第36話 勝利の女神に名前で呼ばれるとき
文字数 1,276文字
それでも、選手特権で無料となっている飲み物くらいは取って来られる。
紫衣里の分も売店で貰ってこようとしたところで、天然水のペットボトルが2本、目の前に突き出された。
当然のように受け取った紫衣里は、まるまる1本を一気に飲み干した。
それを穏やかな笑みで見下ろした佐藤は、僕の隣に腰を下ろした。
さっきの弁天小僧菊之助の真似をして、ちょっと大見栄を切ってみせる。
佐藤はそこで甲高く大笑いすると、楽しそうに手を叩いた。
社交辞令で答えたつもりだったが、プロへの道に心がぐらつきかかった自分が怖かった。
間違っても、紫衣里にスプーンを鳴らさせるきっかけを作ってはならない。
もし、アルファレイドが研究のために求めてきても、それだけは拒まなければならなかった。
自分の夢物語に、佐藤はいささか興奮していた。
いつもの彼らしくない。
これも、暑さのせいなのだろうか?
考えてみれば、ムチャクチャな賭けだ。
一介の高校生に、ビジネスの成否を委ねようというのだから。
佐藤は、静かに頷いた。
それは、僕も同じことだ。
一生に一度しかない板野さんの修学旅行は、佐藤の人生と同じ重さを持っていることになる。
だが、そこで紫衣里が口を挟んだ。
涼しい声に、滝のような汗は一斉に拭い去られた。
いや、全身が凍り付くほどの冷たい声だったといってもいい。
僕だけでなく、佐藤もまた、その場に硬直していた。
穏やかな声に覆い隠されたものを暴こうとするかのように、紫衣里は鋭い眼差しで佐藤を見据えた。
会社に遅刻しそうなダンナを送り出す奥さんのような口調で急かされて、僕はステージに駆け上がる。
おかげで、紫衣里が僕を「英輔さん」と呼んだことの意味は、確かめられずに終わってしまった。