第2話

文字数 3,437文字

 瑠璃の部屋は東と南に面した十階の角部屋で四十畳ほどのワンルームである。瑠璃が部屋に入ると「お帰り」とエルが出迎えた。部屋の中には横になれる程の大きさのソファーが一つとその前にテーブル、その上にはすでに熱いホットチョコレートが湯気を立てている。北側の隅の方にはキッチンの設備が整っているが、キッチン家電は野菜や飲み物を保管する小さな冷蔵庫とフードメーカーがみられるだけでシンプルなキッチンだ。ここには小さなダイニング・セットが置かれている。東側は一面ガラス張りで南側にはバルコニーがありガラスの扉以外はすべてシームレスのガラス張りである。その南の一角には観葉植物が置かれて、その横にガラスで仕切られた浴室があり、バスタブに浸かりながら井の頭公園を見渡せるといった好条件の部屋である。自動偏光のガラスは昼夜問わず中から外は見られるが、外から部屋の中は見られない作りとなっている。また就寝時には暗さを保てるようにもなっているのでやすらかな睡眠が確保できる。ダブルベッドは東側に置かれている。西側は一見シームレスの壁になっているがその奥にはクローゼットと物置になっている作りだ。この壁はスクリーンとなり壁一面に映像を映すことができるようになっている。空調は常に瑠璃に最適となるように管理されている。すべての機器はクラウド上のIMSにより管理されている。
 瑠璃はコートをクローゼットにしまい深々とソファーに腰かけた。自動的に今日のニュースが壁一面に映し出される。部屋中の照明器具がスピーカーになっているので臨場感のある音空間が再現されている。ニュースではテラフォーミングのための固形原油を積んだアメリカの民間宇宙船スペース・バッファローが火星の南極にあるレイモンド基地へ到着したとリポートしている。
 瑠璃はホットチョコレートを飲みなが吉祥寺の街を眺めていた。クリスマスが近づいている師走の日曜日の宵闇に浮かぶ煌びやかな街明かりはどことなく瑠璃を人恋しくさせている。
「エル、今夜会えないか白河さんに聞いてくれる?」
「OK, 瑠璃。お誘いのメッセージ送るわね」

 瑠璃はキッチンに向かってバッグから買ってきた苺と牛乳を取り出すと、苺をガラスの器に移してその上からたっぷりと牛乳をかけた。キッチンの椅子に座って苺をフォークで押しつぶしながら食べた。ニュースでは川崎で起きた差別撤廃デモが暴徒化し何人かが神奈川県警に捕まったと報告している。
突然着信音が鳴り響いた。モニター画面に目を向けると白河さんからのメッセージが届いていた。
「メッセージ開いて」
するとモニターには見事に禿げ上がった頭に立烏帽子を被り直衣を身に纏った恰幅のいい五十台の男が映し出されている。
「姫、今宵亥の刻に三条西殿で甘い宴の一時、楽しみにしておるぞ」
そのメッセージに瑠璃の気持ちは淑やかに甘いさざめきで満たされていった。
「エル、今夜は三条西殿で白河さんとデートだから準備しといてね」
 瑠璃は衣服を脱いで浴室へと向かう。軽くシャワーで体を洗ってから浴槽へ首までつかる。照明が落とされた浴室から常夜灯に映し出される井の頭池をぼんやりと眺めながら静かに目を閉じた。
 瑠璃に両親はいない。正確に言えば東京の大学で情報工学の研究をしていた父は母と提携先の企業のパーティーへ向かう途中、行方不明となった。瑠璃が八歳の時である。父親の研究を援助していた外資系企業の関与が疑われたが結局何もわからずうやむやのうちに捜査は打ち切られている。瑠璃はそれ以来、長崎の祖父母の下で育てられた。祖母は瑠璃が高校二年の春に病死し、祖父も瑠璃が現在の大学の研究員として働き始めた二年前の夏に亡くなっている。父母とも一人っ子であったため現在瑠璃の親類は母方の祖父母のみである。父親の思い出はもちろんあるのだが研究に忙しかった父なので一緒にどこかへ行ったという記憶はない。それよりも一緒に暮らした時間が長かった長崎の祖父との思い出が瑠璃にとっては多い。祖父はたくましい男だった。一番の思い出は幼いころ一緒に時代劇を見たことである。特に三船敏郎が主演する浪人が主役のドラマは二人で繰り返し見た記憶が強い。祖父がどことなく三船敏郎に似ているので彼のドラマを見るのはその理由が大きいのかなと幼心に思っていた。瑠璃は現在、江戸時代の生活を科学的に解析していこうという研究を行っているのだが、それは祖父の影響が大きいと自分でも思っている。今日のような冬の寒い夜は祖父と暮らした日々、特にあの普段はいかついのだが笑うと目じりが下がり切ってしまう満面の笑みが閉じた瞼に浮かんできて瑠璃をメランコリーな気持ちにさせてしまう。
 浴槽から上がりバスタオルで体をふいた後、瑠璃は下着を着けずにバスローブを羽織ってベッドへと向かう。ベッドサイドには眼鏡とイヤホンが一体化されたヘッドセットが準備されている。その傍らにはエルが静かに佇んでいる。いつもは瑠璃と変わらない身長で華奢な女性のボディラインを持つヒューマノイドの姿態であるが、今夜は相手先から送られてきたデータに沿ってふくよかな男の体を形作っている。外は満月で井の頭池を照らしている月光がエルの人工筋肉と皮膚で形作られた白い体を艶めかしく照らしている。
 バスローブのまま瑠璃はベッドに横たわりヘッドセットを装着した。IMSを通してネット内で運営されている仮想空間であるZOO ZOOタウンにログインし既に登録している白河さんの三条西殿へと入室した。すると目の前に冬の青く澄んだ夜空に浮かぶ満月が飛び込んできた。その明かりは一面雪に覆われた中庭に反射し薄暮くらいの明るさを辺りに作り出している。寝殿造りの部屋は蔀(しとみ)戸(ど)は開れ几(き)帳(ちょう)も開け放たれている。屏風が置かれた後ろには寝具が置かれ火鉢にくべられた炭が赤々と輝いているのが見られる。白河さんはまだ来ていないようだ。瑠璃は中庭が見通せる板張りの回廊に体育座りで腰かけて空に浮かんだ月を眺めた。瑠璃の装いは十二単である。その格好で体育座りをしながら月に照らされた冬の庭を静かに眺めていた。
 その時柔らかくて暖かな掌が後ろから瑠璃の両頬を包み込んできた。その優しい人の温もりに瑠璃の心は愛おしさで満たされていった。
「姫、ちと遅くなってしもうた」
「身共は主上のことが待ち遠しうあらしゃりました」
「姫、今宵は立派な女御のすがたよのう。朕はこの間の十三歳の姫の姿が愛おしかったぞ」
「されども主上、昨今このZOO ZOOタウンでもポリコレがうるそうなってきておりまする。あの後、身共のところに運営側からお達しがありました。あと二回お達し文がくると身共はバンされて主上とお会いいたすことがかなわなくなりまする」
「困ったものよのお。して今宵は十六ほどか」
「十八であらしゃいます。主上、十六でもご法度であらしゃいますよ」
「さようか。十八といえば姫が孫の宗(むね)仁(ひと)の内宮となった年であったのう。さすれば今宵、姫は人妻ということであるな。朕はうれしいぞ」
 瑠璃は振り向いて指貫の上から白河さんに頬ずりして艶めかしく潤んだ瞳で訴えた。
「いとおしゅうございます。主上、お情けを早くたもれ」
「姫!」

 開け放たれた三条西殿では二体の獣が寒空の中、白い肌を火照らせてその身体を躍動させていた。満月だけがその波濤のごとき戯れを静かに見つめていた。

 東の空が濃い紫から赤く染まり段々と白く明けてきたころ瑠璃は目覚めた。静かな月曜日の朝だ。井の頭池に集った冬鳥の囀りをマイクで拾った冬の早朝の音景色が室内では穏やかに響いている。昨夜の情熱の残り火が下半身に感じられ気怠さの中で満ち足りた目覚めであった。すでにいつもの華奢な女性の姿に戻ったエルはコーヒーの準備をしている。瑠璃は昨夜のことを思い出しながら
「来週のクリスマスイヴはまた白河さんと過ごすことになったの。じいちゃんが好きだった不二家のケーキ予約しようと思うんだけど、白河さん、好きかな?お金持ちみたいだからもっと高級なケーキがいいのかな?エル、調べてくれる?」
「瑠璃が好きなものなら白河さんはなんでもOKだと思うわ」
「きっとそうだよね。お返しにグッチのバッグおねだりしようかな」
 朝日を浴びて逆光の中ベッドに腰かけている瑠璃であったが、エルはその瞳がまるでレフ板でもあるかのように妖しくきらめいているのを見逃さなかった。
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