第5話 彼女の名前とスプーンの秘密

文字数 1,527文字

……。

 老人が対戦者のシートから立ち上がる。表情は固く、不機嫌に見えた。年の割に大人げないといえば大人げない。


……お見事でした。
 プロを目指す者としての礼儀で、僕は握手を求めた。
……。

 でも、伸ばされた相手の腕を見て、身体が一歩退くのを感じた。 

 ただの人間とは違う、獣じみた何かがある。


……!
 しかも、しっかりと握り返してきた掌は、炭火でも押し付けてきたかのように熱かった。
 地獄の底から響くような声で、老人は僕に告げた。
いいだろう、連れていけ。だが……。
 その目は、キッと口元を結んだ少女を見つめている。
……。
 この世のものとも思われなかった威圧感が嘘のように思えるほど穏やかな口調で、老人は再び告げた。
彼女と共にあることを、軽く考えてはいけません。
……共にある?

 何か持病でもあって、付き添いが必要なのかもしれなかった。

 でも、そんなに長く引き留めるつもりはない。

 彼女の気持ち次第なので、僕はちらりとその顔を眺めてみた。

……?

 何のことか分からない、というふうに彼女は首を傾げてみせる。

 僕は老人に向き直った。

ご心配なく。僕も子供じゃありませんし、彼女だって、ええと……。

 彼女の名前を思い出せ 言い淀んでいると、つぶやくような、しかしはっきりした言葉で老人が答えてくれた。

シエリ……ナガツキ・シエリ。
 フルネームまでは聞いていないのだが、この老人には、まるで娘を嫁にやる父親のような真剣さが感じられた。
あ……じゃあ、シエリさんは、その……あまり遅くまでは……。

 店長をはじめとした見物人は、もう散り散りになっていた。彼らが見たかったのはシラノとミュンヒハウゼンの対決であって、僕と老人のやりとりではない。

 だが、老人はゲームセンターの電子音に紛れるようにして、僕の耳元で囁いた。

 シエリにスプーンを鳴らさせるな。
スプーン……?
 シエリをちらっと見ると、胸元を隠された。
……。

 いやらしい目で見たつもりはなかったのだが、シエリの仕草を見て思い出したことがあった。

 隠した胸元に光っていた、あの銀のスプーンだ。

君も聞いたでしょう、あの音……。

 覚えている。

 辛いことの全てを忘れさせてくれるような、あの澄み渡る清々しい音。

 それでいて、身体を奥底から燃え上がらせるような……。

あれは、人の潜在能力を100%引き出す。
まさか……。

 重々しく囁く声に、その真偽を確かめようとして老人の顔を見つめた。

 だが、伏せた目は、何も語ってはくれなかった。

 その言葉だけが、秘密を目の前にさらけだす。

君もさっき、経験しただろう?
……それは。

 老人のミュンヒハウゼン男爵を倒した技は、実力だと思いたかった。

 でも、あんなプレーが毎回できるかというと、自信がない。

人の脳に働きかけて、眠っている力を引き出すのです……あのスプーンの音は。
そんな……。

 自分で体験したことだけに、心の奥底まで見透かしたような老人の言葉にはリアリティがあった。

 それが、更なる厳しさで告げたことがある。

君は、その力をあと1ヵ月の間、使わせてはならない。
1ヶ月って……。
 唐突な話に、シエリのほうへと振り返った。
……?

 何のつもりか、曖昧に微笑んでみせる。

 その可愛さと、気持ちを量りかねたのでどぎまぎしていると、老人は無言で僕をシエリへと押しやった。

……?

 気が付いてみると、老人の姿はゲームセンターのどこにもない。

 慌てて外へ駆け出してみると、見覚えのあるスーツの背中がショッピングモールの人混みの中に消えていった。

あ……。
よろしくね……ええと。

 呆然とする僕の視界を遮るように、目の前に立ったシエリが微笑んだ。

 ふっと気が緩んで、僕はまだ名乗っていなかった名前を告げた。

長谷尾……英輔。
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登場人物紹介

長谷尾英輔(はせお えいすけ)

e-スポーツのプロを目指す公立高校3年生。

親からの仕送りを止められ、ゲームセンターでのアルバイトをしながら下宿生活を送っている。

情に脆く義理に厚いが、優柔不断でちょっとムッツリスケベ。

長月紫衣里(ながつき しえり)


幸運をもたらす銀のスプーンを豊かな胸元に提げた美少女。

無邪気で自由奔放、大食らいで格闘ゲームが妙に強い。

長谷尾の優柔不断を、要所要所でたしなめる。


板野星美(いたの ほしみ)


つらい過去を抱えた私立高校2年生。

ささやかな望みを叶えるために、禁止されているアルバイトをこっそりゲームセンターでやっている。

意志も意地も強い努力家で、つい無理をしてしまうところがある。

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