34.  イテモタ 

文字数 29,313文字

                   〜前置き〜

(長いよこれ…)本稿の目的について述べさせていただきます。なにかを

「理解する」ためには

対象化としての

、その工程としての実態内容が必要になってくるっと…。ナンノコッチャか全然分からだろうからもう少し具体的に噛み砕いて説明すると〜…いや、もうこれを自分がするのはやめておいて〜、既に偉い人としてお墨付きのある権威者たちの言葉を、その内のお二人による””ってやつを持ってこよう…。

例へば、それは誰かさんによるなんらかの「

」だったとしてみよう。ならばだ、まずは素をもってして自然なる形にてそれに接してみる。つまりは聞いてみる、もしくは読んでみるっと。次に字起こしたその文章を、他の誰か、親しき友人にでも声に出して

かのようにして改めて読んでみるんだ。そして、最後に以前とは違ってきてしまっているであろう自分の今のその心の状況において内容をもう一回読んでみるっと。この三度目は確実に消化するために。つまりは熟読になる。これで計三回読んだことになるっと。

最後の三回目のアプローチ(読み)ともなれば、その時点では少しこちらの内部事情、状況たるものが変わってきてしまってる。頭のみならず、感情と運動センターとしての関与がある程度整ってきてしまっているとも言えよう。対象に

、それに

連想が、それら独自としてなる連想たるものが、流れ込んで関与する事態となってしまってる。まあ簡単に言えば各センターのウオーミングアップが済まされた状態なので、ことこの三回目ともなれば、各センター独自の反射反応(⇒印象の感受)、それらをもってしての総合という形で、理解が、消化が、当該の対象に対してなされることとなるっと…。(コレって、どっかでなにかで聞いたことが読んだことがあるぞ〜って思われてるそこのあなた、少しお待ちを…)

      ここでもう一つ、この忠告と関連があるであろうとても似通った、
         近しいと思われる表現をあげさせていただきたい。

            やって見せ言って聞かせて、(そうしてから)
  実際に(そのものに)やらせてみるさせてみるっと。
  そうしてから、更には〜褒めてもやらねばならないんだよっと。
  そうしないことには、

っと、
つまりは、真に、本当に、役に立つような働きを、してはくれない、してもらえない。
            できるようにはならないんだよーって。[山本五十六

最初のはベルゼにおける作者Gからのアドバイス。本文を読み始めるに当たっての注意書き。欄外にて最初にこの忠告が置かれている。印刷に回すその

急遽(きゅうきょ)付け加えられた言葉なのだそうだ。これのベースとなっているのがまた古代から伝えられてきた智慧の言葉なんだって。それそのものの内容もあげるともなればそれはこうなっている:

    どんな祈りでも、高次の力にまで届かせ、”返答”を、もらおうと思うのであれば

           

唱えなければならなないっと。すなわち:


           一回目は両親の魂の平安と幸福の為に祈る
           二回目は隣人の幸福の為に祈る。
       そして、三回目になってから、こんどこそ初めて、
            

をもってして

のだ…。
(改あり)

ことは対象においての”理解”に関わる。「理解をもってしてのインプットが果たされなければ、また期待されるところのそのアウトプット(実行)もまたその者においてはあり得ない」っと。これが山本氏が言いたかったことのなんだろう。人を育てるにおいては手間ひまかけなければならない、かけなきゃならないんだって言ってる。「褒めてやる」ってところが味噌なんだって。ちょっとついでにこの教えもあげとく。「自分が更に先に進みたいと願うんだったら、あなたが今いるそのレベルに、誰かを持ってこれなければならない。さらなる理解を得たいと思うんだった、そのあなたの理解を他の誰かにおいて与えることを達成しておかなけらばならない」。これもGの言葉だ。何らかの、同じくしての叡智に、法則たるものに起源を持っているらしい。ついでに「ヒトに赤の他人に教えることによって自分も改めて学ぶ」ってのも意識しておくべきことかと…。この辺は社会人生活の実践の場となる会社内での教育を念頭においてもらえればいいかと思う。即戦力の人材ってのは眉唾だからね。”ちゃん”と

し〜て、育ててあげなければならないっと…。

追記:
この自分における社会人生活において、この教育たるものを意識的に行ってくれてたのは只の一人だけ!。あの癖と気難しきその性格、まさに扁壺の塊であった八藤丸道久氏ただお一人のみ!。(←いかにも韓国系渡来人か、水呑み百姓が明治時代になってから名字を勿体つけて、それも度外れた虚栄心満帆で考えて付けたってな感じ!w。)それは驚くまでの厳しさであったわけなのだが!。これはいい‥。つまりは言いたきことはだ、殆どの人間がヒトを後人を意識的に育てるってことにおいては手を付けず、付けないのままだったのだ。何故か?。めんどくさいからさ。いや臆病だから。そこまでの深い人間関係ってのが実社会においては備わってないから。簡単にその原因をいえば、愛としての実行ができないんだ。そんで、ヘタなコンサルが入ってきてから、外部の人間にとやかく云われて、初めて、とりあえずの上辺だけの動きを見せるまでっと。了


更に少し脱線っと:
ヒトは太古のその大昔に自己のその

をもって、識る分かる理解するってことができなくなってしまったんだよ。おそらくは知恵の木の実を食べてエデンを放逐されたその時点をもって。でっ、いまの人類ともなれば、なんにしたってその全体性ってやつを回復する取り戻すってことが課題になってしまっているのだ。じゃないと〜本源たる神から

したままで〜遠く遠く、天地の開きをもってしての

その状態においては避けがたく備わってきてしまう。起こってしまうことが必然になるっと。結果、神からしても救いたくとも救えないっと。

…。行方不明としての羊たち。その存在があまりにも希薄であるがあまりそうなる。必然的に…。もしくは、人間はその足元をゆく蟻さんたちのことを〜っと、これはこの例えはもうここで止めておこう…。その分離乖離分断たるものを解消して、”ダイレクト・コネクト”を回復する為の方法、その最たるものにして唯一の(すべ)が、”祈り”になるっと…。終。

閑話皆全部休題。ことはどれもみな手間を煩雑なる作業を工程を必要としてくる。自己の内における主要なる三つのセンター、そのすべてが、対象においての関与を持つことがどうしても前提にしてまた必要なのだ。そうしてこそ、そうあってくれてこそ、(なにがし)らかの鮮明(vivid)なる、また刺激的にして奥深くしての「連想」たるものが”印象”として、

、持ち得る、味合わい得る、

こととなるのだから。

日常的にしてなる普通の”読む”っていう行為ともなれば、参与してこない/きてないセンターら存在してしまっている。”熟読”たるもののやり方を当人たちは知らないしやらないからだ。本に没入を果たしたその上で。内容を読むって行為そのものが遠に失ってしまっている。気ぜわしいばかりがこの世の常となってしまっているんでね。それに染まってのその挙げ句、機械的に読むってのが習慣なってしまっている。受験勉強が性?それともビジネスの世界に馴染んでその歩調に自分をもう完全に合わせてしまったが性?。速読法なんて訳の解らんもんが流行ったが性?。

ここでまた、脱線:
自分においてが果たして普遍的なるかどうかは知らないが分からないが、速読法ってのはありゃインチキだ。読んではいまい。ざっと探っているまで。それでたりるものもあるだろうが、深い理解は絶対にそこにはない。そしてもう一つ…パソコンのモニター、タブレット等で、文章を読むことはお勧めしない。何故ならば…なにも記憶としての残らないからだ。それを読んでいる時点のみ、作用が叶っているのは。一旦モニターを離れたならば、もう内容のすべては霧散してしまっている。だから、何かを読むんだったら紙の本が一番いい。これは不思議なはなしだわ…。たぶんね…

が著しく阻害されてあるんだわ。パソコンのモニター越しともなれば。世界次元が違ってるが故に。本一部しか参加してない。当人は気づいてはいないのだけど…。了

とにかく自身たるものを構成してある独自の批判判断嗜好においてのカラーをもった意識らにおいて、それら総てをもってしての関与においての”印象”ってやつが、理解ってことともなれば、本来は必要なんだ。それらすべてにおいてのもってしての連想が、また更にはそれら相互間において果たされる作用刺激摺合せってやつが大事なんだ…。こういった内部におけるインターフェイス(相互作用)のそのすべてが、心にては刻まれることとなる。これを結晶化って呼んだって構わないと思う。ことのすべての痕跡が、複雑なる轍たるものが記録されて残る。残ってる。この原因たるが、複雑なるがゆえに、長〜く、深〜く、残るっと…。

この〜相互インターフェイスをもってしてなる”痕跡(こんせき)”、それのすべての関与の証としての”(わだち)”たるものが、心にて形作られない限り、残されない限り、それは単なる知識、短期記憶としての(はかな)いもんとしてとしかならない。すぐに忘れ去られていってしまうこととなる。蒸発してしまい最早(もはや)跡形もなく、あらかたのすべてが消え失せてしまうっと。要はしばらくもすれば、もうなんも残っとらんやないか〜!ってことになると。

Re: 運動センターがどのように考察や思考において関わってくるのか?いるのか?。
ことの展開に関しては、物理としての力学モデルを参考に、それを起承転結のユニットとしてシュミレーションする。ことの理解をしたり後の展開を予測したりする。経験則としての備蓄データを運動センターとして持ってる。殆どが、瞬時の瞬間の考察においてなされる。場合によっては本能センターが、それにおいてだ…。それらセンターとの連携をもって、

思考するっと…。 7,300 ⇒ 1 への拘りもこれが関係している。形ってガイドがあって頭はそこのことに固執しているっと…。諸々のこと柄における共通性ってやつを直感して類推を行うってのもこれが間違いなく関係している…。例えば「長雨がつづけば地盤が緩んで地滑りが起こる」とか。食料の供給ラインが止まったならば「なんとかせんかい!」と、政府関係者らに、怒り糾弾怨嗟の声が、一般市民からあがってくることは避けられないっと。長引けば必ず暴動たるものが起こるっと…。これは少し感情の要素ってやつも考慮にいれなかればならないのだが。エネルギーの発生起動蓄積に関して、そして、やがてにそれらは、開放に向けてのなんらかの展開運動発散につながってゆくぅ〜ってな具合にさ…。物理的な運動モデルってやつが、考察においても採用されるされ得る、

!ってなわけさ。簡単なのは、文意文脈ってやつにおいても、そこには力学的な関係や展開があるってこと。そう考えること、感じることも、できるっと。実際そうなんだ…。終。

なにか‥なんとなしにではあるが〜…貴重な有意義なる時間を持ったような…

んだがな〜などとの、曖昧にしていい加減な思いを持つまで。そういった感慨を、そのまさに誤解としてでしかない

たるものをっ、持つばかりかなっと!。なんとはなしとしてのムードとしてでしか、それに関しての記憶は、最早自分の中には「な〜いーーっ!」っと。

理解たるものは”対象”においての”三重殺”をもって為されるべきもの。どんな、いかな巨人であったとしても、難しいテーマであったとしても、

をもってすれば、三度の三種のアプローチをもって当たれば、間違いなく理解たるものは達成される。その三度目においては巨人は間違いなく打ち倒されてしまうことになるっと。やっつけられる。某らかのニューカマーとしての新たなる理解が、少なくとも

やら

が、自分の中に引き起こって結ばれてしまってる。これはもう忘れることはない。もう簡単には忘れ去られることにはならないっと…。

コラム:
自分のイメージにおいては、この辺のことはマーラーの交響曲1「巨人」と6「悲劇的」がリンクを張ってしまってる。こちらともなればそれはどんなに偉大にして強靭なる人間であったとしても、人生における大きな悲劇を三回経験したならば打ち倒されてしまうっと‥。ある方の説によるとそれは例えば「第1は『家庭の崩壊』第2は『生活の崩壊』第3は『自身の死へと至る大病』」みたいなもんらしい。この三打/三回ってのは意識的に自分の創作において使われている。その相手ってのは読者の皆さまでそのこころを意識してなんだけどね…。確実にいてもうたるの覚悟にて!…www本当は悪いやつなんだよ。こいつは!

Gにおいてのその教唆は、自己という

の理解。その方法論。山本五十六のものともなれば、それは

の果たされるべくしての理解、その方法論になってる…。

長かった前書きもやっとここで終わりです。今回の稿の目的は前書きにあったその内容を実地に体験していただこうと思って構想さたるもんになるですわよ〜っと。それをもってしてで再構成までもが大幅になされたんですわよ(^0^)〜っと。いろいろとこちらも、どうなんやろかな〜?‥大丈夫なんやろか〜?‥いらぬ、余計に敷居を高くしてしまわんかな〜?‥ちゃんと自分の構想通りに思惑のままにことは進むんやろか〜?‥などと迷うところではあるのですが〜、このままいっちゃいます。今更やり直すのもめんどくさいっと…。
 
        でっ、今回におけるその対象としてのものが〜これなんです‥。
                三月十八日付け”マラナタ”
        サンライズミニストリが You Tube にて

しているやつ…。

この稿の主本体としては三つ。完全なるそれの字起こし。これは皆様用としてになる。自分としてはちゃんと、少なくとも一回は、それを視聴してる。そんで第二部として、この自分としての切込みをすべてのラインにおいてやりました〜だ。そんで、最終的に、第三部として、自分としての

をもて再構成してみた。計三つのアプローチをもってして、それらを果たして経てのその後、自分の中にて総括される思いたるもの、考えを結びとして残しました〜だ!。

(本稿)をホローすることにおいて、皆様とされますれば、同じ対象(3/18マラナタ)においての、受動と能動をもってしてのアプローチをされること/していただくこと、そして、皆様各位とされましてはこの本稿そのものを対象として、ご評価にチャレンジして頂きたいのです!。

ことは正しい間違ってる…もしくは「お前はヤッパ!バカの白痴の唐変木や〜〜っ!」ってことではなくて〜なくして〜、そんなことをこの私めに投げかけていただきたい訳ではなくてってよっ!○さんって…、三つのセンター間のインターフェイスをもってしてこそなるの〜その味わいたるものを、もんを、それこそを、体験して頂きたいな〜ってな思いにて、これ書いた作ったわけなんですよ〜〜!っと(ふ〜)。いろいろと、後遺症としての影響が未だ色濃く残ってしまっているわけなんですが〜…。

             もういい!開幕しゅる(っと)。

なにか妙にこころに引っかかる、もやもやしたものがどうしたものか、心の内にあるならばだ‥その原因たるものは究明されねばなるまい。そんで〜そいで〜自分においてではこの日のマラナタがそれであったわけなのだがっ!。なのでしっかりと理解たるものをこの作品においてしなければならなかったっと。何がどうして引っ掛かっているのかを明確にする必要性が間違いなくあったっんよっと。

     できますれば数度時間をおいてご鑑賞していただくことをお勧めします。
       本稿を読むに当たっては必ずこれを事前に行っておいてください。


         https://www.youtube.com/watch?v=FQzz8TLmLPw

  「どうだったでしょうか?。

、ご感想をお持ちになりましたでしょうか?!」。


なかなか良いのんではないか‥ええやん‥これはよくできてる‥長さも丁度いい‥資本力と組織力がないとこういった良質なる作品は作れんやろな〜‥あと優秀なスタッフもそろっとらんと‥知っとったんやったらもっとはよ紹介してくれんと‥独り占め秘密にしとったんか!‥朗読のお姉さんの真剣さ真面目さ真心がよく伝わってくる‥まさにシンシアリティーたるものの権化やないか!‥このシ〜トは〜このオナゴの方さんの方ハ〜固定な〜ん?‥お顔を是非拝見したい‥まだ独身なんやろか?‥彼氏おんのけ?‥スリーサイズは?‥うち実家は百姓なんやけど気にされますやろか?‥おらちの家系は浄土宗なんやけんども支障はありますやろか?‥ときどき日によって声の加減が違っているんですが体調が優れなかったとでも?‥もしや他にも読み人ったらがおらっしゃるっちゅ〜ことなん?‥どの方も皆美人さんでらっしゃるんでっか?‥何処行ったら会えるん?‥直通の携帯番号を是非あげて!‥写真や写真!まずは写真を!等。

          まあ〜

ご感想であったのではないかっ!
             違いあるまい!と勝手に思ってますぅ〜

                   知らんて…。


                   《 暗転》




           「では〜これより〜

開廷!
」っと…

頭上のとある御方(おんかた)の了解了承をもってして(←妄想)、これより難癖の〜

付けホバなさんと欲っす!っと。只の

コレ”こっきり”にてもふてにてで!。スバリ言ってのほざいての、やったったホバさせてもらうのニ〜ダにだ!。ん?。いやもふ既に以下にて、云うてのもうての、やったってを、もうしたっても〜とりますんのやねんけんどねーっ!って、これがあなた…。第三者の皆様のお立場ともなりますれば、あそばせば、それもてでまかりこしけらぶぅあ〜!本稿に真剣に接せられてのその暁には、そしてもし!真面目なるご拝読たるものを承ることができたなればぁ〜、皆様読者一同におかれましてはきっと間違いなく、某らかの気付き、そして功徳たるものが、得られんこととことに、なりはるんことなるんのやないかと、そうなるんのと違いまっしゃろか〜って…醤油買(しょうゆか)ふことと…相成(あいな)るやも、知れませんぜぇ〜〜旦那!」…、もしくは「わよーー!」ホホホホホ〜」って!。敬具 天村崇




          「まあ〜お気楽に

くださいませにゃ〜」。

             もう、なんとなく、分かってるでしょ?…
       全部、こいつ(天村)の、妄想偏見邪推でしかないなってことが。
           ただただ、それらのオンパレード

ってことが〜…。

 
                  《 暗転!》


              まず最初に

考察兼説明を‥ 

                Re:「呼吸」について。

息があるってことは生きていることの証拠なのだ。生命活動の根本にして根本のものになる。(取り込んだものを体の末端にまで送り込むのが心臓の役目)問題はこれは自立神経系によるものなんだってこと。かってにもうそうしてしまってる。では

、これを為してくれているのか?。自分じゃない。絶対にそうとではありえない。だから誰かがこの自分を生かしてくれているとの感慨にも至るわけさ。今回のマラナタはこの「呼吸」たるものの別形態として、「祈り」を捉えられているわけなのだが…。ここに問題は別段なにもない。祈りとしての行為、その意義は、交信、交流、直談となるのだから…。実際そうなのだ。呼吸みたいに、心臓の鼓動みたくして、しっかりと自分でその働きたるものが確認できるものではないのだが、

としてのものであることは間違いない。この祈りって、やるにおいてとなれば、こちらは主体的にして能動的、かつ

でなければならない。そうしてこそ初めて霊的な交流たる事態が起こる。いや適い得るっと…。

            *既に難癖始まっても〜とるね…。

今回のマラナタにおいてのメッセージの真髄は:

たる行為をもって、なにかの念を、

送る発信する。すると、

、その祈りに対しての天の

として起こるんだよっと。特別なるつまりは霊的なるの意味をもってしての原因と結果としての循環がことここに起こりて、為されしてが果たされてしまうことになるんだよっと…。

        *ここはクリスチャンとしての経験こそがものを云うところ!。

この祈りたるものは、繰り返しになるのだが、

なる努力によるものになる。敢えてもってして苦しむ行為をするに他ならない。違う?。多少なりともしんどくって苦しいでしょう?じゃないとおかしいって。こういった加減をもってしてでないと、祈りたるものは為し得ない出来ないっと…。まッ言うならば〜悲しみの淵にありながらも、それのどん底に沈みながら〜、まわりの家族のことを気遣って自分を強いてでもってで明るく見して振る舞わせるみたいな行為みたいなもんだわさ〜(なっが〜w)。なかなかできないこと。だからこそ〜もってまわっての奨励たるを今回されているわけさ。霊的なるの意味において、健全なる生存を果すためには、この祈りをもってしての神との交信交流たるものが、絶えず、必要不可欠なんだって…この肉体にとって酸素の取り入れ二酸化炭素の排出が絶対に行われていなくてはならないってことと同じように!。

ことは奥義に関わることなんでくどくでやっておく。祈りはなにももってまわってしての体裁を、それを必要とする

ってわけではないっと。そんなもんである必要はない。まったくない。要は自身が実際この世にて生きている中で、どんな思いを抱くのか?なにを求めるのか?求めているのか?に関わるまでのこと。どんな願いを

抱くのか?抱いていのか?…。これが作用トリガー発端。世界はあなたがこの世界をどのように理解していようともまったくそれにはお構いなしで、その発信に対しての反応を見せてくれる返してくれることとなる。

たぶん…

、自身にとって

その反応対応反動が

して

となるその作用力は、…他者の幸せを祈っての求めての、その願いなんだろうな〜と思う。他者ってのは自分以外であれば誰だっていいんだ。家族の誰か、兄弟の誰か、親しい友人の誰か、どうも好意が湧いてくるだれか、かわいそうに思ってしまっうしまった誰か…。当然その願いは、心底からの本心をもってしての、更には継続をもって強化されたる

でなくっちゃならないんだろうけどねっ…。

追記:
修羅のそのこころをもってしての執念による願いも当然に達成される。でもエゴにおけるその願いってやつの達成の場合には予想外の展開ってやるも含まれてきちゃうんだ。これは前に何処かで既に言った言ってる。部長に昇進したら部下の首切りを任せられただっけ。他にも収入に恵まれたはいいが、毎日仕事仕事で自分の時間、家族との団らんが完璧に失われてしまったとか。思いもしてなかったマイナスの事象も事態も、達成、つまりは反映においては伴って来ちゃうんだ‥。

ことの肝要肝心なるは、自立神経系の呼吸によってみたいに、かってに起こる為されてある、面倒見てもらえているある次元に、真の人間としての、それになるべくしての可能性ってやつは

持たれて抱かれてあるところの、その「願い」ってやつこそが、それへと思いを収斂させてまとめあげることのできる強い

って

、それの出現こそが、世界からすれば、求められている求めているもんになるんだろな〜って思うんだ。たぶん進化を導くって目的において、それにおいてだ…。こちら(自然世界神)としては、なにをどう環境として調整すればいいのか、なにをもってどう作用を果たせばいいのかを判断する為にも、それが欲しい…。そして、ことにおいて実行を果たするにおいて、具体的なるを〜、析出顕現実現させるためにも…。



 Re: 原文、オリジナル



  三月十八日 「魂の呼吸」 テサロニケ人への第一への手紙、五章十七節

   絶えず祈りなさい。祈りは魂の呼吸であり、すべての祝福の通路である。

   悔い改めた魂が祈りを捧げるとき、神は

   その苦闘をみられ、その闘争をごらんになり、

   その誠実さに注目される。

   神は、祈るものの脈拍にみ手をおき、あらゆる鼓動を記される

   気持ちが脈拍を高めるのではなく、感情が興奮させるのでもなく

   悲しみが変化させるのでも、罪が汚すのでもなく、

   思いや目的が動かすのでもない。

   神は、これらのことによって、お知りになるのでもない。

   この魂は無限の価をもって買われたのであるから、

   変えることのできない深い愛で、愛されているのである。

   魂を癒すためになす、偉大な治癒者への祈りは、神の祝福をもたらす。

   祈りは、私達を互いに、また神へ結びつける。

   イエスに、わたしたちのそばに、来ていただけるようにし、

   弱った途方に暮れた魂に、新しい力強さと、新鮮な恵みを与えてくれる…。

   わたしたちの救い主、キリストは、わたしたちと同じように

   あらゆる点において、誘惑を受けられたが、罪のないお方であった。

   主は、人と同じようになられた。

   主が必要とされたものは、人が必要とするものであった。

   主は肉体を支える為に食物を必要とされた。体の疲れを回復する必要があった。

   義務と試練に備えて、主が元気づけられるのは、御父への祈りであった

   日ごとに主は一連の義務に従事し、魂の救いに努められた

   …そして誘惑されたヒトのために一晩中祈り明かされた…

   救い主が、山や荒野で、夜の(あいだ)、過ごされた祈りの時間は、

   翌日出会わなければならない試練に、不可欠なものであった。

   主はサタンの誘惑に会う可能性があったので、

   魂と体の回復と励ましの必要を感じられた。

   それだから、主の人生を、生きようと努力している者も、

   この同じ必要を感じるのである…

   主は



    「だれでも私についてきたいと思うなら、
     自分を()て、自分の十字架を()うて、私に(したが)ってきなさい」と仰せになる。

   キリストが

   「私は柔和で心の(へりくだ)ったものであるから
    私の(くびき)を負うて、私に(まな)びなさい」と仰せになるとき

   このお方だけが、私達に応じる能力を、与えてくださることができるのである。

   これは日々、自己は、否定されなければならないことを意味している。

   キリストは、私たちに気高い決意、すなわち耐え忍び辛抱強い精力を持って、

   主の戦いを戦う意志を与えることがおできになる。

   神の恵みに助けられた最も弱いものは、征服者以上のものになる力強さを、

   持つことができるのである…。


           **「ハイ!これで全文おしまいっと」**





     『では、こっからは、ちょっと詳察というか、”

”を入れてみるニャ〜




                【 Re: 開演!

        

添えます。*マークの上段がそれになります。


絶えず祈りなさい。祈りは魂の呼吸であり、すべての祝福の通路である。

pray continually ともあるので、これは

祈っていなさいでもある。
いつも、絶えず、祈ることを行っていなさいだ。(あの老女も同じことを言ってたな..)
このことは実際、可能なのだろうか?。またなんと祈ればいいのだろうか?。
[主の祈り]をそう繁盛にて執り行うことも難しかろて…。

ここで脱線:
自分の場合を話すならば、祈りに関しての自分の考えを話すなら、それはなんだって実はいいんだってそう思ってる。自分が日常生活において、なにをどう感じるかによる。だからいろいろと感受性やら感情想念が、こころの機微たるものが、働いていないと動いていないと花開いていいないと、お話しになんないのかも知れない‥。

この自分においての祈りってやつの殆どが「ありがとうございます」ってやつ。無事に帰れた、済ませれたで感謝っと。皮肉な、思いもしなかった、期待とあべこべの展開になってもなったって〜、少し考えて〜、これもこのことにもありがとうございますだ。ある種のポジティブ思考なんかもねーーーって、いつのまにやらマゾヒストっと。マゾはね〜エネルギーを溜めとるのよ…。そんでそれをしょうもないことに使ってしまいよるんよ…、You know what I mean? な訳なのよ!。

閑話休題。例えばね〜、ものごとの起こり成立ちその後の展開の予測。こういったものを、自分において仲間において道ですれ違う赤の他人においてで、思うこと考えることが出てくるはずなんだ。願いや求め期待や感謝としての思いたるものが。それを主に祈るってな寸法だ。だから、少し頭の回転ってゆうか、思いやりとしてのこころの、その俊敏にして明敏なる動きがなければならない。追記:鋭敏なる感受性をもって外界から印象が受け取られる。これに際してのこころの動き、想念としてのあり方に、”聖霊”の関与、働きかけってやつがあるのが理想。いや、なくてはならない状況事態ってのもあるんだ。ことにおいてどう捌いたらいいのか分からなくなる、わからなくなっちゃてる状態において。要は、そのことを消化するに不明瞭なる不能なるの、某らかのインターバルとしての事態それの到来ってこともあるんだから…。ことここにおいても祈りってやつが大事になってくる。

例えば、以前どっかで使った話しにはなるのだが、
バイクで走ってて目の前を無理から横断しているご老人夫婦がいたとしよう。ならばだ、ご無事でこの後も過ごされてあれますようにって、こころの中で祈ってあげるのさ。そうしながら細心の注意をもって

迂回するっと。もしくは止まって完全に渡り切るのを待ってあげる。リスク回避の目的のみで!。早る気持ちを”ぐ”っと堪えて我慢してある。腹立ててこの夫婦を呪うことも可能なのだが、そうはしないで、逆に、安全であれることを祈ってあげる。だから、善き日を、良き旅路を、お元気で、お幸せに、ご無事を、なんかすべて祈りだってことになるだ…。***ことにおけるその対処は”笑う”ことにしかない!。「もう笑っちゃう」をマスターされることを声を大にしてお勧めしておく。不運は...、例えば車を運転してて前の車が飛ばした小石でフロントガラスにヒビが入ったとする、誰が悪い?、それは単なる物理現象、法理に従っての展開があったまで。ならばもうそれは笑うによってでしかその瞬間の怒りたる感情は解消できないのだ!。だから、ボケた方々に遭遇して、なんなかの被害を被ったなら、ゲラゲラ笑うをもって対処をするっと。しましょっと。(老婆の追記)

いちいち神を意識して名指しで祈る求める訳ではない。とにかく、自分が僅かながらにしても、関わり合うすべての人達において、求める

、願ってあげたきことを、その思ったときに、心中にて、発信するっと...。そうなってくると意外と祈りってのは多くなってくるもんだっと。交友関係が広ければ広がれば〜、関わる人達が増えれば増えるほどに〜、もう完全に自分がパンクしてしまうほどまでにそういった思いってやつが起こっていってしまう。そうした思いを持つ機会ってが増えていってしまうもんもんなんだい…。

とにかくにも、この自分として言っておくべきなることは〜だ、祈り願いってのは自分においての

でなければならないよっと。これに、このことに尽きるわ…。それとして、そうなるよう、そうなれるよう、ちょとばかしの工夫努力ってやつがいるまでの話しっと…。虫唾の走るその相手であったってさぁ〜、その寿命を無事にまっとうすることが出来ますようにーって、ことぐらいは、祈ってやれるもんさ。私の知らんとこで預かり知れない世界で…。閑話休題の閑話休題っと…。

皆さんへの日常使いのお勧めはアレだ、「何々さんがちゃんが」「幸せであるまりますように「悩み苦しみがなくなりますように、解消されますように「こころに願うこと願っていることが叶いますように、実現されますように「いつの日か悟りの光があらわれますよに」これ。その相手のおらんところ、知らないところですることができる。あとは〜「OM」かな〜。ガーヤトリー・マントラってのも憶えた方がいい。暴風雨荒れ狂う真夜中に、これをひたすら唱えながらバイクにまたがり超微速走行をもってして、なんとか無事家まで帰ってこれた人が、この私なんですって!。あと、雨と言えば、夜間といえばさ〜、施設で遅出の仕事終わって、やっとこさ家に帰れる〜ってなったのその段、外は大雨でさ〜、冠水道路を原付きでいったならものの見事にすぐエンスト!…もう再始動は無理でさ〜、おっもいバイク、手押しで延々と家まで帰らなくちゃならなくなってしまってた…。神経疲れ果てたその遅出の仕事の後に!。距離としては二キロ程。なだらかなれども道はずっと上り坂ばかり。この渦中においてもアーメンをずっと唱えていたよ…唱え

いたよ〜…。喜んでこれもお受けしますって。そんで家にやっとこさ着いて「ありがとうございました」って。これも祈りの内に入れてもらえるんだと思うっと…。

追記:
またね〜思うこと願うこと祈ることだけで足りてちゃだめ。クレクレタコラばかりじゃダメ。誰かがそうなることを

、むしろあなたがそれを叶えてあげなくっちゃ。あなたが願った祈った

成り代わってことを実現化してあげればいいんだけのはなしなんだから…。了。


悔い改めた魂が祈りを捧げるとき、神はその苦闘をみられ、その闘争をごらんになり、
 その誠実さに注目される。

今回のテーマ「魂の呼吸」は”祈り”のことを言っているようなのだが。でも「祈り」を「呼吸」として置き換えることは、あくまでも、ヒトとしての

基づくものでしかないっと。悪く云うと、越境/越権行為に他ならないっと。祈りの本質は、その核心は「伝達」なのだ。(これは「伝心」「放射」「放散」ってのでもいい。)

、それをもってしてなる「お伝え」なのだ。「こ〜こ〜ま〜でーっ!」。個人としての夢想としてならば、別段なんだって言ったて構わないんだけどね。

ここの部分としては「誠実」なることが一番重要なんだよって言ってるみたいに聞こえる。
これに問題はないっと。

神は祈るものの脈拍にみ手をおき、あらゆる鼓動を記される。気持ちが脈拍を高める
 のではなく、感情が興奮させるのでもなく、悲しみが変化させるのでも、罪が汚すので
 もなく、思いや目的が動かすのでもない。神は、これらのことによって、お知りになる
 のでもない。この魂は無限の価をもって買われたのであるから、変えることのできない
 深い愛で、愛されているのである。

 ”ズバリ”この箇所なんだ…こ〜こー!。自分において一番問題となっているのは…。

ここの文章の連続ってその意味わかります?
なんかよう分からん内容、その展開にになってきてるような思いを自分としては持つ。
何を言いたいの?したいのか?…。

一個づつ分解して読み解いてってみよう…

神は祈るものの脈拍にみ手をおき、あらゆる鼓動を記される。

この出だしは「神は既になんでも知っている、あったことのその事実のままに
の意味になるのかな?。

気持ちが脈拍を高めるのではなく、
感情が興奮させるのでもなく、
悲しみが変化させるのでも(なく)、
罪が汚すのでもなく、
思いや目的が動かすのでもない。
神は、これらのことによって、お知りになるのでもない。

ここで計6個の

が登場する。
そして締めとして、次のこの一文がある。

この魂は無限の価をもって買われたのであるから、
 変えることのできない深い愛で、愛されているのである。

何を言ってるんだろか?…。
否定文においても「んっ‥?」との思いなってしまう。

最後の締めはこれ一文のみでも独立してる。
買ったのはイエスで、その折に支払われた対価は、彼の命そのものだった。
だからクリスチャンはもう既に彼イエスの

なんだよと。
ことの根本なるその動機は、イエスにおける人類への深〜い愛ゆえであったと‥。

神さんは信徒が祈りを捧げるときに、その者が行った苦闘闘争と誠実さに注目されるっと。
そんで神たるものは、その者が祈ろうが祈るまいが関係なく既になんでも知っているっと。
*気持ちが脈拍を高めるのではなく、
*感情が興奮させるのでもなく、
*悲しみが変化させるのでも(なく)、
*罪が汚すのでもなく、
*思いや目的が動かすのでもない。
*神は、これらのことによって、お知りになるのでもない。
この否定六連打がきて、最後に括りとして、オチとして、
あなた方信徒はイエスがその愛を命をもって買い取られた彼の所有物としてあるんだよっと。

たぶんね‥これ書いたヒト、

アルツきてるわ〜…絶対。ボケとる…。
文章であっても、ここにある連続が分からんのに、耳で聞いてなら、もうよけい絶対に分からんって…。ここが、この箇所が、そして、なによりも、こういったことが起こってしまう

、自分としては

きちゃうんだ…。癇癪おこしちゃうんだ…。

誰かさんは「激怒した!」‥じゃなくて、極端なる「ヒステリーをきこしまかりけり!」って、本事のその核心なる思いは「

までもがか〜〜〜い!!」ってこと、
らしかったみたいなんだけんどね…www。

訳わからん構成になってしまているような!。難癖ねこれは…。

結局、神は貴方の捧げる祈りそのものにおいて貴方を知りまた計るのだってことなんだろな…。だから、「誠実に」

、おこなってなさいか?。……。

まっ、とにかくこの否定文の連続だけは絶対にダメだ。断言する。だって文意が矛盾してるでしょう?。混乱を視聴者において招くだけでしょう?。この文章をそのまま出したこと、使ったことこそが問題なんだ。何故、校正をかけなかったのか?!。ここが引っ掛かりになるところ。

ちょっと穿った‥邪推としての推察を一つご披露する。元々の原本、その文章をまとめた/作ったその人間ってやつはマハラジの言葉に通じてたんだ。「ことの真実なるは否定をもってしてでないと語り得ない」との彼の言に!。米国においてマハラジの評価はすっごく高いんだ。そんで、それに影響されてか、自分としてもキリストの教えにおいて、それをやってみたまでだったのではないか?!。でもそれは、単なる

でしかなかった…それとしてのものにしか、ならなかった…(ガキツカ裁判における浜ちゃん調で)。

また現場のスタッフらにおいては校正をすることが出来なかった。いろんな組織内部の事情からやれんかった。でっ結局おかしいな〜とは思いながらも、これでGOしてしまってた…。

否定の連続をもってして形成される”真空”ってやつにおいては、
何か、埋めるべきしてのものを、各自においてで呼び起こすこととなる。

自分としては、こんな言葉がでてきてしまってた…。
祈りは一方向なるものでしかない。そうとしてで

ありえない、なりえないっと。


ここでっ、突如、今回における、この稿の核心となるべくしての、
この自分においての理解に基づいての表現を、ご披露するならば、

祈りとは、神との「交信」「交流」「直結」の”(すべ)”なのだ。 

伝心/伝達を目的としての行為、その方法、

たるものになる…。

祈りってのは簡単なものではない。試行錯誤においてよってで極められてゆくべきもの。

自分においてのその詳細を語るのならば、いろんなコントロールが山程ある。毎回の試行錯誤ってのが必ずある。満足のいくやつってのはこれまでに只の一回だけ。それもイレギュラーな特別な状況下にあったから

できたまでのことでしかなかったっと。自分の中の何処でその言葉が発せられてられているのか?何処でやるのが一番いいのか?とか、エネルギーの放射が起こったならば、それをどう循環したり発しったらいいのか?、焦点は何処においてたら結んだらいいのか?とか、体の姿勢において都度微妙なる調整を行ったりだとか、祈りの言葉をどうイメージしたらいいのか?とかもう色々と山程ある。例えば、マリア様って今何処にいるの?。天って、どこに焦点をどうやって結べばいいの?。空見上げて毎回祈るの?。そんな訳がない。それは所詮は貴方の頭の中にて天をいろんなイメージをもって形成しなければならないんだ。それがそこが真実なるの確信をもてるようにして形作らなければならない。高さ広さ奥深さ全天なる神聖なる等の言葉、イメージを頼りにして。こうやってそのものズバリとシンクロを果すってな心がけであれればいい。たぶんね、こういった努力こそが道を開くんだろうなと思う。とにかく全部試行錯誤だと思っている。とにかくにも、バカみたいに、それの一つ覚えみたいに機械的に文言を発しているってことだけはしないっと。

あとね、これもご参考までに:

朝、あれ(No.8)を、ざっと読んでから、改稿済ませてから祈りに基本はいるのさ。

主の祈りを三回。アベマリアを三回、詠唱とファティマを一回づつ。
そんでから最後にアニマクリスティを一回っと。(←おずおずと見上げてみると大変恐ろしいと方と直感するんだ。畏怖すべき対象との実感が起こる。だから伏し目がちにして臨むまで‥。)
満足がいかなかったら満足がいくまでおなじもの、祈りを繰り返すっと。してるっと。
そいでからほんでから、仏壇前に移ってからは、また別のお祈りがあるっと。
ありがとうございましたとご苦労さまでしたと

良き流れに渡り

ますように。
そんでからご冥福を祈っての南無阿弥陀仏(なんまいだぶ)っと。
最後に、ご縁のありました皆様に向けてってことで、あの方この方が想起されして、
同じくしてありがとうございました〜っと。ご冥福をお祈りします〜って。
*こん中には亡くなれた作家やら声優さんやら俳優さんらも混ざってくることがある。
*完璧にお世話になってしまってるもんなんでね!。
こんときにどうしたものなのか〜猫が珍しくもなついてくるんだよな〜…。
爪を立ててきよるんや〜w。

寝る前にもなんかむにゃむにゃ言ってる…www。

日常昼中においてに関しては上のどっかで言ってたとおもう。もう一回はやんないっと。

はい閑話休題っと…。


この魂は無限の(あたい)をもって買われたのであるから、
 変えることのできない深い愛で、愛されているのである。

もう一度締めの部分を取り上げておこう。

文意的に、不完全なるものに、なんのだろうな〜…。
極論的には、イエスの命をもってして贖われたその命ならば、
祈りをもって、彼にお返ししなければならないってことなんだろうかね?…。

突如、文脈においてジャンプがなされてしまったかのような錯覚が起こる。違うメッセージ・ラインへと移行してしまったかのように勘違いしてしまう。背景にあるのは「イエスがご自身の命と引換えにして人類の罪をご精算された」と、それは「ヒトの子たる人類を愛していたが為に行われたのだ」と。神の独り子としてのその(あたい)を思えば、もうそれは、”無限大の価”との表記にしかならないっと。

ことの核心は、「人類への愛」をもって、あなたは救われたんですよ〜だ。だから〜、そのことをもってして〜、アナタは、「祈り」に励まなければならないんだよってこと?。


魂を癒すためになす偉大な治癒者への祈りは、神の祝福をもたらす。

分かりにくい表現になりだす。自分の魂たるものを癒やすことを目的として、
イエスに祈ることは、天の父なる神おいてのその祝福を、給わることとなるって
言ってるのだろう。イエスにぃ〜、祈りを捧げるものには〜、神は祝福をもたらすっと…。

それとも、もっと大きな意味で、人類全部への祝福を、神がもたらしてくれることになる?。

なんか表現がおかしいような…なにか外来のテキストってのがあって、既に、先にそれを
翻訳されているのかな?。ちょっと勝手に改稿をもって文意が通るようにしてみる。

「偉大なる魂の治癒者たるイエスに、祈りを捧げるものは、おのが魂を癒すこととなり、
 またなによりも、神においての祝福たるものを給わることとなるであろう...」こんな感じ。

根本の根本からしての、この自分において持たれてある

とは…、神という大隊がまずあって、それの分隊としての有り様がイエスなんだ。かって、前線をイエスは担当されて、それを現在は、聖霊としての分隊が担当されている。イエスは現在その大隊の

おられる。もう神と完全に

一体となったいる。まさにその状態。

ちょっと遠回り、婉曲的なるをもってしてで、抜粋をひとつ…:
  ひとりの人が走り寄り、イエスのみまえにひざまずいて尋ねた、
 「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。イエス答えて
 「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない」。(マルコ10:18)

ぐだぐだ言ってきてるが、自分としての主張を明確にするならば、

、””を据えなければならないってことだけ。イエスをあまり前向きにもってくることは、さていかがなものだろうか?…って思うだけ。

もう少しだけ、無理してでも言葉を継ぐ!。核心としてのことを語るなら、
  各個人がイエスに、イエスの如くにならなければならないのさ。
    この課題をぼやけさせるようなことになってはならない…。

蛇足としてなる追記:(←後日に構成無視して強制的にここに入れた。)

だからさ〜、誰においてだって「イエスを尊べ!彼に祈れ!彼を信仰せよ!頼れ!すがれ!」って、

、あまり大々的にキャンペーンを張ってもらいたくないんだよな〜。これはメインは教会関係者らのことになるんだけれどさっ…。このことに、そのことに力入れときゃいいとでも?…こに頑張ってればいいと?…それが教会の使命だ勤めだとでも思ってるんのかね?…。イエスの受難とその復活をもってやるのが一番、それが一番インパクトがあるってか〜?。宣教を信者を増やすにつなげ留めておく為にはって…。継続的にして継続的なるお布施の持続と、献金のその強化、スケールアップの為にはワー!って…。

ここにおいても穿った意見を述べるなら、彼ら自身にもうことの理解はないんだ...だから何に真のポイントを置くべきなのかがもう殆ど分かっていない…。我らはイエスにおいてで、新約において記録されたるを参考にしてで、その向こうに実際おられた父なる神そものを信仰しなきゃならないんだ。だからイエスの名は残る。確実にその神とのリンクを張る為には必要となる。でも、イエスイエスばっかりじゃ〜ダメだ。むしろ、その父なる神たるものを、そのイメージを結ぶ為にこそ、イエスに関しては、用いられるべきなのだ…。

こういった意識的な配慮が考慮があるかどうか…、その自らの言説の背後にて、この認識が自覚が機能しているのかが大事なのだよ。もしそういったことがなされていないのであるならば、悪いがその人は、クリスチャンではないよっと…。それ以前としてだけの存在。頭でっかちの頭だけでキリスト教を理解してるだけのヒト…。商売として教会関係者をやってるだけのヒトなんだろう。もしくはファッションとしてなんか?。体験も霊性もなんもありゃしない、分からん分かっとらんヒト…。結果、無自覚なれど詐欺師としてでしかその存在はあり得ないっと…。了。


閑話休題。もう一つ、祈りってことになると〜、あなたはいくつ幾種類持ってる知っているのだろうか?。どれをメインに繁盛にて行なってるのだろうか…?。たぶんね、主の祈りになると思うんだ。ならばだ、それは天の父なる神、御本尊様に向かっての向けての祈りになる。

自分が何をここでやりたいのか、言いたいのかって云うと〜、頭の中の整理たるものを〜、

〜旦那!との言に他ならない。祈りとしての行為の、
その主となる対象は、やはり、天の父なる神だ!。この本領を要旨たるのを絶対に忘れては
ならないっと。

また、もしイエスのへの独立した祈りを行うのであるならば、
あの「アニマクリスティ」があるではないか。これもまた別途行えばいい。

イエスを奉じて尊んで、祈りを捧げることは構わないんだ。そのことを天の父なる神も、お慶びになるのも実際そうであろう。でも、そのものに祝福を給わるかどうかに関しては、ヒトが保証できることなど、できるわけがないのだ。してはならない。おいそれと、「そうなる」などと語ることは、自分なんかとしては、絶対にできないこととなる…。

祈りは、私達を互いにまた神へ結びつける。

祈ることによって、クリスチャンとしての存在を、その意志を、その立場を

確立する。
そうだということもできるっと。イエスを信仰することにおいて、
私たちクリスチャンは一樹なんだと。
ならばだ、ここは…:

「祈ることによって私たちは神との結びつきを改めて主体的にで達成することができる。
 そして、そのことは、私たちを、互いに結びつけることともなるのです」。

イエスに、わたしたちのそばに来ていただけるようにし、弱った途方に暮れた魂に、
 新しい力強さと、新鮮な恵みを与えてくれる…。

祈りたるものは間違いなく一方方向としてのものでしかないのであるのだがー!、その反映たるものは、それへの応答たるものは、間違いなくあるのだ…。その当人にても

。正に精妙にして霊妙なるの、その姿形加減なるをもってしてで!。いろんな要素、いろんな目的、彼方此方の願い希望を取り込んでのものになるので、その整いには時間がかかる。ことにおいてドラスティックな展開なんてものは間違っても期待したり夢想したりなんかしてはならない。リアルとしての現実は多数の人間たちの共有において果たされるもの成っているものなのだから。だから、それはどれほどまでに巨大な力が精密なるをもって背後で働いて、動いていることであろうか!。でも、結局、あれやこれやが関わり合うことによって、それは見事な落ち着きをまとまりを果たしてくれることとなる…。それはもう完璧に絶対的に、あなたのその思惑を狭量なる考えたるを、超えてくるものなのだ。故に、新鮮なるの印象を、ことの結実のその出現実現においては持つこととなるんだ。その新たに開かれたるの世界ってやつにおいては…。

追記:
歴然とした奇跡なんてものはないんだ。もしあったとしても、それを求めたり、為さんとすることは間違い‥とは云わないが、期待しないほうがいい。あくまでも普通に、その様態にて、分からんよにして、それが、事が、果たされてあるってことのその理由を考察してみてください…。*現実は皆によって共有されている。ここでの現実ってのは「各人を、それとなく、

、どちらかの方へと導いている」そういったシステムとしてあるものなのだ。この共有部分は、この世界は、ハッキリ言って”プラクリィティ”と呼ばれてある世界システムは、たとえあなたがこれを去ったとしても、皆の為には残される残る。物質性を基本性格として持つ以上、へたな、目に見えてハッキリした奇跡ってのは為し得ない起こり得ないようになっている。されている。だって、共有現実が破綻してしまうでしょう?。だから、あくまでも原理原則を(ここでの場合は物理法則、世間の常識みたいなもののことになる)、守りながらそれに沿いながら沿った形で、ことは果たされるようなっている。あくまでも水面下にてことは為され果たされるようなっている。了

わたしたちの救い主キリストは、わたしたちと同じように、
 あらゆる点において誘惑を受けられたが、罪のないお方であった。

ヒトの子らが実際、地上に生きるにおいて曝されてある影響を、その呪いたるものを実体験すべく、それをもって理解を果すべく、ヒトの肉の体の中に入った。ヒトとしての生存を得た。今のは救済を目的としての課題、あくまでも、その一つではあるが、欠かすことのできない前提、条件でもあった。

ヒトの肉としてのその体にて生存を構えることによって、その事においてのその事によっての制約、制限、難儀、苦労苦しみを、実地に、そのご自身の肉体、その感覚を通して、知る、識ることになった。できた。

破格としての超高振動としての霊的存在体がだ!。最上位としての独立した霊的主体が!。
それは純粋さの権化としか言うしか言葉はない見つからないのかも知れない...。
ならばだ、感受性としてのその感度は、その豊かさは、人の極限値を遥かに越えてたかも。
つまりはだ、痛み千倍、悲しみ千倍、恐怖も千倍、喜び千倍、感謝/ありがとうも千倍っと。

最後の方の一文は、なにやら、いらぬ付け加えのような気もするんですがねっ…。
今ここで、そのことの話しをする必要が、あるのん?って…。

 「罪なくして、無辜としての魂としてありながらも、
  罪人たちがあるその境遇に、肉体という監に、
  ご自身から、敢えてをもって、入られていた。
  そこに置かれてあった、方なのである」。(崇)

これが背景としての全文になるので、もし要約するならばぁ〜…
これはできないことなので〜、もう何も入れないほうがいいとなるっと。


主は人と同じようになられた。主が必要とされたものは、人が必要とするものであった。
 主は肉体を支える為に食物を必要とされた。体の疲れを回復する必要があった。

生存において働くのは糧を得るため。生きてゆくためには、このことは絶対に外せないっと。
働く。体を酷使する。疲れる。食べ物をシッカリ食べて、栄養取って、休養を十分に取りましょう〜ってか?。あくまで、ヒトと同じ条件にて暮らしてられましたってことかな?。

義務と試練に備えて、主が元気づけられるのは、御父への祈りであった
 日ごとに主は一連の義務に従事し、魂の救いに努められた。
 …そして誘惑されたヒトのために一晩中祈り明かされた…

なんかまたここで茫漠としてまた曖昧なる内容になってくる。なってしまっている...。
なぜもてか、あそこから、ジャンプしたのかな?。

少しおかしくなってくる...無理なることを、もう分からないことを、知らんことを、言い切ってしまってる…。文章がおかしいことを現場の人たちは分っていただろうに、それでも、原文原本のそのままを通してしまったのかな?。触らぬ神に祟りなしをもって!。

義務はヒトの子らの命を救うこと、その彼らの罪をすべて一旦精算すること。
試練は、そのことを為すにあたっては、自分が十字架上にて死ぬ、殺されるをもって、
やっと完結完成することなので、もうどえらい難行としての行いとなっていた。

その彼においてでは、祈りがどういったものであったのかは分からないがー、
たぶん、我らヒトの子らが行うのとあまり変わりはなかったであろう。
ことの核心はやはり一方通行のものとでしかありえなかった。
その結果としての反映は、その応答は、また”

”違っていただろうけどね!。
速度的に...。

確信的なるをもって、自分が言っておきたくは〜、その祈りにおいて、彼イエスが取り出していたその放射のエネルギーは途轍もなく巨大にして大量なるものであったはずなのだ!。それは真剣なる祈りによってのみ、それを行うことによってのみ、開かれる門ってのが、こころの中にはあるんだ。だから、神から力をいただいたって言うよりも、神に真剣にこころの底から魂の叫びをもってして祈るのであるならば、その門ってやつが開いて、怒涛のごとくにして何かが自己の中に流れ込んでくることになる。こういった願い祈りってのは、やはり、自分の為をと、それをもってともなるなれば、そこまでのものはならない。なり得ない…。そういった願いも強くは、ありえるのだろうが...それでは門は絶対に開かない。このことはホント、不思議なこととしかありえない。彼が仕組んだ特別なる秘め事になるんだろうね...。

「日ごとに主は一連の義務に従事し、魂の救いに努められた」は、
人々に教えを説いて回られていた。ヒトの子らの魂を救うべく積極的に活動されていただ。

でっ!「…そして誘惑されたヒトのために一晩中祈り明かされた…」だ...。

この連続はダメよ〜…一体いつどこでイエスは休養をとられるのん?って、聞いてるヒトの頭の中で???が浮かんできてしまうから。そこで、注意が集中が途切れてしまう。混乱が起こって来てしまう…。それもだ、よりにもよって、これは最も祈ることにおいての集中がいったゲッセマネにおいての祈り、翌日には磔刑を迎えるその前の日のその晩においての祈りのことなのだ…。

ちょっと無理なることではあるのだが〜文意が通るよう改稿してみる…:

「…そして試みに絶えず曝されている(呪われてある)ヒトを子らのすべてを救う為に、
  あのゲッセマネの折においては、一晩中を、祈りにて、明かされたのであった…」

もう一度全文をここで確認しておいてもらおう:

    義務と試練に備えて、主が元気づけられるのは、御父への祈りであった
       日ごとに主は一連の義務に従事し、魂の救いに努められた。
       …そして誘惑されたヒトのために一晩中祈り明かされた…

一読一覧をもってしてでは、少し駆け足にすぎるような...。ヘタな混乱を招いてしまうこととはならないだろうか?。分っている人達に向けてであったとしても〜、なにやら焦点がボケてしまってる、そうなってくるのでは…?。

救い主が、山や荒野で夜の間、過ごされた祈りの時間は、
 翌日出会わなければならない試練に不可欠なものであった。
             ↓
「救い主が、山や荒野で、また夜の内に、過ごされた祈りの時間は、
 彼が翌日出会わなければならない試練に(立ち向かう為には)不可欠なるものであった。」

主はサタンの誘惑に会う可能性があったので、魂と体の回復と励ましの必要を感じられた。

ここはあれだわ…悪しき恣意性の現れたるものを感じ取ってしまう…。背後には漠然としてなる躊躇や混乱やためらいが潜んでいる。どう文章ついだらいいかいいのか分からなくなったのかもね。なんでもかんでもサタン憎し悪しが頭の中の全面に出てきてしまうんだろ。単細胞。もうことは荒野の誘惑しかその頭の中にない。あれの中では40日間も、もの食えなくなってたので、よっぽど原稿の執筆者は、そのことに思いが囚われてた、いってしまっていたんだろな〜…。そういうこともあるんで、全面的に壮健であらねばならないって。そうイエスは覚えられた感じられてたって。

日々の伝道で、歩き疲れて、話し疲れて、神経使い倒しで疲れ果ててで、
まずは、その精神と肉体とこころの回復を、せねばならないと〜、感じられたっと。

ここの核心としてあるべきのメッセージは、肝要なることとして、強調しておくべきの内容たるやは〜、やはり、超人的な精力を、”力”たるものが、やがてにおいては絶対に必要になるってこ〜とー!。このことは、祈りをもってしてでないと絶対にぃーー手には入らないよーっと。

追記:
ここまで触れずにきたが”誘惑”誘惑”って..これって共同訳においての訳の選出に従ってるね〜。ことの実際がぼやけるから、自分はこの訳は嫌いなんだ。

だって。だからから訳においての語の選出は、””試み””でいって欲しいんだ。…こういったところにもやはり大勢には沿うことといたしましょうっていう迎合感っていうのか妥協の姿勢ってやつが伺われてきてしまう。ハッキリ、サタンの支配下に落ちている、それの影響力に染まってるって、分って糾弾しているにも関わらず、それの方針に従ってるってのはどうなってるの?。これに関しては日本支部におけるスタッフが単に愚かなんだろな〜…。了


それだから、主の人生を、生きようと努力している者も、
 この同じ必要を感じるのである…。

なんか自信なさげな言葉展開になってきてる…。ことの不思議なるは、どうも、信徒たるものたちは〜、その誰もが皆が〜、主の歩んだ道と、とても良く似た道を、その展開に等しきを、歩むことになるんだよ〜ってことなんだ…。だから〜、彼がことを乗り越えるにおいて必要とされたその力ってやつを、その精力意志力ってやつを、あなたも間違いなく必要とされることとなでしょうって。ならばだ、祈りによって彼がそれを得たように、あなた方もそれをもってしてで手に入れなさいよーって!ことを、ここでは述べたかったんだ。

主はわたしたちにだれでも私についてきたいと思うなら、
 自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさいと仰せになる。

やっぱ、ジャンプだな〜…。
ほんとうならば、祈りの、その実際についてを、やるべき、語るべきだと思うんだが…。

なんやら別の、違う話しに、移ってしまってる。
このセリフはもうあまりに聞き知られて、知られ過ぎちゃっている。
これを添え付ける、持ってくるをもって、終結へと至らんとしてるんだろな〜…。
簡単な聞き慣れた、知られたセリフ程、その真の意味や価値が、埋もれた、忘れられたままになってしまっている。その証拠にこんな風に簡単に使われてしまうようなことにもなるわけ。


キリストが「私は柔和で心の謙ったものであるから私の軛を負うて私に学びなさいと仰せ
 になるとき、このお方だけが私達に、応じる能力を与えてくださることができるのである。

筆者の思惑としては、イエスへの祈り信仰を皆に掻き立てたいって思いだけなんだ。それを目的としての本懐としての、終結に向けての言葉の述懐。よく知られた言葉はよっぽど注意して使わなければならないんだけれどな〜...。ところで、ここでの「応じる能力」ってなに?。あなた分かる?。ここまで読んできてしまっているのならば、もう分かるわな〜。

何に応じるの?

試練苦境逆境にあるときに〜、キリストと同じ思い考えにて、おいてで、それを凌ぐこと。

大変な意識的な努力が必要となる。意志力とそれそのものの持続が切実に必要となる。

これには、このことには、莫大なエネルギーが必要とされる。

これを得る為にも祈りは必要になるっと。

イエスを通して、その父なる神に


新たなる力を得ることができるって。
それはまさしく尽きざる泉の如くしてのものとしてなると…。

あれだは…、大蓄電池そのものへの接続が必須になってくるんだわ。

もしくは、上位界との接続をもって、そこの力を導引するっと。
すると一種の奇跡と呼ばれることが起こる為されることとなるっと。

この接続を果すにおいての鍵が、その方法が、”祈り”ってやつなんだよと。

ことは、もしかしたら…、ことの実態実際は、他力本願でしかないのかもしれない。

其処に、その向こうにある力を〜、あくまで導引するにおいて〜、

あなたがが窓口になるまで。きっかけ契機触媒としてあるまで。

チャンネルを、水門を!開くまでのはなし…。


これは日々、自己は否定されなければならないことを意味している。

エゴとしての私は〜のはなし。神に反抗し逆らい、それとどうしても成り代わりたいとの願い願望において結ばれてある「我」としてのものは〜のはなし。我良しのみで足りる足りているそのあなたは〜…。

キリストは、私たちに気高い決意、すなわち耐え忍び辛抱強い精力を持って、
 主の戦いを戦う意志を与えることがおできになる。

なんか、雑…。

与えること…そんなことできねへし…。完全に人としての制約条件にて為せる為し得ることをキリストは示されたので、ならばだ、後続として、同じその戦いをすること、また勝利することができるはずだ〜だ。お手本、インプットとなられたが、極点。

ならららばだ、彼と同じその作法において、我ら後人も、ことを果すが絶対課題になる。
あの尽きざる泉としてのものをなにかを心の内に持つ、開くにしかない。
注)これに関しては、上で既にやってる言ってる。

アスリートの世界記録を思うならば、一旦誰かによって果たされたその記録ってやつは、
やがてには、後の誰かさん達によっても為しうるのだってこと。

そういった意味では、結果的に、副次的に、派生的なるをもって、

与えることはできるってことにはなるんだろうかな〜。w。

神の恵みに助けられた最も弱いものは、征服者以上のものになる力強さを、
 持つことができるのである。

これだめ。この文章絶対にダメ。

神がどうしても助けてやりたいと思うほどまでの奮闘ってのがあるんだ。それは、

、必死になって頑張って、教えを為さん果さんとしているだけの奮闘のこと。当事者たるその彼は、ことの実践の最中にあっては、神のことイエスのことなんか思っちゃいない。そんな余裕ないから!。苦境の渦中にて、その最中にあっては、彼らに助けなんか求めちゃいないって。目の前に迫ってある試練に必死に耐えているまで!。でっあるから

!、救いの手は、彼に臨むんだ…。伸ばされることとなるんだ…。知られる悟られることなくのなくしてのその作法にて。ある種、限界ギリギリ、それをちょっと越えたとこぐらいで…。

だから〜、ここは自分なれば、こうするかな….

 「神の庇護たるに恵まれしものは、
  か弱きの、脆弱(ぜいじゃく)なるの、
  その限りにあったとしても、それとしてありながらも、
  圧制者らからの、あらゆる脅威を、
  無効にできる強さたるものを
  発揮することができるようなるのである」。

こんな感じ…。

似てるけど、ちょっと違う。

要点が整理されて内容の意味構造がハッキリしたと思う。

かなり固いけどね。

もっと、ポエティック(詩的)にできるはずなんだが…。


追記:
要はだ、その当人に分からないように、分からん形で、神は状況の整えを進行させて下さっているんだ。場合によっては死の天使を使って送り込むをもってしてまで…。その渦中における当人においての有り様ってのは…そんな立派なもんなんかじゃないって…。崩れ落ちたくとも、その思いを絶望の淵ん中に投げ出したくっとも、一切を諦めてしまいたくっとも、信仰の”枠”ってやつが全身に嵌ってて、そうゆうこととはなりえない

っと。じくじくとした思い、気力ってやつだけ。日々苦しいとしての、その自分を支えてあるだけ。その気力ってやつがこれがまた一晩寝たともなれば、それなりに充填されてしまってるもんなんだ...。気力と忍耐心だけをもってしての毎日。また家族ってのがいると、あれば、もう完全に、自分ってやつは、それにおいての求めってやつは、

諦めなければならなく、な〜る〜っと…。

        ああ..そうか...あれだわ、十字架に貼り付けになっとんのよ。
            もしくはそれに縛られてある状態だ。

          崩れ落ちたくとも、地に這いつく貼りたくとも、
        そうは

、そうはさせて

ようになってる。

              これが十字架の意味なんだわ…。

        死がそのあなたを解き放つまで、これはずっとつづくんだよっと。









                  《 終了》





最終的に、自分として思うことは:(←ここまでぐだぐだやってきたからこその感慨)

海外をベース(基地母体)としての組織運営においてでは、ことは曖昧なるままになっていってしまうだ。結果、メーッセージ自体が浮遊していってしまい、その根本的なる効力を失ってしまうことになるっと。

まず間違いなく原稿の書き手たるものが、もしくは翻訳者たるものがいる。おそらくは、その組織内で、「 Highly Autholized Pereson 」なんだろう。権威者としての立場を認可を持つもの与えられているもの。その彼が、その彼は、なんらかのテキストってやつを持ってるんだと思う。本部(アメリカ)から送られてきた、来るものとして。それを参考にしながら、翻訳して、日々原稿を綴っているっと。 どうも、その原本、”型”たるものに制約されてしまってるんじゃないだろうか?と自分としては思う訳さ。何故か?。忙しいからってのがその理由の殆どだと思う。こちら日本支部においては人員が人材が時間が足りていないっと。(複数人集まって、皆でもってその朗読の内容を精査して吟味して場合によっては皆が思う良き内容へと変更する)。更なる上のおえらいさんたちに相談しようとしても、誰も皆、英語も達者で、聖書の内容にも精通されているはずなんだけれど、どれもこれも、自分の責務ってやつで忙しくしてて、そんな雑務雑用の分野内容にまで関与を果す、降りてこられることはないって。でっ結果、そのオリジナルとしての”型”を、ほぼそのまま日本語に置き換えて、体裁をやや付けるをもって、使っているまで。「なんかこれおかしくないか〜」って思っても、変えるってことともなれば、いらぬ自制心たるものが働いてしまい、また責を

ので〜、そのままでいくって‥いってる…。

夜の図書館に行って、
4Fの書庫にあるNo.31「起きよ!目覚めよ!直ちに今すぐ!」を
読んでもらいたいわ…その現場のスタッフたちには!。

そんで、声あげて、自ら動けよ!。

こんな訳の分からん文章、あげれませんって、もう朗読できません!って。

それから、この際云わせてもらうならばぁ〜、もっと時給あげて!!!って。

休日、昼休みもちゃんとくれやーーーっ!って。


未完

八割ぐらいのでき。

自分なりに再構成してのものがまだ残ってる。

でもこれは別段必要ってわけでもないっと。

やるべきは部分的にだが既にやってるっと。

自分としても別段やりたくもないし〜っと。 

他人の原稿さわりたくないっと。

焼き直してとしての原稿は進行中なので、

どっかで投げ出さなければ、いずれには追加しますっと。

たぶん、99%投げ出しますでしょっと。

敬具

天村崇っと。

w。





   あとがき




冗談としてではなく「かまわん」と主は云われたのだよ…

また、はっきりと、「よい」とも…。

なんとなくとしての強い勧めもあって、それをもって、本稿は書かれた…。

(だから阿呆ほど頑張ってもうたんや!しもたんや!)

でっ!ことの報酬としての本日の株高だ(3/23)。

でもこれは付録としてのもんであって、メインとしての報酬は、

マラナタ3月23日「サタンのたくらみに対して警戒せよ」だった…。



https://www.youtube.com/watch?v=uavKIUDZFTo

ことはどうしたものか、ピンときてしまうもんなんだ。


これの字起こしはもうしない。やんない。しんどい、めんどくさいっと。

自分が何故にこの放送回をそれとして理解するのかは

各人皆様にて、ご考察いただけるといいかなっと思います。

*簡単に言えば承認欲求が、(神からの)、これにおいて満たされたのだよ。
*やはり一抹の不安はあったわけだし。


では最後に、恒例の確定的なるアナウンスを!「これもぜんぶ妄想だかんね!」。


以 上


 崇









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