秘密、守れるよな?
文字数 1,942文字
10
初めて会ったマリンは写真で見るよりも愛嬌のある顔をしていた。青い右目は神秘的だけど、この犬の価値はそんなものではないように思う。
マリンは、自分の首が切り落とされるかもしれなかったなんて、夢にも思っていないだろう。僕たちを先導して歩き、時々振り返る。犬は口を開いていると笑っているように見えて、こちらの頬も緩んでしまう。
「この犬、呑気なもんだな」
森巣が口元を歪めながら、リードを持つ手を振っている。人格者で、みんなの人気者の森巣はいなくなっていた。
「平、歩けるか?」
「僕は歩けてるか? まだ、少しふらふらするよ」
頭を軽く振る。が、余計具合が悪くなり、吐き気を覚えた。
「でも森巣、本当にいいのか? 柳井を倒したって言えば、ヒーローになれるぞ」
「騒ぎになると面倒だし、別にいいだろ。それに、自己顕示欲が身を滅ぼすっていうのは、柳井でわかっただろ? 瀬川には、知り合いの業者が犬を見つけてくれたとでも言おう。今日のことは誰にも言うなよ」
柳井を椅子に縛り上げてから、固定電話で百十番に電話をかけ、そのまま僕たちは家を後にした。僕もなんとなく、秘密にしておいた方が正義の味方のようで気分が良い。
どっと疲れてはいるが、自分の価値を確認できたような達成感を覚えていた。今までの自分を洗い流してくれるような、心地良い夜風が吹いている。
「あと、俺のこともだ」
「……森巣、君って二重人格ってわけじゃないよね?」
「んなわけないだろ。学校では愛想ふりまいてるんだけだ」
「だよね。でも、僕が言っても、信じてもらえないと思うよ」
「そりゃそうだな」
森巣が白い歯を覗かせる。不思議と、それが不愉快ではなかった。
「けど森巣があんなに強いとは思わなかった。僕がいなくても、なんとかなったんじゃないのか?」
「一人だと家探しする余裕がなかっただろうな。あと、関節技ってやつは知っているかどうかだ。別に強さじゃない」
マッチョな体型ではないが、それでも引き締まった身体をしているのだろう。脂肪が邪魔をすることのない、俊敏な動きをしていた。
「そう言えば、あのとき、何で驚いてたんだ? 柳井に僕が何か言ったか質問したとき」
森巣はあぁ、と声を漏らし、おかしそうに口元を歪めた。
「あれはお前に驚いてたんだよ。本当に柳井と対決するとは思わなかったからな」
「森巣が言ったんじゃないか」
「いいや、俺は提案をしただけだ。命令はしていない。決めたのは平、お前自身だ」
なんだか胸に響く言葉だった。僕が決めた、そうか僕が自分で決めたのか、と嬉しくなる。
「もし、平が対決していなかったら、柳井を懐柔して、機材とか薬をもらっていたかもな」
「冗談だよな?」
森巣はケラケラと「冗談だよ、冗談」と笑ったが、いまいち信用できない。
そうこうしている内に、マリンの歩くスピードが速くなった。知っている道だとわかったのだろう。もうすぐ家に着く! と喜び勇んでいるのがわかる。
瀬川の家の前に到着し、森巣がインターフォンを押した。電子音が鳴り、マイクを通して森巣が名乗る。僕はぼーっとそれを眺めていたら、ふとあることを思い出して、じわりと、手のひらに汗が滲んだ。
なぜ、懸賞金の値段は上乗せされたのだろうか。僕と別れてから、瀬川に何があったか、一つだけ僕は知っていた。森巣が再び瀬川に接触し、犬は奪われたわけではないと確認をとっている。
もしかして、森巣が釣り上げさせたのではないか?
だから、犬の回収にやって来たのではないか?
僕は、悪を恐れずに立ち向かう事ができるのは、それが正義だからだと思っていた。
だが、悪もまた、悪を恐れないのではないか?
玄関から瀬川が現れ、「マリン!」と叫び、嗚咽を漏らしながら犬を抱き上げた。犬も千切れんばかりに尻尾を振り回し、瀬川の顔をぺろぺろ舐めている。森巣は、彼らのことをさめた目つきで見ていた。森巣、お前はどっちなんだ? とじっと見据える。
不意に、森巣が振り返った。視線が交錯する。
「秘密、守れるよな?」
森巣が悪魔のような、スマートな微笑みを浮かべた。
唐突に、頭の中でメロディが生まれた。初めての経験だ。
不穏で、それでいて僕を惹きつける音楽が、流れ始めてしまった。
だけど僕に、それに立ち向かう覚悟はあるか?
第一話おわり
参考文献
『ココロピルブック 抗精神病薬・抗うつ薬・抗不安薬・睡眠薬・気分安定薬データベース』相田くひを 社会評論社
『睡眠薬 快適睡眠のための安全で効果的な飲み方』田中正敏 保健同人社
初めて会ったマリンは写真で見るよりも愛嬌のある顔をしていた。青い右目は神秘的だけど、この犬の価値はそんなものではないように思う。
マリンは、自分の首が切り落とされるかもしれなかったなんて、夢にも思っていないだろう。僕たちを先導して歩き、時々振り返る。犬は口を開いていると笑っているように見えて、こちらの頬も緩んでしまう。
「この犬、呑気なもんだな」
森巣が口元を歪めながら、リードを持つ手を振っている。人格者で、みんなの人気者の森巣はいなくなっていた。
「平、歩けるか?」
「僕は歩けてるか? まだ、少しふらふらするよ」
頭を軽く振る。が、余計具合が悪くなり、吐き気を覚えた。
「でも森巣、本当にいいのか? 柳井を倒したって言えば、ヒーローになれるぞ」
「騒ぎになると面倒だし、別にいいだろ。それに、自己顕示欲が身を滅ぼすっていうのは、柳井でわかっただろ? 瀬川には、知り合いの業者が犬を見つけてくれたとでも言おう。今日のことは誰にも言うなよ」
柳井を椅子に縛り上げてから、固定電話で百十番に電話をかけ、そのまま僕たちは家を後にした。僕もなんとなく、秘密にしておいた方が正義の味方のようで気分が良い。
どっと疲れてはいるが、自分の価値を確認できたような達成感を覚えていた。今までの自分を洗い流してくれるような、心地良い夜風が吹いている。
「あと、俺のこともだ」
「……森巣、君って二重人格ってわけじゃないよね?」
「んなわけないだろ。学校では愛想ふりまいてるんだけだ」
「だよね。でも、僕が言っても、信じてもらえないと思うよ」
「そりゃそうだな」
森巣が白い歯を覗かせる。不思議と、それが不愉快ではなかった。
「けど森巣があんなに強いとは思わなかった。僕がいなくても、なんとかなったんじゃないのか?」
「一人だと家探しする余裕がなかっただろうな。あと、関節技ってやつは知っているかどうかだ。別に強さじゃない」
マッチョな体型ではないが、それでも引き締まった身体をしているのだろう。脂肪が邪魔をすることのない、俊敏な動きをしていた。
「そう言えば、あのとき、何で驚いてたんだ? 柳井に僕が何か言ったか質問したとき」
森巣はあぁ、と声を漏らし、おかしそうに口元を歪めた。
「あれはお前に驚いてたんだよ。本当に柳井と対決するとは思わなかったからな」
「森巣が言ったんじゃないか」
「いいや、俺は提案をしただけだ。命令はしていない。決めたのは平、お前自身だ」
なんだか胸に響く言葉だった。僕が決めた、そうか僕が自分で決めたのか、と嬉しくなる。
「もし、平が対決していなかったら、柳井を懐柔して、機材とか薬をもらっていたかもな」
「冗談だよな?」
森巣はケラケラと「冗談だよ、冗談」と笑ったが、いまいち信用できない。
そうこうしている内に、マリンの歩くスピードが速くなった。知っている道だとわかったのだろう。もうすぐ家に着く! と喜び勇んでいるのがわかる。
瀬川の家の前に到着し、森巣がインターフォンを押した。電子音が鳴り、マイクを通して森巣が名乗る。僕はぼーっとそれを眺めていたら、ふとあることを思い出して、じわりと、手のひらに汗が滲んだ。
なぜ、懸賞金の値段は上乗せされたのだろうか。僕と別れてから、瀬川に何があったか、一つだけ僕は知っていた。森巣が再び瀬川に接触し、犬は奪われたわけではないと確認をとっている。
もしかして、森巣が釣り上げさせたのではないか?
だから、犬の回収にやって来たのではないか?
僕は、悪を恐れずに立ち向かう事ができるのは、それが正義だからだと思っていた。
だが、悪もまた、悪を恐れないのではないか?
玄関から瀬川が現れ、「マリン!」と叫び、嗚咽を漏らしながら犬を抱き上げた。犬も千切れんばかりに尻尾を振り回し、瀬川の顔をぺろぺろ舐めている。森巣は、彼らのことをさめた目つきで見ていた。森巣、お前はどっちなんだ? とじっと見据える。
不意に、森巣が振り返った。視線が交錯する。
「秘密、守れるよな?」
森巣が悪魔のような、スマートな微笑みを浮かべた。
唐突に、頭の中でメロディが生まれた。初めての経験だ。
不穏で、それでいて僕を惹きつける音楽が、流れ始めてしまった。
だけど僕に、それに立ち向かう覚悟はあるか?
第一話おわり
参考文献
『ココロピルブック 抗精神病薬・抗うつ薬・抗不安薬・睡眠薬・気分安定薬データベース』相田くひを 社会評論社
『睡眠薬 快適睡眠のための安全で効果的な飲み方』田中正敏 保健同人社