天人唐草・Ⅰ
文字数 2,683文字
夕暮れの修練所前広場。
蹴り玉を追い掛けていた子供達も散り、ゴールポストの丸太がポツンとオレンジに照らされている。
建物の入り口が開いて、最後の生徒が吐き出される所だ。
「じゃあ、カノン。よく考えておきなさい」
「はい、サォせんせ」
「私は素晴らしい話だと思うよ。でも、まぁ、そうだね、君が決める事だ」
「はい……」
教官せんせは、青銀の髪の少年の顔色の悪さを見て取って、余計な言葉は止めた。
カノンはペコリとお辞儀して、足取り重く土手を登った。
秋の気配が近付いてから、日に日に日没が早くなる。
「なぁに、その眉間の縦線は? まるでこの世の悩みを全て抱え込んでいるみたい」
いつものようにカノンの心情をズバズバ暴きながら、紫の前髪が現れた。
「や、やぁ、リリ、今日は早かったんだね」
「まあね、あたしに掛かったら崩れた岩の撤去なんか、チョイチョイのチョイよ」
「チョイチョイのドカアン?」
「チョイよ。何であたしがナンでもカンでも吹っ飛ばすと思ってんのよ?」
「何となく」
「バァカ」
二人、歩きながら笑った。笑い声に紛れ込ませて、リリはサクッと言った。
「父さまからの話、行った?」
カノンの笑顔が消えて、また額に縦線が入った。
「うん、放課後、校長室に呼ばれた」
「そう、で?」
リリはカノンの縦線に気付かない素振りで、わざと強い口調で聞いた。
「で? って?」
「本格的に父さまに付いて勉強しないか、って言われたんでしょ。そんな話、執務室の見習いの子が振られたら、躍り上がって喜ぶわよ」
カノンは、覗き込んで来る紫の瞳から目をそらして、口の中でごにょごにょ呟く。
「うん、だけど……いきなり言われたって。修練所に通えなくなるって事だし」
「呑気な一学童でいたいって? ここに居る間は、西風の長息子である責任を忘れて、ただの子供でいたいって? あんた、何の為に留学して来たの?」
「リリ!」
オレンジの瞳を光らせてカノンは顔後ずさった。
「僕の心を読むの、止めて! 僕、そんな風になりたくないから……」
はっと止まった。
リリの表情が、今まで見た事のない凍り付き方をしたからだ。
呼び止める暇もなく、リリは獅子頭をひるがえして駆け去ってしまった。
『大っ嫌い!』も『うるさーい!』もなかった。
追い掛けたい足が前に出ない。
追い付いてどんな言い訳をするっていうんだ。
『あの紫の長娘は、ヒトの心を勝手に見透かす。怖い、気持ち悪い』
そんな噂は、こそこそ悪意を伴って、カノンの耳にも入っていた。
「よっ!」
いきなり背後から肩を叩く者。
頭に粉をかぶって真っ白なレンと、ユゥジーン。
「何やってんの? 遅いから迎えに来ちゃった」
いつの間にか、夕陽のオレンジが消えて、夜闇が忍び寄っていた。
「ユゥジーンに聞いたよ。長殿直々に弟子入りのお誘いだって? 凄いじゃん、さすがカノン。今晩はご馳走だぞ。母さん直伝のチャパティ、期待しろよ」
「レン……」
消え入りそうな声のカノンに、二人は首を傾げた。
「何だよ、まさか蒼の長殿の指導が怖いとか、尻込みしているんじゃないだろうな」
「レン、ちょっとお待ち」
ユゥジーンがカノンの肩に手を置いた。
「執務室の他の者に遠慮しているのかい? 皆分かってくれているから大丈夫だよ。才能ある者が力を伸ばす事は、行く行くは自分の助けにもなるんだから」
「違うの、リリを傷付けてしまったんだ」
カノンが顔を上げた。
「凄く酷い事を言っちゃった。僕、長殿に指導して貰う価値なんてないよ……」
うわっ、今日は一段と沼底だな、と、レンはユゥジーンと顔を見合わせた。
***
盃みたいな上弦の月が、遠くの山陵に顔を覗かせている。
紫の前髪の娘は、放牧地の柵に腰掛けて、片膝を胸に抱え込んでいた。
「ちぃーす!」
振り向くと、赤いバンダナ。
「でっかいカマキリの卵が柵にくっ付いてると思ったら、リリだった」
「な、何よ! その目玉にはフンコロガシでも詰まってんの?」
リリは柵から足を下ろして、慌てて鼻の下を拭った。
「ふふふん」
レンはお構いなしにスタスタとリリの真ん前に来て、両手を突き出した。
「な、何よ?」
「西風の子供はさ、こうやって、掌(てのひら)から心を通わせるんだ。知ってた?」
「知っているわよ。昔、ルウが教えてくれたわ」
リリは突き出されたままの手を凝視しながら答えた。
「じゃあ、握ってくれる?」
「なんでよっ」
「いいじゃん、僕、知られて困る事なんかないし。リリもそうでしょ?」
「当ったり前でしょ!」
勢いで娘は、飴色の手を握った。
しんとする。心が流れ込んでくるなんて現象は起こらない。
「あは、やっぱダメか。これって難しいんだって。お互いが合意して呼吸を合わせないと、一方的には出来ない。出来たとしたら、西風でもやっぱり怖い事なんだ」
「………」
「カノンを許してやってくれない? あいつ、ただの怖がりなんだ。リリを好きなのは分かっているだろ」
「………」
「落ち込んじゃってさ。リリを傷付けたから、長殿に教えて貰う資格なんか無いって」
「バッカじゃないのっっ!」
リリが手を繋いだまま叫んだので、レンは感電したみたいに飛び上がった。
痺れる手を振りながら茫然とするレンから、リリは後ろ手を組んで二、三歩離れた。
「ねぇ、最後までちゃんと聞いてくれるんなら話すけれど、聞く?」
後ろ姿の小さい肩はキュッと上がって緊張している。
「うん、教えて」
リリは肩に力を入れたまま話し始めた。
「正直、『心が読める』ってどういう事なのか、あたしには分かんないのよ」
「?」
「ヒトといると、話さなくても、そのヒトが嬉しいのか悲しいのか、怒っているのか笑っているのか、分かるでしょ?」
「うん、まぁ、それ位なら」
「何で分かるの?」
「えっと、姿勢とか、表情とか、あと、何となくの空気かな?」
「そうよ、あたしもおーんなじ」
リリは後ろ手を組んだまま、クルリと振り向いた。
「そのヒトの姿を見ると、そういう風に伝わって来るの。そのヒトが悩んだり喜んだりしている理由が。あたしにしたら、何で皆には分かんないのかが、不思議」
「………」
「ただ、話していて興奮すると、そのヒトがもう喋ったのか、伝わって来ただけなのか、ごっちゃになって、トラブったりする」
「そっか」
「そこん所は反省しなきゃって思う」
リリは話し終えた感じで肩を下ろした。
レンは進み出て、今一度リリの両手を掴んだ。
「じゃさ、お返し。今度は集中してやるよ。僕が今どんな事を考えているか、見せてやる」
「んん?」
リリは、少年の茶色の瞳を見つめてから、姿勢を正して手を握り直した。
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