ホライズン・Ⅳ
文字数 2,293文字
旧棟の戸締まりをして二人で外へ出ると、薄暮(はくぼ)の坂を登って来る者がいた。
「こんばんは、ルウシェル殿。やあ、カノン」
筋骨逞しいこのヒトは、修練所の教官スオウだ。
「こんばんは、スオウ殿。この春から主任教官になられたそうで、おめでとうございます」
ルウはスラリと挨拶をした。
ソラが介在しない人物や出来事に関しては、何の支障もないのだ。
スオウはにっこりと礼を言い、カノンの方を向いた。
「ちょっと手伝いが要るんだ、頼めるかな」
「はい……」
「ルウシェル殿、カノンを少々お借りしても宜しいか?」
「先にシドさんちへ行っていてよ。すぐに行くから」
「ああ、分かった」
ルウは、薄暮の坂道を、しっかりとした足取りで下って行った。
彼女が見えなくなってから、スオウは抱えていた書束の中から数枚を引っ張り出した。
「長殿が計画する来期の物品分配の予定表。これで提出すれば、元老院は文句の付けようもないと思う」
「ありがとうございます」
「また元老院から書式を無視したようなややこしい書類が回って来たら、言いなさい。何も言わせない出来にきっちり仕上げてあげるから」
「はい」
このスオウ、元老院のトップ、大僧正の孫である。
老人達が不備だらけで謎解きのような書類を押し付けて来ても、元老院内部の原本を見放題の彼がサックリ完璧に仕上げてくれる。
「心配しなくてもいいよ。長殿をサポートするのは、私達、モエギ殿のお陰できちんとした教育を受けられた世代の役割だ」
「スオウせんせ、あの……」
少年はおずおず切り出した。
「この間、シドさんとエノシラさんが話していたのを陰で聞いてしまって。こういう仕事をこっそり手伝う為に、所長に就任する話を蹴って、主任で済ませたって」
「ああ、それは……」
「何の為に? って思っちゃうんです。もういっそ、スオウせんせが長でいいじゃないですか」
スオウは苦笑して、少年の肩に手を置いた。
「長というのは、そういう物ではない。仕事ができるとか、そういうのとは違うんだ」
「風を流す力?」
「それもあるが、それだけじゃない」
西風の長が朝夕、砂漠の地に清浄な風を流すのは、太古からの生業だ。
溜まった澱を流し、悪い気を追いやると言われるが、宗教的意味合いが強いとカノンは思っている。
「分かんない。僕から見れば、ルウシェル以外の誰が長になってもいいと思う」
スオウは痛ましい顔で少年を見た。
記憶の飛んでしまった母が、周囲に同情されながら長でいる状態が、いたたまれないのだろう。
「カノン、もし私が長になれと言われても、辞退するよ、なれるとは思わない」
「そうなの? 大変だから?」
「いや、長という物は、なる物じゃない。育つ物なんだ」
「そだつ?」
「ルウシェル殿は、里を背負う運命に生まれ、逃げずに立ち向かい、立派に長に育った。その長殿が足踏みをしているのなら、里の者が支えるのは当たり前なんだ。長は里を背負って、私達は長を支えて、皆でこの地を末永く継承して行く。そういう物なのだよ」
イマイチ納得していないという顔の少年に、スオウは、少し早過ぎたかな、と反省した。
「そうそう、この間話した、この旧棟の事だけれど」
「あっ、はいっ」
「やはり老朽化で、梁の劣化が危険だと判断された。これ以上引き伸ばすと解体その物が危なくなってしまうし、夏までに取り壊す事に決まった」
「………」
「すまないな、こればかりはどうしようもない」
「……はい」
「本などを運ぶ時は言ってくれ、手伝うよ」
親身に言ってくれるスオウにお辞儀をして、カノンはすっかり暗くなった坂を駆け下りた。
――みんな優しい だけれど、本当に欲しいモノは、誰もくれない・・
シドの家で食事の後、一緒に片付けを手伝うレンが外へ水汲みに行った隙に、カノンはそっとエノシラに相談した。
「前に、診療所の他に療養施設が欲しいって言っていたでしょう。あの旧棟を使いたいって言ったら、反対はされないと思うんだけれど」
「ああ……でもね、カノン」
三つ編みの女性は心痛そうに言った。
「梁に亀裂が入って修理のしようがないって聞いたわ。それに、いい機会かもしれない」
「いい機会?」
「あの部屋にルウが閉じ籠(こも)るの、良い事だとは思っていなかった。ルウにも貴方にも、まだずっと未来があるもの」
「…………」
「荷物を運ぶ時は言ってね、手伝うわ」
「……ありがとうございます」
レンが水桶を持って戻って来たので、その話は終わった。
居間ではルウシェルとシドが茶を飲み、子供達が歓声を上げながら土産の菓子を広げている。
土産は勿論カノンの分もあり、少年は礼を言って受け取った。
砂漠地方とはいえ、初春の夜は冷え込む。
母子並んで歩く帰りの夜道、ルウシェルは立ち止まって、頭から被った駱駝のケープを広げた。
「お入り」
素直にケープにくるまれて歩く子供に、ルウはポツリと呟いた。
「お前も苦手なんだろ。ああいうダンラン」
「……うん」
レンもファーも大好きだ。
だけれど家族とセットになると、途端に遠い存在になる。
カノンはルウの匂いのする毛皮に鼻を埋めた。
狭い空間でお互いの温もりが結び付いて、この世に二人きりしかいない気分になる。
「何で私は、お前のお父さんを思い出せないんだろうな」
「…………」
このヒトは、いつもいつも夢の世界にいる訳じゃあない。
覚醒しては、抜け落ちた記憶に飢渇して苦しむ事を繰り返している。
常に側で生活するカノンだけが知っていた。
「思い出せないお父さんなんて知らなくていいよ。僕、ルウシェルだけいてくれれば、それでいいから」
「お前は優しい……優しい、いい子だ……」
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