夏蕾・Ⅴ
文字数 2,037文字
―― どしゃっ!
大人の背丈ほどの高さを落ちて、カノンはしたたかに背中を打った。
しかしその痛さも霞(かす)む別の痛みが、心臓をワシ掴みにしている。
物音に気付いた建物の中から誰かが出て来る。
カノンは跳ね起きて、執務室に背を向けて力一杯駆け出した。
レンの自分を呼ぶ声がする。でも足は止まらない。
どんな言い訳も聞きたくなかった。蒼の里の中心の執務室で、自分の揺るぎなき誇りである祖母が、あんな言われ方をされた事実は変わらない。
住居区を一気に抜けて、里の奥の放牧地まで走って、やっと立ち止まった。
土手の側に小さな厩舎がある。
修練所の授業用の、主無しの馬達が繋がれている。
早朝でまだ人気のない馬房へそっと足を踏み入れた。
と、同時に後ろから、赤いバンダナが走り込んで来て肩に腕を回した。
「ふぃ~、やっと追い付いた!」
「レン……」
「やっぱりカノン、本気出したら速いなあ。蹴り玉やればいいのに」
「……」
「執務室から出て来た奴にアッカンベして来てやった。あんな連中にカノンの夢の話をしたって、まともに取り合ってくれるもんか。西風を馬鹿にしやがって」
話しながら、レンはカノンに背を向けて、一番大きな馬を引き出して来た。
「カノン、頭絡頼む。僕、鞍やるから」
「レン」
「行くぞ、ユゥジーンのトコ。カノンもそのつもりだったんだろ?」
「僕一人で行こうと」
「僕だって行くよ!」
「夢で見ただけなんだよ。それで馬泥棒をするんだ、レン」
「だって、そんなのよりユゥジーンが大事だよ。ユゥジーンを助けて、西風の妖精の能力を知らしめて見返してやるんだ」
「そんな、知らしめる程の確信なんか無い、僕がただ行きたいだけなんだ。レンを巻き込む訳には……」
「僕は信じてる!」
レンは馬装を終えて、とっとと前に跨った。
「行くぞ、早く乗れ」
渋々乗ったカノンを後ろに、レンは軽く馬銜を掛け、大きな草の馬を上手に御して上昇した。初めて乗る馬なのに全然危なげない。
彼はどんな馬に乗ってもそうなのだ。
ヒトだけでなく馬の心も真っ直ぐに掴むレン。そんなレンこそ西風の誇りだとカノンは思った。
「棘の森って南西だったよな。カノン、ナビして」
「うん」
里の外へ出るのは初めてだけれど、地形図は、図書室の虫のカノンの頭にしっかり入っている。
初めて飛ぶ土地で、二人は方向を違(たが)わぬように前しか見ていなかったので、後方の雲の中から、蒼の里へ垂直に降りる馬影に気付かなかった。
「ねえカノン、さっきの」
「んん?」
「モエギ様とナーガ長が昔付き合ってたみたいな話。ホントかなあ?」
「レン!!」
カノンは後ろからレンの腕を掴んだ。
「お祖母様は、ついこの間、亡くなった所なんだ!」
「あ、ああ、実現してたら凄かったなって思っただけだよ。ごめん、悪かった」
レンは罰悪そうに黙った。
気まずくなって、カノンは後悔した。ここまでしてくれるレンに八つ当たりしてどうするんだ。噂なんていつも話半分なのに。こんなだから僕は、レンみたいに皆に愛されないんだ。
「ううん、ごめん、レン」
謝りかけた所で、後方に気配を感じた。振り向くと、空の一点から騎馬が迫って来る。
「追っ手だ!」
予測はしていた事だ。レンは心得たとばかりに高度を下げた。
高空では飛行術に長けている蒼の妖精に敵(かな)いっこない。眼下は切り立った谷と森林。
「カノン、しっかり掴まってろよ!」
「うん!」
レンは谷の張り出した岩をくぐり、上空からの死角へ入り込んだ。
後方の騎馬も高度を下げて追跡して来る。
「よ――しよし、こっちへ来い」
相手が十分に降下して来た所で、そっと岩の反対に回り、逆死角から森の方へ飛び込んだ。
「これで、巻けるだろ」
潜んだ木陰で外を見やるレンを、カノンは感嘆の目で見つめる。
ホント、レンの飛行術は凄い。僕が大人だったら、躊躇なく草の馬の免許皆伝をあげるのに。
ホケッとそんな事を考えていて、不意に後ろから肩を捕まれた。
「ひぇっ?」
「なかなかだったな。俺じゃなかったら上手く巻けていただろうけれど」
気配もなくそこにいたのは、二人に見慣れたコバルトブルーの青年だった。
「ユ、ユゥジーン?」
髪の毛一本間違(まご)う事なき正真正銘のユゥジーンは、腕組みして鼻から大きく息を吐いた。
「まぁったく!」
「えっ、何で?」
「何ではこっちが聞きたいよ。君ららしくないぞ」
あまりの予想外に止まってしまっている二人を、ユゥジーンは眉間にシワを入れて睨んだ。
徹夜で疲れて帰って来た所に余分な用事が待ってりゃ、そりゃそうだ。
「ホルズさんにだいたい聞いた。気持ちは分かるけれど、君達だけで西風に向かうなんて、無茶苦茶だぞ」
「ううん、僕達……」
言い掛けるカノンを遮って、レンが叫んだ。
「僕達の気持ちなんか分かるもんか! 西風の者の気持ちは、西風の者にしか分かんないよ!」
一瞬ひるんだユゥジーンに気付かれないよう、レンはカノンの手首を強く握った。夢の話はするなって合図だ。
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