第14話

文字数 2,410文字

 玉木大輔三等陸佐が出勤するとすぐに司令部まで出頭するようにとの指令があった。 玉木が大きく動揺する中、同僚たちも何事かと驚きをもって玉木を眺めている。思い当たることもなく玉木は早足で司令部へと向かった。
「三等陸佐玉木入ります」
「入れ!」
 玉木は入室してすぐに敬礼する。そこには上司の一等陸佐服部一郎と司令官である陸将古澤英寿および統合幕僚長権藤忠文の姿があった。
「休め」
「はっ」
 玉木が直立不動で言葉を待っていると古澤指令が口を開いた。
「玉木三等陸佐、九月一日付をもって内閣情報調査局へ情報武官の任務を命ずる。以上」
 玉木は最敬礼して答えた。
「はっ、了解いたしました。質問よろしいでしょうか」
「何だ」
「なぜ。自分なのでしょうか」
 古澤が顔を崩して答えた。
「玉木、休め。わからんよそんなもん。上からの指示だ」
「はい?上というのはここにいらっしゃる統合幕僚長殿でしょうか」
 権藤が笑いながら答える。
「俺の指示ならここで理由話すわ、もっと上だ」
「防衛大臣ですか」
 古澤が答えた。
「違う!もっと上だ!」
「そ、総理大臣ですか。なぜでしょうか」
「知るか、そんなもん。君が内調に伝手があるのではないのかね」
「いいえ、私は伝手など持っておりません」
「いいか、この人事は大沼総理から直々に君を指名してきた人事だ。日本国のためにしっかりと任務全うしてくれたまえ」
 権藤が穏やかに説明した。
「玉木三等陸佐、この人事はどうも荒木さんが絡んでいるらしい」
「元統合幕僚長ですか」
「そうだ。荒木さんから直々に私の処へ連絡が来てね。ぜひ君をと指名してきたんだよ。君は入隊時に荒木さんに世話になったそうじゃないか。それが理由かもしれん。精一杯任務に励んでくれたまえ」
「了解いたしました」
 服部一等陸佐が発言した。
「ついては田辺三等陸佐に業務引き継ぎをするように。明日中に終わらせるんだぞ」
「明日までですか」
「そうだ、四十八時間もあれば十分だろうが。陸自の将校たるもの一瞬全力の気持ちで任務しているはずだ。さっさと引き継ぎ業務終了して残りは休暇だ。いいかこれは命令だ。休暇中家族サービスに全力で勤しめ」
「了解しました。ありがとうございます」
「よし、退出せよ」
「はっ」

 柚木と京都の一夜を愉しんだ島村瑠璃であったが東京へは戻らずに再び轟と一緒に彼の実家である長野小布施に戻ることにした。長崎で育った瑠璃にとっては長野の広々とした平野に浮かぶ夏空の入道雲に素敵に魅了されたからである。昼間は相当に暑いのだが夕暮れになると涼しい風も吹いて過ごしやすい。加えて轟の実家の農園で慣れない農作業をやることに大きな喜びを感じ始めていた。人は大地で土と共に生き、そして太陽と共に生きているのだということがこれほど実感できたことは瑠璃にとって生まれて初めての体験である。今日は朝から小布施の特産品である黄金桃の収穫を行った。掌に余るほどの大きさでずっしりと重いその桃をもぎ取っていくことはこの上ない喜びである。それが終わると胡瓜とトマトの収穫も行った。作物を手に取りその重さを感じ取りながら収穫するときの喜びは一生忘れることができないほど、瑠璃は体全身で受け止めていた。人として生きる喜びはこのような小さな幸せの積み重ねではないのかとふと思っている自分に感心したりもした。
 また小布施は瑠璃が研究している江戸後期の浮世絵師葛飾北斎が晩年暮らしたところでもあった。北斎が見たであろう山々を彩る夕暮れの色たちの移り行くさまを眺めていると江戸時代に生きていた人々に対しての共感がおのずから湧き上がってくる。田んぼの畔を吹きわたる夕風に打たれて蛙の声を聴きながら赤蜻蛉が群れを成して飛んでいる様や叢で鳴き出したかと思えば突然静まる螽斯たちの奏でる調べ、日が落ちるとそれは秋の虫たちの大合唱へと変わっていく。これこそが日本の原風景であり私たちが一番幸せを感じるひと時なのではないだろうか。瑠璃はこの夏の貴重な時間を体感できたことを、この時間を作ってくれた轟家の人たち、小布施の街の優しい人々そしてこの脈々とした歴史が繋がった景観に深く感謝せずにいられなかった。
 瑠璃は農作業が終わって軽くシャワーを浴びた後、浴衣を着て縁側で涼んでいる。薄橙色に紫の朝顔が描かれているデザインの浴衣である。ロングボブの髪をアップにするとピアスを着けない無垢の耳が覗き、むき出しのうなじが女の程よい色っぽさを醸し出している。日はすでに山の陰に隠れ暑さも優しく引き払っているかのようだ。今日は近くの神社で夏祭りが催されている。瑠璃は轟太の準備を待って一緒に祭りに出かける予定である。
「瑠璃さん、お待たせ」
 轟太は薄い水色地に蜻蛉の舞が施された浴衣を着ている。ロングの髪は後ろでポニーテールに纏めている。日頃の農作業ですっかり日焼けしたその顔は健康的な若さからくる艶を発散している。東京で見る轟太は華奢でどこか中性的なアンニュイの魅力に溢れ、だからこそ女子学生たちの人気が高いのだが、ここ小布施で見る彼は華奢であることに変わりはないが男の力強さに溢れかえりまるで別の人間のようだ。瑠璃はその逞しさにふと胸が締め付けられる感触を覚えた。手には二つの提灯を持っている。
「はい、瑠璃さん、ここら辺夜は真っ暗だから一人に一つずつ」
 彼の優しい言葉に自然と心がなじんでいく。
「島村さんでしょ。轟君、ここで見るとたくましい男だね。この姿を女子大生たちに見せたらあなたのファン倍増しそうだね」
「そうかな、半分くらいは引きそうだからプラマイゼロじゃあないっすかね。でも瑠璃さんが気に入ってくれればそれだけで俺いいっすよ」
「そうね。見直しちゃったよ。でも君のファンから睨まれたくないからね」
「ここにいるだけでもう遅いっすよ」
「そうかもね」
 夕暮れの薄明りの中二つの灯が揺れながら祭りの喧騒が聞こえてくる神社へ向かっていった。
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