第20話

文字数 4,850文字

 新宿歌舞伎町の喫茶ルノアールの地階である。ここは今では数少ないコーヒーと共に喫煙できる喫茶店である。都内ではもはや数えるほどしか存在していない。この喫煙室の一番便利なことは土地柄裏社会の人間も利用するので警察の強い指導にもかかわらず防犯カメラも収音マイクも設置されておらず、その手の会合には秘匿性を保てることである。新宿警察署も裏社会のみならず表社会からの暗黙の要請によりここには設置の要請を形式上行っているのみという状況である。店内ではポールモーリア楽団が奏でる音楽が静かに流れていた。
 杉本照男は店内を見渡せる一番奥の席に煙草を吸いながら座っていた。ラメ入りのライトグレーのスーツに紺のシャツ、そして明るい薄いイエローのタイを締め濃いめのサングラスをそのブルドッグを思わせる顔にかけている。頭はもちろん角刈りである。今は午前十時だが夜には会いたくないと思わせる装いである。杉本は柚木が入ってくると軽快に右手を上げて立ち上がり手招きした。
柚木がうなずきながら近づくと周りの客も一度は目を見張るのだが、場所柄すぐに目をそらして中断した会話を続けている。ここの誰もが秘匿性を持って生きているようである。
「クリちゃん、久しぶり。見たよ、坊さんのデモのリポート。相変わらずご活躍だね」
杉本は柚木に話しかけながらゆっくりとサングラスを外した。そこには目じりが垂れた潤んだ瞳があった。まるでブルドッグそのもののつぶらな瞳で、その容姿からくる威圧感とのギャップが有り過ぎ彼の存在をマイルドなものにしている。
柚木は着席してコーヒーを頼むと、杉本に話しかけた。
「テルさん、昨日お願いした件どうだった?」
「すぐ本題とは悲しいなあ。野中慶太、幸寿園の看護師で二十七歳の男のこと?」
「そうよ。彼がどんな人でどこに住んでいるか」
「住んでいるところは幸寿園から車で二十分ほどの高津区に住んでいるようだね。同居者は妻の静香三十歳と息子浩十歳との三人暮らし」
「十歳の息子だと年が合わないんじゃないの」
「シングルマザーに誑し込まれたっていうよくあるパターンじゃないの?それで新潟市出身で両親は今でも健在で実家にいる。野中は看護大学入学のために上京してきて卒業後都内の病院勤務だったんだけど、あまりの激務に三年前幸寿園に転職したらしい」
「その幸寿園で身寄りのない障害者がいなくなっていることは?」
「それもどうも本当のようだね。連れていかれた先は八王子の山の中の施設らしい。そこでは知的障害者への学習などの最新設備が整った施設らしいんだが、まだ開設前の状況だね。ただしそれは隠れ蓑っぽくて地下で障害者に対して何か実験が行われているといった噂がある。これはまだ確証を取ったわけじゃないけどね」
「そこで何が行われているのかしら」
「さあ、そこまでは。野中が詳細を知っているとは思わないけど、彼に当たって協力してもらうことはできるかも、だね」
「それできるかしら?私が直接動きたいとこだけど目立っちゃうしね」
「いいよ、これでどう?」
 と右手を上げて開いた。
「高いわ、私もフリーランスでお金がないの、三本でどう?」
「わかった、残りは美味しいイタリアン付き合ってくれるということで」
「考えとくわ」
 そう言って柚木は立ち上がり出口に向けて歩を進めた。周りの客は一瞬その後ろ姿に目を向け柚木の容姿を堪能した後、再び中断していた会話に戻った。店内には紫煙がポールモーリア楽団の奏でる音楽の中、静かに立ち込めていた。

 その夜杉本は野中のアパートの駐輪場で彼の帰りを待っていた。街灯が明々と通りを照らす中にジーンズにスニーカーを履きブルゾンを着た野中がバイクで戻ってきた。杉本は野中の方に静かに近寄って声をかけた。
「野中さんですか。少々お話をお伺いしたいんですが」
「あ、はい、どちら様ですか?警察ですか?」
「いえ、警察のような怪しいもんじゃありませんよ。週刊ニュースに配信記事を書いている杉本照男と申します。お勤め先の幸寿園で伺いたいことがあるんですが」
「すいません。急いでますんで」と言って立ち去ろうとする。
「城戸孝明君の件なんですが」
 野中の足が止まった。
「孝明君に何かあったんですか」
「いえ、なにかあっていそうなんでお話をお聞かせ願いたい。よろしいでしょうか」
 野中は明らかに迷っているようでしばし沈黙の時間が流れた。そのあと、意を決したように言った。
「どのような話をすればいいんでしょうか?」

 野中のアパートから歩いて五分くらいのところにあるチェーンの居酒屋である。焼き鳥と揚げ出し豆腐を注文した杉本はまずビールを野中に促し乾杯した。
「単刀直入に伺います。今、八王子の山の中で城戸孝明君のような近親者のいない知的障害者を集めて何か秘密の実験が行われているという情報がありましてね。野中さん、その件で何かご存じですか」
「野中はジョッキのビールを一口飲むと話し始めた。
「うちからは四名の患者さんが送られました。ひと月程前です。チーフが園長に聞いたんですが何か国、厚労省からの指示が来てそこに患者さんを移送するようにとの話だった様です」
「近親者がいない患者さんに限ってですか?」
「そのことも聞いたのですが園長さんは偶然だろうと言ったようです」
「転院の目的について何かうかがっていますか?」
「新しい施設のほうが設備も整っていて学会の先生たちの新しいケアの方針を試験的に実行するという風に説明しています」
「まだ、その施設はオープンしていないですよね」
「表向きはそうですがすでに稼働しています。そして説明されたように新しいケアが試みられているのは確かみたいですね」
「具体的にどのようなものでしょうか」
「よくはわかりません。食事が普通のものではなくジェル状のものが何種類か出されているようです」
「内部のこと詳しいですね」
「そこに勤めている介護士と知り合いなんです。介護の実習の時に一緒のグループでしたから」
「その人からの情報ですか」
「はい、そうです」
 野中慶太の説明では、八王子にある障害者総合ケアセンターは厚労省の認可を受け五葉重工業グループの出資により設立されて、三か月前には試験的に稼働しているとのことである。杉本の記憶ではそのような施設が作られたという発表はなかったので、やはり何か極秘裏に蠢いている予感があった。表向きは日本知的障害学会の理事井上義男が顧問であり神奈川の遺伝子総合研究所にいた角田沙織がセンター長を務めている施設である。そこでは話に出た知的障害者向けの食事療法や体験学習などの新しい試みが行われていると説明がされている。ただしその中に城戸孝明をはじめ幸寿園から転入された患者の姿は見当たらないようだ。野中の友人の話ではひと月ほど前にアメリカ人らしい男女がセンターを訪問したらしいが、誰も彼らが出て行ったところを確認していないという噂がセンター内であるらしい。さらにセンターの地下に秘密の実験場があってそこで何かが行われているらしいという噂もある。その証拠としては食堂で準備されている食事がいつもきまって二十人分ほど多く、洗濯物も患者以外の入院着が、それも患者にはいないはずの子供の物が含まれているというものである。さらに最近の話では入院患者が夜中に鬼を見たとか妖怪がいると騒ぎだしているということもあるらしい。杉本は一通り話を聞き終えると何か大変なことが起こりつつあることを認識したのであった。そして杉本は礼を述べ、一万円札を二枚渡して
「私はこれで失礼しますので奥さんとお子さんを呼んでご馳走してあげてください」
 と一言述べて店を後にした。
 杉本照男はその足で歌舞伎町に戻りタイ人の総元締め的存在であるマリオ・イーラムが彼の愛人に経営させているスナックへと向かった。店内は薄暗くピンク色の照明に照らされている中、タイのポップスが流れている。カウンターとテーブル席が二つ、そして奥にはパテーションで囲われたボックス席が一つある。マリオの愛人であるママは四十過ぎの目鼻立ちがくっきりした色白のタイ人でラメが入ったタイドレスを着ている。杉本は店の中に入るとママに軽く声をかけた。
「ジェーンママ、久しぶり。相変わらずおっぱい大きいね」
「あらスギちゃん随分ご無沙汰ね。どこで浮気していたの」
「アハハ、まいったな。それでマリオは?」
ジェーンママは目でボックス席を示して
「今日はね、新しい娘、チェンライから来た娘だけどいい子よ。紹介させて」
といって奥の部屋から一人の娘を呼び出した。杉本はボックス席に向かいマリオを確認するとその対面に腰かけた。マリオの隣には若いタイ人の男が座っている。杉本がソファーに腰を下ろすと直ぐに背の低い若い派手なタイドレスを着た女性が隣に座った。ヒトミと名乗った。
「杉本さん、元気そうだね。彼はナデート、八王子の山奥の病院の建設現場で働いていた男だよ」
「マリオさん、なかなか派手にやっているそうじゃない。噂はよく聞いているよ」
「そんなことないよ。歌舞伎町ではうちは新参者だからね。でもサービスはいいよ。この娘、ヒトミ、気に入ったらお持ち帰りもいいよ」
「あ、そお、ヒトミちゃんかわいい娘だね。でも今日はちょっと忙しくてね」
「杉本さん、あんまり仕事ばっかりやってちゃ息苦しいでしょ。人生楽しまなくちゃ」
 マリオはそう言って忙しいのでと断り、ゆっくりしていってくれといいながら店を出て行った。杉本はハイボールを飲みながらナデートから障害者総合ケアセンターの建設現場の情報を得た。マリオによるとその病院の建設は五葉グループの石松建設が請け負っているのだが実際の現場は石松建設の関連企業である長光建設が仕切っていたとのことである。ナデートはそこの下請けの藤岡配線工業でビルの電装関係一般の作業に従事していたと説明した。杉本の予想通り地下四階には入院施設と医療設備が整った部屋があるようである。医療施設は他の業者により深夜に設置されて、ナデートたちの会社では日中に配線関係の敷設を行っていた。杉本はナデートに頼んで地下四階の簡単な見取り図を描いてもらった。地下四階へ行くには地下二階にある駐車場の西側奥にある二トントラックが乗れる業務用エレベーターからカードキーを使ってしか行けない地下三階の駐車場へ向かい、そこから地下四階へ階段かエレベーターで向かうことができるようだ。地下三階には他に東側に非常階段があり、その階段は地上にある配電設備が設置されている棟へとつながっていて、そこから直接外へ出られるようになっている。配電設備棟へ通じる非常口は非常階段側からは自由に開けられるのだが、棟の中からはセキュリティシステムを通してしか開けることができないように設定されている。配電設備棟へ入るのもセキュリティシステムを通してしかできず、また病院の敷地のいたるところにセキュリティカメラや収音マイクが設置されているので地下四階への侵入は非常に難しいとのことであった。しかし全棟が停電した場合には、すべてのセキュリティシステムが解除されるので、その間に侵入することは可能なようである。その場合非常用電源で復旧することは可能であるが、電力が限られているのでどのシステムを復旧するかは人の手によるとのことである。地下四階へつながる場所のセキュリティシステムを最優先で復旧させる場合、最短で三分ほどはかかるだろうということがナデートからの情報であった。杉本はその情報を入手した後、ナデートに謝礼と言って数枚の一万円札をつかませて立ち上がった。二人の会話をつまらなさそうに隣で聞きながら杉本の太ももを触ったりしていたヒトミであったが杉本が立ち上がると
「お兄さん、もう帰っちゃうの。ヒトミ寂しい」
 と半泣きの顔を浮かべながら杉本の腕をつかんだ。杉本はその腕をパーシンで包まれた彼女の尻の方に向けてしっかりとつかんで、言った。
「ヒトミちゃん、今度ゆっくりとね」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み