22  デンス

文字数 9,859文字

おまけの投稿です!

注意:

この

にて語られる上辺の内容において話者の目的はない。ある態度たるものを読者に
植え付けんとして今回の内容を題材、もしくは例題として使おうと思ったまで。それは一言で
いえば「実際に身になるものとでしか理解たるものは為し得ない」といったところになる。
実生活の中で、その人生の中で、

為されない限りにおいおては、それは単なる知識としてだけに終わる
」。それには価値はないんだと。ことは2FのNo.47で言ったことの繰り返しになる。あのいたく不評であったものとー…。あの…渾身の〜総決算としての力作でありたるものと〜(哀)。←これは嘘です。

今回のシリーズにおいても既にそのことの努力は為されてきてる。つまりはだ、彼方のものを、彼方の話を、血の通った実生活と如実に関わるものとして、その結びつきたるものを意識して、解説に努めてきたつもりなんだがね〜。そう、実際の真実のリアルなことと、密接に関わりをもっての話でしかなかったのだよ。

それを敢えて意識して行ったことの理由としては、現在世にて幅広くにて、そして長きに渡って進行しているとある事態に関して危機感を覚えるからなのだ。それは「表層に析出されたるを、またその表層において

理解しようとする態度
」ってことになるんかな?。あれこれ頭で、それのみにてで足りてしまっている。要は表層のマインドにおいてのみにての解釈に留まっている。それのみにてのアプローチだけでことはもう足りちゃってるんだ。そのことの結果は誤解、勘違い、思い込み、錯綜、混乱、嘘偽りの大増殖となる。その表わされたものに対してのマインド単体においての反射反応のみにて理解たるものは足りるのだ為し得るのだとと思ってる。それを生み出してたるの析出を果たしてきたるの幹とか根とか動機(エネルギー)とかに対しては関心や、理解の為の触手が向かない、伸びてゆかない…。更には、あくまでものその表層の表しにしか過ぎないものに対して、勝手な微分分解が各自にて主観的にてで為されて、またそこから新たな主観的な連想が引き起こされて外部へと発信されてゆく。エラーとしての事態が延々と無限に増殖してゆくんだ…。この事態こそ、”彼”が喜び、その求めるところのものでしかない…。



これがここで自分が言わんとするところ。その危惧されてある事態たるものを表わすにおいては最適なるなものになる。この盤がマインドになる。なんやらガチャガチャ派手派手しいだけで、その思考は所詮は反射連想反応のみにてで成り立っているまで。ハッキリ言ってそれは紋切り型のものにてで限定されている。人格側においてのみの限定された思考プロセスでしかない。本質たるものによっての、その関与たるものがまったくもって果たされていない。一つか二つのセンターだけにてでその思考とやらゆうものは果たされているまで。*これの高度化をもって大学には入れる。要は

ってことだけに尽きるのかな?。ハッキリ言ってあまりにも浅はかに過ぎる。このことの原因は

ってものが、こういった人々は欠けているってことを表している。ほんとうに何かの目的を必死の覚悟もて果たさんと、奮闘したるのそんな経験がないんだ。我が持つそのすべてを、あらゆるものを動員して、全身全霊をもってしてことに当たるってことをしたことがない。言葉遊びにて物事がなんとかなるなどと考えているまでの、そんな軽薄にして底浅き存在でしかないんだ…。

とは、その姿を獲得するにおいては、なんらかの目的を持ってしてのものになる。作者や表現者らにおいては、なにか差し迫ったるの事情、もしくは思いたるものが、間違いなくあったはずなのだ。ならばだ、そこには、なにかに関しての認識が、彼らにおいては、先ずはあったはずなんだ。ならばそれは〜なんだったのか?。そして、何故にその表現に向けてのエネルギーたるものを獲得できたのか?。そのエネルギーは何処から来たものなのか?、その源泉たるものは何であるのか?、こういった事らが追跡されなければならない。要はその析出を果たしたるの、その本体自体を理解しなければならない。この行為は、自己のあらゆる領域を総動員するをもってアプローチするしかないんだ。殊、社会的常識のその日常の範疇を超えるものであるならば、なおさらに!。

そして、なにかの意義がその理解においてあったならば、得られたならば、それは自己の日常における生活の中にしっかりと組み入れられて、終生に渡って活かされなければならない。そうしない限り、その理解もまた、一種の知識のままにて、それだけに〜、終わる。そして…知識たるものは、活かされないでときを経たるなば、気化して蒸発していってしまうものなのだ。サインコサインタンジェントって何やったけ〜?。跡形もなく消え失せてしまう…。肉への落とし込みが必要。

自分が見る限りにおいては、ことは上辺だけの理解にて、あれやこれや、また別のところからの断片をもってきて、勝手に無手勝流に結びつけて、無責任にもの言ってるだけのことなんだ。この事態たることに、当事者たちは、まったく気づいていない。むしろ、いたってご満悦のご様子だ〜。

最後に繰り返しておく。知識は、日常の生活において、理解され応用されない限り、
それはただのトリビア。そんなもんで頭膨らませたって時間の無駄。
物言えば、余計に事態を混乱させるにしかならない。

では開演、スタート!。


Re: Providence

この語の意味として込められたるものとは…

   神のご意志/ご意向、
   神と同質なるものとしての摂理(せつり)
   神の行う導き/ガイド、
   神による/彼が行うところの(わざ)

なんのこっちゃかよく分からない(哀)。「いと、とほほ…

使われる語彙としてのコンビネーションも確認しておこう!。

   special providence            天祐
   act of providence            天災(地変)、不可抗力
   agency of Providence          神の摂理
   by divine providence           神の摂理によって
   by God's providence           神の摂理によって
   see divine providence in all things     あらゆることに神の摂理を見いだす
   submission to providence         摂理への服従
   act of divine providence         神の意思のなせる業
   life lived according to Providence     摂理に従って生きる人生
   rely fully on the Providence of God    神の摂理に全てを委ねる
   life lived in accordance with Providence  摂理に従って生きる人生


さらばなりとて、どうしよっかいな〜で、ここで彼の名高き、思考操作の妙技、アマ〜ンズ・オコンバワン・ワンチャン・ヌークレイニュ〜ラルン・ヤッホイ・トランズレイションによりての翻訳ホば開始せん!。


*ちょいお待ちを。




 「整いました!」


「とにかく、なんでもかんでも、彼の方様においては、お見通しってこっちゃ〜!」
「そんでもって儂等ヒトにゃ〜分からん迄の、

ご配慮において、ことは捌かれ

 ちょるってこーーとーーー!」。


 「 You all see ?!! 」(みんなわかった〜!。)



Re: 恒例のつかみたるのを済ませてーの…。



さてどうよ、これ?。眼が一つの表徴。
知ってる?。知ってるよね〜。
もうかなり有名だから。何をどう感じる?。

先ずは一つ目のアイコンを怖いって、なにか不安になるっては何故なのかを知らなければならない。それは「誰が見てんの?」が分からないからだ。自分にとって脅威としての存在なのではないのか?。害をなさんとするものではないのか?。こんな風に思っちゃう。この連想は、獣としの本能の記憶に原因を持つ。そんで、そのアリもしない存在たるものを想像してしまうんだ。
ベアードとか妖怪一つ目とかフォーグラーとかetc。今回においては、その眼差しの主体たるものはー、”神”さまー!。この前提は、しっかりと意識して、固く守って、強固に据えておいてくださいねーっ!。

目は認知を表わす。趣深くしての表現を採用するならば”

”いる…。
ここで彼の言説を、パタンジャリによる確認たるものを持ち込むならば、
気づいていてこそ、”我”は、初めて、存在しうる。
このことは実は奥深い真実を語っているのでくどくでいく。
気づきがあってこそー、私たるものは在ることができる…。しうる…。

この事実は、各自にて、なまなましく、確認されなければならない!。
そうか、

、いるんだってことを…。

ここで我等、ヒトたるものは神の似姿だって言質を鑑みれば、神においての存在ももしかしたらのもしかしたた…同じなんじゃないかと仮定してみる。アーメンとこころ密かに唱えながら…。もしかしたらの、もしかしたら、創造の必要性はそこにあったのかもしれない。

この宇宙の誕生の真の原因は、その理由は。その私は既に獲得されてはいたが、長期安定されるためには、認識認知においての対象物を持つ必要があった。その神自体の、核心としてのエネルギーが愛であったこともあって、その対象を、自ら創り出し、それらを自分の位置にまで持ってくることが動機とされていた。その構想しか持ち得なかった。これはねヒトに落とし込むならば、結婚して、子供作って家族を養って、子等には自分が獲得した一切合切を教えて、しつけて、与えて、これをもって長きに渡る人生たるものを費やすを思えばいい。此れ以外には実は、やりがいのあることってのはないんだ…。不思議ー。ハイ、このことに関してはこれで終わり。

この宇宙の丸ごとが彼によっての創造物になる。その複雑なること精妙なることは、宇宙物理学の狭い視野では捉えきれない。追いきれない。その真実の姿は、神そのものの理解としてとしかあり得ない。なんたって、そのすべてが彼の内にあるってことになるんだから。そのどれもが、生きてあるんだ。命を持ってが宿して〜ってのが

。そこに、分断、切断、乖離はない。すべてが「一体」としてある。こう考えてくれたまへ…、もし仮に、自分を神であるとするならば、その自分を構成しているすべての細胞が、この宇宙におけるすべての存在物であると。一人を構成するその細胞の数は60兆個もある。それらすべての生存において、それらの然るべくの活動において、共闘において、自分たるものは存在している。生存している…。





「下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとくであり、
 それは唯一のものの奇蹟を果たすためである」。*エメラルド・タブレットよりの一節。
「神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られた」。*創世記より。

*採用されるべくの、唯一の頼りとされるべきものは、
*類推と帰納法と絶えず最大公約数としての骨子たるものを意識することにしかない。
*そうすることの根拠として上記の抜粋と、モデルとしてのマトリョーシカ人形になる。
*わざわざ苦労して七体のものを探してきましたー!。このユニットがあることが既に奇跡!。

ここで知るべきは彼においての認識とは、私達が自分の体においてを知ることに他ならない。健康であれば、そこにさしたる干渉はまったく必要とはされない。すべてが調和しての、その結実としての自分としてがあるだけ。自分は自分を大切にするし、生きてあること、自由に自在にすべてが機能している、動いてくれる、働いてくれることに大いに満足する。賢いヒトなれば自分の肉体であってでさえも、その各個の内蔵やパーツに対しても感謝をよせることができる。また、それは可能性の塊であり、然るべくのトレーニングを行いすれば、その行程を経るならば、あらゆる分野にて、その潜在的能力を開花させることができる。これもヒトとして生まれてきたならば、生き甲斐として定まることは当然にして必然なことであろう...。

先のプロビデンスの眼は、神においての認識/認知を表わす。それでしかない。それだけ。そしてその対象は

にて渡る。我が身、わがこころとして、その状態状況に関しては、瞬時に知られてしまう。感じ取られている。覚えられてしまっている。か細い(とげ)の一本でも刺さればすぐに感じとれちゃうでしょう?。前にも言ったが、宇宙のすべてには、神経たるものが、張り巡らされてい〜るー。

この辺のことをあらわすのに、”無数の眼”ってのが表現として今度は採用されるんだ。
でもさ〜、ことは同じことを表現を換えて語っているにすぎない。

か、

かのどっちかでしかない。そのどちからでしかあり得ない。





エゼキエル書には神の使いとしての智天使に関しての記述がある。「その中には

の姿があった。それは人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。…その顔は“人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔”を持っていた。…生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた。…ケルビムの“全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた”」






絵にするとこんな感じになるのだが大切なのは、これは預言者エゼキエルが幻視において観たその姿。ハッキリ言って

なのだ。否、なにかの介入/介在は確かにあったのだ。だがそれを認識するにおいて、エゼキエルのマインドにある情報コードが利用されたに過ぎない。だから〜、上の絵のものが真実実際そこにあった/いたわけではないんだ。そのような表象に何故なったのか?。このことこそが真実、追跡されなければならないことなのだ。自分の中の何が、何処が活性されたのか?。それはどうしてなのか?。彼であったつもりで、シュミレーションたるものが理解に向けてなされるべきなのだ。*車輪は回転。では回転を起点として、どんな連想を皆さんは持つことができるだろうか?。

ことの先ずの大前提は、それが自分の存在を根底から揺り動かす、まさにリアルな存在の来訪であったこと。上位たるものが、間違いなく、一切を問う必要もないままに、彼においてはそう確信されていた。


ハイ、もうお分かりですよね。黙示録のあの触りとしての締めの部分、

 御座の中央と御座の周圍とに、四つの活物ありて、前も後も數々の目にて滿ちたり。
 第一の活物は獅子のごとく、第二の活物は牛のごとく、
 第三の活物は面のかたち人のごとく、第四の活物は飛ぶ鷲のごとし…。

これらに関しての情報提供を行っておこうと思ったのです。おまけとして。

では早速、その四体を見ていこう!。






そうなのよエジプトの古代遺跡の中にその表象たるものが同じくして存在している。自分のセンス的には、アレらは最初から既に洗練の極みにとしてのものになっていた。それは、一足飛びには絶対に達し得ない為し得ないものなので、やはり前提はアカルダンによるその成果であることには説得力を覚えてしまう。あのアトランティス文明たるものの存在を…。
その文化的遺産を…。その意義たるものを…。

彼らはヒトのある状況たるものが分かっていた。ならばだ、やはり問題たるものにおいての苦渋たるものを散々味わってきていたのだ。彼らにおいては、解決に向けての取り組みが真剣に為されていた。そして本質的な要素においての理解と、それらを克服すべきの方策が見いだされていた。そして後人としての、万人に向けて、その指針はまとめられ、その表現は創意工夫の元で編み出されていたのだ。この事態においてを想像するならば、なんたる死闘たるものが彼らにおいては為されていたのかを思うことができる。それもやはり、幾代もの連なりにおいて!。

その結実としての示唆のあり方は、知的な文言を連ねるばかりでは意味が伝わらないといった現界の自覚だった。

、ヒトの全存在をもってこそ初めて果たされることなのだから。伝えるべくのその相手の全センターに向けての教唆でなければならない。深き意味、大きな情報大系を如何に単純な器にて収めきることができるか。圧縮と解凍のプロセスを敢えてで採用する。知るべきヒトのみにて適うようにたるのも課題だった?。

そこで見いだされたのは、その時代の人々の生活環境において身近な動物たちの、その生態において意識されるべくの意味たるものを投影して、それを強く強調することで、ヒトのこころにアピールする方策だった。それらが限定された意味内容としての器になる。それに向けての門となる。あとは、そのときの状勢、状況において、順列等の入れ替え等によって微調整たるものを果せばいい。とりあえず、文化としての形象たるものは、長きに渡って生きながらえることができよう。そうだ、いいことがある。それらを権力たるものの根拠たる象徴であるとしてヒトのこころに植え付ければ、ほんとうに、それらは長命を得ることになろう。何故ならば、権力を握らんとしての者達は、それの意味が解らずとも、勲章の如きものとの錯覚において、自己を飾るアイコンとして用いるようになるであろうから…。

エジプト時代にはややもてその意味は変質してゆく。すべてを見通す神の眼は、ホルスの眼への意味にて収斂を果たしてしまう。それは地図の上にて、ものの配置を、それらの動きたるものを知る、鳥瞰図的な眼差しにおいての情報把握の重要性として。





本来の重要性としての意味は、上位界においての視座を獲得するにあったはずだ。
宇宙の助けを借りて、地上におけるできごとを知るだ。ディアーナのことになる。

だからその意味に正確に絵にしえ起こすならこんな感じにになる。





やけにファンタジックでおかし系のものでしかなくなってしまう。
これはクンダリーニに好き放題されてしまったヒトの描いたものでしかないな。
これらは全然だめだと思う。夢見だけで完結してる。何も指し示していない。
眼たるものが本来意味するところを、そのニュアンスたるものを理解するにおいて
のみにてご参考下さい。下の絵なんかではその彼の知覚において、ことを観るになる。

そんで、旧来のオリジナルを探してみると、
現代においてはこんな感じになってしまっている。



なんか、ほのとうに、不気味でしかない。

この辺の事情を想像してみるに…。
聖なるものとのダイレクトな関係が細っていってしまったんだ。
ただ神という概念だけは強固なものとしてヒトのマインドに定着してしまってた。
それは全権としての支配の象徴に、凝り固まってしまったんだ。
権力者が人民に対してこれを、重要であると、肝であると意識するようになった。
つまりは”彼”に傾いての、それにすり寄ったことにおいて、
その象徴の意味たるものがまったく違うものへと変換/変質してしまったんだ。
”彼”が、本家本元の彼と、入れ替わった、すり替わったってのが、
現代における実態で、この象徴が語るところになる…。

だから聖性との関係性を各自で回復しなければならない。それはまさにダイレクトなものとはならない。そんなもとしては、その姿を滅多に表さない。日常のあらゆるところに、それの働きたるものを見なければならない。実は注意力やら鍛え上げられた視力ってもいるんだ。なぜって、それらは、多分に、あくまで帰納法的な認識においてでしかそれは察知されないものだから。でもそれらはいつもそこら中で起こり続けている。

暴風雨の中、吹き倒されそうになりながらも、夜間に無事家に帰りつけたことがまさにそうなのだ。虫の好かない相手とペアを組まされたことがまさにそうだったんだ…。自分なんか、いろいろのゴタゴタがなければ、この天村崇なんて名乗って、だべってなんかいないんだからね!。品行方正を絶えず心がけしての、お年寄りにとても優しい、立派な社会人を今もやってた訳だしーーー!。

まあ、それは信徒となりたりけたればの、世界観でしかないんかもしれけどねー。
まあこれはこれで、自分としては、ありがた〜いことでしかない。

イエスは何となしの感じで『奇跡を欲しがるな』っていってます。
聖なるものはそんな派手な如実に神秘的なってな感じのものではない。
あくまでことの背後にあるものとして、ヒトが勝手に、思いを抱く、
思い至るものとしてでしかないんだ…。

日常において恩恵たるものを自覚して、感謝の思いをまず抱くことからすべては始まる。
そして与えられたなら、同じく与えることを、返すことを、意識するのがヒトの道として
の当然になる…。



え〜と、各シンボルの意味の説明はしません。
あっちをご参考下さい。


天使が、怒っとるので、改稿の作業へと戻ります。


いろいろと先の内容においては不都合がございまして、ごめんなさいね。


ちゃんとした完成品にこれからしてゆきます。


本稿も誤字脱字多いでしょうがすんません。









崇。









これがエジプトの彼の時代ののスフィンクスで。



そんでこれがそれに引き続いてのバビロニア時代においてのもの。

ちゃんと受け継がれていってるよね。
いろいろと変わってしまっているが。
作戦とりあえず成功だって。




そんで最後は、これは関係ないんだけれど、神たるものが持つ、そのセンターの、
数たるものを把握するのにとても気に入っている絵になる。星のことね。
ご紹介まで。




こいつも次いでに上げておこう。
ここでの肝は上昇としての上三角と下降としての下三角。それの合体としてのダビデの星。
その中に神のご臨在を現してのプロビデンスの眼がある。
その周りをぐるりと取り巻いて二匹の蛇がお互いの尾たるものを加えて輪をつくっている。
永久の循環を表わす”ウロボロス”。これは円を描くにおいて、終わりが始まりになることを
なぜが特にで強調している。このことは直進性に置き換えれば、オクターブのことになる。
上部左右の太陽と月には何を見ることができるのだろうか?。これは男性原理と女性原理と
置き換えることもできる。単純な二項対立を読んではいけない。そんなものんは頭の悪い人達
のこだわりで、無理からひねり出した概念でしかないのだから…。それは絶対性と相対性の現しなのだ。永遠として屹立する今と、変化流転としての動態の絶対確定、断片としての今のことになる。何言ってるんだか分からなくなので、簡単にでいこう。微分と積分でいいかな?。普遍と特殊もいけるかも。生々流転、諸行無常に対しての、それらの原因体たる三位一体、つまりは神的ななにか…。川の源泉にたいしての川の流れそのもの。男は真面目で頑固、女は現実主義者日和見主義者。まあこんなところにしておこう。あと左の鼻孔と右の鼻孔において流れるエネルギー経路は同じ様な特徴があるらしい。これは余計だったかも?。

そんで大注目なのが、この蛇は二種類いて、一匹には羽がはえてて、足も二本ある。更には冠をかぶっているのだ!。この表象にはクンダリーニのことを思うのがいい。それは変容するをもって天駆ける翼ある蛇(龍)にもなるんだ。此のことも、彼方においての話なんかじゃない。我らの、この体の中における、リアルな事態、常に差し迫ってそこに生きて活動している格別なるエネルギーになる….。ここ、あとでちゃんと情報いれとくわ…



♬いったりきたりの自由がしたい…♬(夢の4倍/原マスミ)
https://www.youtube.com/watch?v=6-1peM1nePA



かってのアトランティスにおいてその重要性は確認されていたみたい。
古代エジプト文明において、そのレリーフが既に存在している。


お暇がありますれば、2Fの第6話、螺旋力にも、目をお通しください。



おはり





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