ホライズン・Ⅱ
文字数 2,104文字
カノンは馬を厩に戻し、自宅には向かわず、修練所の旧棟への坂を登った。
昔は孤児達や独身の教官の寮だったが、建物が老朽化し、今は誰も住んでいない空き家。その一室に用事があった。
朽ちたベンチの脇を抜けると、窓の板扉の一つが開いているのが見えた。目指す部屋の窓だ。
(ああ、また……)
この部屋に来るのは、自分の他には一人しかいない。
建物に入ると、廊下に面した扉も細く開いていて、窓を通した明かりが埃に筋を引いている。
扉をそっと引くと、書物に囲まれた中央の長椅子に、予想通りの人物。
窓から差し込むオレンジの夕陽に照らされて、オレンジの瞳の女性が、古ぼけた背もたれに身をもたせかけて、ボォと一点を見つめている。
視線は向かいの壁で、柄の長い衣紋掛けに、青磁色の長衣が袖を広げて掛けられていた。
十二年前、袖を通される事のなかった、新郎の晴れ着……
***
――そのオレンジの瞳が、幸せしか湛えていなかった頃の、夏の宵・・
薔薇色の頬に息を弾ませて、十六歳の長娘ルウシェルは、修練所の寮への夜道を登る。
ソラが帰って来るのは今日だけだ。明日にはまた南の沿海州へ行ってしまう。
急いた気持ちで、ほとんど空き部屋の埃っぽい玄関を入り、目当ての部屋に向かう。
「良かった、まだ帰っていない」
カンテラを灯すと、部屋一杯の書物に圧倒される。
同室だったシドが去年所帯を持って出て行ってから、ソラの唯一の道楽の書物収集に拍車が掛かった。
紙を綴じた物の他にも、羊皮紙を巻いたのや、細竹を連ねた物、結び目を束ねた物、開くと勝手に喋り出す合わせ貝……あれも書物、これも書物、天井までぎっちりと、まるで書物の森。
夫婦(めおと)になったら住居はルウシェルの自宅へ移る事になっている。
大きな本棚を作って整理整頓して収めよう、と提案すると、『この配置で頭に入っていますし、入手してここに並べた思い出もございますので』と拒否られた。
あの頑固者。
結局、この部屋はそのまま借り続ける事になったのだが、自分の立ち入れない領域を大切にし過ぎるソラが、ルウシェルには少し不満だった。
溜め息ひとつ吐いて、壁の一ヶ所を開ける為、横積みの書物の順序を崩さぬように並行移動を始める。
「大体ソラばっかり忙し過ぎだ」
西風は確かにちっぽけな部族だ。
他部族との擦り合わせを怠るとアッと言う間に崖っぷちに持って行かれる、ってのがソラの口癖。
しかし来月には婚礼の儀式だというのに、直前まで出張詰めなんて。こんな事で新婚気分を味わえる隙間などあるのだろうか。
『私が長を引き継いだ暁には、外交を組織化して人数を増やしてやる』と言うと、
『ヒトとヒトとの付き合いは形骸化出来る物ではないのです』と突っぱねられた。
だから頑固にも程があるだろっ。
ルウシェルはもう一度溜め息吐いて、持って来た風呂敷包みを解いて、柄の長い衣紋掛けを引っ張り出した。
「ルウシェル様……ルウシェル」
戸口に久し振りの声がして、旅装の男性が突っ立っている。
婚礼を来月に控えて、ようやっと『様』が抜けるようになった、青銀の髪のソラ。
「女性が殿方の部屋に立ち入る時間ではありませんよ」
通常運行の頑固者。
だけれど、口の端が緩むのを隠せていない。
今まで帰って独りだった部屋に暖かい光が灯り、家族が待っている……
(素直に現せないだけなんだ、嬉しい癖に)
それに気付いて愛しいと思ってしまうと、頑固も不満もどうでもよくなってしまうルウシェルだった。
「うん、ごめん。おかえりなさい、ソラ」
「あ、ああ、ただいま……」
「明日早くには発ってしまうでしょ。どうしても見て貰いたい物があって」
ルウが視線で示す先、書物を退けた壁に、袖を広げた青磁色の長衣が掛けられていた。
白絹の刺繍の縁取りが、カンテラの灯りを映してオレンジに揺れる。
ソラはポカンと口を開けて、刺してはほどいた跡のある刺繍を見つめた。
「えっと、冬の市でさ、この布を見付けて、ソラの髪と同じ色だなあって眺めていたら、エノシラが、新郎の晴れ着を縫ってあげたら? って」
「・・・・」
「わ、私はガラじゃないって言ったんだけれど、エノシラが、一生に一度の機会だからって強引に。教えて貰ったんだけど……その……」
「・・・・」
「あんまりマジマジ見ないで! あちこちヘボいのは分かってるんだから!」
「・・・・」
ソラは、口を開けたまま、機械人形のような動きでルウシェルに向き直った。
そうして手を伸ばし、針傷だらけの両手を強く握って引き寄せた。
「……ソラ?」
――タガが外れる切っ掛けなんてヒトそれぞれなんだろうけれど、ソラのそれは、かなり分かりにくくて、唐突だった。
ルウシェルはやっと教えて貰えた。
触れただけでヒトの心を視てしまう体質のソラが、ずっと側に居たいヒトと肌を重ねる事…… それはとても勇気の要る事だったんだ。
――怖かった、貴女の全てを知る事が
夕べ初めて弱さを曝(さら)けて白状してくれたヒトを、朝陽の射す書物の部屋の窓から見送った。
ルウシェルの大好きな青銀の髪は、一度振り向いて大きく手を振ってから、坂の下へ消えた。
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