第41話

文字数 1,710文字

 三条西殿は晩春の草木に彩られていた。池の畔にはきれいに刈り揃えられた赤や白そして薄桃色の躑躅が今を盛りと咲き乱れ、枝垂れ柳の若葉がしなやかに踊っている。池の面は晩春のそよ風に揺れ、そこに映った三日月は揺らぎ乱れて庭全体が春を惜しむかのように静かにざわめいている。その季節の戯れを静かに眺めている男がいた。簀子(すのこ)縁(ふち)に座り一人手酌で杯を傾けている。蔀(しとみ)が開け放たれ御簾も上げられた室内は蝋燭の明かりにほんのりと照らされて穏やかな静寂の中で訪れる人を待ちわびているかのようである。男はほの暗い月明かりの中、浮かび上がる晩春の競演を静かに見守りひたすらに待ち続けていた。
「主上、行く春の調べは殊に雅であらしゃります」
「姫、待ちわびたぞ」
「申し訳ござりませぬ、遠くへ旅に出ておりました」
「遠くとな、朕は寂しいぞ」
「旅をして様々なものを見ることが私の定めでありますゆえ」
 静かに時が流れていく。二人は沈黙の中で揺らぐ月に意識を傾けているようである。
「して、轟には会うたのかな」
「主上、身共はすでにこの世を去った身、轟殿のような若人には生身の温もりが必要であらしゃりましょう」
「さりながら轟は姫のことに殊の外、執着しておるでな、見ていて不憫だわ」
「時が解きほぐしてくりゃりましょう」
「まことに不憫じゃのお」
 幽かな月明かりに映えた三条西殿の庭が晩春のそよ風に揺らいでいた。男はその中で一人静かに杯を傾け続けた。

 轟太はゴールデンウィークを利用して再び長崎を訪れた。都知事選に勝利した後、彼は深い喪失感に陥ったのである。瑠璃のいない大学は彼に一人で生きていかなければならないことの辛さを募らせるだけであった。学友の牧隼人は太を心配し彼が主催するDJイベントや合コンに誘ったのだが太はいずれも断っている。また叔母の栗林最愛も太を自宅に招いて温かく励ましたのであったが一度折れてしまった太の心にはそれらの言葉も響いてこなかった。それよりも柚木や白川のように彼を突き放して遠くで見守ってくれている方が彼にとっては心地よいものだった。若くて熱い心で夢見ていた彼の未来が何の前触れもなく無残にも断ち切られたのである。太は瑠璃と過ごした最後の夜の思い出に浸り続けていた。最後の晩餐となったプリミ・バチのディナー、その後一緒に見た彼女が好きだった黒澤明の映画の場面、そして彼女との最後の愛の戯れ。ひとつひとつがまざまざと彼の頭の中で繰り返し再生され続けていた。太は過去に浸り続けてはいけないとは頭では理解しているのだが心では瑠璃の温かい微笑みに未だに魅かれ続け、その淑やかな肉体に魅了され続けていた。彼はもがいていた。立ち直らなければならないと一生懸命心を奮い立たせていたのである。その際に柚木から瑠璃の墓参りに行ってくれと頼まれたのである。
 観光客でにぎわう繁華街を抜けて墓地へと向かう小道を歩いて上る。轟太は百合の花束を抱えている。島村純子が道案内をしてくれている。純子とは瑠璃の納骨以来、何度か連絡は取りあっていた。太は一人で瑠璃の墓参りをしたかったのだが、純子はどうしても道案内をするといって聞かなかったのである。墓は小高い丘の上にあるので若い体でも坂道に慣れていない太にとって登りは少々きつい。そんな彼に構わずに純子はどんどんと登っていった。次第に体が火照り額から汗が流れてきた。二十分ほど登ると島村家の墓についた。すでに体中汗でびっしょりである。純子は持参のタオルで汗を拭いている。初夏の日差しがまぶしくて痛いほどである。簡単に墓の周りを清掃して持ってきた百合の花を供えた。そして線香の束に火をつけて静かに墓の前で手を合わせた。静寂な時間が太のまわりにしばしの間訪れた。時鳥の鳴き声がどこまでも青く澄んだ空に響き渡った。そしてひんやりとした風が流れた。その風は墓地に影を作っている菩提樹の木を揺らした。純子はつぶやいた。
「瑠璃ちゃん、太君が来て喜んでるみたい」
「うん」
「太君、私おなかすいた。ちゃんぽんば食べよう」
 初夏の日差しはどこまでもまぶしくて向こうに聳えている英彦山の木々の若葉を力強く照らし出していた。

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