第10話

文字数 2,941文字

 ここは延暦寺大書院の一室である。柚木クリスティーンはその一室で天台座主渡辺利光と対坐していた。柚木の隣には轟太と島村瑠璃が並んで座っている。座主は轟が持参した白川久男の封書を柔らかな光を宿らせた表情で静かに読み入っている。照り返す日差しの夏空の下で蝉時雨に混じって声明が響きわたりさやけき早朝のひとときに厳かな彩をそえている。柚木は座主の体幹が強い一本の樫の木が着座しているかのようなその姿を黙って見つめていたのだが緊張感に押しつぶされそうな感覚を覚え目の前の煎茶に口を着けた。
 ここに柚木が島村と轟と一緒に訪問しているのは白川から懇願されてのことである。日曜日に天台門徒のデモをリポートした柚木にその夜、白川から連絡があった。白川とは彼がICSSの代表を務めていたころ、当時柚木が所属していたメジャーなニュース配信局で一度インタビューを行ったことがある。柚木はインタビュー時に白川のその圧倒的なパワーや存在感に魅了された。インタビュー後、白川と何回か会う機会があったのであるが、その後柚木が退社することになり、また白川は代表を退いてICSSも外資の傘下となり接点がなくなってしまっていた。しかし柚木は圧倒的なパワーを有する白川のその後には常に気をかけていたところでもあった。その時に思わぬ白川からのメッセージが届いたのである。白川が極秘裏に会いたいということで彼の言葉を信頼してインディーズ・ウェブで会うことを決めた柚木に白川はそこで彼が計画している概要を説明したのである。毎日のように今までの暮らしが少しずつ窮屈なものに移り変わっていくことに違和感を覚えていた柚木にとっては、その白川への絶大なる信頼感も重なり即座に白川への協力を快諾したのだった。白川は京都でのデモを見て天台座主と協力できないかを考えたのである。渡辺座主と面識のあった柚木は木曜の朝七時にアポを取ることができた。表立って動きたくない白川は元妻の甥っ子である轟太を名代として京都に向かわせることにしたのだった。轟は長野の実家に戻っていたのだったがそこに農業体験という名目で長野観光に来ていた島村も轟からの懇願で同道することになり早朝の叡山に今座っているという次第だ。
 長い封書を読み終えた渡辺座主は柚木に向かって話し始めた。
「白川さんの趣旨については大まかには理解した。その趣旨に賛同はするがいくつかわからんことがありますの」
「ありがとうございます。ご質問はどういったものでしょうか」
 と柚木が応対する。
「まず、このAIでの政治の支配というものがよくわからんのですよ」
柚木は現在政府が進めようとしているAI支援による行政システムの改革について一通り説明した。それによると現在日本政府ではマザーと呼ばれるAI管理システムが提案する最適な行政の方針と従来の官僚が作成した政策とを比較しながら政権としての決断を人が行っている。マザーの提案というものはデータベース化された過去百年にわたる行政案件から深層学習により最適なものを導き出したものである。この提案がどのような考えに基づいてなされたものかの説明ができないことが政府側の大きな課題である。従来の慣習や既得権益側の圧力を押し返して行政改革を進めるためにはAIの行政支援が不可欠なのではあるが、政策決定の説明時点で既得権益側がメディアを使って攻撃してくるためにマザーの最適な運用が行えていないといったことが現状である。それで政府はAIマザーに説明責任を行わせようと現在東工大の石井琢磨教授とそのシステムを開発中である。この問題は米国政府が使用しているAI支援システム、グレート・イーグルでも同様で米国では白川が以前開発した人格形成モデルを使用してグレート・イーグルに人格を持たせAI自身に政策決定の説明責任を行わせようとしている。問題なのはこの米国のグレート・イーグルと日本のマザーを連携させようという動きが水面下で行われていることである。白川の予測ではAIマザーは人格を持たないシステムであるので人格を持ったAIシステムであるグレート・イーグルに最終的には支配されてしまい、日本そのものがアメリカというよりはその背後に蠢いている国際資本に完全に支配されてしまう将来に帰結することである。これについて当事者である、米国政府も日本政府も気づいていないことが問題なのである。当事者たちは日米連携を瞬時に行い、対抗するEUや共産圏との問題を有利に導くための手段としてしか認識していない。人格形成システムの生みの親である白川はその最悪の事態を避けるべくアメリカ側のそれより高位の人格形成システムを現在構築しているのである。それは日本人の代表的な心である、和の精神に基づいたシステムであり、その人格形成のため該当する人々の行動をビッグデータ化するためにインディーズ・ウェブは構築された。賛同者のそこでの行動一つ一つがデータベース化されてAIの人格を形成していくことになる。最終的にはそのAIによる賛同者のための自立した世界を構築することが白川の考えているインディーズ・ウェブの世界である。
 渡辺座主は柚木の説明を静かに聞いていた。
「その人格とやらが完成した折には日本のマザーやアメリカのグレート何とかより強力なシステムになるのではないか?」
 柚木が答える。
「そのように聞いております」
「しからばそれをもって日本の行政どころかアメリカをも支配しようと考えていらっしゃるのかな?」
 今まで沈黙していた島村が割り込んだ。
「座主さん」 
思わず渡辺が苦笑する。
「白川さんの目的はあくまでもインディーズ・ウェブ内に日本人が過ごしやすい仮想空間を作ることです。そこでお互いが和の心をもって協力しながら暮らしていける空間を作ることを目標としています。その中では現実世界と同じように香りや、味覚そして触感もあります。その仮想世界において現実世界で失われた和を大切にする世界を作り、そこで人々が満足に暮らしていける世界を構築することなんです」
「現実世界でも生きていかねばならぬことに変わりはなかろうに?仮想世界とやらで食べる感触はあっても現実に腹は膨れんだろうに」
 天台座主の言葉に一同返す言葉がなかった。
「されど、白川さんの趣旨には賛同できる。拙僧は協力するにあたり何をすればいいのかな?」
 柚木が口を開く。
「渡辺座主、ありがとうございます。白川のほうにその旨伝えます。おそらく今夜、白川からメッセージが届くはずですので、それに従っていただければインディーズ内で白川がより詳しく説明することになるでしょう」
「わかった。白川さんに伝えてくれ。お会いできるのを楽しみにしておると」
 そう答えると渡辺座主は徐に席を立った。
「まことに済まないがこれにて失礼する。この後もう一人客人があるのでな。皆さんはごゆっくりしてください。今は百日紅や鬼百合が美しい季節じゃてな、盛夏の境内を十分に満喫してくだされ」
 渡辺座主が立った後残された三人は大役を終えた安堵感に浸っていた。
「瑠璃さん、俺一言もしゃべんなかったすよ」
 轟太が大きく息を吐きながらつぶやいた。
「島村さんでしょ」
 一堂に笑顔が戻った瞬間であった。
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