第33話

文字数 7,850文字

 立烏帽子に直衣姿の男は三条西殿の屁(ひさし)に腰を下ろし一人で酒を飲みながら登る月を見ていた。十三夜の月である。庭には紅梅や白梅、連翹が咲き季節は春の訪れを告げている。池の面に映る季節の彩は頬に伝わるそよ風に揺らぎ懐かしい女の在りし日の姿を忍ばせていた。男は思った。あの人はもはや消え去ってしまったのだろうか。せめて気配だけでも残しておけばよかろうにと。それにこたえるかのように梅の香りを乗せた微風が伝わり春の色たちを揺らし、池の面も揺らした。映りこんだ月がほほ笑むように揺れた。優しい笑みで誘うかのように。男は柔らかな暖かさに包まれて一人満足げに春の宵に酔いしれていた。

 東京都知事の是非を問うリコールの住民投票を二週間後に控えた週末、京都では府知事の孫英玲が柚木クリスティーンを招いて単独インタビューの生配信を行っていた。その配信で孫は外国人百万人移住計画については撤回することを明確に宣言した。この計画のそもそもの目的は日本を環太平洋地域での中核となる国としての存在感を保つことにあり、十億人を超す地域での中心市場を保つためには一億人強の市場確保は絶対条件という状況からくるものであった。そのために大都市を中心に最低でも日本全体で二千万人の人口増加が必要であること、そして人口増加は大都市を中心に行おうとしていることなどを説明した。この事は国際市場を一つのルールで一本化させるための勢力による人口再配分計画に基づくものであること、また孫としては人口密集地域での人口増加であれば異文化の衝突は最初のころは免れないが最終的には日本の文化に吸収されていくのだろうと考えていた。これにより日本の文化が今よりは違ったものになるかもしれないがそれでも今よりは国際化してより進化した日本文化になるであろう。それゆえに京都での百万人移民受け入れ計画自体は日本にとってベターな政策と考えていると述べた。孫にとって受け入れがたかったことは八王子で行われていた知的障害者への合意に基づかない人体実験である。孫はこの計画の詳細は知らないが、と断ったうえで、この人体実験は八王子だけでなく日本では少なくともあと一か所で今でも行われているはずであり、その目的はナノテクノロジー、バイオテクノロジーとAIを用いた新しい人類の創出を究極の目的としていること。その研究の最重要課題として遺伝子改変による肉体改造で若返りを果たすことである。さらに支配者に隷属するような人格の研究や火星や無重力に適した人体構造の研究など宇宙進出を目指して様々な研究が行われていることなどを述べた。さらに孫は自身の思いとして続けた。
「私はこれらの研究項目ひとつ一つには決して反対するものではありません。しかし何故早急に行うのか、それも自身では拒否の意思を示すことが困難な親類縁者がいない知的障害者に対してこのような人体実験を極秘裏に行うことは私には到底許容できるものではありません。最初に述べましたように最優先事項は若返りの技術を確実なものとすることです。これによりこの実験を陰で支えているグループがどのようなものか想像できるかと思います。彼らは自身を特権階級と考えて永遠の存在となりこの世界を一つの価値観で支配していこうとするグループです。このグループに支援されている政治家が今、国際政治で主導権を握ろうとしています。彼らはご存じのように真実を語らないばかりか、顔色も変えずに虚実の情報を流してほほ笑んでいるのです。その目的のためには若い正義感を持った、例えば島村瑠璃さんのような存在を消滅させることも厭いません。冷酷に微笑みながら行わせるのです。彼らは自分から手を下すことはしません。何も知らない善良な市民をフェイクニュースで洗脳して彼らに誤った正義感を植え付けてその正義の下に非道を行わせるのです。私はキリスト教の信者ではありませんが、彼らの行いはまるでキリスト教圏で言われる悪の行いではないでしょうか。私が今日全世界の人間に伝えたかったのはそのことなのです。悪魔は善良なふりをして正義をかざして我々に誤った判断や行動を行わせます。皆さんに伝えたいことは皆さんの心の中にある善良なるものに問いかけてください。この判断は正しいのかと」
 孫の熱意のこもった訴えは多くの視聴者に届いたようで三百万を超す視聴者から賛同の声が多く寄せられた。この孫のメッセージはSNSを通じて共有され自動翻訳により世界中に拡散された。ビッグテックによりあからさまな干渉が大々的に行われたのであるが、それらに反発した多くの個人たちにより規制の網を掻い潜るように様々な隠語を用いられて国際市場派の陰謀はその実態を世界中に暴露された。そしてその暴露は世界中の多数の人々により認識されたのである。しかしそれはエビデンスを伴わない主張であることも事実であったので世界中の大多数の人々にとっては真偽を確認できない戦いが進行しているといった漠然とした不安だけがその心を支配する状況であった。今、彼らが最も期待しているのは国際市場派が否定できないほどの圧倒的なエビデンスの存在である。しかし世界の世論はそのようなものの提示は困難であろうことも経験的に理解しているので結局どちらの正義が勝利するのかの戦いによってしか正義というものは確定せず、勝者が画定するまでの長い時間、いかにして自分たちの利益を確保するのかに少なくない人々の心は傾いているのもまた現実であった。
 この孫京都府知事の発言は彼女の良心から発せられているのであるがその背後には国益重視派、具体的には大沼元総理の率いる反主流派が孫の故郷、台湾の財閥を使って孫政権に工場誘致など府民の雇用環境の改善の確約をもたらすよう支援することで、府知事の地位を安定させ、その上で彼女を取り込んだことによることも大きい。彼女にとってもエイミー・ディキンソの背後にいる国際市場派の力は脅威であるのだが、最終的には日本という国を選んだ時の彼女自身のこの国や文化、そして人々に対する熱い思いが彼女自身を国益重視派に鞍替えさせる動機となったのである。このような決断を下すことが政治家としての未熟さの表れではあることは重々承知であるのだがそれでも内なる声に従うという大きなリスクにかけることはまた、自身の政治家としての運を試すことでもあると理解していた。
 その京都府知事の発言によりネット上では反五代・青木の世論が圧倒的な多数派となり福島百合子東京都知事の解任は既成事実化され次期東京都知事に柚木クリスティーンを支援するという世論形成がなされるに至った。その動向を大手メディアは無視してきたのであるが、ここにきて大手メディアのTNNニュースがリコール投票の一週間前に当たる二月の第三日曜日に柚木クリスティーンと久富幸太郎による討論バトルの生配信を行って都民や国民に福島都知事続投の是非を問うという行動に出たのである。この企画は五代幹事長と深く関係しているTNNの上層部からの猛反対があったのではあるが、全国的に人気のある立花香織がプロデューサーの堅持をここでメディアとしての役割を果たさなければ私たちが何のためにこの仕事をやっているのだというメディアの矜持を持ち出すことにより動かした。堅持は直に大手スポンサーのコニー電子工業と話をしてコニー電子からTNNのマネージメントを説得させることにより実現できたのであった。
「あのね、僕は今日ここにいること自体が全く不愉快なんだけどね。世界は今、一つにまとまろうとしているんだよ。男も女もなくしてね、まして黒や白や黄色といった人種の垣根も壊して国境自体を無くそうとしているんだよ。一つの統一された価値観の下でみんなが自由に平等に発言できる機会があって、同じように幸せになることに何で反対する人たちがいるのか僕は甚だ疑問だね。ドルもユーロも円もない世界で一つの通貨で世界中をまとめる中でみんな幸せを追求することの何が悪いのかね。僕は甚だ不愉快だ。それに反対する人たちは暴力でしか自分の意見を表現できてないじゃないか。そこに民主主義があるとは僕には到底思えない。まったくもって不愉快だ」
 ジャーナリスト久富幸太郎のいつもと変わらぬ発言である。それに対して柚木が反論した。
「久富さんがおっしゃることは固有の文化の全否定です。私たちは多くの歴史を積み重ねてそこから自然発生的に生まれてきた生活の知恵というのでしょうか、いわゆる倫理観ですね、人の物を盗んではいけないとか、お互いのことを尊重しましょうといったものです。そういった倫理観は民族固有の物もありますが人類に共通した普遍的なものもあります。私たちの主張はそのような固有の文化を大切に引き継ぎながら人類が共有できる普遍的な価値観について繋がっていきましょうということであり、それが基本的な考え方です。誰か、お金持ちが都合のいいように押し付ける価値観ではそこに普遍性を見出すことはできないでしょう」
「それはあまりにもステレオタイプな一方的な判断に基づく発言だね。あなたが言うお互いを尊重しましょうという考えはそこには見られない」
「そうでしょうか。経済ひとつとっても例えば通貨を統一するとそれぞれの国や地域の独自の経済政策ができなくなります。そうなれば力を持っている組織により世界中の経済活動が支配されていき、庶民は金持ちを設けさせるためだけに自由な経済活動を行うことを強いられるのではないでしょうか」
「そのような否定的なところだけを取り上げるのがあなたたちのやり方なのはわかっているがね。例えば個々の国での自由な経済政策を行った結果を直視したことはあるのか甚だ疑問だ。今現在、世界の貧困層は十億人に達しようとしているんだ。今まで多くの試みが国連や先進国からなされたにもかかわらずだよ。その現実に対してあなたたちはどのような解を持っているのか僕は疑問だね。きれいごとを話す前に現実を見なさいと僕は強く言いたい」
「久富さんの今の発言はそっくりそのままお返ししたいと思います。途上国の貧困層を生み出したのは国際市場派が行ったそれぞれの固有の文化を尊重しない冷徹な利益追求が生み出したのではないでしょうか。その組織が行おうとしている一つに統一した世界の中で今後は何十億の人たちが富や財産を搾取されて下層階級や貧困層に陥ることになるんですよ。今、中流階級を意識している多くの人たちが将来直面するであろう現実が下層階級や貧困層に陥ることならば私たちは今立ち上がってそのような一方的な価値観を押し付ける者に対してNOというべき時なんです。今、現在も経済に限らず一方的な価値観により私たちが古来育んできた倫理観を否定しているのが国際市場派の考えです。それに対しては断固受け入れることはできないですね」
「あなたの口から倫理観という言葉が出るとは笑止千万とは全くこの事だ。あなたは人ひとり殺しているんですよ。それでよく倫理観と言えますね」
 ここで司会の立花香織が久富を遮った。
「久富さん、ここでは個人攻撃は慎んでいただけないでしょうか。それに人を殺しているといった発言は正確ではありません。視聴者の皆さんに大いに誤解を招く発言です。速やかに撤回していただきたいと思います」
 その言葉に対して久富はさらに激高して答えた。
「人を殺しているのは事実でしょう。事実を曲げることはできませんね。この人の不倫行為により相手の奥さんは自殺に追い込まれているのですよ。これのどこが正確ではないといえるのか甚だ疑問だね」
 立花が引き続き反論した。
「お相手の奥様の行動の原因は私たちメディアの行き過ぎた取材や報道姿勢にその原因があったと思います。柚木さんの行った行動は肯定できるものではありませんが人殺し発言は納得できません。即時撤回をお願いします」
「詭弁だ。僕は撤回するつもりはないね」
 久富と柚木の対決は不利な状況に陥りつつある福島都知事陣営を支援するために五代幹事長により国際市場派の代弁者として久富が選ばれたのであるがこの暴走により期待とは反対の結果になりつつあった。立花香織はここで話題を切り替えてニューヨーク在住の世界的音楽家細田真二の意見を聞いてみた。
「僕も立花さんと同じで個人に対しての攻撃は肯定できません。その上であえて言いたい。私たち人間は常に進化していかないといけない存在なのです。その進化とは社会的な進化ですね。私たち人類はついこの間の二十世紀まで常にどこかで大きな戦争を行い多くの人命をそのたびに犠牲にしてきました。その戦争の原因が何だったのかといえば柚木さんが主張する民族の固有の文化に基づいたものですね。それぞれが自分たちの主張が正しいと言ってきたがために戦争が絶えることがなかったのです。今でも戦火の可能性は世界中にあります。それを回避するためには一つの価値観に基づく経済圏の構築や世界政府の設立は理想的なものではありますが現実的な解ともいえるのではないでしょうか」
 柚木はそれにこたえる形で発言した。
「私たちが訴えていることと今、細田さんがおっしゃられたことはそう違いはないと思いますね。大きな違いといえば私たちはそれぞれの固有の文化や伝統に基づいた価値観といったものは大切にしてお互い尊重していこうというものです。その中でお互いに共通する部分、これを私たちは普遍的な価値観と呼んでいるのですがその部分は共有して、緩やかに連携していく中で民主的に世界を運営していこうという立場です。国際市場派は誰かの一方的な正義の価値観で世界を運営していこうという全体主義的なものであり、私たちはそこに、その非民主的なやり方に大いに疑問をもっているのです。一例をあげればこの前の東京でのデモは過激派に利用されて皇居前でテロ事件を起こされてしまったのですが権力によりデモの主催者の栗林さんは過激派やテロとは全く関係ないデモを主催したにもかかわらずテロの首謀者として証拠もない状況で不当にも逮捕されてしまいました。そのことについて多くのメディアも真実を追求する姿勢を見せることはありませんでした。幸いにも栗林さんは私たちの行動により権力が折れる形で証拠不十分で不起訴となり釈放されましたがそもそも逮捕自体がでっち上げだったんです。そのことについてメディアが報道することがなかったことが全体主義に社会が向かっているという証拠と言えるのではないでしょうか。私たちはそのようなものと戦っているのです。さらに八王子の知的障害者に対しての非合法な人体実験についてはいまだ報道がなされていません。そのことが」
 ここで立花が柚木の発言を遮る形でコメントした。
「柚木さん、その件は現在、警察による調査中ですので、今回の対談ではご発言控えていただけないでしょうか。それでは議論も深まってきましたのでここで視聴者にご意見を伺いたいと思います。質問は一つだけです、福島都知事に引き続き都政を任せるかそれとも身を引くべきか、あるいはまだ決めかねているかの三択でお願いいたします」
 画面は視聴者の投票結果を示す円グラフに切り替わった。二分後の結果としては福島都知事リコール賛成派が六十パーセントを示し、どちらともいえないが二十五パーセントで、続投を選んだ視聴者はわずか十五パーセントにしか過ぎなかった。
「現在の視聴者の方々の率直な意見としては福島都知事退任が圧倒的に多い結果となりましたがこの結果について一言お聞かせ願えますでしょうか。まずは久富さんからどうぞ」
「国民は全く分かっとらん。僕は不愉快だね。以上」
 続いて細田が発言した。
「うーん、ちょっと残念ですね。僕の言葉が足りなかったのか。都民の皆さんには陰謀論に惑わされずに懸命な判断をしていただくことを願っています」
 続いて柚木が安心したような柔らかな表現に戻って発言した。
「視聴者の皆さんの暖かな応援を感じているところです。視聴者の皆さんの力で我々は勇気をもらいました。リコールに向けてあと一週間やり切るつもりです」
 その言葉を受けてMCの立花がさらに柚木に振った。
「ネット上では柚木さんが次の都知事候補として圧倒的な支持を集めていますが、仮に柚木さんが都知事であればどのような政策を行いたいでしょうか」
「まずはリコール成立に全力を尽くしたいと思います。そのあとはどなたが立候補するのかは現時点では何も決まっていません。ただし私たちの候補者の政策で一つ決まっていることは都政を管理しているAIシステムを国の政策支援システムAIマザーから独立させることです。なぜかというとAIマザーとアメリカの行政支援システム、グレート・イーグルの接続といった提案が先の首脳会談で提示されています。そのことも吟味しないといけませんがまずは地方自治の課題として国の行政支援AIにすべて地方自治の管理を任せるのかは大きな問題ですね。経費削減という名目で福島都知事は理由づけしていますが実際は国による直接的な地方自治の支配でそれによりAIマザーによる国の監視が徹底されるのだと思います。実際AIマザーにはそれができる能力が備わっています。地方自治と国民の表現の自由を守る立場から東京の行政の国からの独立といったものが我々の主張となるでしょう」
「東京の独立ですか」
「そうです。東京の独立です」

 このTNNでの対談はネット中にお祭り騒ぎを起こすこととなった。特に最後に放った柚木クリスティーンの言葉「東京独立」に対しネットは敏感に反応した。柚木自身は国の行政支援AIマザーから都政の管理システムを完全に独立させるという趣旨であったのだがネット内ではあたかも柚木が東京を日本から独立させるといったかのようなコメントが多数見られ、ネットの住民たちも、それに乗じてお祭り騒ぎを拡大していったのである。明けた翌日の月曜日に東京都議会により提出された法案が与党自由党の圧倒的多数で秘かに可決された。それは都で行われる選挙に対して今後電子投票システムを導入するというものであった。法案は異例であるが即日有効となり都内の各選管では随意契約によるユニ・グローブ社の傘下のⅠT企業が開発した電子投票システムの導入が開始された。リコールの投票には用いられることはない上に法案自体の提出は以前から行われていたもので可決に対しても日程通りであったことから、この事実を報道するメディアは一つもなかった。
 リコールの投票まで一週間を切った状況下で福島都知事を支援する五代幹事長と青木総理もリコールの成立については断念してリコール後の都知事選に焦点を絞って対応することにしたのである。リコールが成立しても福島百合子が再任されるのであれば国際市場派の五代グループは与党内で勢力を維持できると考えていたのである。都知事選へ向けての準備は着々と進められていたので、まだ候補者が決まっていない、おそらく柚木クリスティーンが候補に立つのであろうが、国益重視派よりも選挙戦では一歩も二歩もリードしているので負けることはないだろうという陣営の読みであった。
 明けた日曜日のリコール投票では世論の傾向通り福島都知事リコールの賛成票は五十五パーセントで、リコール反対の四十パーセントを大きく引き離す結果となり福島都知事失職が決定した。
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