第4話

文字数 3,984文字

 島村瑠璃は担任の宮本教授の部屋にいた。痩せて貧相な白髪混じりの短く切り込んだ髪型の宮本教授はデスクの椅子にちょこんと腰かけた姿で書類を探している。梅雨が明けたようで窓の外では蝉時雨が五月蠅(うるさ)いくらいに夏の強い日差しの中、降り注いでいる。部屋の中ではブーンブーンと旧式のエアコンがうなり声に似た音をさせて忙しなく冷気を吐き出している。瑠璃は教授の言葉を待っていた。宮本教授は書類を見つけたらしく、その書類を瑠璃に手渡しながら徐に話し始めた。
「島村君、君の論文、教授会で認められたよ。おめでとう」
「教授、ご尽力いただきまして大変ありがとうございました」
 宮本は瑠璃から視線を外しながら静かに続けた。
「ただし共同執筆者として院生のグエン・ヴァン・フン君の名前を併記して欲しいということだ」
 瑠璃は思いがけない教授のその言葉に戸惑い絶句した。一呼吸おいて動揺を隠しながら宮本に疑問をぶつけた。
「教授、私の研究にグエンは全く関係していません、どうしてそうなるんでしょうか」
 宮本は視線をずらしたまま無表情を装いながら話した。
「君も知っての通り文科省の通達だ。大学としても人種差別撲滅行動を行っていることを学会や文科省に見せないといけない。江戸の研究にヴェトナム人であるグエン君の名前があれば科研費も通りやすい。君の研究のためでもあるよ」
「しかし教授、まったく関連していない研究発表に名前が載るのはグエンのためにもなりませんし彼の研究にプラスになるとは思えません」
 宮本は瑠璃の方に貧相な顔を向けて懇願するように言い放った。
「こまったねえ。島村君、理解してもらえないか。これは教授会の意思であって提案じゃないのだよ」
 瑠璃は呆然としながら教授の言葉を聞き終えると、考えさせてくださいと一言絞り出すのがやっと、という状態で心を揺るがせながら宮本の部屋を出て自室へと向かった。部屋に戻ると次第に悔しさが込上げてくる。教授たちの文科省に対しての御機嫌伺いのためにうまく利用された自分が情けなく思えてくる。手渡され得た書類を机に向かって力任せに投げつけた。書類はばらばらになりながら机にぶつかると一面に広がり散らかった。瑠璃は瞳から涙が一筋頬を伝わって流れてくるのも構わずに旧式のエアコンが立てる作動音の中で我を失って散らかった書類を眺め呆然と佇んでいた。しばらくそうしていると誰かが躊躇いがちにドアをノックしているのが聞こえてくる。
「誰?」
 いらだちを抑えながら扉の向こうに問いかける。
「瑠璃さん、ゼミの轟です。ちょっといいですか」
 轟太は宮本ゼミの学生で三年生だ。名前に似合わず細身の長身でファッションに気を使いすぎている今どきの大学生である。最近はあまり流行っていない長髪の男子だが整った顔立ちと長い睫毛がそのファッションと相まって中性的な魅力を醸し出しているので女子学生の間では人気は高いようだ。瑠璃のタイプではないのだがゼミでは親しく話しかけてくるので瑠璃にとっても気安く話せる学生のひとりだ。
「ちょっと待ってくれる?」
 瑠璃は簡単に泣いて乱れた顔を整えると、轟を迎え入れた。
「どうぞ」
 ドアが開くと心配そうな感情を露骨に顔に出した轟が入ってきた。
「どうしたの?」
「お昼だから瑠璃さんとランチ一緒にできないかなあと思って」
 瑠璃はゼミ生の轟に対して少し離れた立場であることを明確にするように話した。
「島村さんでしょ。何か相談事?いいわよ。十二時に学食で落ち合いましょう」
 轟は瑠璃の試みを軽く受け流しように答えた。
「わかりました。それじゃあ学食で瑠璃さん」

 昼食時の学食はざわざわとして忙しない。キャンティーンと洒落た名前があるのだがここでは誰もそう呼ばず昔通りの学食と呼んでいる。瑠璃はタイカレーセットをトレーに乗せると轟の姿を探した。窓際の小さなテーブルで辺りを憚ることなく元気に手を振って白い歯を惜しげもなく見せつける笑顔満面の轟の姿を認めると慎重にトレーを抱えて瑠璃は背筋を伸ばしてエレガントに歩きながらそこへと向かった。周りにいた女子学生の好奇心と敵意に満ちた視線が矢のように刺さってくるのがわかる。その視線を意識して静かにトレーをテーブルに置いて両手で髪をかき上げながら着席した。その仕草に敵意の視線は十倍ほど増したことが感じ取れた。
「瑠璃さん、ヴェトナム料理ですか。根性座ってますね」
「島村さんでしょ。もう話し知ってるの?それにこれはタイ料理よ」
「もうゼミのみんな知っていますよ。当人のグエンも恐縮しています。合わせる顔がないって」
 瑠璃はクールさを装いながら轟に向かって話した。
「文科省の要請ならどうしようもないでしょ。宮本教授に言って研究費倍にしてもらうくらいしかできることはなさそうね」
「瑠璃さん、俺、悔しいです」
「気にしないで。それより早く食べて別の場所に行きましょう。ここ、あなたのファンの視線がきついわ」
 轟は少しだけ申し訳なさそうに感じながら瑠璃に返答した。
「す、すいません」

 二人は素早くランチを済ませると隣接するスターバックスへ入った。瑠璃は人が少ない外のほうがよかったのだが轟が外は暑いからということでスタバの隅の席に座ることになった。
「学内は自治がまだ強いから監視カメラも限られてますけど、噂では集音マイクも設置されてて学生の会話のモニターもやっているといわれているんですよ」
「集音マイクは講義室の中だけじゃないかしら。そう聞いているわよ」
「俺たちもそう聞いているんですけど、学生の多くが川崎のデモの時参加していたじゃないですか」
「噂だけどね。轟君も参加したの?」
「俺は、行ってないですよ。でも監視カメラで顔確認は参加者全員されたようです。知り合いの何人かは家にまで刑事が来て話を聞かれて最後に警告めいたこと言われているんですよ」
「何か、息が詰まりそうな話ね」
「その時、刑事の一人が学内も厳重に監視されているから今後、差別と疑われるような話もするなよって念押しされたようです」
「尋常じゃない話ね。そういえば監視カメラと講義室内の集音マイクの設置は四月に入ってからだったわね。気分がいい話じゃないわ」
「全くです。自由と民主主義はどこへ行ったんだと訴えたくなりますよね」
 瑠璃は改まって上から目線で轟に尋ねた。
「それで、本題は何?私を慰めるだけじゃないでしょう」
「瑠璃さん、鋭い」
「島村さんでしょ」
「瑠璃さんのこと慰めたいのは本心なんですよ。俺の胸はいつでも瑠璃さんのために空けてありますから」
「調子いいわね。それに頼り甲斐が無さそうな胸ね。あなたのファンに石ぶつけられそうだわ」
「へへ、ところでインディーズ・ウェブって知っていますか?」
 瑠璃は思いがけない轟の言葉に少し惹かれたようだ。興味深そうに尋ねた。
「何、それ?ダーク・ウェブみたいに危ないやつ?」

 轟の話によるとインディーズ・ウェブというのはエントリー時に審査にパスした日本人だけが入れるヴァーチャルの空間らしい。そこはポリコレでがんじがらめに抑制された言論の自由を保障している世界ということだ。その代わりヴァーチャルとはいえ実名で行動しなければならず、そこでのアバターも一種類だけで本人と近いものが推奨されている。インディーズ・ウェブへのアクセスは個々人のインテリジェント・マネージメント・システム(IMS)を通して行われるのだがリバーシブル・コンピューティングの技術によりIMS上ではインディーズ・ウェブでの活動記録は一切残らないということである。今は信頼できるメンバーを選別している段階でゆくゆくはその空間において社会活動や経済活動も行うといった壮大な計画らしい。
「面白そうな話だけど、審査にパスできるか私、疑問だわ」
「審査は簡単で質問項目としていくつかの単語が出されますからそれについて連想される言葉や事柄をこたえるだけでいいんですよ。その間システムのほうで被験者の話し方や眼球の動き、体温やマイクロジェスチャーなどをモニターして被験者の人格をシミュレートするようです。俺にもよくわかんないっすけど瑠璃さんだと大丈夫ですよ。前に瑠璃さんのこと白川さんに話したらメンバーに誘えないかって熱心に聞いていたくらいですから」
「白川さん?」
「あ、ここだけの話っすよ。このサイバー空間の創始者です。以前は何とかっていうソフトの会社の社長さんだったらしいけど、そこアメリカの企業に買収されたらしくその大金でサイバー空間作ったって言っていました。ほら、今年の初めにニュースで話題になっていたでしょ、なんて言ったかな、あの会社です」
「ICSSだったかしら」
「そう、それです」
「でも白川さん私のことなぜ知っているのかしら」
「さあ」
「それにリバーシブル・コンピューティングって何?それでその空間に入った痕跡をIMSから消すって言ったけど無理じゃないかしら?」
「詳しくはわかんないっす。ただその空間で起こった出来事はその都度ソフトを逆に走らせることによって結果だけが残ってシステム上にはエネルギー消費も含めて何の痕跡も残らないようです。例えば会話した内容が頭の中に入るとその時点で逆向きにソフトが走って何もない状態になるんですけど会話の内容は頭の中に残っています」
「よく分からないわねえ」
「難しいです。お互い文系ですから」
「興味ありますか?」
「どうかしら。でも白川さんには会ってみたいわね」
「じゃあ、今夜招待状メールで送ります。それ開いたら後は言われた内容に従って進んでくれれば白川さんと会えますよ。白川さんにも言っときます」
「じゃあ、そうして。絶対大丈夫なのよね」
「瑠璃さん、かわいいイケメンの後輩を信じてください。何かあったら俺が責任取ります。瑠璃さん嫁にします」
「もう‼島村さんでしょ」
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