第36話 勝利の女神に名前で呼ばれるとき

文字数 1,276文字

 それでも、選手特権で無料となっている飲み物くらいは取って来られる。

 紫衣里の分も売店で貰ってこようとしたところで、天然水のペットボトルが2本、目の前に突き出された。

どうぞ、紫衣里さんにも。
……。

 当然のように受け取った紫衣里は、まるまる1本を一気に飲み干した。

 それを穏やかな笑みで見下ろした佐藤は、僕の隣に腰を下ろした。

脱帽いたしました。まさか、スプーンなしでここまでとは……。
バカにするな……僕は長谷尾英輔だよ。

 さっきの弁天小僧菊之助の真似をして、ちょっと大見栄を切ってみせる。

 佐藤はそこで甲高く大笑いすると、楽しそうに手を叩いた。

これはいい! あなたと銀のスプーンがまとめて手に入る!
……光栄です。

 社交辞令で答えたつもりだったが、プロへの道に心がぐらつきかかった自分が怖かった。

 間違っても、紫衣里にスプーンを鳴らさせるきっかけを作ってはならない。

 もし、アルファレイドが研究のために求めてきても、それだけは拒まなければならなかった。

オリハルコン、賢者の石、閻浮檀金(えんぶだごん)……。

これらは皆、想像上の金属です。どれも、人知を超えた力を持つとされてきました。

もしかすると、そのどれもが、紫衣里さんのスプーンを表していたのかもしれませんね。


 自分の夢物語に、佐藤はいささか興奮していた。

 いつもの彼らしくない。

 これも、暑さのせいなのだろうか?

僕が優勝……すると?

 考えてみれば、ムチャクチャな賭けだ。

 一介の高校生に、ビジネスの成否を委ねようというのだから。

 佐藤は、静かに頷いた。

 言ったでしょう、この計画に人生を賭けていると……。

 大きな成果を得ようと思ったら、大きなものを失う覚悟をしなくてはなりません。

 それがバランスというものです。

 それは、僕も同じことだ。

 一生に一度しかない板野さんの修学旅行は、佐藤の人生と同じ重さを持っていることになる。

 だが、そこで紫衣里が口を挟んだ。

何もかも、思い通りにしようとしないほうがいいです。
……紫衣里?

 涼しい声に、滝のような汗は一斉に拭い去られた。

 いや、全身が凍り付くほどの冷たい声だったといってもいい。

 僕だけでなく、佐藤もまた、その場に硬直していた。

……ソフォクレス『オイディプス』ですね。

心しておくことにしましょう。

 穏やかな声に覆い隠されたものを暴こうとするかのように、紫衣里は鋭い眼差しで佐藤を見据えた。

あなたがたの思い通りにはなりません。私も、英輔さんも。
 佐藤はいつもの通りの慇懃な口調で、軽く受け流す。

私も、自分のものでなかったものに見捨てられたくはありませんので。

 佐藤が席を立つと共に、試合開始を告げるアナウンスが響き渡った。
決勝戦!
 紫衣里の声で我に返ったとき、初めて気づいたことがあった。
紫衣里、さっき、僕を名前で……。
 そのとき、僕の名前がステージでコールされた。
早く!

 会社に遅刻しそうなダンナを送り出す奥さんのような口調で急かされて、僕はステージに駆け上がる。

 おかげで、紫衣里が僕を「英輔さん」と呼んだことの意味は、確かめられずに終わってしまった。

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登場人物紹介

長谷尾英輔(はせお えいすけ)

e-スポーツのプロを目指す公立高校3年生。

親からの仕送りを止められ、ゲームセンターでのアルバイトをしながら下宿生活を送っている。

情に脆く義理に厚いが、優柔不断でちょっとムッツリスケベ。

長月紫衣里(ながつき しえり)


幸運をもたらす銀のスプーンを豊かな胸元に提げた美少女。

無邪気で自由奔放、大食らいで格闘ゲームが妙に強い。

長谷尾の優柔不断を、要所要所でたしなめる。


板野星美(いたの ほしみ)


つらい過去を抱えた私立高校2年生。

ささやかな望みを叶えるために、禁止されているアルバイトをこっそりゲームセンターでやっている。

意志も意地も強い努力家で、つい無理をしてしまうところがある。

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