ホライズン・ⅩⅤ
文字数 2,539文字
「あれれ?」
子供達と村へ戻る林の道で、男性は立ち止まった。
霧に埋もれた道の先に、さっきの紫の前髪の女の子が、馬と一緒に仁王立ちしているのだ。
「ご機嫌宜しゅう。えっと、リューズさん?」
「ああ、さっきはどうも。何かご用かい、お嬢ちゃん」
「ええ、実は教えて欲しい事があって」
「何だい? 僕に分かる事?」
リリは懐から、ささくれた古い書物を取り出した。
「これの続きを教えて欲しいの」
「??」
「『へっぽこ勇者の物語』。連れの持ち物なの。昨日彼に教えて貰ったんだけれど、中途で途切れているらしいのよ、これ」
「………」
「へっぽこ勇者が博打で無一文になって、恋人に指輪をあげる為にドラゴン退治を請け負うでしょ? その先が気になって気になってしようがないの。教えて下さらない?」
「へっぽこ勇者はちゃんと生きて戻ったよ!」
父親の代わりにタゥトが大きな声で答えた。
「恋人は、勇者の婚礼の衣装を縫って待っていたんだ。僕も好きなお話だよ!」
嬉しそうなタゥトと裏腹に、リューズは表情が止まっていた。
「その書物、見せてくれる?」
「どうぞ」
リリが差し出す書物を、リューズはパラパラとめくった。
「『へっぽこ勇者の物語』…… 確かに僕が創作した物だけれど、こんなの書いた覚えがない」
姉弟も、両側から書物を覗き込んだ。
「父様の話を聞いた通いの商人さんが、面白いと思って書き留めたのではない? ほら、この間何日か泊まって行った金物修理のオジさんとか」
「そうかもしれないわね」
リリは深くは追求しないで、さっさと書物をしまった。
「凄いや! 父様のお話が、外の世界の子供にも読まれているの?」
「そうね。続きが聞けてよかったわ。ハッピーエンドでホッとした。ああ、あたしは村へ入れなかったのよね。じゃあこれで」
霧の中に村の入り口らしき門柱が見え、古めかしい装束の村人が数人、余所者の女の子と馬を不安そうに見つめている。
「お前達、先に戻っていなさい」
リューズは緊張した声で言った。
***
ドウドウと水の落ちる滝上の平岩で対峙する、強(こわ)ばった表情のアイシャと、オレンジの瞳を見開いたカノン。
自分の何気ない言葉がこの女性を激しく動揺させたのを、少年は見逃さなかった。
『寂しい事も全て忘れさせる術』…… カノンは背筋がザワザワと泡立った。
「貴方は……ヒトの記憶を操る術が、使えたりするの?」
「無理だな。そんな便利な術があったら、ヒトは苦しまなくて済む」
女性は色のない唇でスウッと言った。
カノンは再び背筋に冷たい物が流れた。
彼女と向かい合っている自分の真後ろは、轟音と白煙を上げる崖っぷちなのだ。
「リューズは……リューズっていうのは……」
「リューズは、私の、唯一無二の、大切な者だ」
アイシャは胸の底から沸き上がるような声で言った。
「巫女を守護する神官の家系の長子。小さい時から共に育った。勇気に溢れ、あらゆる術に長け、太陽のように皆を照らし安心をもたらしてくれる、掛け替えのない、私の伴侶」
アイシャは段々に少年に迫った。
カノンは動けない。一歩後ろは奈落なんだから。
「戦が起こり、襲撃を受けた時も、先頭に立ち剣を振るった。一族が多くの大切な者を失って、山岳に住み処を移して長い刻(とき)哀しみに暮れていた間も、私は彼の帰りを待っていた」
「……」
「そしてリューズは戻ったのだ。滝壺の淵に流れ着いて。私にはすぐ分かった。時間が経って色々忘れていたが、幼い頃の事を話すと、すぐに思い出してくれた。そうして村に歓びが戻り、停まっていた刻も動き出したのだ」
もうカノンには何が何だか考える事も出来なかった。
だって興奮した女性がすぐ目の前に迫っていて、今にも自分をトンと突きそうなのだ。
「だが、リューズは、私を忘れていた間、間違いを犯した。ある日、彼の全身の血が何処かへ曳かれるのを感じた。遠くで、彼の血を受けた者がこの世に産み落とされたのだ」
「!!」
「だから、だから、私は念じた。二度と再びリューズを奪われぬよう…… その者が捜しに来ぬよう…… 忘れてしまえ! 忘れてしまえ! 忘れてしまえ! と!!」
「あ・・あ・あ・あ・・!」
カノンが叫んで、目の前の手に掴み掛かろうとした。
アイシャは咄嗟にそれを払い除ける。
――!!!!
少年は空中に手を泳がせて、次の瞬間崖下に消えた。
***
「ヒトの記憶なんて、そうそう操作出来るモノじゃない」
リリは、若紫の後ろにリューズを乗せながら言った。
「父さまだって、ちょっと忘れさせたり、思い出させたりする程度。しかも必要に迫られた時だけよ」
「……」
「でも時として、『強い想い』は、身の丈を超えた力をもたらす」
「僕が戻って来た時……」
フワリと浮上する馬に、リューズは大して抵抗を感じずに、話し続けた。
「村中皆が大喜びした。哀しみで停まっていた刻(とき)が動き出したと。皆、明日へ進まない無機な毎日を送っていた。新しい命は生まれず、子供達も成長出来なかったと。シアなんか、ずうっと幼児のままだったらしい」
「シア?」
「僕が行方知れずになる前に、アイシャとの間に生まれた子供。さっきの赤いリボンの。本当ならタゥトとはもっと年が離れた筈だったと」
「そう……」
「村の皆は事ある毎に、僕の昔話を語ってくれた。それに、アイシャ……」
リューズは幼いリリに何と言っていいものかと、ちょっと躊躇(ためら)ってから、続けた。
「アイシャと……『肌を触れさせる』と、二人で過ごした記憶が鮮明に浮かぶんだ。いつしかそれが、アイシャの記憶なのか僕の記憶なのか、混濁していた」
「……」
全てが分かった。
リリは若紫の手綱をしごいた。
あのアイシャという女性は、自分でも意識せずに、ヒトの記憶に干渉する。
夕べ、ただならぬ者の怨嗟を感じたから、カノンにはわざと嫌われておいた。
カノンが少しでもリリを慕う素振りを見せたなら、アイシャは立ち去るリリを放って置いてくれなかったろう。
喧嘩して見せて彼女の油断を誘ったから、こうしてリューズに近付く事も出来たのだ。
「でも、しくじったわ! 何て深い、執念!」
リリは、さっきからビンビン感じているアイシャの殺気で、鳥肌を立てている。
「カノン・・!!」
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