第15話

文字数 3,337文字

 遠くで電話の呼び出し音が鳴っている。懐かしい響きだ。確かじいちゃんのうちで聞いて以来だからもう随分となる音だ。瑠璃は微睡の中、徐々に覚醒していった。遠くで轟君のお母さんが彼に話している声が聞こえる。何か今日部屋が急に空いたとか言っている。ミンミン蝉の声が煩い。意を決した瑠璃は体を起こして鏡台へと向かい髪を整えてTシャツとジーンズへ着替えて居間へと向かった。
「おはようございます」
「瑠璃ちゃん、今日、戸隠の知り合いの宿から連絡があって今夜急に一部屋空いたんだって。あなたたち戸隠観光へ行かない?行ったことないでしょ。お蕎麦のおいしいところよ」
 轟君のお母さんが早口で話している。まだ半分目覚めていない瑠璃は何のことだがよく理解しきれずに
「はあ、そうですね。私、お蕎麦大好きです」
 と無意識に返答した。
「母さん、でも車姉ちゃんが使ってるからどうすんだよ」
「アクティがあるでしょ。あれで我慢しなさい。あれでも山道も問題なく走れるから」
 轟太はあからさまな不平顔だったが瑠璃に向けて笑顔を作りながら問いかけた。
「瑠璃さん、いつか話した戸隠神社興味ある?宿が一部屋空いたんだって」
「今日なの?これから?」
「うん。突然だけど一時間くらいの距離だから大丈夫だよ」
 それからが大騒ぎだった。手早く朝食を済ませ一日分の着替えを詰め込んで九時過ぎにはホンダアクティに乗り込んだ。今では絶滅危惧種と考えられるガソリン車である。令和五年に製造された軽トラックである。轟太はカーシェアリングでいくらでも自動運転の快適な電気自動車が準備できるのにと文句を言っているが、瑠璃は長崎に住んでいたころじいちゃんがスカイラインのガソリン車を轟音をとどろかせながら走らせていたので全く文句はなく、どこか懐かしささえ覚えた。しかしアクティの乗り心地は快適と呼ぶには程遠いものであった。山道では左右に振られながらの轟太の運転、とくにヘアピンカーブを曲がる度に不満を爆発させた。大声を出したせいか最初の目的地、鏡池に到着した時には晴れやかな気分であった。
 標高千二百メートルを超える鏡池ではすでに秋の気配が漂っている。夏の澄み渡った青空に浮かぶ入道雲が静かに横たわった湖面に反射している。文字通り鏡の様である。周りの白樺林はだんだんと過行く季節の準備に入ろうとしているかのようにその緑の葉が色あせようとしていた。Tシャツ姿で湖畔に立った瑠璃であったが湖面を通り過ぎた一陣の風に驚いたかのように両腕で胸を押さえてつぶやいた。
「少し寒い」
 太は後ろから優しく瑠璃を抱きかかえ話しかけた。
「こうすれば大丈夫。暖かいでしょう」
 瑠璃は無言で頷き二人して雄大な鏡池で移ろい行く季節の色を眺めていた。
 鏡池を過ぎて次に立ち寄ったところは蕎麦道場だ。古びた木造建築の平屋建てで広い板張りの部屋に靴を脱いで上がる。磨きこまれた床は光を反射してとても明るい。ここでは蕎麦打ちの体験ができる。二人して板張りの床にしゃがみこんで一生懸命そば粉を捏ね、休ませて、また捏ね、引き延ばし捏ねて休ませる。結構な重労働である。額から汗が流れてくる。そしてそば切りをする。インストラクターのおばさんからは均等に切ってくださいねと注意されたのであるが、初心者にそのような神業ができるはずもなく、不ぞろいな蕎麦が切りあがった。その切り蕎麦を沸騰している熱湯で湯がく。すぐに茹で上がり冷水で洗った後、ざるに盛り付ける。道場で準備した、つけ汁と共に自分で切った形が不ぞろいな蕎麦を食した。形が不ぞろいのため食感がばらばらで味はもう一つといったところか。それでも自分たちで作った蕎麦を食すといった経験は心地よい気持ちにさせるには十分で、二人は自然に幸せな笑みを浮かべたのであった。そのあと宿に向かいチェックインを済ませる。宿で出されたお茶を飲んで一休みした後に、歩いて数分のところにある戸隠神社宝光社を参拝する。参道は長い石段でその両脇は杉林である。その中を汗をかき息を切らしながら二人で登った。瑠璃は故郷の長崎の諏訪神社の石段を思い出したが、ここの石段はそれの倍以上はありそうだと感じた。登り切った後、何とも鄙びて相当の風月にさらされた拝殿があった。歴史の長さとそれに比例する人々の思いを抱え込んだ風格の神社である。二人して二礼二拍手一礼で参拝をする。瑠璃は今日、このような幸せな体験をさせてくれた戸隠に対して感謝の気持ちを戸隠の神様に伝えた。参拝を済ませて、神社の周りを散策した。日光が当たっている場所は立っているだけで汗ばむほどに暑いのであるが日陰に入るとひんやりとして肌寒い。古の昔より畏敬の念でもって守り続けられた聖域のその荘厳な時の重みは静けさの中でひそやかに瑠璃の体の中に入り込んでくるかのようであった。その力を感じ取った後で参道の石段を下りた。下りたところに土産物屋があったので冷やかしがてら入ってみる。竹細工の民芸品が置いてある。編笠、トートバッグ、籠や枕などだ。どれも手作りの温かさが伝わってくるものばかりである。瑠璃にとっては身近で使っていたという経験が全くないものばかりなのではあるが、どことなく懐かしい感情が浮かび上がってくるのが不思議に思われた。一通り見終わって店を出ると日はすでに山の陰に隠れ夕暮れが近づいていた。宿に戻り風呂に浸かると夕食の準備ができていた。山菜のおひたし、イワナの塩焼きなど地物の食材をふんだんに使った夕食だ。締めには戸隠蕎麦を堪能できた。地酒と共に食す戸隠蕎麦は、のど越しもよく瑠璃にとってこれほどない愉悦である。やはりプロが作ったお蕎麦は次元が違う美味しさである。夕食が終わり庭に出て晩夏の宵を愉しんだ二人であった。旅館には備え付けの神社がありそこでまた参拝をする。その後急展開の一日だった二人は準備された床について眠りにつくのであった。

 瑠璃は床についている。普段はすぐに寝入ってしまうはずが今夜は気持ちが高ぶっているせいか目がさえてしまって一向に眠れそうにない。隣では太が寝入っているようだ。
リンリンリンリン・・・・・
静まり返った闇の中で虫の声だけが響いている。
ドキン、ドキン
胸の鼓動が聞こえてくるようだ。瑠璃は自分の鼓動だろうかと少し恥ずかしく感じた。ドキン、ドキン
胸の鼓動は太の方から聞こえてくるようだ。太の息遣いも聞こえるような気がした。太は起きているのだろうかと思うと、瑠璃の胸が熱くなり鼓動も高くなっていくように感じられた。瑠璃の体はだんだんと汗ばみだしている。それに連れて緊張の糸が静かに張り詰め淡い期待がさざなみに様に鼓動に合わせるかのように押し寄せてくる。太が寝返りを打ったようだ。なぜか息苦しい。瑠璃自身の荒い呼吸が闇の中、響き渡っているようだ。
ドキン、ドキン
胸の鼓動が大きくなってきている。深い静寂の中で瑠璃は太に聞こえやしまいかと気になった。気にかけている自分の姿が切なくて恥ずかしくなってくる。太がまた寝返りを打った。瑠璃はその所作に気持ちが敏感に反応している。鈴虫の鳴く音が闇の中でひときわ大きくなってきている。太が瑠璃のことをじっと見つめているのが感じられた。その優しいまなざしが愛おしい。いつしか虫の声はやみ沈黙がふたたび訪れる。そこには深い呼吸と高鳴る動悸により揺らいでいる夏の月夜の青い闇があった。そして太の存在がおずおずと大きくなっていく。
「瑠璃さん、そっち行っていい?」
戸惑いと優しげな決断がこもった、その声に瑠璃も答えた。
「うん。いいよ」
 声が上ずってかすれている。年上なのに恥ずかしい。まるで十代の乙女のような自身の声の響きが照れ臭かった。太は緩やかに布団から起き上がりこちらへ向かってくる。そしてゆっくりと長い睫毛に優しさが宿った眼差しでその顔を近づけてきた。瑠璃は喜びに浸りながらそっと目を閉じた。その瞳を閉じた顔には仄かな笑みが浮かんでいた。太の顔はゆっくりと優しくその瑠璃の顔に触れた。
 
 閉じた障子は晩夏の下弦の月に蒼く照らされ外では鈴虫が絶え間なく過行く夏を惜しむかのように艶やかな旋律を奏でていた。その甘く優しい旋律の漣に夏の夜は更けていった。
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