ホライズン・Ⅲ
文字数 2,921文字
予定を越えても里へ戻らないソラを案じて、モエギ長(当時の長、ルウシェルの母親)が、幾人かを捜索に、沿海州へ送った。
その内の一人、シドが見付けて連れ帰ったのは、鐙皮(あぶみがわ)の切れたソラのパロミノ。
「V字谷の抜け道付近をウロウロしていた。あそこ、気流が悪くて危ないけれど、近道だったんだ……」
西風の者、隣接の砂の民の部族の者、遠く蒼の里の長までが駆け付けてくれ、皆で捜索したが、青銀の髪の妖精は見付からなかった。
ルウシェルは、周囲が不安になるほど感情を表に現さなかった。
気遣う周囲に逆に気遣い、捜索してくれる皆の身を案じて労(ねぎら)った。
母のモエギや父のハトゥン、親友のエノシラらが隙間を開けずに側に着いていたが、それに対してすら気を遣った。
そうして成果のない捜索の二週間目に、自ら打ちきりを宣言した。自分が言い出さねば捜索を終われない事を分かっていた。
本当ならば幸せな花嫁になる筈の、婚礼の当日だった。
西風のソラは里に居る時間が少なかったが、存在感は大きかった。
このヒトが帰って来ないと決まっただけで、里は一つの火が消えたようだった。
亡くなったと確定した訳ではないので、正式な告知も葬儀もしなかったが、他部族からの使者がひっきりなしに弔慰を示しに訪れた。
元老院が腰を抜かすような大物が、自らやって来たりもした。
そんな来客達に、ルウシェルは母の名代として、堂々遜色なしに対応した。
元々身体の弱いモエギ長は、その頃から臥せりがちになっていたのだ。
里の者達は胸を撫で下ろした。
あの娘もいつまでも子供ではない、辛い目には遭ったが、きちんと次期長らしく成長しているではないかと、仲の悪い元老院ですら誉めた。
シドは順調だった教官の仕事をすっぱりと辞め、ソラの後を引き継ぐ宣言をした。
妻のエノシラも賛成し、忙しい医療の仕事をやりながら、全力でサポートした。
慣れない外交は大変だったが、マメなソラがきっちり付けていた記録が鞍袋に残されていて、救われた。
修練所のシドの抜けた穴は、先輩教官のスオウが胸をトンと叩いてくれた。
身体の戻らぬモエギは長を完全にルウシェルに譲り、砂の民の外れの田舎家で療養する事となった。
そうして皆がそれぞれに、ソラが居ない事を受け入れて行った。
せっかちな老人達が、影でルウシェルの縁談を囁き始めた頃……
さすがのエノシラが気付いた。
「ルウ? 太ったんじゃ……ないよね……?」
「私が絶望の気持ちでいると、それがこの子に流れ込む。この子の血肉は、未来への希望で創られねばならない」
ルウシェルが懐妊していた報せは、全ての者を躍り上がらせた。
特に、子供の頃からソラの親友だったシドは、狂喜乱舞だった。
「さすがは母は強しだね。ソラの命を宿していたから、あんなにしっかりしていられたんだ」
シドとハトゥンが嬉しそうに杯を打ち合わせる横で、エノシラは不安を拭えなかった。
ヒトって、いきなり母になれる訳ではないし、母になったからっていきなり強さが備わる訳じゃない……
春の花の咲き揃う穏やかな日に、ルウシェルは、ソラにそっくりな男の子をこの世に送り出した。
――そして、エノシラの不安は的中してしまった・・
***
夕陽のオレンジの書物の部屋。
長椅子の女性は、カノンが部屋に入って来ても、視線を動かさなかった。
少年は黙って彼女の横まで歩き、片手を肩に置く。
「っ!!」
女性はビクッと揺れる。
「目が覚めた?」
「……」
「貴女は誰?」
「西風の、ルウシェル……」
「僕は誰?」
「…………」
「分からない?」
「カノンだ、私の息子」
カノンは肩を降ろした。今日はそんなに記憶は飛んでいないみたいだ。
「シドさんが沿海州から戻って来たよ。エノシラさんが、今日、夕食にどうぞって」
少年は母に背を向けて、書物の山を越えて探し物を始めた。
「シド……エノシラ……」
「分かる?」
「ああ、シドは私の乗馬の教官で、エノシラは留学先の宿主だ」
「惜しい所だね。合っているけれど、それ、僕の生まれる前」
少年は嫌でも母親の人生の出来事と順番を暗記してしまっていた。
「そうか……カノン、何さがしてる?」
「西の大陸の歴史の書物。この前三巻まで読んだんだけれど」
「左の棚の下から二段目だ」
「えっと、下から……あ、あった! サンキュ」
「良かったな、読んだら元の位置に戻して置くんだぞ」
カノンは目当ての書物を引っ張り出して、ルウを振り向いた。
「ねぇ、数字通り並べて置いてもいい? 読み返したりしたいのに、あちこちバラバラにあるんだもん」
「駄目だ!」
ルウは頬杖を付いて、フィと窓の外へ向いてしまった。
カノンは書物の山を崩さないように乗り越えて、彼女の横へ戻る。
「ごめん、ルウシェル。言ってみただけ。分かってる、ちゃんと戻して置くから」
「ああ……」
カノンは母親を名前で呼ぶ習慣が付いていた。このヒトは、たまに息子の存在すら忘れるからだ。
「面白いよ、西国の歴史」
「ああ、私も好きだ。全部読んだ」
「今晩、討論しようよ」
「ああ」
カノンをこの世に送り出して、張り詰めていたモノがプツッと切れて
プツプツプツプツプツンッと切れて……
ルウシェルの記憶は振り子のように、過去と現在を行ったり来たりになってしまった。
初めは皆、難産で疲れて呆けているのだと楽観していた。
でもエノシラがすぐ、ただ事ではないと気付いた。幾ら何でも、子供を生んだ事すら忘れるのは異常だ。
蒼の里の医療師に問い合わせて、蒼の長そのヒトも何度か訪れた。しかし治癒には至らなかった。
普段の生活や、知恵や知識に関しては問題ない。
混乱するのは、ソラが介在した出来事や、ソラの周囲の者に関する記憶だけ。
そして……
「なあ、カノン」
「何?」
「私、ここで誰を待っていたんだっけ?」
「僕じゃないかな?」
「そうか……」
砂漠の流砂が太古の遺跡の傷痕を呑み込むように、ルウシェルの記憶から、ソラの存在がポッカリと抜け落ちていた。
人生の所々、時には随分長い間、穴が開いたように無になってしまっている。
それでもヒトって何となく生きて行ける。
でも……
ルウは自分の手を見つめる。
私の人生って、こんなに渇いた物だっけ?
カラカラの干からびた果実みたいな心の中で、常に投げ掛けられる疑問がある。
例えば、何で暇さえあれば此処へ来るのか?
何でここの書物を動かしたくないのか?
いつも目を吸い寄せられる、あの壁の長衣は誰の物?
ルウには分からない。
分からないが、ここへ来ると、渇いた果実に何かが染み込む。
エノシラもシドも、彼女の前で敢えてソラの話をしなかった。
これ以上揺さぶると、最後の糸がプツンと切れてしまいそうで怖かった。
それに悲しみを封印してしまったのなら、それはそれでいいんじゃないか? という気持ちもあった。
ただ、カノンを不憫に思っていた。それでなくとも賢く感受性の強い子なのにと、常に心を配っていた。
カノンは、エノシラ達のそういう気持ちは察して、素直に感謝していたけれど、冷めた部分もあった。
だって自分は、どうしたってあの家の子供ではないのだもの……
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