夏紫・Ⅷ
文字数 2,247文字
「~~~~!」
リリは俯(うつむ)いて拳を握りしめている。
まだ納得していない様子だ。
「ああ、結界が切れるね、もう帰った方がいい」
男性は、闇の空を見回した。白い霧がゆっくりと湧き出している。
レンとカノンが何と声を掛けようかと逡巡している隙に、リリはガバリとリューズの懐に飛び込んだ。
「あああたしのせいなのっ」
ビイドロみたいな瞳で見上げられ、流石に戸惑うリューズ。
「あたしが迂闊なせいで、ルウシェルの大切な・・大切なこの子の額をこんなにしてしまって、ああ、どんな罰でも受けるから、あたしの事嫌いになってもいいから、この傷だけは、とにかく何でもどうでも、この傷だけは、お願い、お願いします、お願い・・」
少年二人は唾を呑みこんだ。
こんな支離滅裂な、プライドもへったくれもないリリ、見たことがない。
「リリ、僕、もういいから」
と言うカノンの声をかき消して、娘は眼光を湛えて更に叫んだ。
「初めて会った時、ひと目で分かった。ルウシェルがどれだけこの子に支えられて生きて来たのか。こんなにソラにそっくりで、髪の生え際までそっくりで。ねえお願い、この子を元のソラそっくりな額に戻して、ルウの元に帰してあげて!」
誰に何が必要なのかを、本人よりも深く解してしまうのが、リリって娘(こ)だ。
カノンは目を見開いたまま黙った。
しがみ付かれたリューズも、さっきまでの厳しい表情が失せて迷いが露わになっている。
信念は揺るがない。だが脳裏に、ルウシェルの寄る辺ない顔を過らせてしまう。
「……カッコいいよ」
ボソッとした声が空気を割った。
それまで黙って一歩下がっていたレンが、カノンの横までやって来て、額を覗き込んでいる。
「『砂漠の灰色狐』みたいだね!」
砂漠の灰色狐とは、西風の伝説に出てくる英雄だ。
まあ、どこの土地でも『額に向こう傷のあるヒーロー』のお伽噺は、ありがちだ。
「そお?」
カノンが努めて明るく返事をした。
それから、口をパクパクさせるリリの手を取ってギュッと握り、反対の手でレンの右手を握った。
「あの、教えて下さい」
少年の問い掛けに、リューズも気を取り直したように彼を見下ろした。
「蒼の長さまが決めたって事は、何か意味があるんですよね。どんな意味なんでしょうか」
青銀の髪を肩からすべらせて男性は、屈んで少年と目線を合わせた。
「身体は人生の節々に様々な痕を刻みます。その者にとって何の意味も持たない傷ならば、あの方は治癒して下さったでしょう」
カノンはハッとして、男性の萎えた脚に視線をやった。
「すぐに答えが出るものではありません。あの方々の教えはいつもそうだ。それを知って行く過程も、とても大切なのだと…… 僕はそう思います」
そう、ナーガ様が、この子やルウシェルを大切にしていない訳がないのだ。言葉を刻みながらリューズは、自分の胸にも言い聞かせていた。
「はい。……ありがとうございます」
少年が例のよく通る声で返事をし、リューズは更に表情を震わせた。
彼はスッと立ち上がり、子供達に背を向けて、錫杖を鳴らして帰りの方向を探る作業を始めた。
「ねえ、ここ、何処なんですか? カノンの術で飛んじまったって事だけど。海霧(かいむ)なの? めっちゃ遠くない?」
知り足りないレンが、今更ながらの疑問をぶつけた。
「ああ、ここは結界の中だから…… 距離の概念を無視して飛び込む事は有るかもしれないけれど、狙ってやる物ではないですね」
リューズは背を向けたまま、杖に集中しながらも丁寧に答えてくれる。
「あの蛇は?」
「あれは邪の魔性。退治しようと結界を作って閉じ込めた所で、君達がとぐろのド真ん中に現れた。肝が冷えました。本当に二度とやらないで下さい」
レンが唾を呑み込む横で、カノンも神妙に頷いた。
「魔性退治って、普段からやってんですか?」
「いや、最近になってから…… モエギ様が亡くなられた後、たまに砂漠の上空の風が流しきれていない時があって」
カノンはまたハッとした。
清浄な風を流して邪を追い払うのは、自分の母、西風の長ルウシェルの役割だ。
記憶が曖昧で至らなかった彼女を、引退した祖母のモエギが、田舎家から密かに補助してくれていたんだ。そして今はこのヒトが……
「まぁ、たまにです、滅多にありません。西風の長殿も、今では立派に独りで勤めあげておられますので。ああ――・・」
リューズは慌てて言葉を濁し、それからリリを振り向いた。
「ナーガ様には言わないで下さい。あの方いまだに、ルウ……西風の長殿を子供扱いで甘やかされるので」
「そう、そうね、確かにその通りだわ。砂漠には貴方や他の頼もしい仲間がちゃんと居て、ルウを支えてくれているもの。余計な心配だったわね」
半泣きだったリリが、自分にも言い聞かせるように声を張った。
「リューズさん」
初めて名を呼ばれて男性はビクンと揺れ、自分をじっと見上げる少年の、燃えるようなオレンジの瞳を見た。
「今日だけで沢山の事を知る事が出来ました。貴方の事も少しだけ。こうして知って行く過程も、傷痕を残した『意味』なんですよね」
男性は引き締めた口の両端が震えるのを隠しきれなくなって、後ろを向いた。
錫杖がリンと鳴って方向を探り当て、石を握ったカノンを真ん中に、子供達はそちらに立って各々の別れの言葉を口にする。
青銀の妖精は黙って、でも闇に溶ける直前まで、じっと子供達を見守っていた。
気が付くと三人は、夏の虫の声がチキチキ響くハイマツの丘に立っていた。
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