ホライズン・ⅩⅥ

文字数 1,950文字

 


 悲鳴もなく落ちた少年に、アイシャはハッと我に返った。
 我を失っていたのはコンマ数秒で、慌てて手を伸ばしたが、少年の身体に届かなかった。

「あぁあ! 何て事!」

 身体中の血が凍り付くアイシャの真横を、疾風が駆け抜けた。
 目の端に映ったのは、竜胆(りんどう)色の草の馬。それも一瞬だった。

 滝淵から垂直降下した若紫が落水に弾かれるのと、その背から誰かが少年に飛び付くのと、同時だった。
 弾かれてクルクル回る草の馬を、リリが必死に立て直す。
 全て瞬きの間の出来事。

 けれど落下するカノンは、誰かが自分を掴まえて、頭をしっかり抱えられるのが分かった。

 ――ザフッンンッッ!!! 

 激しい衝撃。
 鼻と口から物凄い勢いで冷水が入って来る。
 滝壺には魔が潜んでいる。
 泡のせいで身体が浮かび上がらないのだ。

 身体が、痛い、芯まで痛い! 
 助けて! 痛い! 誰か・・
 手足が・・

 ちぎれ・・・・


 ――ザッザアアア――――!

 水が激しく渦巻いた。翻弄された手足がぶつかって、痛い・・!
 ああ手足ちゃんとある! と思ったら、いきなり周囲の水が失せた。

「アヴッ、ゲボッゲホホホ」

 泥の上を転がって水を吐くカノンに、鋭い声が飛んだ。

「手伝ってえぇ!」

 泥だらけの視界の向こう、水のなくなったすり鉢状の滝壺の底で、リリが、ぐったりとした男性の下に潜り込んで、必死に抱え上げようとしている。
 男性の青銀の髪は真っ赤にしとどおっていた。

 慌てて立とうとしたが、痺れた足がいう事を聞かない。
 転ぶ・・! 
 誰かの手が延びる。
 ガッシリ支える肩と、赤いバンダナ。

「間に合った!」
「レン・・!」

 リューズは既に、ユゥジーンに担ぎ上げられていた。

「駆け上がれ! 早く!」

 レンに支えられて、カノンはすり鉢の泥の中を必死で這い登る。
 登りながら上を見て、仰天した。

 滝壺にあった大量の水が、上空で渦巻いているのだ。
 その真ん中で、両手を掲げて竜巻の大旋風を起こしている者がいる。
 ここいらでこんな大技が使えるのは一人しかいない。
 黒衣の馬に、碧緑の乱れ髪の女性。
 ――西風のモエギ!

「ぉ、お、お祖母様!」

「早くしろ・・もう、もたないぞ・・」

 カノンが力を振り絞ってすり鉢の淵へ上がった瞬間、上空の水の塊がザンブと落ちて来た。

「うわっぶぶ」

 溢れる波の中、レンがカノンに覆い被さって、流されないよう必死で踏ん張ってくれた。

 水が治まって
 耳に音が戻って
 カノンは閉じていた目を開いた。

 霧は吹き飛ばされ、海辺の眩しい空。
 滝は何事もなかったようにドウドウと落ち、ずぶ濡れのレンが、隣で荒い呼吸をしている。

 離れた所に髪を真っ赤に染めたリューズが横たわり、その額にモエギが掌を当てている。
 よろよろと立ち上がって、カノンはそちらへ歩いた。

 リューズは動かず、頭の他にも、身体のあちこちの衣服が裂けて血が滲んでいる。
 止血をするユゥジーンの隣でリリが、顔を上げてカノンを見た。
「水底で頭を打っちゃったのよ」

 ――覚えている。
 このヒトが、全身で、自分を庇ってくれた――


「リューズ――!」

 転げるように梯子を降りて、アイシャが走り寄って来た。
「リューズ、リューズ!」

「心配要らない。意識が戻った」
 モエギはリューズの額から掌を離して、静かに身を引いた。

 アイシャが屈み込んで、自分の衣服の袖で彼の顔を拭う。

「う・・」
 リューズが小さく震えて、灰色の眼を開いた。
 そうしてゆっくり視線を動かし、側に立つカノンを見上げる。

 ・・・・

 二人、黙って見つめ合った。

 リリがレンの袖を引いた。
「何だよ」
 見るとユゥジーンも立ち上がって、遠退こうとしている。

「トモダチは、よろめいた時に支えるだけでいいのよ」
 今までみたいに居丈高じゃなくて、静かな声だった。
「うん、そだな」
 レンも素直に立ち上がり、三人は自分達の馬を連れて、そっと海の方へ身を引いた。


 リューズが口を開き掛けた時……

「父様ぁ!!」
 上方で声がした。
 灰色の髪の姉弟が滝上から見下ろしている。
 二人ともさっきの竜巻を見たのだろう。酷く動揺して、二人一緒に梯子を降りようとしている。そんな様子では危険だ。

「お前達! 止まれ、駄目だ!」
 アイシャが慌てて二人を制そうとする。

 カノンがスッとそちらを見上げて、よく通る声で叫んだ。
「君達のお父さんが、助けてくれたんだ!」

 皆、一斉に少年を見た。

「大丈夫! そこで待っておいで。へっぽこ勇者は何があってもへっちゃらさ! そうだろ!」

「うん!」
 男の子が大声で答え、二人は梯子を降りるのを止めた。

 少年は、リューズに正面向いて一礼する。
「ありがとうごさいました」

 そうしてオレンジの瞳で真っ直ぐ、青銀の髪の男性を見た。
 ただ、見た。
 焼き付けるように。





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登場人物紹介

カノン:♂ 西風の妖精

西風の長ルウシェルの息子。今年十一歳。

記憶が曖昧な母と暮らす、イヤでもしっかりせねばならない子。

レン:♂ 西風の妖精

シドとエノシラさんちの長男。

カノンとは同い年で親友。健全な両親に健全に育てられた陽キャ。

ルウシェル:♀ 西風の妖精

当代の西風の長。カノンの母親。

カノン出産の時よりランダムに記憶が飛び始める。

シドさん一家

シド:♂ 西風の妖精、外交官、ソラ(カノンの父)の親友  

エノシラ:♀ 蒼の妖精、助産師、医療師、ルウシェルの親友

子供たち レン:♂ ファー:♀ ミィ:♀  カノンと仲良し

モエギ:♀ 西風の妖精

カノンの祖母、ルウシェルの母。

病気がちで、長を娘に譲った後は田舎で隠遁している。

今回はモブの人々

フウヤ ♂ 三峰の民、旅の彫刻家。ルウシェルやシドと昔馴染み。

カーリ ♀ 砂の民、砂の民の総領の養女で、モエギの義妹。

アデル ♂ 砂の民、モエギとハトゥンの子供。ルウシェルの歳の離れた弟。

リリ:♀ 蒼の妖精

蒼の長ナーガ・ラクシャの娘。

成長の仕方がゆっくりで、幼く見えるがレンやカノンより年上。

ユゥジーン:♂ 蒼の妖精

執務室のエースだが、好んでリリの世話係をやっている。

叩き上げの苦労人なので、子供達には甘そうで甘くない。

リューズ:♂ 海霧の民

アイシャの夫。巫女を支える神職。

アイシャ:♀ 海霧の民

リューズの妻。予言者、巫女。

ナーガ・ラクシャ:♂ 蒼の妖精

当代の蒼の長。リリの父親。

近年で最も能力的に信頼されている長。

ホルズ:♂ 蒼の妖精

長の執務室の統括者。

若者の扱いが上手な、ゆるふわ中間管理職。

ノスリ:♂ 蒼の妖精

ホルズの父。ナーガの前の蒼の長。

血統外の繋ぎ長だったが、人望厚く、いまだ頼られる事が多い。


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