ホライズン・ⅩⅠ
文字数 2,053文字
「あちゃあ」
湖に行った二人が帰らないので様子を見に来たユゥジーンは、湖畔に流木が三本立てられているのを見て、額に手を当てた。
三角垂に立てられた枝のてっぺんが、紫のスカーフでまとめられている。
「どしたの? 二人、どこ?」
レンが後ろから覗き込んだ。
「リリの奴、無理矢理着いて来たと思ったら」
「??」
「ああ、これは俺らの間の『先に行くから』ってサインなんだけれど……
アイツね、リリ、とにかく勘がいい。そして割と当たる。憎たらしい程に」
ユゥジーンがスカーフを広げて振ると、例のこまっしゃくれた声が響いた。
『あたし、やっぱりカノンに必要だったみたい。二人でちょっと用事を済ませに行くから、ユゥジーンはレンを連れて先に里へ行っていて。分かっていると思うけれど、手出し無用よ!』
「まったく……」
「追い掛ける?」
「いや、手出し無用って言ってるからな。破ったらおっかない」
「へぇ? あんなチビ助の言いなりになるの?」
「いやいや、レン。リリは成長するのがのんびりなだけで、ああ見えても君よりずっと年上なんだぞ。歴(れっき)とした執務室のメンバーだし」
「ふぇえ?」
「まあ、君みたいな子供相手に本気で言い合いをするあたりは、まだまだ子供なんだけれどね」
湖畔でユゥジーンが溜め息を吐いている頃、竜胆(りんどう)色のリリの馬は、既に沿海州の鯨岩の街の灯を眼下に見ていた。
「ヒャッホゥ!」
高空気流から飛び出して、そのまま星の空を落っこちるみたいに垂直降下した馬は、海岸の重い砂を舞い上げて着地する。
「着いたわよ。どう、初めての高空飛行は。……あれれ?」
後ろの少年は腕を硬直させて、リリにしがみ着いたまま気絶していた。
「おーい、カノン! カノン! はあ、軟弱ね」
屋根だけの漁師小屋に少年を引きずり運んで、リリは小さく息を吐く。
この少年から聞いたのは、『ソラによく似たヒトがいるから確かめたい』、とだけだ。
絶対にそれだけじゃないのは、彼の思いつめた青白い額から感じ取れる。
「ルウシェル……」
風紋の砂丘で会った、燃えるようなオレンジの瞳の友達。
父様は多くを語らないけれど、遠く離れる彼女の光がとても弱くなっているのは、感じていた。
「あたし、あんたの役に立てるかな? あんたの大切なこの子の額の陰を消してあげられるかな?」
***
三日月湖の森から鯨岩の海岸まで、遥か高空を横切る紫の光に、地上で二人だけ、気付いた者がいた。
砂の民の集落の片隅の民家で、窓を開けて空を眺める女性に、ロウソクを持った娘が近付く。
「モエギ、冷えるから閉めよう」
「いや、大丈夫だ、カーリ」
「風邪をひくぞ」
「うん、しかし……」
「どうかしたのか?」
「風が乱れている。大きく荒れる前兆だ」
「嵐が来るのか?」
「そうだな。良き嵐なのか、悪しき嵐なのか」
「良き嵐ってのもあるのか?」
「嵐は時として、あらゆる澱(おり)を洗い流してくれる」
「それが良き嵐?」
「嵐が去った後、立っていられればな」
――そしてもう一人。
鯨岩の海岸より何里か北方。
海霧の溜まった山あいに、張り付くような村がポツリとあった。
切り立った山はそのまま崖となって海に落ち込み、背後の険しい谷は苔と瀑布に覆われる。海路も陸路も絶たれた、俗世から隔離した小さな村。
吹き寄せられた小石のような家々の、中央にやや大き目の家屋。その前庭に佇む人影。
色の薄い灰色の瞳が、雲の隙間から南の浜に降った紫の光を、じっと睨み付けている。
「凶星だわ。嫌な風が流れて来る」
低い声で呟くその者の腰まで覆う髪も睫毛も、海霧のように淡い白灰色だった。
瞳も、唇も、額飾りまで、殆ど色のないモノトーンの女性。
「アイシャ?」
自宅から呼ぶ声がする。
鯨油のカンテラが黄紅色に灯り、寒々とした風景の中、そこだけ暖かな色が付いている。
「どうしたの、眠れないの? 凶事を予知しちゃった?」
「いいえ、風も霧もいつも通り。何も心配する事はないわ」
女性は霧に湿ったケープを被り直して、戸口へ戻った。
カンテラに淡い逆光の男性が、優しげに迎え入れる。
「そう? でも、この間から落ち着かなくない? 僕が迷子を送って外のヒトに会った日から。やっぱり勝手をしたので怒ってる?」
「いいえ、怒ってなんかいない。でももう、私の居ない所で外の世界と関わらないで」
「分かったよ、ごめん。迷子の子供が可愛らしくてつい。怒らないで、アイシャ、美人が台無し」
「バカ」
アイシャと呼ばれた女性は、不安な顔を拭って笑顔を作った。
「本当に怒ってなんかいない。ただ心配なの。外の世界は本当に良くないのよ、リューズ」
「うん、分かったよ、君を哀しませたくない」
リューズと呼ばれた男性は、青銀の長い髪を肩から滑らせながら、親し気に女性に寄り添った。
「ね、リューズ、あのお話の続きをして頂戴。そうしたらきっと安心して眠れるわ」
「『へっぽこ勇者の物語』かい? ホント、あれが好きだねぇ」
「ええ、子供の頃からずうっと好きだわ。何回聞いても、ちっとも飽きない」
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