第39話 鬼の目をした老人の宣告

文字数 1,443文字

紫衣里!

 この炎天下だ。

 表彰式や閉会式まで待つ義理など、観客にはない。

 だが、紫衣里までがいなくなることはなかった。

 優勝の喜びをいちばん分かち合いたい人は、どれだけ呼んでも返事をしてくれない。

 それでも僕は諦めなかった。

紫衣里! どこだ!
ここです。

 紫衣里のものではないが、聞き覚えのある声が答えた。

 僕の足は、はたと止まった。

紫衣里は……?
 老人は、僕の胸元を指差した。
あなたの心の中に。
ふざけないでください!
ふざけているのはそちらです。
な……。
 あまりの開き直りように言葉もない僕を、老人は低い声で責めた。
たったひと月、なぜ待てませなんだ。使わないで共に暮らせば……。

 老人は、どこか悲しそうな笑顔で告げる。

 そのとき、僕はもう紫衣里と暮らすことができないのを知った。

 だが、納得のいかないことがある。

いや、僕は止めました!

 僕が使わせたわけじゃない。むしろ、紫衣里がスプーンを使わなくてもいいよう、e-スポーツを辞めるつもりでいたのだ。

 だが、老人は静かな、しかし厳しい声で問い返してきた。

ならば、なぜあなたはここにいなさる?
それは……。

 板野さんのためだ。それは多分、紫衣里の望んだことでもある。

 だが、それは老人の知ったことではないだろう。

 選んだのは、僕なのだ。

 

あのスプーンは、何があろうと使ってはならないものでした。

その効果を知れば、使わないではいられなくなります。

それは、あなたもご存知ではなかったのですか?

分かっていました。

だから、そのことについて弁解はしません。

でも……。

 どうしても、分からないことがあった。

 それが理解できない限り、僕は明日から自信を持って生きていけないような気がしていた。 

 老人も、それは察していたらしい。

知りたいですか? 紫衣里が、なぜあなたと共にここまで来たのか。

 僕は大きく頷いた。

 紫衣里がいない今、僕とすれ違ってしまったその気持ちだけでも受け止めておきたかったのだ。

たぶん、ここに来ることは僕の本心でした。でも、紫衣里を失うくらいだったら……。

 僕は口ごもった。

 紫衣里へのあふれる思いが胸につかえて、言葉をそこで押しとどめてしまっていた。

 だが、老人にそれ以上の言葉は必要なかったらしい。

あなたは優しい。そして熱い心も持っている。だから紫衣里はあなたを選んだし、私も託されることを許したのです。ただ……。

 そこで老人は、悲しげに言葉を途切れさせた。僕がいちばん聞きたいことは、そこにある。


教えてください……僕はどうすればよかったのか。
 老人は、寂しげにため息をついた。そこには、どこか開き直りにも似た、深い諦めが感じられた。

どれかを捨てればよかったのです。全てを手に入れることなど、誰にもできはしません。

紫衣里をあなたという人間に失望させてでも、スプーンを鳴らしてはいけなかったのです。

言い換えれば……。

 そこで老人は顔を上げると、僕を見据えた。

……。

 背筋に寒いものが走ったとき、記憶の底から蘇ったものがあった。

 全てを、始まりに戻すかのように。

 あの燃えるような鬼の目をした老人は、低い声で言い切った。

紫衣里と心を共にすることで、他のものを選んでいたのです。

いずれ、忘れられても仕方がありますまい。

 返す言葉もなかったが、それでも未練がましく、僕は尋ねた。
それは、今すぐのことですか?
さあ……それは紫衣里次第ですが、必ずやってくる、とだけお知らせしておきましょう。
 それが、人混みに紛れて消えた老人の最後の言葉だった。 
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登場人物紹介

長谷尾英輔(はせお えいすけ)

e-スポーツのプロを目指す公立高校3年生。

親からの仕送りを止められ、ゲームセンターでのアルバイトをしながら下宿生活を送っている。

情に脆く義理に厚いが、優柔不断でちょっとムッツリスケベ。

長月紫衣里(ながつき しえり)


幸運をもたらす銀のスプーンを豊かな胸元に提げた美少女。

無邪気で自由奔放、大食らいで格闘ゲームが妙に強い。

長谷尾の優柔不断を、要所要所でたしなめる。


板野星美(いたの ほしみ)


つらい過去を抱えた私立高校2年生。

ささやかな望みを叶えるために、禁止されているアルバイトをこっそりゲームセンターでやっている。

意志も意地も強い努力家で、つい無理をしてしまうところがある。

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