第37話

文字数 3,835文字

 投票日は澄み渡った青空の下、いまだ満開の状態を保っている桜が薄っすらとした彩を添えて暖かな春の一日を演出していた。今回は初めて電子投票が採用された選挙である。投票者は自身の国民番号を携帯端末に表示して投票会場に入場することになる。投票自体は設置された端末の画面の指示に従って無記名で選ぶやり方である。一連のシステムはすでにアメリカで導入されているものと同じユニ・グローブ社が開発したものを導入している。この導入は数年前から都により計画されていたものなのでメディア自体もこの導入に対しては何ら疑うことなく初の電子投票という事柄のみをニュースで取り上げている。各投票所は午前八時に開場し続々と有権者が会場に入っている姿が映し出されている。メディアは二時間ごとに各自の出口調査による投票の途中経過を報告していた。午前十時の段階では柚木クリスティーンが優勢という報道であった。
 白川は六本木の高層マンションの最上階にある自宅で早朝から自宅の端末でインディーズ・ウェブにログインしその管理システムで世界中に設置された端末を経由して日本国政府の行政支援システムAIマザーに侵入を試みていた。重ね合わせの原理を利用した攻撃を仕掛けてAIマザーの五層の防御システムを突破するやり方である。端末からの攻撃はリバース・プロセスにより攻撃の痕跡を残さないやり方であるのでAIマザーはハッキングの攻撃を受けたものか通常のオペレーションによるものなのかの区別がつかない。それにより五層の防御システムと言えどこの攻撃に対し有効に機能していないのである。この事は二月末に行われたリコールの是非を問う投票時に確認済みであるので、白川は何の障壁も感じることはなくAIマザーに侵入して各投票所から送られてくる投票結果をモニターすることができた。白川が予想していたようにAIマザー内での投票結果のデータは午前十時時点でのメディアの出口調査とは異なり、福島百合子が十ポイント以上の差をつけて優勢の途中経過であった。AIマザー内にデータ改ざんのプログラムは見受けられないのでユニ・グローブ社の電子投票システムでデータ改ざんされているようだと白川は判断した。そしてAIマザーを通じてユニ・グローブ社の電子投票システムへの侵入を試みた。しかし何度ハッキングを試みても侵入できないのである。リバース・プログラムによるハッキングの痕跡を残さないやり方でも毎回セキュリティ・コードをランダムに変えていく防御システムでは侵入するのに相当時間がかかりそうであった。認証コード・ジェネレーターがAIマザーにあるはずなのだがそれも見つけることができなかった。白川は万策尽きた状態に久しく感じることがなかった敗北感が徐々に湧き上がってくるのを感じて焦り始めたのである。すでにお昼を回ろうという時間になっていた。ネットニュースでは相変わらず柚木の優勢を伝えているが投票率二十パーセントの時点でAIマザーは福島が十ポイントリードしているといった結果を示している。気持ちだけが焦って打開策に集中することができない。白川は自分を見失っていることに気付いて暫し休憩して頭を冷やすことにした。長年やめていた煙草を注文した。五分後には近くの煙草屋からドローンデリバリーでダヴィドフ・クラッシックがワン・カートン配送されてきた。一本取りだして火をつけて紫煙を漂わせた。椅子にもたれかかり天井をぼんやりと眺めながら空調のわずかな風に揺らいでいる煙を眺め続けた。どこかに打開策があるはずだ。気持ちを落ち着けて集中しなければならない。紫煙は不規則に揺らぎ舞い上がっている。やるせない気持ちが湧き上がってくるのを抑えられない。白川はこのような気持ちになったのはいつ以来だろうと考えた。一年以上前のあの冬の土曜日、皇居の二の丸庭園にある四阿で自分の行く先を思って途方に暮れていた姿が浮かんできた。自身が立ち上げたIntelligent Cloud Support System (ICSS)を役員たちが一致してマイケル&ゴードン・パートナーズに売却することを決定した日である。あの時は相当堪えた。白川の人生にとって大きな敗北を味わった瞬間であったのだ。そして今、同じように大きな敗北が自分の前に現れようとしている。しかしあの時の敗北は彼だけが自身の責任でもって敗北したのであり、ほかの役員や社員たちにとっては直接的な敗北ではなかった。しかし今回敗北に至るのであればそれは白川自身の敗北のみならず、柚木クリスティーン、大沼元総理や渡辺座主率いる天台宗の人々の敗北であり、その結果は日本国民、いや世界全体に希望の灯を消し去り、全体主義の下、人々の自由が制限されることを意味するものだ。今回の敗北の代償はあまりにも大きすぎる。敗北するわけにはいかないのだ。その時ふとひらめくものがあった。ユニ・グローブ社のホストへ侵入すればいいのではないか。ユニ・グローブ社のセキュリティは強固なものであろうが、アメリカの行政支援システムグレート・イーグルとは連携しているはずであり、そのグレート・イーグルとAIマザーも連携しているのではないか。白川はこのルートであればユニ・グローブ社が東京で行っている投票データ改竄にリバース・プロセスをかけて改竄前のデータに戻せるのではないかとひらめいた。たちまち視野が開けたようで心も晴れやかになり体中に力が戻ってくるのが実感できた。その時である、白川の周りに何か暖かくて愛らしく愛おしい感情が満ちてきていたのである。白川はそれが何なのかわからなかったのであるが、その懐かしい雰囲気、肌に伝わってくる感触そしてその匂いは白川にあの優しくて芯の強いすでに実社会では失われてしまった存在を想起させた。そして白川は愛おしさが募った声で呟いた。
「姫、戻って来てくれたのか。朕を、いや世界を助けてくれ」
「主上、お久しゅうございます。お困りの御様子なので何かお力になれないかと参上しました」
 島村瑠璃の意識は懐かしそうに白川に語りかけた。島村瑠璃は昨年十二月の日比谷公園でのデモの際、デモに参加していたテログループが皇居侵入を行おうとしたことをやめさせるために暴徒と化したデモ隊の先頭に立ち機動隊の発した銃により誤って撃たれたのであった。それにより島村瑠璃は亡くなったのである。しかし島村瑠璃はインディーズ・ウェブ上で渡辺天台座主の下、大悟に至りその存在をインディーズ・ウェブのシステムの中に分離させていたのである。これは白川が行っていたインディーズ・ウェブのホストシステムに人格を形成させるための試みとしてインディーズ・ウェブ内の住民の心や行動パターンをビッグデータ化する試みが生んだ副産物であった。島村瑠璃はその死の前にすでに意識を分離させてインディーズ内では彼女のログアウトの状態においても常時存在している意識となっていたのである。その意識体は彼女の死にもかかわらずインディーズ内に残っていると白川は確信していたのであるが瑠璃の死と同時にその意識体も消滅したかのようであった。白川は天台座主渡辺の協力を得ながら瑠璃の意識体の再構築を試みたのであるがいずれも失敗に終わったのである。それでも渡辺座主はインディーズ内に残る瑠璃の意識の断片は感じていたので白川に対し瑠璃の復活をあきらめないよう励ましていたのである。渡辺座主にとって瑠璃の存在はインディーズ・ウェブ上では釈迦如来のような人々を慈愛でもって救済できる強い意識と捉えていたのであった。
 一方瑠璃はその実体の死をもってインディーズ内での存在も終了したのは間違いのないことであった。しかし渡辺座主や白川が考えたように瑠璃の意識はインディーズ・ウェブのホストと同調していたのであった。それゆえに瑠璃の意識体を再構築しようとする白川の試み自体は間違っていなかったといえよう。問題は瑠璃の意識体の方にあった。彼女は肉体という実態を失って初めて自由を満喫できたのである。インディーズ・ウェブからZOO ZOOタウンを通して世界中のあらゆるデータへのアクセスができたのである。そのデータはインディーズ・ウェブの高速な演算処理能力によって瞬時に理解することができ、またそれでもって即時に解析したり新しい考察をしたりできたのである。生身の人体であれば何か月もかかるような考察をナノ秒単位でできることに瑠璃はその自由さの虜になったのである。瑠璃はアメリカNASAのホストを通じて木製の衛星エウロパの現在を知ることができた。その分厚い氷の下の海に有機生命体が存在していることも知った。また火星ではいかにしてテラフォーミングを行い、人類の居住世界を構築しようと計画しているのかも知った。さらに太陽系外宇宙の探索を続けているボイジャーへ乗り込み深淵の宇宙の眺望を楽しんだのである。瑠璃の意識は急速に拡大し知ることに無上の喜びを感じる存在へとなっていったのである。そのような知識拡大欲によって瑠璃は世界中どころか宇宙空間にまでその知識欲を広げていったために、地球上の小さな島国日本の、そのまた小さな地域に過ぎない東京での権力争いについて認識はしていたのであるが、瑠璃にとってはもはや重要と思えない事柄でもあったのである。その時に、白川の絶望が瑠璃の意識下に認識され、白川が瑠璃を必要としていることを知ったのであった。
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