第41話 誠実とは
文字数 1,434文字
誠実な作家が好きである。
椎名麟三、山川方夫、大江健三郎… かれらの文からは、それがいたく感じられ、その人間性、文に自然にあらわれる、どうしようもないような人間性みたいなものに、ぼくは強く惹かれるのだ。どうしようもないとは、こういう仕方でしか表現できない、とでもいう、どうしようもなさである。
さて、ではその「誠実」とは何なんだろう、と考えてみる。
80年代?に流行った「北の国から」というTVドラマで、たしか菅原文太が、自分の娘を妊娠させたか何かした男が挨拶に来た際、その男が「誠実」という言葉を使うのに対して「誠実って、何だろうね」と独り言のようにいう場面があったと記憶する(シチュエーションが違っていたらごめんなさい。でも菅原文太がそう言っていたことは確かです)。
まず、相手がいなければ成り立たないものである。と思った。
ひとりで、誠実では、いられないということ。
相手があって、初めて誠実があるということ。
が、すると、それは何も「誠実」に限らず、言葉に表されるものぜんぶが、ひとり(単体)では成り立たないものではないかと思った。
まじめ、真剣、がんばる、がんばらない、ふまじめ、不誠実、疲れた、元気だとか、良い人だとか悪い人だとか、およそ言葉は全て相対比較するものを孕んでいる。
言葉自体が、ひとりではいられないのだ。
これは言葉のもつ運命であり、その言葉を発する人間の運命、といえる気がする。
「ぼくら、弱い人間どうしなんだから、せめて言葉ぐらい、誠実であろうよ」と言った太宰は、うまいこと言ったと思う。
相手がいないと、あり得ない「誠実」。
だが、ほんとうにそうなのだろうか。
以前工場で働いていた時、休憩時間になっても働いている人がいた。ぼくは彼から仕事を教わったのだが、上司が「休憩だよ」と言っても、「ああ」とか答えるだけで、その人は自分が納得するまで、というか自分のペース、かれの仕事のペースで淡々と仕事をしていた。りんご農家のひとで、農閑期に、工場に出稼ぎに来るひとだった。
おかしな話だが、ぼくはそのひとから、強い強い誠実さをみていた。そのひとは作り笑いなんかしないで、といって怖い感じもせず、ただほんとうに淡々と仕事をこなし、淡々と受け答えするひとだった。ヘラヘラしていたぼくは、自分がまるで偽善者のように思えた…。ぼくはそのひとに、正直に言った。「Gさん、すごいです…」
するとGさんは半ば口をあけて、でも作業する手はけっして休めず、「オレ、バカだからよお」と、ぼくをまっすぐ見つめて笑って言うのだった。
このひとのつくるリンゴは、きっと美味しいだろうなと思った。このひとはほんとうにそのまんまで、裏表のない、ぼくには「誠実」この上ないひとにみえた。こう書いていて、そんな誠実、なんて形容すら、何か偽善的で、薄っぺらいと感じられる。
「信じられる人」であった。無口だったけれど、ウムをいわせぬ説得力があった。
だが、そこは小さなものをチェックする(目視する)仕事場で、Gさんが見逃したものをぼくが見つけることもあった。するとかれは、「オレ、あんま目が見えなくてよお」と可笑しそうに笑って言った。大丈夫かな、と思ったけれど、たぶん許容範囲のもので、ぼくが細かすぎたのだと思っている。
Gさんの仕事を引き継ぐ形だったので、ぼくが来て一ヵ月ほどでGさんは青森に帰ってしまった。
「誠実」というのは、何も、そうあろうとするものではないのかもしれない。
椎名麟三、山川方夫、大江健三郎… かれらの文からは、それがいたく感じられ、その人間性、文に自然にあらわれる、どうしようもないような人間性みたいなものに、ぼくは強く惹かれるのだ。どうしようもないとは、こういう仕方でしか表現できない、とでもいう、どうしようもなさである。
さて、ではその「誠実」とは何なんだろう、と考えてみる。
80年代?に流行った「北の国から」というTVドラマで、たしか菅原文太が、自分の娘を妊娠させたか何かした男が挨拶に来た際、その男が「誠実」という言葉を使うのに対して「誠実って、何だろうね」と独り言のようにいう場面があったと記憶する(シチュエーションが違っていたらごめんなさい。でも菅原文太がそう言っていたことは確かです)。
まず、相手がいなければ成り立たないものである。と思った。
ひとりで、誠実では、いられないということ。
相手があって、初めて誠実があるということ。
が、すると、それは何も「誠実」に限らず、言葉に表されるものぜんぶが、ひとり(単体)では成り立たないものではないかと思った。
まじめ、真剣、がんばる、がんばらない、ふまじめ、不誠実、疲れた、元気だとか、良い人だとか悪い人だとか、およそ言葉は全て相対比較するものを孕んでいる。
言葉自体が、ひとりではいられないのだ。
これは言葉のもつ運命であり、その言葉を発する人間の運命、といえる気がする。
「ぼくら、弱い人間どうしなんだから、せめて言葉ぐらい、誠実であろうよ」と言った太宰は、うまいこと言ったと思う。
相手がいないと、あり得ない「誠実」。
だが、ほんとうにそうなのだろうか。
以前工場で働いていた時、休憩時間になっても働いている人がいた。ぼくは彼から仕事を教わったのだが、上司が「休憩だよ」と言っても、「ああ」とか答えるだけで、その人は自分が納得するまで、というか自分のペース、かれの仕事のペースで淡々と仕事をしていた。りんご農家のひとで、農閑期に、工場に出稼ぎに来るひとだった。
おかしな話だが、ぼくはそのひとから、強い強い誠実さをみていた。そのひとは作り笑いなんかしないで、といって怖い感じもせず、ただほんとうに淡々と仕事をこなし、淡々と受け答えするひとだった。ヘラヘラしていたぼくは、自分がまるで偽善者のように思えた…。ぼくはそのひとに、正直に言った。「Gさん、すごいです…」
するとGさんは半ば口をあけて、でも作業する手はけっして休めず、「オレ、バカだからよお」と、ぼくをまっすぐ見つめて笑って言うのだった。
このひとのつくるリンゴは、きっと美味しいだろうなと思った。このひとはほんとうにそのまんまで、裏表のない、ぼくには「誠実」この上ないひとにみえた。こう書いていて、そんな誠実、なんて形容すら、何か偽善的で、薄っぺらいと感じられる。
「信じられる人」であった。無口だったけれど、ウムをいわせぬ説得力があった。
だが、そこは小さなものをチェックする(目視する)仕事場で、Gさんが見逃したものをぼくが見つけることもあった。するとかれは、「オレ、あんま目が見えなくてよお」と可笑しそうに笑って言った。大丈夫かな、と思ったけれど、たぶん許容範囲のもので、ぼくが細かすぎたのだと思っている。
Gさんの仕事を引き継ぐ形だったので、ぼくが来て一ヵ月ほどでGさんは青森に帰ってしまった。
「誠実」というのは、何も、そうあろうとするものではないのかもしれない。