夏紫・Ⅱ
文字数 2,009文字
「う・・」
傷口を見たおウネ婆さんの呻きを聞いて、カノンは(やっぱり……)と、心で呟いた。
「う、うむ、熱も引いたし、もう膿む心配もなかろう。毎日の清潔を怠るでないぞ」
「はい、ありがとうございます。じゃ、包帯はもういいんですか?」
「い、いや、今日の所は巻いておこう」
――額に爪が食い込んだ時の感触から、覚悟はしていた……
診療所を出ると、もう夕暮れだった。
しかしカノンの足は、帰宅とは別方向へ向かう。
「どっちへ行くのよ」
振り向くと、いつもの感じで腕組みをした紫の前髪。
「や、やあ、リリ」
「怪我人がウロウロと道草食ってんじゃないわよ」
「…………」
「何よ?」
「今日診療所へ寄る日だって知っていて、迎えに来てくれたの?」
「なに自惚れてんのよ。ついでよ、こっちに用事があったの!」
「ふうん、そうなんだ」
カノンは逆らわず、並んで歩いた。
ぼさぼさの紫の前髪は彼より拳ふたつ低いけれど、彼女の方が年上だ(幾つ上かは知らない)。
「で、どうだったの?」
「うん、もう通院しなくてもいいって」
「そ、良かったわね」
返事をしない少年を、リリは見上げた。
夕闇で表情が見えないけれど、多分『良かった』って顔はしていない。
「どこへ行くつもりだったのよ」
「うん、ハウス。散髪して貰おうかなって。上級生の女の子に髪を切るのが上手な子がいるんだ」
「…………」
「ほ、ほら、イメージチェンジ? レンみたく前髪おろして遊ばせて、てっぺん立てて、イマドキ風にしようかなって。えっと、その、そしたらレンみたいにモテるかな――っとか」
リリが立ち止まったので、カノンも止まった。
「それならあたしが切ってあげる」
「えっ?」
「櫛なら持っているわ。それと小刀。はい座って座って」
少年は勢いで路傍の柵に座らされた。娘は愛用らしい胡桃の櫛で、髪をガシガシ梳き始める。
「え、いや、待って」
「あたしのセンスを見くびるんじゃないわよ。そうね、あんたの髪だとレンの真似は無理ね、コシがないったら。いっそスキンモヒカンとかどう? インパクトあるわよぉ」
「待って待って待って――!」
本当に髪の根元に刃を当てられて、カノンは慌てて逃げ出した。
リリは追い掛けはせず、肩を降ろして小刀を鞘にしまう。
「そんなに目立つの? 額の傷痕」
数歩向こうでカノンも止まって、ゆっくり振り向いた。
「うん、まあ」
「……」
「あの腹の据わったおウネお婆さんが凄い顔をするんだもん。スキンモヒカンなんかよりインパクトあるよ、きっと」
「見せてご覧なさい」
カノンは戻って来て柵に腰掛け、包帯を解いた。
「・・!」
そこそこ度胸のある筈のリリが、眉間に縦線を入れて黙ってしまう。
子供らしくつるんと綺麗だった額が、そこだけ無機質な粘土みたいに抉られた、無残な痕……
「凄いでしょ」
珍しくリリより先にカノンが言葉を発した。
「見たの?」
「うん、明るい昼間に水鏡で」
「…………」
「これでも長殿が何度も術を施してくれたんだよ。だから回復は早かった。でもこの傷痕は消せないって言われた」
「…………」
「えーとだから、前髪切って隠すようにしようかなと」
やにわにリリが顔を上げた。
「切るのはダメよ! あんた術者になるんだから、切っちゃダメっ」
「え、えっと、僕、術者になんて別に……」
「なりなさいよ!」
「なんでだよ、急にっ?」
「とにかく切っちゃダメなんだってばっ」
リリのイライラした表情が爆発した。
「このあたしが気に入ってんのっ! 根元が深い青で表面が薄氷みたいなグラデーション。そんな髪色の子そうそういないわ。あんたは自分で分かっちゃいないだろうけれど、そのへんの女の子なんかにさわらせたら、きゃあきゃあ面白がって、台無しにされるに決まってる。だからぜったいにダメ!」
「えっ、えーと?」
いっぺんに沢山捲し立てられて、カノンは混乱した。でもその沢山の中の切れ切れの言葉を繋ぎ合わせて、彼の聡明な頭脳が一つの結論を導き出す。
「あー、リリ、要するに、自分の気に入りの髪を他所の女の子がいじるのが嫌って訳?」
「バッカじゃないの? 何よ、その自惚れ!?」
「バカって何だよ。そもそも僕の事に、何でリリがいちいち口出しするのさ」
「あ、あたしは、その傷の責任が、あたしにあるからで」
そこまで喋って、娘は口ごもった。
その隙間にまろび出た、カノンの罪のないひとこと。
「リリに責任なんてないよ。僕、何とも思っていないし」
「あ? 何それ?」
家に帰ってレンに指摘されるまで、カノンは、小さな胡桃の櫛が頭の旋毛(つむじ)に刺さったままなのに気付かなかった。
「ああ、リリの櫛」
「一緒だったの?」
食卓に器を並べていたレンは、首を伸ばして外を見た。
「うぅん、途中まで一緒だったんだけれど、帰っちゃった」
カノンはあやふやに言いながら、食卓に付いた。
『うるさーい! あんたなんか大っ嫌い!』
って、いきなり理不尽に怒鳴られた事は、黙っていた。
(ログインが必要です)