第39話

文字数 2,655文字

「お帰り、瑠璃、遅かったわね」
と、突然女の人の声がした。その声にはどこか懐かしい響きがあった。
「お、おかあさん!どうしてここに?」
「何言ってるの。ここは瑠璃のお家でしょ。お母さんがここにいるの当たり前じゃない」
「違うわ、お母さん、お父さんと一緒に二十年前に居なくなったじゃない。忘れたの?」
「忘れてないわ、瑠璃。でも瑠璃のことが心配で戻ってきたのよ」
 懐かしい母親の声である。どこかしら甘い匂いが漂ってきた。母親の匂いだ。瑠璃が覚えている優しい母親がここにいる。歳は現在の瑠璃とそう変わらないはずだ。そう考えているうちに瑠璃の体は小さくなったようだ。八歳の女の子の姿をしているようである。それに気づいたのか母親は瑠璃に向かって話かける。
「ごめんね。瑠璃。お父さんと二人でいなくなってしまって。さみしかったでしょう。瑠璃に一番必要な時にお父さんもお母さんもいなくなってしまったのだから」
 瑠璃はその声を聴いているとひとりでに涙が出てきた。涙は止まることなく流れ続けている。しまいに瑠璃はこらえきれずに大声を出して泣き出してしまった。
「おかあさん」
「瑠璃、もう大丈夫。お母さん、もうどこにも行かないからね。ここでお母さんと一緒に暮らしましょうね」
 懐かしい母の声、お弁当に卵焼きを作ってくれた時の母親のいい匂い。瑠璃は八歳の少女に戻って母親に抱き着きたかった。声を出して泣きながら両手を広げてお母さんに抱き着きたかった。でも何かが瑠璃を、母親のところに行こうとすることを押しとどめていたのだ。瑠璃は必死にもがきながら前へ進もうとする。しかし瑠璃の中の何かが前へ行かせないようにしている。八歳の女の子の瑠璃は次第におなかが熱くなってくることを感じた。おなかが痛い?いや違う、おなかが熱いのだ。何か甘くて切なくて愛おしい気持ちになってくるようにおなかが熱い。
「おかあさん、おなかが熱い」
「瑠璃、どうしたの。おなかいたいの?」
 おかあさん、おなかがいたいわけじゃないよ。瑠璃は切なくてどうしようもなく愛しい人に会いたいんだよ。太君、元気でね。強く生きるのよ。ふと、瑠璃の中でその言葉がよみがえった。そう瑠璃は八歳の女の子ではなく、目の前にいる母親と同じくらいに成長した女なのだ。心から愛した人もいた。そして突然分かれてしまわなければならなかった。それにわたしは両親よりも祖父母にたくさんの愛情を注がれて育ったんではないか。
「瑠璃、愛しているよ」
 瑠璃が東京の大学へ行くために長崎を旅立つ前の晩にじいちゃんが瑠璃に言った言葉だ。瑠璃は無言でその言葉を聞いていた。瑠璃もじいちゃんに向かって愛していると、言いたかったのに。なぜ言えなかったのだろう。瑠璃は何かを思い出すようにその時のことを考えていた。確かその前にじいちゃんは何か瑠璃に向かって言っていた気がする。その言葉に気を取られてじいちゃんの言葉に返すことができなかったんだ。じいちゃんは何て言ったんだろう。どうしても思い出せない。その時、瑠璃の頭の中でじいちゃんの声が響き渡った。
「世界のことをたくさん知ってきなさい、瑠璃、愛している」
 そうだ、じいちゃんはそういったんだ。世界のことをたくさん知りなさいって。そして私は、じいちゃんの言葉の通り世界のことをたくさん見てきた。そして知った。世界で何が起きているかを。私は世界だけでなく宇宙のことも知ろうとしている。ここで足踏みしていちゃいけない。瑠璃は知っている。母親も父親もすでにこの世にいないことを。両親はあの日、いなくなった日に北の国に拉致されて連行されてしまったことを。その手引きをしたのがこのAIマザーを作った石井琢磨、北の国の協力者で両親がいなくなった後、父の研究を盗み取って教授の地位をつかみ取りこのAIマザーを作った人。両親は北の国でのAIシステム構築に協力を強要されたけど断り続けたために連行された二年後に処刑されたこと。瑠璃は何が起こったのかこの膨大な情報の海の中から拾い上げて知っているのである。瑠璃は目の前にいる母親に向かって言った。
「お母さん、私を宴会場に戻して。私はそこから私の世界へ戻らないといけないの」
「瑠璃、ここでお母さんと一緒に暮らしましょう。ごめんね、一緒にいてあげられなくて。これからはお母さんとずっと一緒。いっぱい甘えていいのよ」
 瑠璃の右頬に一筋の涙が流れ落ちた。瑠璃はそれをぬぐおうともせず、母親に向かって、いや母親の姿をしたAIマザーに向かって言い放った。
「あなたは私の母親ではない。そこをどきなさい。そして元の場所へ戻しなさい」
「瑠璃、何を言っているの。お母さんのこと愛してないの」
 母親の声は次第に力強さを失っていくようだ。それと共に懐かしい両親と暮らした部屋も薄れていき、宴会場で人々が歓談している場面とダブってきている。瑠璃の母親は最後の力を振り絞って瑠璃の肩をしっかりと掴んだ。
「瑠璃、いつまでもお母さんと一緒よ」
瑠璃はその力に押されて抗うことができなかった。瑠璃の中にあった力も母親に吸い取られていくようだった。もうこれ以上戦えない。瑠璃に絶望が訪れようとしていた。
「行きなさい、瑠璃」
 じいちゃんの声が聞こえる。いや聞こえるだけではない。じいちゃんが瑠璃の前に姿を現して母親がつかんだ瑠璃の肩を開放している。瑠璃は自由になると、その場にしゃがみこんでしまった。周りは白い部屋でマネキンのように無表情な女たちが黙々とキーボードをたたいている。瑠璃は振り返って表示板を見ると柚木クリスティーンと書かれた数字が福島百合子のものより上回っていた。それを確認すると出口の扉へと向かった。銀メッキが施された取っ手にゆっくりと近づいて静かに回す。そして外に押すとそこは結婚式の披露宴の会場だ。酔っぱらった出席者が浮かれ騒いでいる。花嫁の父親だろうか。テーブル席を回ってビールを継いでいるのが見える。再び、じいちゃんの声が聞こえた。
「世界のことをたくさん知ってきなさい、瑠璃、愛している」
「ありがとうじいちゃん、瑠璃は頑張っているよ」

 白川久男は午後三時過ぎにAIマザー内にある選挙結果のカウンターが突然変わったのを見ていた。それまで十ポイント以上引き離されていた柚木クリスティーンへの投票数が、逆に福島百合子を十ポイント引き離す結果に変わったのである。白川は安どのため息をついた後、空に向かって囁くようにつぶやいた。
「姫。かたじけない。これで日本の危機を救うことができる」
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