初めての男、最後の女

文字数 1,333文字

 一人息子も、手を離れ、親としての任務も終えた。彼らの家庭は、新婚当初と同じふたりぽっちに残された。
 子の代わりに飼い始めた、犬のポピーも死んでしまった。
 ある日ふたりは、住み慣れた家の廊下をすれ違った。細君は風呂上りだった。夫君は思わず目を見張った。かつて彼の欲情の火に油を注いだその尻は下に垂れ、腹はぽっこりし、その上の二つの房も、重力に逆らえず下降気味、といったふうであったからだ。
 瞬時に彼は、妻の(よわい)をおもった。相応に、ちゃんと歳を取ったのだ、と思った。
 細君は細君で、おのが身体を直視する旦那を見つめた。頭部は禿げかかり、眼の下には厚ぼったい

ができ、首元に幾本もの皺が、爬虫類のそれのように連なっているのを見た。
 それは一瞬のすれ違いであり、見つめ合いだった。

 旦那は、書斎に戻ると、座り心地の悪い椅子にすわった。何か、しんみりした気分だった。会える日を待ち望み、そのたびにホテルへ直行し、束の間のパラダイスに明け暮れたころをおもった。それは、ついこないだのことのようだった。
 もう、孫もできた。ならべた布団で寝る前に、お話をするのが大好きだった息子も、いまや三児の父である。
 歳を取るはずだわい、と老人は考えた。今までのおのが人生と、先細った人生のことを考えた。
 すると彼に、細君が、おのれに残された最後の、そして唯一の、愛すべきひとのように胸にせまって来た。

 妻は、ついさっき見た彼を、老いたなあ、と思い出しつつ、バスタオルで濡れた身体を拭った。少し淋しくもあったが、それほどショックは受けなかった。
 彼女は、最初からそのつもりでいたからだ。彼とは、一緒に歳をとるつもりで結婚したからだ。
 四十すぎて彼と出会った。それまで彼女に、これほど好きになったひとはいなかった。離れていたくないと、本気で思ってしまえるほど、彼を好きになった。それまでもちろん、数人の男と関係があったが、こんな気持ちになったのは、彼が初めてだった。

 偶然の瞬間に見つめ合った、この廊下での邂逅と、その後のひとりひとりの数秒の間に、二人のあいだにどうしようもない、それでいて愛せざるを得ない、奇妙な気分がうまれたようだった。
 いまや彼女にとって、彼は初めてのひとであり、彼にとって彼女は最後のひととなっていた。
 それぞれにとってのはじまりとおわりが交差し、一致して、やっとひとつになれたような、味わったことのない気分に、ふたりして包み込まれるようだった。

 すると今までしてきた、ただ流されてきただけのような日々の生活も、このために用意された時間のように、たがいの目に映りはじめた。これからは、二人のために、二人だけのために、残された時間を生きていく── 覚悟のような、あきらめのような、ふしぎな、でも暖かい気分に、二人は他愛もなく抱かれた。
 それはあの新婚初夜の、神妙におたがいの布団を敷きあった際の、これから二人が行なう行為への予感、あの胸のときめきに似ていなくもなかった。
 男にはその行為に及ぶ体力が、女にはそれを受け入れる身体が、もはや残されていなかったが、力も身体も要らず、抱擁しあい、見つめあい、愛しあえる時間が来たことを、二人はほのかに、しかし確かに感じあっていた。
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