夏蕾・Ⅳ

文字数 2,068文字

 

 白い靄(もや)が視界を覆っている。手足の自由が効かない。
 粘り気のある液体の中に潜っているみたいだ。

(……夢?)

 カノンは何となく自覚しながら、身体を動かそうと努力した。
 しかし、ただの夢とは違う違和感が、靄の向こうから迫って来た。

(!?)

 水に落とした墨のようなドロドロが、生き物の如くこちらへ伸びて来る。
 カノンの本能がそれを怖がった。
 あれに触れちゃ駄目だ。
 しかし身体が言うことをきかない。

(助けて! レン、リリ!)

 叫びたいのに声も出ない。
 禍々しい黒はもう目の前。
(やだぁ――――!)
 ドロドロはカノンの周囲を通り抜けた。
(??)

 振り向くと、十歩向こうにコバルトブルーの髪が見えた。
(ユゥジーン?)
 黒い墨の標的は彼だったのだ。

 ドロドロは一ヶ所に集合し、獣の前肢の形となった。
 鋭い爪が四本指を広げてユゥジーンに襲い掛かる。

 ユゥジーンは目の前の驚異が見えていない。
 まったく無抵抗なまま、ナイフのような爪に身体を貫かれた。
 突然の衝撃に顔が歪む。
 口が開いて血泡と共に何か叫ぶが、音の無い空間でその悲鳴は聞こえない。

(ユゥジーン! ユゥジーン!)

 必死で手を伸ばす。
 しかし青年を捕えた爪はそのまま遠去かり、水底に沈むように小さくなって行った。

(助けて! ユゥジーンを助けて!)

 カノンは渾身の力で、眠っている自分の身体を覚醒させようとした。


 ――キンキンキンキン!!

 甲高い金属音が意識を身体に引っ張り戻した。
 目を開く、飛び起きる。
 隣のベッドでレンが耳を押さえてキョロキョロしている。

 リリは? 既に上衣を羽織って出口に向かっている。
「起こしちゃった? ごめん、あたし行くから」

「双子石だろ、今の音。西風で何かあったのか!?」

 双子石は、ナーガ長が西風のエノシラに持たせている緊急連絡用の石だ。
 片方を叩くと、遠く離れた片方にも共鳴する。

「そうよ、だから行くの。そんなに心配しなくてもいいのよ、石を叩く余裕があるんだから。あんた達は大人しく待っていなさい」
 急いて御簾を開けると、外は夜明け前の薄暮だ。

「リリ! ユゥジーンが!」
 カノンの言葉にリリは止まって振り向いた。
「ユゥジーンに何かあった!」
「ええっ、ホントか?」

 リリは冷静に、首から下げた山吹色の小袋を手にとって、チラと見てから聞いた。
「何でそう言うの?」
「夢で……」

「あたしが今急いでいるのは分かるわよね!」
「でも、あの夢は……」

 カノンの言葉を置き去りにして、リリは外へ駆け出して行った。

 後に茫然とした二人が残される。
「に、西風で何があったんだろ? でも、リリの言う通り、石を叩く余裕があるんだから、大丈夫だよな…… な、カノン」
 レンが自分に言い聞かせるように呟く。

「……」
「カノン!」
「あ、うん……」
「何だよ、自分の夢の方が気になるのか?」
「だって、あんなの普通じゃない。ユゥジーンが、ユゥジーンに何かあったんだよ、絶対!」
 カノンの真剣な表情に、レンは怒っていた肩を降ろした。
「どんな……夢だったの?」

 一通りの話を聞いて、真面目な顔になったレンが聞いた。
「そういう夢よく見るの? 夢が現実だった事って、今までにあった?」
「ううん、初めて。でも分かるんだ、ただの夢じゃない!」

 カノンの胸の中には、ユゥジーンの絶望の表情が楔みたいに食い込んでいる。
 そして黒い爪の恐怖が、まだ背中に鳥肌を立てていた。


 里の玄関の馬繋ぎ場から、紫の光が垂直に飛び立つのが見えた。ほぼ同時に執務室から鷹が矢のように発ち、少し遅れてナーガ長の大きな馬も、高空気流に向けて上昇して行った。

「ナーガ長も西風へ行ってくれるんだ。心強いじゃないか。ね、大丈夫だよ、カノン」
「うん、そうだよね……」

 夜明け前の薄明かりの中、レンとカノンは執務室へ向かって歩いていた。
 カノンの夢の話を、執務室の誰か大人に言っておいた方がいいと思ったのだ。

 二人は坂を登って、高台にある建物に到着した。
 ここへ来るのは留学の挨拶に来た時以来だ。偉いヒト達が忙(せわ)しなく出入りしていて、近寄り難く思っていた。

 窓の側まで来た所で、中からの声が聞こえた。
「ナーガ長殿まで行かれる必要があったのか?」
 年寄りっぽいひしゃげた声だ。
 二人は足を止めた。

「発祥を同じとする友好部族とはいえ、西風は遠い。高空気流を使っても、行って帰って一日がかり。鷹も飛ばしたし、差し当たってはリリ一人で充分だったのではないか?」
 別の年寄りの声。
「その間、こちらの草原で何か起こったら、どうなさるおつもりじゃ。だいたい長殿は、西風贔屓が過ぎる」

 レンとカノンは口を結んで顔を見合わせた。

「儂ら古老は常日頃、執務室に口出しせぬよう留意しておる。しかし今日は言わせて貰う。こと西風の事となると、長殿は無理を押し通して、自ら出張って行こうとなさる。幾ら亡きモエギの君に長殿が、昔、懸想(けそう)しておられたとはいえ……」

 カノンはそこまでしか聞いていなかった。
 後退りして、段差の縁で足を踏み外して落っこちたのだ。



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登場人物紹介

カノン:♂ 西風の妖精

西風の長ルウシェルの息子。今年十一歳。

記憶が曖昧な母と暮らす、イヤでもしっかりせねばならない子。

レン:♂ 西風の妖精

シドとエノシラさんちの長男。

カノンとは同い年で親友。健全な両親に健全に育てられた陽キャ。

ルウシェル:♀ 西風の妖精

当代の西風の長。カノンの母親。

カノン出産の時よりランダムに記憶が飛び始める。

シドさん一家

シド:♂ 西風の妖精、外交官、ソラ(カノンの父)の親友  

エノシラ:♀ 蒼の妖精、助産師、医療師、ルウシェルの親友

子供たち レン:♂ ファー:♀ ミィ:♀  カノンと仲良し

モエギ:♀ 西風の妖精

カノンの祖母、ルウシェルの母。

病気がちで、長を娘に譲った後は田舎で隠遁している。

今回はモブの人々

フウヤ ♂ 三峰の民、旅の彫刻家。ルウシェルやシドと昔馴染み。

カーリ ♀ 砂の民、砂の民の総領の養女で、モエギの義妹。

アデル ♂ 砂の民、モエギとハトゥンの子供。ルウシェルの歳の離れた弟。

リリ:♀ 蒼の妖精

蒼の長ナーガ・ラクシャの娘。

成長の仕方がゆっくりで、幼く見えるがレンやカノンより年上。

ユゥジーン:♂ 蒼の妖精

執務室のエースだが、好んでリリの世話係をやっている。

叩き上げの苦労人なので、子供達には甘そうで甘くない。

リューズ:♂ 海霧の民

アイシャの夫。巫女を支える神職。

アイシャ:♀ 海霧の民

リューズの妻。予言者、巫女。

ナーガ・ラクシャ:♂ 蒼の妖精

当代の蒼の長。リリの父親。

近年で最も能力的に信頼されている長。

ホルズ:♂ 蒼の妖精

長の執務室の統括者。

若者の扱いが上手な、ゆるふわ中間管理職。

ノスリ:♂ 蒼の妖精

ホルズの父。ナーガの前の蒼の長。

血統外の繋ぎ長だったが、人望厚く、いまだ頼られる事が多い。


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