第52話 同調意識と自己顕示欲
文字数 622文字
わからないことばかりの中に生きているが、特に心理的にわからないのが、「同調意識」と「自己顕示欲」である。
同調意識は、わかる。まわりと同じにならないと、こころぼそいものだ。
自己顕示欲もわかる。自分はここにいる、と他者に知らしめたいのだ。
もんだいは、この二つが、一つの自己のなかにあることだ。
よくよく見れば、さもありなん、となるだろう。
まわりとおなじであるところに、自己を置かないと、他者と比べようもないし、したがって自己顕示もできない仕儀になるからだ。
そして自己顕示欲が先にあるのか、同調意識が先にあるのかは、タマゴとニワトリと同じだろう。
何がそうさせるか、の「何」は、コレ、と、一本指でさせるほど確かなものでない。
まったく、一辺倒ならぬ、欲やら意識やら、わけのわからないものに包まれている。ゆえに、自己というものも、漫然、散漫とする。
だが自己、この自己を自己とする、自己を抱える身体は、一つしかない。
社会的なもの、この世と自己を一致させようとすること、それがユートピアへの衝動だとしても、その前に、まずこの一つの身体と、無限に広がりそうな勢いをみせる頭の中のはたらきを、一致させてみせたいものだ。
きっと、ほんとうにそう望めば、そうなるだろう。
まわりへでない、自己への望みであるのだから!
その自己の中に、しっかりまわりが、内包されていれば(自己が受けとめ、受容し許容し、それを自己に生かしておれば)、しめたものである。
同調意識は、わかる。まわりと同じにならないと、こころぼそいものだ。
自己顕示欲もわかる。自分はここにいる、と他者に知らしめたいのだ。
もんだいは、この二つが、一つの自己のなかにあることだ。
よくよく見れば、さもありなん、となるだろう。
まわりとおなじであるところに、自己を置かないと、他者と比べようもないし、したがって自己顕示もできない仕儀になるからだ。
そして自己顕示欲が先にあるのか、同調意識が先にあるのかは、タマゴとニワトリと同じだろう。
何がそうさせるか、の「何」は、コレ、と、一本指でさせるほど確かなものでない。
まったく、一辺倒ならぬ、欲やら意識やら、わけのわからないものに包まれている。ゆえに、自己というものも、漫然、散漫とする。
だが自己、この自己を自己とする、自己を抱える身体は、一つしかない。
社会的なもの、この世と自己を一致させようとすること、それがユートピアへの衝動だとしても、その前に、まずこの一つの身体と、無限に広がりそうな勢いをみせる頭の中のはたらきを、一致させてみせたいものだ。
きっと、ほんとうにそう望めば、そうなるだろう。
まわりへでない、自己への望みであるのだから!
その自己の中に、しっかりまわりが、内包されていれば(自己が受けとめ、受容し許容し、それを自己に生かしておれば)、しめたものである。