乙女のピンチには、颯爽と駆けつける
文字数 3,145文字
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滑川の方から竹宮祥子に接触していたようだし、竹宮祥子が滑川を脅して車の助手席に座らせたということはないだろう。ということは、滑川が運転を竹宮祥子に頼んだということになる。
「そういえば、こういうときって自動車保険は効くのかな?」
「飲酒運転でさえ、免責事由になって自動車保険の適応を受けられないんだから、脱法ハーブを吸った状態であれば、まず適応されないだろうな」
「そうなんだ」と会ったこともない竹宮詩織が不憫になる。母に裏切られ、母親が脱法ハーブを使用して事故を起こしたというレッテルを貼られ、コンビニエンスストアの損害賠償や、自動車の修理費など、竹宮家への負担が襲ってくるのだろう。
「竹宮詩織のためにできることって何かないかな?」
「それよりも、今はなんで竹宮祥子が運転をしていたのかを考えろ」
「まあ、そうだよね。なんでだろう。竹宮祥子が行き先を知ってるから、運転を変わったとか?」
「そんなに古い車種でもないから、カーナビがついていただろう。なかったとしても、今はスマートフォンをカーナビ代わりにできる」
「じゃあ、お酒を飲んじゃったから、運転を交代したんじゃないかな?」
これなら合理的に説明がつくのでは? と思ったが、兄貴はしばし思案するような間を置いて首を横に振った。「だったら、いつ滑川は酒を飲んだんだ?」
「いつって、車で」
「滑川の車なんだから、出発前ってことはないだろ。数年前に自分から逃げた女を車に乗せて、自分は酒を飲むからお前が運転をしろ、となるか?」
「滑川はアル中で、相手に任せられるなら自分は飲んでたいと思ったのかもよ?」
「ブローカーが、アル中なわけがないだろ。リスクを知りながら、脱法ハーブを供給する狡猾な奴だぞ?」
「前言撤回。そんなやつ、周りから信用されないだろうね」
「自分が運転をするからあなたはお酒を飲んでいて、と竹宮祥子が勧めない限り、ないだろうな。それでも、自分の高級車を他人に運転させるとは思えない」
竹宮祥子と滑川は寄りを戻そうとしていた、なんてことは考えにくい。滑川が更生しているならまだしも、DV夫から脱法ハーブのブローカーになるなんて、誰が想像できただろうか。いや、それとも、と疑惑が思い浮かぶ。
「自分が吸っている脱法ハーブを滑川が作っていると知って、寄りを戻そうと思ったのかな? 竹宮詩織の幼馴染は、竹宮祥子はしっかり者だと言っていたけど、母親だって子供に平気で嘘をつくだろ? 脱法ハーブのジャンキーだったのかも!」
兄貴はおれの言葉を受けると、たしなめるような口調で「爽太」とおれの名前を呼んだ。
「それは考えにくいだろ」
「でも、兄貴もさっき、竹宮祥子と滑川が店で再会したのかもって言ってたじゃないか」
「あれは、幼馴染からの話を聞く前のことだ。タバコも吸わないシングルマザーが、麻薬と肩を並べている脱法ハーブに手を出すと思うか? 思い込みで考えを曇らせるなよ。推測の域を出ないものは保留だ」
その通りだ。一度冷静になろう、と自分の頬を両手で挟み、軽く叩く。
滑川が怪我をしてしまい、運転を代ってくれと頼んだとしたらどうだろうか。車の中で怪我をすることはないだろうから、車に乗る前に怪我をしたはずだ。
いや、運転を交代してもらうような怪我をしていたなら、そもそも車に乗ってくるわけがない。見栄っ張りだから、やせ我慢をして高級車で迎えに来たかった、なんて理由でもないだろう。
「考えに煮詰まって、こういうときにどうするか、教えてやろうか?」
「何かテクニックがあるの?」
「散歩だ」
ジーンズを履き、適当なTシャツを一枚着て、兄貴と家を出た。隣を歩く高校の夏服を着た兄貴は、おれを置いてこのままどこへでも行けそうな感じがする。
「相変わらず、一人だと家からは出ないのか?」
「引きこもりだからね」
「胸を張るなよ」
「乙女のピンチには、颯爽と駆けつけるつもりなんだけどねぇ。なかなか機会がない」
「部屋にいたら、そんなのわからないだろ。久々に出た家の外はどうだ?」
「クソあっつい」
「俺もそれ以外の感想はないな」
部屋の中はエアコンで常に二十度前後に調整されているけど、一歩外に出ればぎらぎらした太陽の熱にやられてしまう。今日も最高気温は三十七度になると予報で言っていたから、いやになる。やかましく鳴くセミたちは、暑くないのだろうか。
マンションが並ぶ住宅地を抜け、どこへ向かうかつもりかは知らないけど、しばらく黙ってついて歩いた。周りに景色がいい場所もないし、おれたちはこの辺りで育ったわけではないから、思い出の場所もない。暑くて、おれは何も思い浮かばないけど、兄貴は何か考えているのだろうか? と視線を向ける。
目が合った兄貴が、「こう暑いとなにも思い浮かばないな」と言い出した。
「言い出しっぺがなに言ってるんだよ」
口を尖らせながらも、おれは無理して引き返そうとはしない。兄貴と歩くのも悪くないな、と思っているからというのもあるけど、それだけではない。兄貴が家に来て、散歩に行くのは義務だと思っていた。
「真紀恵母さんから言われたんだろ? たまには外に連れ出してくれって」
「それもある。そっちの家はどうだ?」
「こっちの家の唯一の非の打ち所は、おれだね」
「そんなことは知ってる。家族との会話もあまりない、と不安がっていたぞ」
「同じ家で暮らしているけど、他人だからね。裏で何を考えてるか、わかったもんじゃない」
兄貴が、じっとおれのことを見てくる。何かを見透かすようなこの目に、俺は弱い。わかってるよ、と手を振る。
「みんな、嫌になるくらい優しくていい人たちだよ。おれが引きこもりのクズでも、ご飯も用意してくれるし、洗濯も掃除もしてくれる。学校行かないことに小言も言わない。それに、変な薬をもられることもない」
兄貴はここで、ジョークを聞いたみたいに笑った。正解のリアクションだ。ここで、改めて心配されたいわけじゃない。
「だけど、完全に信じるなんておれには無理だ」
「代理ミュンヒハウゼン症候群だったよな」
首肯する。
それがおれの実母の病名だった。
病弱な息子を甲斐甲斐しく看病する母親として、周りの人に見てもらいたい。がんばってるねと賛美されたい。そんな願望のために、おれは薬をもられ、何度か死にかけたらしい。子どもの頃のことであるし、おれは騙されていたという記憶はない。
児童相談所の人や警察が動き、おれは保護され、児童養護施設に移った。今の芹沢家の里子になるまで、おれは三年間施設で暮らした。兄貴と出会ったのも、そこでだった。
兄貴は本当の兄ではない。施設にいるやつが全員家族だ、なんて思っていないが、兄貴は、苦しいときに俺を助けてくれた。彼は、友達でも先輩でもない。これを家族と呼ぶのだろうと感じた。誕生日が早いから自分が兄貴だ、と良 は言ったが、おれもそう思っている。
昔のことを思い出していたら、足が止まった。代理ミュンヒハウゼン症候群、という言葉に足が絡み取られるようだった。
「もしかして、竹宮祥子も脱法ハーブだって知らされずに、滑川に吸わされたんじゃない?」
先を歩く兄貴が立ち止まり、振り返る。ああ、と納得するような声を漏らした。が、すぐに厳しい表情に戻る。
「だが、なんのためにそんなことをさせたんだ?」
「兄貴、考えに煮詰まったこういうときにどうするか、教えてあげようか?」
なんだ? と視線を向けてきた兄貴に答える。
「腹ごしらえだよ」
滑川の方から竹宮祥子に接触していたようだし、竹宮祥子が滑川を脅して車の助手席に座らせたということはないだろう。ということは、滑川が運転を竹宮祥子に頼んだということになる。
「そういえば、こういうときって自動車保険は効くのかな?」
「飲酒運転でさえ、免責事由になって自動車保険の適応を受けられないんだから、脱法ハーブを吸った状態であれば、まず適応されないだろうな」
「そうなんだ」と会ったこともない竹宮詩織が不憫になる。母に裏切られ、母親が脱法ハーブを使用して事故を起こしたというレッテルを貼られ、コンビニエンスストアの損害賠償や、自動車の修理費など、竹宮家への負担が襲ってくるのだろう。
「竹宮詩織のためにできることって何かないかな?」
「それよりも、今はなんで竹宮祥子が運転をしていたのかを考えろ」
「まあ、そうだよね。なんでだろう。竹宮祥子が行き先を知ってるから、運転を変わったとか?」
「そんなに古い車種でもないから、カーナビがついていただろう。なかったとしても、今はスマートフォンをカーナビ代わりにできる」
「じゃあ、お酒を飲んじゃったから、運転を交代したんじゃないかな?」
これなら合理的に説明がつくのでは? と思ったが、兄貴はしばし思案するような間を置いて首を横に振った。「だったら、いつ滑川は酒を飲んだんだ?」
「いつって、車で」
「滑川の車なんだから、出発前ってことはないだろ。数年前に自分から逃げた女を車に乗せて、自分は酒を飲むからお前が運転をしろ、となるか?」
「滑川はアル中で、相手に任せられるなら自分は飲んでたいと思ったのかもよ?」
「ブローカーが、アル中なわけがないだろ。リスクを知りながら、脱法ハーブを供給する狡猾な奴だぞ?」
「前言撤回。そんなやつ、周りから信用されないだろうね」
「自分が運転をするからあなたはお酒を飲んでいて、と竹宮祥子が勧めない限り、ないだろうな。それでも、自分の高級車を他人に運転させるとは思えない」
竹宮祥子と滑川は寄りを戻そうとしていた、なんてことは考えにくい。滑川が更生しているならまだしも、DV夫から脱法ハーブのブローカーになるなんて、誰が想像できただろうか。いや、それとも、と疑惑が思い浮かぶ。
「自分が吸っている脱法ハーブを滑川が作っていると知って、寄りを戻そうと思ったのかな? 竹宮詩織の幼馴染は、竹宮祥子はしっかり者だと言っていたけど、母親だって子供に平気で嘘をつくだろ? 脱法ハーブのジャンキーだったのかも!」
兄貴はおれの言葉を受けると、たしなめるような口調で「爽太」とおれの名前を呼んだ。
「それは考えにくいだろ」
「でも、兄貴もさっき、竹宮祥子と滑川が店で再会したのかもって言ってたじゃないか」
「あれは、幼馴染からの話を聞く前のことだ。タバコも吸わないシングルマザーが、麻薬と肩を並べている脱法ハーブに手を出すと思うか? 思い込みで考えを曇らせるなよ。推測の域を出ないものは保留だ」
その通りだ。一度冷静になろう、と自分の頬を両手で挟み、軽く叩く。
滑川が怪我をしてしまい、運転を代ってくれと頼んだとしたらどうだろうか。車の中で怪我をすることはないだろうから、車に乗る前に怪我をしたはずだ。
いや、運転を交代してもらうような怪我をしていたなら、そもそも車に乗ってくるわけがない。見栄っ張りだから、やせ我慢をして高級車で迎えに来たかった、なんて理由でもないだろう。
「考えに煮詰まって、こういうときにどうするか、教えてやろうか?」
「何かテクニックがあるの?」
「散歩だ」
ジーンズを履き、適当なTシャツを一枚着て、兄貴と家を出た。隣を歩く高校の夏服を着た兄貴は、おれを置いてこのままどこへでも行けそうな感じがする。
「相変わらず、一人だと家からは出ないのか?」
「引きこもりだからね」
「胸を張るなよ」
「乙女のピンチには、颯爽と駆けつけるつもりなんだけどねぇ。なかなか機会がない」
「部屋にいたら、そんなのわからないだろ。久々に出た家の外はどうだ?」
「クソあっつい」
「俺もそれ以外の感想はないな」
部屋の中はエアコンで常に二十度前後に調整されているけど、一歩外に出ればぎらぎらした太陽の熱にやられてしまう。今日も最高気温は三十七度になると予報で言っていたから、いやになる。やかましく鳴くセミたちは、暑くないのだろうか。
マンションが並ぶ住宅地を抜け、どこへ向かうかつもりかは知らないけど、しばらく黙ってついて歩いた。周りに景色がいい場所もないし、おれたちはこの辺りで育ったわけではないから、思い出の場所もない。暑くて、おれは何も思い浮かばないけど、兄貴は何か考えているのだろうか? と視線を向ける。
目が合った兄貴が、「こう暑いとなにも思い浮かばないな」と言い出した。
「言い出しっぺがなに言ってるんだよ」
口を尖らせながらも、おれは無理して引き返そうとはしない。兄貴と歩くのも悪くないな、と思っているからというのもあるけど、それだけではない。兄貴が家に来て、散歩に行くのは義務だと思っていた。
「真紀恵母さんから言われたんだろ? たまには外に連れ出してくれって」
「それもある。そっちの家はどうだ?」
「こっちの家の唯一の非の打ち所は、おれだね」
「そんなことは知ってる。家族との会話もあまりない、と不安がっていたぞ」
「同じ家で暮らしているけど、他人だからね。裏で何を考えてるか、わかったもんじゃない」
兄貴が、じっとおれのことを見てくる。何かを見透かすようなこの目に、俺は弱い。わかってるよ、と手を振る。
「みんな、嫌になるくらい優しくていい人たちだよ。おれが引きこもりのクズでも、ご飯も用意してくれるし、洗濯も掃除もしてくれる。学校行かないことに小言も言わない。それに、変な薬をもられることもない」
兄貴はここで、ジョークを聞いたみたいに笑った。正解のリアクションだ。ここで、改めて心配されたいわけじゃない。
「だけど、完全に信じるなんておれには無理だ」
「代理ミュンヒハウゼン症候群だったよな」
首肯する。
それがおれの実母の病名だった。
病弱な息子を甲斐甲斐しく看病する母親として、周りの人に見てもらいたい。がんばってるねと賛美されたい。そんな願望のために、おれは薬をもられ、何度か死にかけたらしい。子どもの頃のことであるし、おれは騙されていたという記憶はない。
児童相談所の人や警察が動き、おれは保護され、児童養護施設に移った。今の芹沢家の里子になるまで、おれは三年間施設で暮らした。兄貴と出会ったのも、そこでだった。
兄貴は本当の兄ではない。施設にいるやつが全員家族だ、なんて思っていないが、兄貴は、苦しいときに俺を助けてくれた。彼は、友達でも先輩でもない。これを家族と呼ぶのだろうと感じた。誕生日が早いから自分が兄貴だ、と
昔のことを思い出していたら、足が止まった。代理ミュンヒハウゼン症候群、という言葉に足が絡み取られるようだった。
「もしかして、竹宮祥子も脱法ハーブだって知らされずに、滑川に吸わされたんじゃない?」
先を歩く兄貴が立ち止まり、振り返る。ああ、と納得するような声を漏らした。が、すぐに厳しい表情に戻る。
「だが、なんのためにそんなことをさせたんだ?」
「兄貴、考えに煮詰まったこういうときにどうするか、教えてあげようか?」
なんだ? と視線を向けてきた兄貴に答える。
「腹ごしらえだよ」