第9話

文字数 3,876文字

 大僧都熊田率いる総勢二百名となる僧の集団は京都御所を目指していた。烏丸通の車は途切れることはないが舗道には絶えて久しかった比叡山僧侶による実力行使のデモを見ようと大勢の人が集まっている。京都府警がデモの警護に当たっているが誰もが静かに僧侶たちの姿を見つめるか、録画するとかしているだけである。当の僧侶たちも黙々と前を向いて穏やかな表情を絶やさない静かな行進である。時折「大僧都!」という掛け声が車の走行に交じって聞こえては来るがそれ以外は静かな行進が続いている。一行は蛤御門から御所内に入り建礼門を目指した。建礼門の前には大手メディアがカメラを用意して一行の到着を待ち構えている。大勢のメディアの中に柚木クリスティーンの姿が確認された。

柚木は、その細身だが出るところは出ているといった魅力的なボディとハーフ特有の憂いを含んだ整った顔立ちに加え、低音でしっかりと耳に心地よく届く声で一世を風靡したメジャーな配信局のアナウンサーだった。彼女に不運が訪れたのは三十歳のころ上司のディレクターとの不倫愛をゴシップメディアにすっぱ抜かれたことから始まる。メディアを賑わせている間も不倫は個人的なことで罪を犯したわけではないので降板はさせないといった局の方針でニュース番組に出続けていた。また世論もその局の方針をもっぱら支持していた。事態が急転したのはゴシップメディアなどの取材攻勢、特に不倫相手の上司の私生活にずかずかと踏み込んだそのやり方に心労が積み重なった不倫相手の妻が自死を選んだことから始まる。彼女の死直後はメディアの不謹慎な取材が攻められていたのだが、柚木が葬儀に真珠のネックレスを着けて焼香を挙げたことが世の中の大顰蹙(ひんしゅく)を買ったようでそれ以来、柚木バッシングが続いてしまった。局側も守り切れずに半年間の時限を区切って彼女を総務部に配属したのであるが、主婦の敵と認定されてしまった上に男性ファンからも中年男との不倫愛でそっぽを向かれた柚木だったので半年たっても現場復帰できずに結局一年を待たずに退社してフリーの道を歩んだのである。フリーになった柚木であったがニュースなどの時事問題よりは現在失われつつある日本の文化の存続をいかにして行っているかといった文化面での番組作りに興味を覚え、それをメインにやっている配信局と共に今現在番組制作を行っているところだ。今回は京都の祇園祭をメインとして番組の制作をしており半年前からスタッフと共に町家を借りて取材していた最中であった。取材先で比叡山の僧侶がこの日曜日に古都の文化保存のためのデモを行うといった情報をいち早く聞きつけカメラと音声とアシスタントといった小編成でデモの最終地点の建礼門に駆け付けた次第である。少人数のスタッフで身軽だったせいか絶好の場所を確保できた。目の前に熊田大僧都が立っている。二メートルと離れていない。

「今、総勢二百名の比叡山のお坊さんが烏丸通を通ってここ京都御所に到着したところです。先頭には藍色の法衣(ほうえ)、松襲(まつがさね)を纏った熊田大僧都がいます。その後ろには権大僧都の姿も認められます。比叡山の僧侶によるデモは戦国時代以来でしょうか。今まさに私たちは歴史の中にいると実感できます。今、熊田大僧都が声明文を読み上げるようです。しばし熊田大僧都の言葉をお聞きください」
柚木はマイクを切って熊田を黙って見つめた。熊田は柚木の合図に促されるかのように用意した声明文を読み上げた。
「京の都は七九四年、延暦十三年に桓武天皇により開かれて以来、神仏の教えに従い助け合いながら古都の文化を育み慈しんできました。多くの戦火にも見舞われました。我々天台宗の門徒も伝教大師最澄により延暦の年に開闢以来今日まで京の人々と共にその文化を守り続けています。明治の御代に天皇が遷都なされてからも京の人々は変わることなくその文化を守り続けています。その文化は日本人の心、故郷に当たります。外国の方々がここに住み暮らしていくことに私たちは反対しません。その国の宗教や風習についても同様です。仏の教えではみな仏性を持っていると説きます。そして悟りを開く道はすべての人に開放されているのです。そのようにして京の人々は様々な人たちを受け入れてきました。ここに住む人たちはその生活を通して仏の教えと共に輝いてきたのです。そこに人種や属性による差別などは存在しません。また宗教による差別も存在しない世界を構築してきました。その結果今、帰化人である府知事が誕生したのです。されど、府知事がやろうとしていることは京の人々の互いを尊重しあう文化に沿ったものでしょうか。一方的に突然、新しい価値観や生き方といったものを府民に押し付け、我々が育みいつくしんできた生活を古い習慣として破壊していこうとしているとしか思えてなりません。我々天台僧徒ならびに京都の仏教界はこの暮らしを守るために戦います。武器を持つことはしませんがこの要求に前向きな回答を得るまでは毎週日曜日にデモを行うことを決意した旨宣言させてもらいます。南無妙法蓮華経」
 熊田大僧都は柚木クリスティーンに向かってお辞儀したかのようだった。
「日本全国の皆さん、比叡山熊田大僧都のお言葉届きましたでしょうか。今、私たち現代人は変革の真只中にいます。様々な情報が溢れ、我々自身にとって何が本当に大切なのか考えないままに時代に流されて行っているのかもしれません。人種差別、属性による差別や貧困問題に取り組むことは当然のことです。しかしそのことと我々自身が長い歴史の中で育んできた文化を古いものだと否定することは全く違った問題です。その文化により達成してきたこの住み易い京都の街に今多くの外国人が住みたいという現実も認識しなければなりません。差別がない暮らしやすい街だからこそ外国人にも魅力的に映るのではないでしょうか。大僧都のお言葉を今一度嚙みしめて我々日本人にとって何が大切で幸福に感じるか、もう一度考え直す時期なのかもしれません。夏の京都は大変暑いです。でもその熱気は気温からだけではないのかもしれません。ここ古都において人々が大切に思うその思いが熱く沸き立ってきているのではないでしょうか。京都御所から柚木クリスティーンがお送りいたしました」
 柚木のコメントの終了を待っていたかのように大僧都たちは軽く会釈をし、踵を返してそれぞれ京都の街に散会した。すべてをカメラに収めた後、カメラマンの森本が柚木に向かって感極まった様子で話した。
「柚木さん、ばっちりです。さすが右斜め四十五度の女ですね。決まりまくっていました」
「茶化すんじゃないわよ。でもこの緊張感久しぶり。やっぱ、現場はいいわよね」

 白川久男が柚木クリスティーンのリポートする比叡山僧侶大僧都熊田の演説を聞いたのは彼が六本木の会員制スポーツクラブにいる時だった。バイクマシーンで一生懸命ペダルを踏みながら僧侶たちのデモを見ていた。熊田大僧都の宣言は確かに彼の胸を打つものがあった。また多くの日本人が彼の言葉に感動したであろうことは容易に想像できた。今まで彼の中で燻っていた状況が急に視界が開けてくるような感覚を味わい、そしていよいよ事態は次のステージへ向かっているのだと実感した。

 ここにもう一人大僧都の言葉に影響を受けた人物がいる。早川仁(ひと)美(み)という東京町田に在住の二十四歳の女性である。彼女は町田総合病院に勤務する看護師である。第二外科に所属している。彼女の病院では先天的に脳の機能に欠陥がある知的障害者の施設を定期的に検診しているのだがこの半年の間にその施設、幸寿園の患者たちが退園しているのである。その人々はすべて身寄りのない障害者ばかりであった。彼女の病院ではその施設がアメリカのビッグテックより多額の寄付金を得て、身寄りのない障害者をそのビッグテックが日本で開設した研究所へ転院させているという噂だ。アメリカで人道上できない人体実験をそこで行っているというものが看護師の間で囁かれている。真偽のほどは定かではないが身寄りのない独り身の患者だけいなくなっている事実に信憑性がうかがえる。そこでは最新の技術を駆使して異常の認められる被験者にたいし遺伝子情報の書き換えを行うことにより脳の再生や知的障害を緩和していこうという試みが行われているらしい。もちろん本人の同意などとれるはずがないので形式的に同意を取った形にしているのだろうという話である。この噂の信憑性を高めているのはその施設が神奈川県に位置してそれが保守の五代幹事長の選挙区であり、その施設を支援しているのがアメリカのビッグテックとかなり関係が深い五葉重工業という話である。単なるうわさレベルであるがそのことがやはり仁美の気持ちを憂鬱にさせていた。自分では如何ともしようもない事態により不幸にも健康に生きることがかなわない人々の力になりたいと思い入ったこの業界であるが実態がわかるにつれ当初の目標が綻びていると感じている今日この頃である。彼女にとってはアメリカのビッグテックや保守系政治家の利権主義が人々の幸せのために尽力したいと思っている仁美の人生観に悪影響を及ぼしているといったものだった。そのような時に十二インチのタブレットに映った柚木クリスティーンが訴える比叡山大僧都の言葉に感動している自分を見つけたのであった。自分でも青臭いと思いながらもなんとかこの熊田大僧都の言葉と行動を共にしたいと思ったのである。
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