口から生まれるもの

文字数 760文字

 夫婦は、円満に暮らしていた。双方の胸の内はともかく、おもてむきは、さして波風たたず、口ぎたなく傷つけ合うこともなく、平穏無事な生活を送っていた。
 おたがいに好き合っているようだった。
「愛してる」
 男は、女によく言った。女も、まんざらでなくその言葉を聞いていた。
 だが男が、そんな言葉を口にするには、それなりの理由があった。妻への、自分の愛が薄れそうになるとき、男はその言葉を口にするのだった。

 この男、責任感だけは強かった。自分がしたこと、言ったことには責任をもつ。責任とは、そういうものだからだ。
 古風な男でもあった。気持ちが離れて、ただ一緒にいるだけの、仮面夫婦になりたくなかった。そのため、プラトニックな面を重んじた。
 だが不意に、妻から心が離れそうになるときがあった。そして彼はあわてて、彼女に言うのだった。愛してる。

 すると彼は、彼女を愛している気になった。

 この夫婦は、もとより、女のほうが、男にイレ込んでいた。積極的だったのも、女のほうだった。男といえば、ただ抱きしめられ、得意になって、本能をぶちまけられる相手としか見ていなかった。
 そんな男の心を知ってか知らずか、女は男を愛し続けた。
 彼がどんなに不良になろうと、女は彼を見離さなかった。彼がどんなに悪くなっても、彼女は彼を見捨てなかった。

 男は、徐々に女の愛情にほだされはじめた。
 だが、自分がほんとうに彼女を愛しているのか、自信がもてなかった。ただの肉欲だけのために、つきあいはじめたものだから。
 そこで彼は、二階から飛び降りる気持ちで、れいの言葉を言った。愛してる。
 そのとき初めて、おれはこの女をほんとうに愛している、という気になった。
 それが十年前である。夫になって八年が経つが、彼は毎日欠かさず、この言葉を言い続けているということである。
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