第30話 戦いの始まりと、刹那の不安
文字数 1,715文字
だが、板野さんからのメールは来なかった。
身も心も疲れ切っているはずだから、連絡がなくてもしかたがない。
盆休の書き入れ時は、その代わりに入ったバイトに明け暮れた。
夏休みの後半も、瞬く間に過ぎ去っていく。
そして。
〈リタレスティック・バウト・ワールドタイトルマッチ〉の当日がやってきた。
別に、世界的プレイヤーを相手にするからではない。
会場について受付を済ませて、やっと予選が始まろうというときだった。
店長が急に電話をよこしてきたのだ。
何でも板野さんが、交通事故に遭ったらしい。
ショッピングモールから帰ったあの日、バスから降りようとして、病院へ向かう横断歩道で車にはねられたのだという。赤信号にも気づかないくらい疲れていたらしい。
修学旅行のキャンセルに行くのだ。その前に、僕は優勝して佐藤と話をつけなくてはならない。
僕の手元に紫衣里がいる限り、嫌とは言うまい。
少しでも試合を早く終わらせるためには、最低限、僕が常に2本先取する必要があった。
プレッシャーに耐えかねて、さっさと電話を切った。
目の前のスクリーンには、世界中の有名e-スポーツプレイヤーたちの顔が、使用キャラクターと共に次々に映し出されている。
燦燦たる夏の太陽の下で、白いブラウスを着た少女が耳元で囁いた。
爽やかな風が全身を吹き抜けたみたいで、俄然やる気が出た。
もちろん、やがて始まった戦いには、それだけでは勝てない。
対戦相手はいままでに経験したことのない強敵揃いだった。
どんな強敵が来ようと、どんなにレアで強力な技が来ようと、紫衣里に支えられた僕が操るシラノ・ド・ベルジュラックを倒せるわけがない。
午前中の予選が終わると、僕はベスト8に入っていた。
遊園地内のフードコートでハンバーガーを頬張る僕に、紫衣里は、これまで見せたことのない不敵な笑いを浮かべて囁いた。
そう言いながら、僕が選手特権で食べ放題なのをいいことに、紫衣里は図々しくも幾つもピザだのホットドッグだの、ファーストフードの皿を積み上げて、デザートのプリンにとりかかっている。
この日のためにバイト料を前借りして買った白いブラウスが汚れるのが心配になったくらいだ。
ふと、心をよぎる不安があった。
僕が戦うのは、板野さんを修学旅行に送り出すためだ。その後は、紫衣里と暮らせれば、それでいい。
でも、紫衣里が僕に望むのは、e-スポーツで戦い続けることだ。それは、2つのリスクを伴う。
僕がスプーンの力を必要とするときがくるかもしれないこと。
そして、紫衣里とその一族が守り続けてきたスプーンの力がアルファレイドに利用されてしまうことだ。
それを避けようとすれば……。
雲一つない、暑い青空を見上げると、喉の中をひき肉の塊が滑り落ちていった。