恵は人類にとっての宝である」と。だ〜か〜ら〜、我等が贖い主であるイエスはーー、「実に高価な真珠」であると。「それに比肩するできるものは何一つとして、この世には、

」と。このあとに少し、いや

理屈展開がかなりなされて〜、結果、その高価な真珠として譬えられるところのイエスを「私達は所有する」のであると…。

たぶんここなんだろな〜自分が引っ掛かってしまうのは…。展開的にいつの間にか「

、私達は

」ってことになって

だ…。云わんとするところ、その思い、その気持は分かるんだ。だが、越権行為としてのものになってるな〜って、自分としては思ってしまう。個人としての思いや考えがさまよいでてきてしまっている。このマラナタの中で語られているその

となってはいるのだ〜がーーー、真実としてのその内容が、間違ったやり方で、原典としてのその話の中にて、織り込まれてきてしまってーーー。




44)における前提は、畑は生活の糧を得る為の仕事場。よって大切にするべき資産。高額なる資産。小作人では儲けが少なくなるので是非とも私所有のものを手に入れなければならない。でもその土地たるものは、土質がよくって、水を引くに不自由なく、植物を育てるに良好なる気候に恵まれてあるもの場所ともなれば、おいそれとは手がでない。ほぼ一生をもっても買えない。高額すぎて購入におけるそのお金の工面が、まずできない。大概、だいたいの人々からしてみればそれは「喉から手が出る程に〜」欲しい物までに留まる。手に入れたきの憧れとしてのものではあるが、実際にそれを購入するべくして動くにはよほどの確信たるものがいる。なければできない。踏み切れる訳がない。この世に生きるにおいて、通常固くもっている思慮配慮計算を突き抜けてしまいほどまでのリターンについてのおいての確信が絶対にいる…。

当該のお話しとしては、そのある人間は、他人が所有するそうした豊作が適う広く豊かな土地にて小作人として働いておりました〜っだ。貧しきヒトであることを忘れてはならない。すると、ある日、打ち込んだその鍬が、なにか金属のようなものに当たった、そんな気がした。そんな音がしたんだ。「キィーンンン…!」って。そんで、そこんところを深く手もて丁寧に時間をかけて掘って、掘り返して調べてみるとー、古銭としての金貨がもう渦高くして埋まっているではあ〜りませんか!だ…。

。そんでその小作人は、それを見なかったことにしといて、急いで土を覆い被せて踏み固めて元の通りに戻してしまう。目見当においてその場所がどこであるかだけしっかり覚えて記憶して、さっさと家に帰ってしまいましたーだ。皆には体調壊したとかなんとか言って伝へもてで…。そんでから急いで金の工面に走るわけさ〜。自分に自由の効く一切合財の財産を資産を「お金」に換えてしまう。もう何一つとして残さんようにして!。更には、保険として可能な限りの借金を親類縁者のみなから取り付ける〜。正式に土地の所有者となるまでの当座は、場合によっては野宿したって構わない。雨水飲んで、野ネズミの生き血生肉すすって喰って生きたってかまわやしない。そんな覚悟でいたんだ。そんで、あの土地の持ち主に売って欲しいと、なんとか申し出たわけさ。それもかなり相場より高い値〜で!。

でっ、そのことの結果、成り行きとしては、都度色々と不便、苦渋なる飲むことにはなるのだが、無事、大金と、豊かな作物の実る土地を無事手に入れました〜ってことにはなるのではあろうが、さて、このお話しの例えとしての要点は一体何だったんだろうか?

従来的に自らが大切にしている、執着を持って所有している、その一切合財をー、投げ捨てました〜って、ところにあるんだろね…。具体的には、自分が現在生活生存の根をはっているその状況環境所有物のすてべを換金して、もう元には絶対に戻せない、そのリスクを背負っての賭けだったんだ。その男は、現実に揉まれて苛まれての結果としての主義者であることは間違いのないことであろう。大層な功利主義者であり、また実行力たるものの持ち主でもある。*ここ重要だからね。そうでなければならない。それをしっかりと意識できてないとこの話が成り立たなくなる。

地面の下に埋もれたあった古代の金貨、数百枚、数千枚。これに対してヒトが思うこと、感じるその思いが、天国たるものを実際に味合う、そこに至り得ることと同値なんだって。つまりは、

、同じ価値において、もう圧倒的にハッピーになる。なれる。その思いを感じれるようになるって、イエスはー、おっしゃっている。何故だ?!。

このたとえ話における前提を踏まえて、その物語おける展開は、その対象内容を換えながらも、つまりは地上における最大級に価値があるとみなされるものと、天国はそれと同等同値、だと語っているまで。

語るによって、ヒトに夢や理想を持たせることは可能は可能だが、その成果はあまり覚束ない。そんな話ではないのだ。ことにおける戦略は一つしかない!。真実をもって語るにしかない!。イエスは当然な話し、先もて天国がなんなのか、神のお膝元たるところがどんなところであるのかを

。おそらく、多分、このたとえ話を語るという行為は、確信がないと、絶対にできないものなのだ。じゃないと語ることそのものに意味がない。

では、他人が語る、その彼にとって真実に根ざしたる言葉は、その説明は、
赤の他人、また別なる人間においてはどのように響くことになるのであろうか?
不思議なことに、あの両刃の剣の如く突き刺さってしまう。
深く某らかの影響を受けてしまうこととなる。←あとはその人間次第。

*この稿のポイントになるのだがことは現実に基づいての事実本当真実でなければならない。
*聖書においてともなれば、下手な幻想や思い込み期待希望をもって語ることは許されない。
*また、もしそれらならば、自分としては「どうでもいい…」と、斯く思うべきなのだ。


次の「商人」の話の場合:

こにおいてともなると主人公は先の小作農とはまた違ってくる。何が違う?、これは語るのも野暮なので皆さんにお任せしておこう…。でもやっぱ、前提となるのは〜、やはりヒトは生きていく上においては実利的現実的で、かつ優秀でなければならないってことであろう。自分が商うところのものに関してはエキスパート、つまりは目利きとなっておかなければならない。あったりまえ。中々にそうとはなれないんだけどね〜。大変長きに渡る商売の経験たるものが必要となってくる。生き馬の目を抜くの世界。善人なんか一人もいないいるわけのない修羅魍魎鬼神が跋扈してある世界。実際そうなんだって…。買い手はいるにはいるが、みな本当に素晴らしいものでないと、もう買わない。買ってくれない。売り手よりも遥かに遥かにシビアーにして、更にはお目がとてもお高いときた…。そして何よりの前提は本当に素晴らしいものは滅多なことでは表にて売りに出されてくるってことはないってことなのだ。これが現実。貴重なる宝なるものは、所収家らによって、厳重に隠匿保管管理されて、囲い込まれてしまっているってのが常なる話しなのだから…。さて、あるとき、この商人は、偶然にも、とある有名にして名高くして貴重なる真珠が売りにだされていることに気付く。おそらくはアンダーテーブルのはなしとして。こと購入のチャンスはだ、瞬間としてのものになる。それが真に価値あるものであればだが…。兎に角、その機会たるものは、すぐ消えてしまう。なくなってしまう!。でっ、先と同じくして、この商人は、自分が所有するところの一切の資産資金財産をー、即刻即座に売っぱらってしまう!。そうした行動へと出てた。大変な決意の元でだったろうさ。そして〜、無事、その真珠を自分のものとするわけだわ〜。したわけさ…。

本物は本物を見分ける、知るって。

たとへそれがどれほどのリスク、出費であったとしてもー、
それを手に入れることが、絶対の最優先だったわけだ。

話としては、ことはもうそれを更に換金するって展開事態が、ないのかも知れない…。

真珠としての価値を見極めるにおいて、その彼は真のエキスパートであったから!。

…ここで、自分としては〜、なにか表現においての混乱がありはしないか?と、訝ってしまうわけなのだが〜…。このままいったら、なんもかんも捨てて手放して諦めてしまった

天国だってことになってしまうからなのだが…。これはこれで、ありなんかもしれない…。あの「心の貧しい人は幸いなり」私訳:「こころに、最早なんの執着も欲もなかりければ…」に掛かってくる、連携させるべきものであるならばだ…。

もうそれ(天国に至る)を手に入れるにおいてしか、願うことはもうなにも有り得ないのだと。他には、もうなにもありませんと、ありませんのだと…。こういった人間ともならば、もう天国に居る入ったにも等しくしての存在だと…。

これは、なんらかのメルクマールとしての事態があったればーとしての話しなんだろね〜。ことにおいての現実主義者であればこその、その確信としての特殊な事態ってやつが、あればこその…。


少し振り返り…

万が一、表現においての伝達に、間違いたるものがあった場合は、
やはりその「真珠」たるものが天国であるとなるのだろうなと思う。

※自分としては”100%”転記においてのその

だと確信してはいるのだが…。
※こうやてっ言い切るってことが各自、何においてであったって〜できなければならない!。
※もし間違ってたならば、そりゃ、そんとき、謙虚に改めればいいだけの話し。
※恥を恐れんなって。

そうなるかどうかは、その確信が、当事者において持ちうるのかどうかだけ。
ここが鍵。ことはあくまでその人間が実際に本当にどう思うのかに掛かっているまで。
そうした認識がもたれるのも恩恵たるがあったればこそになる。
また、なによりも、その人間が、現実主義者、功利主義者として、
とてもよく現場にて経験において、磨かれてきていればこそ!。

そのものの価値たるは、自身にて見極めるをもってでしかないと成り立たないっと。

仏教もキリスト教も生活において中途半端な人間にとっては縁なきものだからね。

お釈迦さんは自分の教えを学びうるものは、
かなりに現実的に優秀で、また知的にて優れてないと無理だっておっしゃてた。



追記:

ついでに、何故にか〜、偶像崇拝って何?を、再度やりましょう。

それは、つまりはだ、

ってのが一つの前提。
会社だとか党派だとか国家だとか抽象的なシステムとしてのものであってもいいだがね。
とにかく、それは具体的にしてなる体たるものを備えもっているものでなければならない。
そして、なによりも、自分にとってハッキリと実入りとしてのありがたみを、
某らかの確かな喜びを与えてくれるもの。感じさせてくれるもの。
その

被めたるのものでもいいか…。

今回のたとえ話においてともなれば、あの埋もれた金貨とか真珠のことになる。
聞く人において、ある種の限定をもって、卑近にして粗野なる限りその加減もて、
最上級、最大級の魅力ある価値あるもの、
偶像としての

、それら二つには添えて構えられてある。

ヒトは確かな投影(プロジェクション)が適う具体的な何かを求める。
そのことの原因理由は、肉としての自分、肉としてのその欲求、求め、願望に
大きく縛られてあることによる。

女性アイドルに魅了されてえらく執着してその彼女を神聖視してしまうのも、
性を媒として、その願望を欲望を投影してしまっているからに他ならない。

ところがだ!、神たるものは、あくまで存在としてのものでしかなく、
徹底的に不可知不可触不可侵としての無色透明たるものになる。なっちゃってる。
それは意識において対象化し得ない存在、あくまでも帰納的をもってでしか
捉えられない把握

なのだ…。ある意味、その存在を察することができる為には、
本質が生き残っていること、知性理性において

発達してることが前提になる…。
そして!、大変困ったことに〜、その彼たる存在は、肉においての求めには、

価値たるをおいていないんだ。生存においてのその

認めはするのだが…。

では、何を主として、ヒトにお求めになっているのか?、
これは、あの十戒と、イエスによるあの山上の垂訓に詳しい。
せっかくだから、一つだけあげておこう、
”You shall love your neighbor as yourself”.
「貴方が生きるにおいて、関わりが持たれるそのすべての人々を、
 貴方自身であるかのごとくにして愛せよ。」

自己中心性たるものが解消されない限りこれが本当になされることは無理だ。不可能。
肉においての、肉体を自分だと認識しているその限りにおいては、
偶像崇拝から離れること、そして真の神たるものを信仰することは根本的に無理なのだ。

そして、これは根本としてのことになるのではあるが、
貴方は自分自身を愛してはいるのだろうか?
好き放題やる、やらせるってことが愛ではない。
愛としての思いをその感情を寄せるに足りるものが、なにかが、
自身の中に、内にて、確認出来ているのだろうか?。

やっぱそれは、人に頼らずしての習わずしての自発的ななにかであることだろう…。


十戒よりもこれらを...

あなた自身の

敬いなさい大切にしなさい。←必然なるものであったればこそ〜!。
殺してはならない。←何故なのかは真剣に自身にて考えたほうがいい。彼の了承があれば…。
姦淫してはならない。←

とするもの以外とはの意味。数の話ではなかろう…。
汝、盗むことなかれ。←獣の性としては極普通のことではあるのだが…。ヒトはどっち?。



自分は、まだ、大黒様と恵比寿様に、朝は、礼拝と、お水のお供えを、しています。
更には大日如来さまも仏壇の奥にはプリントだけどおられるのです。
インチキかもしれませんが、それはまた、かの方の、かの存在の、
分身としてのものなのだと、勝手に解釈してもって、そう思いながらに…。w。


終わり。




あとがき:

これがメインなんかもな〜。あまり海外においてのことを持ち込んできてほしくないな〜。ハッキリ言ってエレンホワイトとか、バチカンが企むところの戦略がどうたらこうたらの話を!。安息日を日曜日にしましょうをだ。終わりのときに関しては、聖書にてイエスも言っているでしょう?。それはいつになるのか分らないって…。

がお知りになることだって…。安息日たるものを尊ぶことは鉄壁にして絶対だ。でもそれを何曜日にするのかについては、あま曜日たるものに拘泥する必要はないのではないだろうか?。

教会に集まれる集まりやすい曜日であるのなら、場合によっては流動的であってもいいのではないだろうか?。下手に勘ぐれば

たるものをそこに感じずにはいられないってのが自分の中の思いとしてはある。バチカンに対しては暖簾に腕押しの構えにて対処してあるのが得策なのではないだろうか?。


サンライズミニストリーは良い集会だとは思うんだが一抹のおかしさたるものを自分は覚えざる得ないところがある。ことはあの女預言者の弁にその価値を置きすぎていることにこそある…。まあ、いい…。聖書の解釈は人それぞれにあっていいものだと思うから。今回はゼロからこの部分の解釈を改めてやってみよう。表面に見える読めるよりは、遥かに深い意味たるを、秘めているやもしれないのだから…。

最近のYou Tubeにチャンネルもってキリスト教徒さんたちは、しきりに終わりのとき、終わりのときに関しては〜をしきりにやりだしている。それもなんか嬉しそうに…。ああだこうだ未だ語り得ぬことまで、熱心に語っても〜てる…。あれはね〜悪いけど、お話しの世界にはまり込んでしまってて、現実をそれに無理やり当てはめているだけ。そんなことではないでしょうっと、そんなことをメインに語ることになんの意味があるの〜?って、自分なんかは思ってしまうのだ。

やっぱりね〜極論としては愛がない!。

その愛をもって、自然と湧き出てくる言葉を語ってくれりゃ〜いいもんを。あまりハードルをあげるような語りにしてはならないーーって、マラナタなんかでは覚えてしまう。やっぱね〜、お勉強しすぎると、考えすぎると、マインドにおいての語りとしかならないんだ。これは自省の意味も込めて言っておく。


あのSF映画「ミスト」は、彼女を悪意をもって描いたものだったんじゃないだろうか?。自分はそうだと確信している。ならばだ、そこにはアメリカにおける彼女に対する一つの見解たるものもまたなんとなしに〜ではあるが、知れるってもんではないだろうか?。一預言者に、その方が語ったことに、あまり重きを置くことは良くないことだと自分なんかは思う。極論としては、あのイエスであってさえそうなのだ。日々においての、その変動変化において、そこに実在としての神を意識して、さて、

、どうするのか?、なにをしたいと感じているのか?、これを考えて選んで実行実践して、そうして毎日を送ることにあるだけでいいのではないかと思うんだが…。イエスは手本として、何度も何度も彼の言を参照することにはなる。それが絶対に必要なことではあるのだが…。




ラマナタは毎日観てます。とても助けになってます。すべてではありませんが…。






ご教説の方は観ません。お勉強のしすぎ。語り得ないこと語るにおいて無理に入ってきてる。

フロント、人材の方に、お困りのことなのかとも思っております。

完璧に日本地盤、日本を基礎としてのキリスト教が必要なのではないでしょうか?。

この私のセンサーをもってしても、わずかながら、純粋なキリスト者による奇跡の伝聞が

届いてきてる。あの戦中の食糧難のときにあって、パンを裂いて無限に増やした神父の

話しだ…。何故に日本の集会組織は、こういったことを大ぴらに取り上げないのであろうか?

あの秋田においてのマリア様出現の話もそうだ。

たぶんだが、海外の本部の意向のその下にあるにしか、その活動はありえないのだ。

ならばだ…自分は密かにその種を撒こうではないか。

それはもう完全に個人としての、自由にしてまったく既存の組織からの制約を受けないものとして。理想的には

直接その皆を導く団体としてのもの。ことは、私たちの生活に、その至極普通の日常生活において、日本文化そのものを土壌として、その根を持つもの、生やして、育ちたるのキリスト教としてのもの…。

絶えずしての”再誕”こそが課題となる。






※今回のこの稿は全く面白くもない内容だと思う。でもだ…如何に心たるものは正しいことをする語るにおいてであったって〜〜、間違った方向に進んでいってしまうもんなんだ。このことを知る確認するにおいてはうってつけの題材になる。当然な話として、この自分天村が言ってることも

理解する必要がある。あなたがいろいろと注意警戒すべきことを理解してそれを修めるにおいてはこれはいい、絶好のテキストになる。w


※安息日は十戒に記されたままに、神からのお命じのままに、

って、この人達は主張されているわけさ。原理主義を貫かんとされている。それはそれでいいことだとは思うのだが、ならばだ、ことは同じくして、イエスと天国を、イコールとみなすことには、そのように聞くもののこころにそのように刷り込んでしまうことは、

ことなのではないだろうか?。


                 「 モナー!





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