夏紫・Ⅶ
文字数 2,542文字
――リィン
闇を突き抜ける清亮(せいりょう)たる鈴音。
リリは、自分と蛇との間に見えない膜が張った気がした。
――リン、リン
更に鈴の音が響いて、頭上の蛇が段々に、気もそぞろに頭をもたげ始めた。
リリに向いていた殺意は薄れ、フィと後ろを向いて闇の深い方へと動き出す。
――ズッ・・ズズ・・
周囲に巻いていたとぐろも解けて、最後の尻尾が遠ざかる。
「リリ!」
「うへぇ、怖かった」
少年二人が泳ぐように戻って来た。
「何をしたの? あの鈴の音、何?」
「いいえ、あたしは……」
次の瞬間、蛇の去った方向からキンと鋭い音。
同時に眩い光が伸びて、視界を真っ白にする。
暗闇に慣れていた三人は目を覆った。
一拍置いて、ぶわっと風圧。
地面のない空間で、三人は平衡を失い、クルクル回りながら必死に態勢を保った
「何なんだよ、もう! カノン、使ったのは『持ち主の居場所を捜す術』だったんだろ?」
「うん、でも、手応えを感じた瞬間ガクンと足元の地面が消えちゃって。ごめん、きっと何かしくじったんだ」
「ううん、カノン、あんた凄いわ……」
呟(つぶや)くリリの見ている方向を、少年二人も慌てて振り返った。
空中に浮かんだ巨大な蛇が、光の粉を撒き散らしながら分解して消滅して行く。
その真下に、薄青のヒト型がボォッと光っている。
ヘビがすっかり消えきると、そのヒト型が、肩を不自然に揺らしながら、ゆっくりとこちらに歩き出した。カノンと同じ、青銀の長い髪。
本当に凄い…… リリは息を呑み込んだ。
カノンの術は『探す』のを通り越して、目的のヒト・・『継承者』の所まで、自分達を飛ばしてしまったのだ。
当のカノンは、歩いて来たヒトが誰だか分かった瞬間、苦虫を噛み潰した顔になっている。
「カノンか? 僕の結界に入り込むなんて、誰かと思ったら」
暗闇によく透る風みたいな声。
手にした錫杖を杖がわりにぎこちなく歩いて来た男性は、少年を見てやはり複雑な表情をした。
「リューズさん、海霧(かいむ)の村の……」
リリが呆然と言った。
「はい、お久し振りです。蒼の長の姫君」
「なになになに? どういう事!?」
パニックを起こすレン、口を結んで眉を寄せるカノン。
「んじゃ、リューズさんが、その石のヒトの『継承者』だった訳?」
リリに説明を受けて、レンは目を回しながらも納得した。
隣のカノンは憮然としている。既にこのヒトには確執も何も無いのだけれど、だからって今自分が書物の中に追っている『ソラ』にはなり得ない。出来ればもうあまり会いたくなかった。
そんなカノンの手から翡翠石を取って、リリはリューズの手に乗せた。
石がほんの僅かに瞬く。
「ああ、カワセミ殿の石板だ…… 懐かしいな」
彼は石を両手に包んで、染み入るように目を閉じた。
「僕を継承者と思ってくれていたのか……そうか……そうか」
閉じた睫毛がビクンと揺れて、涙がスッと流れる。
「そんな、泣く程、思い出のお師匠さんなの?」
レンが素直に口に出した。
「いや、これは通信用の石板の、おそらく砕けた中心部分。『手紙の欠片』が残っているんだ。最後の、離別の手紙……」
「ええ、そう」
リリが受けた。
「だから、このヒトが蒼の一族とお別れしたと分かったの。それでね」
さっきから何気に離れて行くカノンの両肩をガッと掴んで、リリはリューズの前に押し出した。
「リリ!?」
「いいから、じっとして!」
抵抗気味の少年に有無を言わせず、額の包帯をスルスルと解く。
「これ、この傷痕! これ、消して頂戴!」
一瞬意味が分からず、カノンはポカンと口を開けた。
リューズは無惨に抉れた痕を見せられて、目を見開いて表情を強張らせる。
「消せるでしょう? その石の魔法力の強さで分かったもの。このくらいの傷痕なら綺麗に出来るヒトだって。じじさまだってあたしの擦りむいたの、いつもあっと言う間に治してくれたもの」
リリは何だか慌てている。
色々あり過ぎて思考の追い付いていなかったレンが、やっと一つの事に思い至って、頓狂な声を上げた。
「ちょっと待て! リリが盗みをやってまでやりたかった事って、カノンの傷痕を治す事だけ!?」
ボケッとしていたカノンも、そこで気付いて更に唖然となっている。
「だけって何よ、だけって! 凄く凄く大切な事よ!」
「ええ、だってオンナじゃあるまいし、向かい傷の一つや二つ……」
「リリ、僕は気にしていないし……」
「黙りなさいっ」
紫の前髪が逆立った。
「あんたの身体はあんた一人の物じゃないのっ! ルウシェルが、死んでしまいたい程に辛い時に心を奮い立たせてこの世に送り出してくれたその身体、粗末に傷なんか付けて、許される訳ないでしょ! あんたが許したって、このあたしが許さないのよっ!」
男の子二人はタジタジとなってしまった。
その理屈は分からないでもないが……
リューズは、捲し立てる女の子に返事はせずに、ただ黙って傷痕に指を触れる。
触られた所がチリチリするのは痛いからなのか魔力のせいか、カノンは緊張し過ぎて分からなかった。
「ナーガ様は、何と仰っているのですか?」
指を傷痕に当てたまま、リューズが唐突に聞いた。
「長殿は、この傷痕は消せないって仰いました」
カノンが先に答えてしまい、リリは、(あっ)という顔をした。
居ずまいを正して、青銀の男性はリリに向き直る。
「ナーガ様が消せないと仰るのなら、それが結論です。僕に手出しする事は出来ません。蒼の長の決め事は絶対です」
「で、でも、石の持ち主・・師匠のカワセミさんは里とお別れしたヒトだし、リューズさんは海霧の者で、蒼の一族とは無関係でしょう!?」
リリの言葉に少年達は、彼女が誰にも言わずに、里の外に術者を探していた理由を、やっと理解した。
「無関係という事はありません。僕は里を出奔した大長様にも教えを受けた事があります。里から外れたとはいえ、この世の摂理から外れてはいらっしゃいませんでした。蒼の長の言霊は、一部族の範疇を越えた、この世の摂理です。僕はその教えを継承させて頂いています。お役に立てず申し訳ありません」
カノンは、目の前の男性を見上げた。
西風の里人の思い出話にも、歴史書の中にも居なかった、自分の知らないソラ。
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