今まさに、そのときじゃないか
文字数 4,649文字
8
母親のことを思い出す。おれの記憶にあるのは、具合が悪くなったおれの頭を撫ぜ、優しい言葉をかけてくれる、辛そうな顔をした顔だ。本気で、おれのことを想ってくれているのだと、信じていた。
「事件が起きたのは何時だ?」
「十二時分二十五分だけど」
「竹宮詩織のアルバイトは、十三時からだ。アルバイトに向かうと投稿した時間が早い。コンビニの店員が見たっていう、暑い中外に立ってた若い女ってのは竹宮祥子のことで、今ならコンビニに人がいないと母親に連絡していたのかもしれない」
兄貴の説明を聞いても、頭の中に情報が入ってこない。おれはただ、曖昧な相槌を返した。
一つ疑問が浮かび、胸の内がひやりとする。
真相に滑川が気付くのではないか。自分の副流煙で事故を起こしたのではなく、ハメられたと気づき、逆上するのではないか。
「このままだと、滑川が竹宮母娘に報復する可能性がある」
兄貴の一言が、どぼんとおれの胸の中に落ちて、不安の波紋が広がっていく。
滑川がやばい奴らを引き連れて、竹宮詩織に会いに行くのではないか、人質にするのではないか、拉致されてしまうのではないか、と悪いことばかりが思いつく。
なにかできることはないだろうか。アイデアを絞りだそうとするが、集中できない。乾いた雑巾を絞っているような気持ちになった。
「滑川を止めたい。兄貴、どうすればいい?」
すがるように視線を向ける。兄貴は、おれを見つめて、あるぞと軽い口調で言った。
「警察に通報すればいい。説得できれば、滑川と竹宮祥子は逮捕されるが、娘は保護されるだろう」
すぐには信じてもらえなくても、説得を続ければ、向こうも取り合ってくれるようになるかもしれない。おれは相手を頷かせるだけの、脱法ハーブに関する情報を持っていると思う。
だけど、それは避けたい。通報すると、竹宮祥子も逮捕される。それはなんだか、仲間を売り渡すような行為に思えた。
「そんなことはしない」
返事を受けると、兄貴は「そう答えると思った」とあっけらかんとした様子で言った。
「竹宮詩織はアルバイト中だから、滑川もそこに乗り込んで事を荒立てることはしないはずだ。監視カメラにも写ってしまったから、ことが落ち着くまで姿を見せることはないだろうな」
「世間が興味をなくしたら、また現れるってこと?」
「大いにありえる」
警察もしばらくの間は家に警察官が立ち寄るなどの対応をしてくれるかもしれないが、それも限界がある。おれがボディガードになるなんてこともできないし、何か布石を打たなければならない。
「じゃあ、どうすればいい? 通報はなしで」
「滑川の敵を増やせば、そう簡単に現れることはできないはずだ。竹宮祥子が証言をして、警察は滑川を指名手配するだろう。そこに、追い討ちをかけよう」
「追い討ち? 敵って誰?」
「滑川の危ない仲間達に、手のひらを返させればいい。信頼関係を崩すために、ハートビートを利用するんだ」
兄貴が何を言いだしたのかわからず、黙って続きの言葉を待つ。
「竹宮祥子に、警察で滑川がハートビートという脱法ハーブを吸っていた、と証言させるんだ。そうすると、報道でハートビートという商品名が出る」
それを聞いて、はっとした。「そうなれば、ハートビートに含まれてるものが禁止薬物の指定を受けて、すぐに発売禁止になるはずだ!」
「それが狙いだ。業者は、滑川の軽率な行動のせいで、大量の在庫を抱える羽目になる。業界中から、滑川は白い目で見られるだろうな。滑川がいくらハメられた、と騒いでも、自分を大損させたやつに手を差し伸べるやつはいないだろう。規制が強くなって脱法ハーブを扱いにくくなってるのが現状なんだろ? 滑川に固執することもないはずだ」
「でも、どうやって竹宮祥子に証言させるの?」
「警察より先に、竹宮詩織に会って伝えるしかない。母親に、滑川が吸っていたのはハートビートという名前のハーブだったと言うようにってな。娘だったら母親の見舞いや面会ができるかもしれん。時間がたてばたつほど、信憑性がなくなるから、早いほうがいい」
「脱法ハーブの商品名がハートビートだったってことは、おれたちが言わなくても、証言するんじゃないのか?」
「どうかな。滑川がとっておきの新商品がある、という言い方で商品名を喋ってなかったらどうする? 俺たちの目的は、滑川がハートビートを吸ったせいで事故が起きた、と報道させることだ」
なるほどそうか、と納得する。
「だったら、ここでぐずぐずしてる場合じゃない。行こう」
立ち上がり、店の出口へ向かう。が、財布を持ってないことを思い出し、レジの前で立ち止まる。振り返って、おれは目を丸くした。
兄貴は席に座ったまま、食事のつづきを食べ始めていた。
唖然としながら席に戻り、「なにしてるんだよ」と訊ねる。兄貴は表情を変えることなく、レンゲを動かしていた。
「ここは払っておいてやるから、行ってこい」
「なんで? 兄貴は行かないのか?」
「自分で、乙女のピンチには颯爽と駆けつけるって言っただろ。今まさに、そのときじゃないか。一人で出かけるとしたら、今だろ」
ガツンと一発くらったような気持ちになった。
確かに、おれはそう言った。あれは冗談だし、普通その話を今持ち出すか? と憤りを覚える。竹宮母娘のピンチじゃないか。それに、新しい脱法ハーブを一掃する絶好の機会だ。気合の入れた新商品もすぐにダメになる、ということがわかれば、脱法ハーブ業界全体が萎縮するかもしれない。おそらく、おれたちしかこのことに気づいていないはずだ。
「そんなつまらないことを言ってる場合じゃないだろ。行こうよ」
ばんっと、大きな音を立てて、兄貴が机を叩いた。
「なにもつまらなくはない。遠慮するな。お前の人生の主役はお前だ」
手が引かれ、そこには一万円札が一枚置かれていた。
「タクシーで駅まで行って、電車に乗れば二十分くらいで着くだろ。この金を使っていい」
兄貴は本気だ。そして、もう一つわかることがある。おれのことを挑発しているわけではない。本当に、おれは覚悟を決めて行くと思っているのだ。
そのことに気づき、胸の中が燃えるように熱くなった。
「こんなことなら、ちゃんとした格好をしてくればよかった。髪も寝癖だ」
「大丈夫だ。お前は俺と似て顔が良い。太いが、まぁ爽やかだ。名は体を表すだな」
「兄さんの名前が良ってのは、名前負けしてると思うけどね」
兄貴が珍しく、愉快そうに頬を歪めた。
意地悪をされているわけではない。
兄貴はおれのことを信じて疑っていないのだ。
「ありがとう」と礼を言い、お金を受け取って踵を返し、急いで店を出る。
一歩外に出ると、ぶわっと熱気が体を襲ってきた。湿度があって息苦しい。タクシーどころか車一台走っておらず、とりあえず大きな通りを目指すことにした。
一人で外を歩くのは、一体何年ぶりだろうか。実の母親が、おれのことを騙していたと知るまでだから、小四以来だろうか。
セミの鳴き声がいやに大きく聞こえる。
濃い緑の匂いがする。それだけで、何故か少し懐かしい気持ちになった。
道路の端に生えている夏草も伸びている。
太陽が高くて、眩しい。
サイトを更新するために情報をまとめながら、得も知れぬ苛立ちを覚えることがあった。みんなこんなことをしているのか、みんなこんなことを知りたいのか、こんな情報に飛びつくほど外の世界はくだらないのか、と思うことが多かった。
だけど、本当にくだららない日々を送っているのは、おれだ。
くだらない情報に溺れているのは、おれだ。
外に出ず、情報をまとめるふりをして、外のことを知りたがっているのは、おれだ。
やっとここから抜け出せるときがきたのだ、と気がはやる。
だけど、不意に、不思議なことに気づいて立ち止まった。
歩いても歩いても大通りになかなかつかない。そんなに距離があっただろうか? と胸騒ぎがする。額の汗を手で拭いながら周囲を見ると、景色が全然変わっていないことに気づき、愕然とした。
「おいおい、嘘だろ」
もれた声は、ひどく震えていた。膝もガクガク笑っている。一歩、右足を動かしてみるが、ペンギンみたいな短い歩みだった。
どくんどくんと動悸が激しくなり、ぶわっと嫌な汗が全身から滲み出てくる。
「勘弁してくれよ」
自覚を持ってしまったからか、どんどん体調が悪くなっていく。
ぐわんぐわんと眩暈がし、吐き気を覚える。呼吸が苦しくなり、必死に空気を吸い込む。目頭が熱くなった。
母親がおれを騙していたと知り、ショックを受けたおれは、他人のことが誰も信じられなくなり、一人では家から外に出られなくなった。あれから歳もとったし、もう大丈夫なのではないか? と淡い期待をしていた。
いや、今行かなかったら、いつ行くんだ? と突き動かされていた。
早く、竹宮詩織に会いに行きたい。彼女たちを助けるために、どうすればいいかを伝えたい。
なのに、全然足が前に進まない。
おれも、兄貴みたいに、前に進みたい。
なのに、過去がいつまでもおれの邪魔をする。
「クソッタレ」
鼓舞するために、膝を叩く。すると、枝が倒れるように足が傾き、身体が地面に崩れ落ちてしまった。受身が取れず、アスファルトに顔を叩きつける。口の中に鉄の味が広がり、痛みと熱さと情けなさで、涙がこぼれそうになった。
膝に力を入れようとしても、うまくいかない。這いつくばったまま、芋虫のように身体を動かすが、限界だった。
熱されたアスファルトから、蜃気楼がゆらゆら揺れている。
「熱くないのか?」
視線を上げると、おれを見下ろしている兄貴と目が合った。
「おれは、なんで、こんなにダメなんだろう」
幼く、誰の声か疑いたくなる声が、自分の口からこぼれてしまう。
「悲観するな。お前には今、朝が来ている。ただ、ベッドから抜け出すのにちょっと時間がかかっているようなもんだ。誰にでもある」
慰めの言葉を聞きながら、それに甘んじてはいけない、と首を横に振る。朝が来て、ぱっと起きれる人だっている。兄貴はそうだろう。
「強いて言えば、準備不足だな。いつでも自分が百パーセントのパフォーマンスを発揮できると思うなよ。散歩を馬鹿にする者は散歩に泣く、だ。無理のない範囲で、少しずつ挑戦しておくべきだったな」
兄貴はそう言って、おれの隣に腰掛けた。「あっついな」と顔をしかめている。
「それでも俺は、ここまで進んだお前が誇らしい」
店から、全然進んでいないということはわかっている。自分が情けなくて、嗚咽が止まらない。
「昔の爽太なら、なんでも自分と重ね合わせて、真っ先に竹宮祥子が騙されて脱法ハーブを吸わされたんじゃないかと疑っていたはずだ。だけど、そうじゃなかった。少しずつ、変わってきている。人間は変わる。良くも悪くもな」
兄貴はそれ以上、言葉を続けることはなく、ただそばにいて、おれが動けるようになるのを待っていてくれた。
転がったまま、目頭が熱くなる。起き上がるのには、もう少し時間がかかりそうだ。
母親のことを思い出す。おれの記憶にあるのは、具合が悪くなったおれの頭を撫ぜ、優しい言葉をかけてくれる、辛そうな顔をした顔だ。本気で、おれのことを想ってくれているのだと、信じていた。
「事件が起きたのは何時だ?」
「十二時分二十五分だけど」
「竹宮詩織のアルバイトは、十三時からだ。アルバイトに向かうと投稿した時間が早い。コンビニの店員が見たっていう、暑い中外に立ってた若い女ってのは竹宮祥子のことで、今ならコンビニに人がいないと母親に連絡していたのかもしれない」
兄貴の説明を聞いても、頭の中に情報が入ってこない。おれはただ、曖昧な相槌を返した。
一つ疑問が浮かび、胸の内がひやりとする。
真相に滑川が気付くのではないか。自分の副流煙で事故を起こしたのではなく、ハメられたと気づき、逆上するのではないか。
「このままだと、滑川が竹宮母娘に報復する可能性がある」
兄貴の一言が、どぼんとおれの胸の中に落ちて、不安の波紋が広がっていく。
滑川がやばい奴らを引き連れて、竹宮詩織に会いに行くのではないか、人質にするのではないか、拉致されてしまうのではないか、と悪いことばかりが思いつく。
なにかできることはないだろうか。アイデアを絞りだそうとするが、集中できない。乾いた雑巾を絞っているような気持ちになった。
「滑川を止めたい。兄貴、どうすればいい?」
すがるように視線を向ける。兄貴は、おれを見つめて、あるぞと軽い口調で言った。
「警察に通報すればいい。説得できれば、滑川と竹宮祥子は逮捕されるが、娘は保護されるだろう」
すぐには信じてもらえなくても、説得を続ければ、向こうも取り合ってくれるようになるかもしれない。おれは相手を頷かせるだけの、脱法ハーブに関する情報を持っていると思う。
だけど、それは避けたい。通報すると、竹宮祥子も逮捕される。それはなんだか、仲間を売り渡すような行為に思えた。
「そんなことはしない」
返事を受けると、兄貴は「そう答えると思った」とあっけらかんとした様子で言った。
「竹宮詩織はアルバイト中だから、滑川もそこに乗り込んで事を荒立てることはしないはずだ。監視カメラにも写ってしまったから、ことが落ち着くまで姿を見せることはないだろうな」
「世間が興味をなくしたら、また現れるってこと?」
「大いにありえる」
警察もしばらくの間は家に警察官が立ち寄るなどの対応をしてくれるかもしれないが、それも限界がある。おれがボディガードになるなんてこともできないし、何か布石を打たなければならない。
「じゃあ、どうすればいい? 通報はなしで」
「滑川の敵を増やせば、そう簡単に現れることはできないはずだ。竹宮祥子が証言をして、警察は滑川を指名手配するだろう。そこに、追い討ちをかけよう」
「追い討ち? 敵って誰?」
「滑川の危ない仲間達に、手のひらを返させればいい。信頼関係を崩すために、ハートビートを利用するんだ」
兄貴が何を言いだしたのかわからず、黙って続きの言葉を待つ。
「竹宮祥子に、警察で滑川がハートビートという脱法ハーブを吸っていた、と証言させるんだ。そうすると、報道でハートビートという商品名が出る」
それを聞いて、はっとした。「そうなれば、ハートビートに含まれてるものが禁止薬物の指定を受けて、すぐに発売禁止になるはずだ!」
「それが狙いだ。業者は、滑川の軽率な行動のせいで、大量の在庫を抱える羽目になる。業界中から、滑川は白い目で見られるだろうな。滑川がいくらハメられた、と騒いでも、自分を大損させたやつに手を差し伸べるやつはいないだろう。規制が強くなって脱法ハーブを扱いにくくなってるのが現状なんだろ? 滑川に固執することもないはずだ」
「でも、どうやって竹宮祥子に証言させるの?」
「警察より先に、竹宮詩織に会って伝えるしかない。母親に、滑川が吸っていたのはハートビートという名前のハーブだったと言うようにってな。娘だったら母親の見舞いや面会ができるかもしれん。時間がたてばたつほど、信憑性がなくなるから、早いほうがいい」
「脱法ハーブの商品名がハートビートだったってことは、おれたちが言わなくても、証言するんじゃないのか?」
「どうかな。滑川がとっておきの新商品がある、という言い方で商品名を喋ってなかったらどうする? 俺たちの目的は、滑川がハートビートを吸ったせいで事故が起きた、と報道させることだ」
なるほどそうか、と納得する。
「だったら、ここでぐずぐずしてる場合じゃない。行こう」
立ち上がり、店の出口へ向かう。が、財布を持ってないことを思い出し、レジの前で立ち止まる。振り返って、おれは目を丸くした。
兄貴は席に座ったまま、食事のつづきを食べ始めていた。
唖然としながら席に戻り、「なにしてるんだよ」と訊ねる。兄貴は表情を変えることなく、レンゲを動かしていた。
「ここは払っておいてやるから、行ってこい」
「なんで? 兄貴は行かないのか?」
「自分で、乙女のピンチには颯爽と駆けつけるって言っただろ。今まさに、そのときじゃないか。一人で出かけるとしたら、今だろ」
ガツンと一発くらったような気持ちになった。
確かに、おれはそう言った。あれは冗談だし、普通その話を今持ち出すか? と憤りを覚える。竹宮母娘のピンチじゃないか。それに、新しい脱法ハーブを一掃する絶好の機会だ。気合の入れた新商品もすぐにダメになる、ということがわかれば、脱法ハーブ業界全体が萎縮するかもしれない。おそらく、おれたちしかこのことに気づいていないはずだ。
「そんなつまらないことを言ってる場合じゃないだろ。行こうよ」
ばんっと、大きな音を立てて、兄貴が机を叩いた。
「なにもつまらなくはない。遠慮するな。お前の人生の主役はお前だ」
手が引かれ、そこには一万円札が一枚置かれていた。
「タクシーで駅まで行って、電車に乗れば二十分くらいで着くだろ。この金を使っていい」
兄貴は本気だ。そして、もう一つわかることがある。おれのことを挑発しているわけではない。本当に、おれは覚悟を決めて行くと思っているのだ。
そのことに気づき、胸の中が燃えるように熱くなった。
「こんなことなら、ちゃんとした格好をしてくればよかった。髪も寝癖だ」
「大丈夫だ。お前は俺と似て顔が良い。太いが、まぁ爽やかだ。名は体を表すだな」
「兄さんの名前が良ってのは、名前負けしてると思うけどね」
兄貴が珍しく、愉快そうに頬を歪めた。
意地悪をされているわけではない。
兄貴はおれのことを信じて疑っていないのだ。
「ありがとう」と礼を言い、お金を受け取って踵を返し、急いで店を出る。
一歩外に出ると、ぶわっと熱気が体を襲ってきた。湿度があって息苦しい。タクシーどころか車一台走っておらず、とりあえず大きな通りを目指すことにした。
一人で外を歩くのは、一体何年ぶりだろうか。実の母親が、おれのことを騙していたと知るまでだから、小四以来だろうか。
セミの鳴き声がいやに大きく聞こえる。
濃い緑の匂いがする。それだけで、何故か少し懐かしい気持ちになった。
道路の端に生えている夏草も伸びている。
太陽が高くて、眩しい。
サイトを更新するために情報をまとめながら、得も知れぬ苛立ちを覚えることがあった。みんなこんなことをしているのか、みんなこんなことを知りたいのか、こんな情報に飛びつくほど外の世界はくだらないのか、と思うことが多かった。
だけど、本当にくだららない日々を送っているのは、おれだ。
くだらない情報に溺れているのは、おれだ。
外に出ず、情報をまとめるふりをして、外のことを知りたがっているのは、おれだ。
やっとここから抜け出せるときがきたのだ、と気がはやる。
だけど、不意に、不思議なことに気づいて立ち止まった。
歩いても歩いても大通りになかなかつかない。そんなに距離があっただろうか? と胸騒ぎがする。額の汗を手で拭いながら周囲を見ると、景色が全然変わっていないことに気づき、愕然とした。
「おいおい、嘘だろ」
もれた声は、ひどく震えていた。膝もガクガク笑っている。一歩、右足を動かしてみるが、ペンギンみたいな短い歩みだった。
どくんどくんと動悸が激しくなり、ぶわっと嫌な汗が全身から滲み出てくる。
「勘弁してくれよ」
自覚を持ってしまったからか、どんどん体調が悪くなっていく。
ぐわんぐわんと眩暈がし、吐き気を覚える。呼吸が苦しくなり、必死に空気を吸い込む。目頭が熱くなった。
母親がおれを騙していたと知り、ショックを受けたおれは、他人のことが誰も信じられなくなり、一人では家から外に出られなくなった。あれから歳もとったし、もう大丈夫なのではないか? と淡い期待をしていた。
いや、今行かなかったら、いつ行くんだ? と突き動かされていた。
早く、竹宮詩織に会いに行きたい。彼女たちを助けるために、どうすればいいかを伝えたい。
なのに、全然足が前に進まない。
おれも、兄貴みたいに、前に進みたい。
なのに、過去がいつまでもおれの邪魔をする。
「クソッタレ」
鼓舞するために、膝を叩く。すると、枝が倒れるように足が傾き、身体が地面に崩れ落ちてしまった。受身が取れず、アスファルトに顔を叩きつける。口の中に鉄の味が広がり、痛みと熱さと情けなさで、涙がこぼれそうになった。
膝に力を入れようとしても、うまくいかない。這いつくばったまま、芋虫のように身体を動かすが、限界だった。
熱されたアスファルトから、蜃気楼がゆらゆら揺れている。
「熱くないのか?」
視線を上げると、おれを見下ろしている兄貴と目が合った。
「おれは、なんで、こんなにダメなんだろう」
幼く、誰の声か疑いたくなる声が、自分の口からこぼれてしまう。
「悲観するな。お前には今、朝が来ている。ただ、ベッドから抜け出すのにちょっと時間がかかっているようなもんだ。誰にでもある」
慰めの言葉を聞きながら、それに甘んじてはいけない、と首を横に振る。朝が来て、ぱっと起きれる人だっている。兄貴はそうだろう。
「強いて言えば、準備不足だな。いつでも自分が百パーセントのパフォーマンスを発揮できると思うなよ。散歩を馬鹿にする者は散歩に泣く、だ。無理のない範囲で、少しずつ挑戦しておくべきだったな」
兄貴はそう言って、おれの隣に腰掛けた。「あっついな」と顔をしかめている。
「それでも俺は、ここまで進んだお前が誇らしい」
店から、全然進んでいないということはわかっている。自分が情けなくて、嗚咽が止まらない。
「昔の爽太なら、なんでも自分と重ね合わせて、真っ先に竹宮祥子が騙されて脱法ハーブを吸わされたんじゃないかと疑っていたはずだ。だけど、そうじゃなかった。少しずつ、変わってきている。人間は変わる。良くも悪くもな」
兄貴はそれ以上、言葉を続けることはなく、ただそばにいて、おれが動けるようになるのを待っていてくれた。
転がったまま、目頭が熱くなる。起き上がるのには、もう少し時間がかかりそうだ。