第5話 彼女の名前とスプーンの秘密
文字数 1,527文字
老人が対戦者のシートから立ち上がる。表情は固く、不機嫌に見えた。年の割に大人げないといえば大人げない。
でも、伸ばされた相手の腕を見て、身体が一歩退くのを感じた。
ただの人間とは違う、獣じみた何かがある。
地獄の底から響くような声で、老人は僕に告げた。
何か持病でもあって、付き添いが必要なのかもしれなかった。
でも、そんなに長く引き留めるつもりはない。
彼女の気持ち次第なので、僕はちらりとその顔を眺めてみた。
何のことか分からない、というふうに彼女は首を傾げてみせる。
僕は老人に向き直った。
彼女の名前を思い出せ 言い淀んでいると、つぶやくような、しかしはっきりした言葉で老人が答えてくれた。
店長をはじめとした見物人は、もう散り散りになっていた。彼らが見たかったのはシラノとミュンヒハウゼンの対決であって、僕と老人のやりとりではない。
だが、老人はゲームセンターの電子音に紛れるようにして、僕の耳元で囁いた。
いやらしい目で見たつもりはなかったのだが、シエリの仕草を見て思い出したことがあった。
隠した胸元に光っていた、あの銀のスプーンだ。
覚えている。
辛いことの全てを忘れさせてくれるような、あの澄み渡る清々しい音。
それでいて、身体を奥底から燃え上がらせるような……。
重々しく囁く声に、その真偽を確かめようとして老人の顔を見つめた。
だが、伏せた目は、何も語ってはくれなかった。
その言葉だけが、秘密を目の前にさらけだす。
老人のミュンヒハウゼン男爵を倒した技は、実力だと思いたかった。
でも、あんなプレーが毎回できるかというと、自信がない。
自分で体験したことだけに、心の奥底まで見透かしたような老人の言葉にはリアリティがあった。
それが、更なる厳しさで告げたことがある。
何のつもりか、曖昧に微笑んでみせる。
その可愛さと、気持ちを量りかねたのでどぎまぎしていると、老人は無言で僕をシエリへと押しやった。
気が付いてみると、老人の姿はゲームセンターのどこにもない。
慌てて外へ駆け出してみると、見覚えのあるスーツの背中がショッピングモールの人混みの中に消えていった。
呆然とする僕の視界を遮るように、目の前に立ったシエリが微笑んだ。
ふっと気が緩んで、僕はまだ名乗っていなかった名前を告げた。