第35話 アップ・ビートの神様

文字数 933文字

「いいね!」自体が一つの方向性、絶対的な方向性をもっている。
 商品ならば使い勝手の良し悪し、役に立つ物として「いいね!」に何の曇りもない。
 もっとも、そのレビューを書く仕事というのがあって、ほとんどヤラセの世界とも聞いたことがあるが。
 だが、およそ「物」ではない、思想的な、心情的なモノに関しては、それを見る者にも一定の方向性ができあがっている。
「明るく」「前向き」がイイとする杓子定規が強い。ほとんどこれは宗教のようなもので、そもそも「いいね!」を押しやすい、相応しいものが「いい」という価値観と呼応しているのだ。
 したがって、たとえばシルヴィア・プラスの「自殺志願」が、高野悦子の「二十歳の原点」が、はたして小説投稿サイトにあった場合、高評価などされないにちがいない。それは全く、「いい」とは別モノなのだ。
 ダウン・ビートのものは、さわやかに軽やかにポチッとできない。必然、アップ・ビートのものばかりがポチッとされ、同じような顔をしたものばかりが棚に並ぶことになる。
 絶望のまま終わる映画が、そこに一縷の希望も見い出せないような小説が、いいねという軽い言葉に対応するだろうか?

 そんなふうに☆を見た時、「荘子」、あの死の哲学者とよばれた荘子の、「生ばかりを礼讃しない」姿勢が、いとおしく感じられる。一つの価値観からしか成立しないものなど、この世にはあり得ない。生と死が、もっとも身近な、いい例である。生ばかりを讃美するのは、片手落ちも甚だしい。天秤ばかりが、一方に偏りすぎている。
 モンテーニュが鋳させた銅碑には、平衡を保った天秤がうち出されている。これは、かれが政治上でも宗教上でも、絶対中立であろうとする努力決意を示したものである、と識者はいう。
 形而下で中立であろうとした場合、形而上では中庸を保つことに重点がおかれるだろう。対極のもの、対立するものの、どちらにも偏らず、「中点」、その二つのものをつくり出すものを観じること。この

に、おのれを置くことを、モンテーニュはその銅碑であらわしたのだと僕は思う。

 いいねと荘子、モンテーニュなど、全く異次元の話だが、死を疎んじず、誰もが抱える生死、その死のほうを、そんなダウン・ビートにとらえなくても、と思う。
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