ホライズン・Ⅵ
文字数 2,099文字
朝の冷気に身震いして、カノンは目を覚ました。
西風の中心の宿屋跡。
ルウシェルとカノンのちょっと広すぎる住居だ。
上衣を羽織って厨房へ向かう。窓の外には白い朝霧。
カノンはその日が何の日か忘れていた。だってその日を楽しみにした事なんてなかったから。
厨房にはルウシェルが立っていた。
長の仕事の朝の風を速やかに流して、帰って来た所みたいだ。
「おはよう」
今日は僕は居る日かな?
「おはよう、カノン」
彼女の手には二人分の食器があった。よかった、居る日だ。
しかしカノンが修練所へ行く用意をして居間に入ると、ルウは食卓の支度途中で止まっていた。
「えぇと……」
「貴女はルウシェル!」
「ああ、私は、ルウシェル……」
「僕は誰?」
「…………」
カノンは一限目の授業を諦めた。
放って置いたらこのヒトは、スプーンを並べかけたまま午前中一杯止まっているからだ。
「はいスプーン、はいパン、はいスープ。無理に思い出そうと気張らなくていいから、今は食べる事に専念して」
「どうもご親切に……」
「どういたしまして!」
思い出せなくて塞ぎ込んでいる位なら、しっかり食べて活動した方が建設的だ。
窓を開いて空気を入れ換え、軽く掃除をして事務仕事。カノンの中でルーチンが完成している。
スプーンをくわえたルウが、フッと立って窓辺に歩いた。
「呼んでいるな……」
「えっ、何が、誰が?」
温めたミルクをカップに注ぎ分けながら、カノンが忙しげに聞いた。
「里の外だな、行こう」
「ちょっ、まっ……」
ミルクを置き去りに、外へ飛び出すルウシェルを、カノンも慌てて追い掛けた。
朝靄の砂丘。
馬に乗って結界を越えると、ルウの言ったとおり笛の音が流れ、風紋の海の中に二人の人影が立っていた。
白い青年と飴色の女性。
「フウヤ! カーリ!」
カノンは馬を飛び降りて駆け寄った。
母の古い友人のこの二人は、記憶の中であまりソラと絡まないので、彼女を混乱させないのだ。
それに様々な土地の土産話を持って来てくれる旅の彫刻家フウヤを、カノンは大好きだった。
フウヤは吹いていた木の笛から口を離して、二人を見て、ににっと笑った。
「僕は他所の者だから、里に入るのにルウの許可を得ようと思って、ね」
「それは丁寧にありがとう。歓迎するよ、我が家へ来てくれるのだろう?」
「ありがと。でもその前に、ここまで出向いて貰ったのにはもう一つ理由がある」
フウヤがカーリに目配せし、今一度笛を構えた。
――ヒュウルルル
こんな小さな笛から、どうして? と驚く程に、深い音が響く。
カーリが上衣を脱ぎ捨て、離陸する大鷲のように跳んだ。
「わあ!」
巷で評判の舞姫の舞踏。
修道院で習った奉納舞いだと言うが、彼女のそれは他の巫女とは別物なのだ。
美しいメロディの笛に、滑らかに手足をしならせる砂漠の舞姫。カノンは頬を紅潮させて夢中で見入った。
「この曲? 知ってる……」
ルウの記憶の引き出しがスッと開いた。
そうだ、昔、風紋の砂漠で出逢った蒼の妖精の女の子……リリ。彼女が『砂漠の星空の詩』に付けてくれた曲じゃないか。
唇が自然に開き、暗記していた歌詞を唄い出す。
カノンは初めて母の歌を聞いた。普段ボウッとしているルウシェルとは思えない、明朗な唄声。
カーリが、砂の上とは思えない高いグランジュテをピタリと決め、夢の世界から戻ったカノンは弾かれたように拍手をした。
「凄い凄い、カーリもフウヤも凄いや!」
「ルウシェルの歌声も良かった。いつもより乗って踊れた」
ルウは鼻の頭を赤らめた。
「唄うのなんてどれだけ振りだ。フウヤの笛がいいから、つい乗せられてしまった」
「それはそう。この笛はルウの声に合わせて作った」
フウヤが笛を手の中でクルンと回して見せた。
「昨日モエギさんに協力して貰ったんだ。ルウと声質が似ているから」
「へぇ」
と感心するカノンに、フウヤは笛の紐をそのまま彼の首に掛けた。
「はい、誕生日プレゼント」
「!!?」
カノンは、自分の誕生日を楽しみにした事がない。
だってその日を境に母親がおかしくなったのだ。
昔はシドやエノシラが何かしらしてくれようとしたが、ルウシェルを刺激してしまうので、触れるのを止めるようになっていた。
「良かったな、カノン。ありがとう、フウヤ」
ルウに先に言われて、カノンは複雑な気持ちのまま礼を言って笛を受け取った。
「ルウシェル、わらわは喉が乾いた」
「ああ、カーリも舞いをありがとう。我が家で何か馳走する」
「レモネードはあるか?」
「あったかな?」
女性二人が先に乗馬して出発する後ろ、わざと遅れて、フウヤはカノンの横へ寄った。
「今の曲を吹けば、ルウの中に、唄いたくなるような明るい気持ちが湧いて来る」
「フウヤ?」
「そしてカーリの舞いを思い出し、君の生まれた日をちゃんと思い出してくれる」
「!!・・フウヤ!」
カノンは思い出した。
前にフウヤに聞いた事があるのだ。彼もまた母親に忘れられた子供だという事を。
ずっと前、何かの折りに話してくれたんだった。
「誕生日おめでとう、カノン。頑張って練習しろよ」
「うん、うん! ありがとう、ありがとう、フウヤ」
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