誰もいなかったの
文字数 3,738文字
4
同じ学校、同じ学年の生徒の犬が拐われた、ということはわかっていたけど、まさか知っている人のことだとは思っていなかった。着崩しのない制服姿で、長い黒髪を伸ばし、赤いチタンフレームの眼鏡をかけている。真面目で控えめな委員長、そんな印象は変わっていない。
「瀬川、平も探すのを手伝ってくれるって」
森巣がそう伝えると、瀬川は少し驚いた様子で僕と森巣を交互に見たが、「ありがとう。平くん久しぶりなのに、ごめんね」とぺこりと頭を下げた。
「いや、瀬川さんも大変な目に遭ったね。僕にできることがあれば、なんでもするよ」
森巣に誘われてついてきた身としては、知り合いの家でほっとしたが、同時に知り合いが事件に巻き込まれたということに、胸が苦しくなった。
「それじゃあ、瀬川も忙しいだろうし、早速案内してもらおうか」
森巣の呼びかけで、瀬川に先導してもらいながら僕らは歩き始めた。
久々に会った瀬川に、クラス替えでは誰と同じになったのか、などと軽い世間話をしながら住宅地を進む。前のクラスの生徒はあまりいないけど、瀬川は楽しくやっているようだ。
森巣と瀬川が話す、六組の面白いクラスメイトたちの話を聴きながら、急勾配の道が続くなぁとぼんやり思った。今は下だからいいけど、例えば自転車でここを上るのは辛いだろう。だけど、周りの家々はどれも大きくて、門や庭もある。自転車は電動アシスト付きの高いやつに乗るから、坂なんて関係ないのかもしれない。
僕も同じ徒歩通学なのに、住んでる場所が全然違うなぁと格差を感じる。
「そう言えば瀬川、警察にはもう行ったんだっけ?」
「うん。でも、あんまり期待はできないかも。犯人を捕まえるのは難しいから、望み通りにならないかもしれないことを覚悟をしてねって言われたし」
警察なのに結構ぶっちゃけるんだな、と少し嫌な気持ちになる。後から逆恨みされないための言葉なのかもしれないけど、もう少し優しい言葉をかけてもいいのではないか。
「だから、懸賞金もかけることにしたの」
「懸賞金!?」
僕は驚いたけど、既に知っていたのか、森巣は動じていない。
「ちなみに、いくら?」
おそるおそる訊ねると、瀬川が控えめな口調で、「三十万円」と呟いた。
その額を、犬のためにぽんと出せのか、と驚かされる。でも、この辺りは家も大きいし、瀬川の家もお金持ちなのだろう。それに、犬と言えども家族であるし、お金は惜しまないのかもしれない。
お金の話になってしまい、なんとなく気まずい空気になってしまった。
森巣をちらりと窺うと、察してくれたようで「そういえば、犬の種類は何だっけ?」と助け舟を出してくれた。
「ミニチュアブルテリアで、名前はマリン」
瀬川はポケットから写真を取り出し、僕らに差し出してきた。
テレビで見たことがあって、ああこの犬かと思う。のっぺりとした愛嬌のある顔立ちをしている犬だった。真っ白で短い体毛は滑らかそうで、左目周辺の染みのような黒い毛がチャーミングだ。
「なるほど、右目が青いからマリンなんだね」と森巣がもらす。写真をよく見ると、確かに右目が水色に近い綺麗な青色をしていた。
「そうなの。実物は写真よりも綺麗なんだよ」
「マリンちゃんは何歳?」
「まだ二歳。小学生の妹がトイレと散歩はするからって誕生日にごねて、私もお世話するからって約束でうちの家族になったんだけど」
「妹さん、犬の散歩がだんだん面倒臭くなってきちゃったんだね」
「そうなの。最近は私ばっかりになっちゃった。うちの家厳しいから、私も約束したんだから、行きなさいって。犬のお散歩は好きだからいいんだけど」
「連帯保証人の苦しみだね」と森巣が苦笑する。
学校に行き、授業を受け、学級委員長の仕事もして、帰宅してからは犬の散歩もちゃんとする。「真面目だなぁ」と、思わず口からこぼれる。
「そんなことないよ。委員会とか用事があれば家族に代わってもらうし」
すでに、代わってもらうという回路になっているらしい。
「そう言えば、瀬川さんは二年になっても委員長やってるんだってね」
「向いてないと思うんだけど、委員長やりたい人って訊かれて、誰かが手を挙げるまでの時間って、すごく居心地が悪くて。なんだか、周りからの視線も感じるし」
時間が経ってから手を挙げると、やるなら早く手を挙げろよと思われそうだし、真面目そうだからやるんじゃないの? という瀬川へのプレッシャーは大きいのだろう。
「二年六組は、瀬川で持ってるようなものだよ」
「そ、そんなことないよ! いつも私はてんぱっちゃうけど、森巣くんに助けてもらってるから、なんとかなってるだけで。平くん、森巣くんすごいんだよ。森巣くんが一声かけたら、みんな話を聞いてくれるし、意見もばんばんくれるの」
「去年のクラスに森巣がいればよかったのにな」
「本当だよー。森巣くんのおかげで、クラスがまとまって感動だよ。私も、森巣くんみたいに爽やかで、みんなを引っ張れるような人になれたらなぁって思う」
「なにそれ褒めすぎだよ。ていうか、瀬川が一生懸命だから、みんなが協力しようって動かされてるんだよ。俺を動かしてるのだって、瀬川だよ」
やりとりをする瀬川と森巣を見ながら、僕は去年のクラスのことを思い出していた。
去年のクラスは賑やかな生徒が多く、その場のノリで意見が変わったり、それはやりたくないと譲らない生徒が出たりして、いつまでも話し合いがまとまらず、黒板の前で瀬川はよく狼狽していた。
放課後に教室で一人残って作業をしている瀬川を見かけ、手伝ったことがある。押し付けられた仕事なのか、一人で背負い込んでしまったのか、それでも瀬川は不満を飲み込んで実直に取り組んでいるようだった。
だけど、学年が変わり、瀬川がその苦しみから解放されたのだとわかる。教室の中心にいるのが、分け隔てなく他人に接する森巣なのだから、平和なクラスなのだろう。
真面目で健気な女の子の元に、格好良くて優しい男子が現れ、支えてくれるなんて少女漫画みたいだな、と二人を眺めてしまう。
瀬川に対して、よかったなと思う。だけど何故か、もやっとした気持ちも芽生えていた。
……しかしさっきから、ずっと二人が見つめ合ってなんだかいい雰囲気になっている。僕は、ついて来なかった方がよかったんじゃなかろうか。
「わー! なんか照れ臭いこと言った! ごめん!」
先に森巣が顔を赤くし、瀬川から顔を背けた。瀬川も、真っ赤になりながら、きょろきょろと視線を泳がせている。
なるほど、とだいたいのことを察した。森巣はお返しがしたいと言っていたけど、瀬川のことが好きなのだろう。瀬川は一見地味に見えるけど、端正な顔立ちをしているし、二重の目も大きい。そして、真っ直ぐだ。
僕と視線がぶつかり、瀬川が「そ、そういえば」と話題を変えた。
「二人はどういう組み合わせなの?」
瀬川が僕と森巣を交互に見つめる。どういう関係なのか? と問われると、一緒に職員室にいた、くらいのものだ。が、森巣は即答した。
「友達だよ」
取り繕っただけなのかもしれないが、不覚にもじーんと胸に響いた。瀬川だけでなく、僕までも、森巣の人柄にやられてしまいそうになる。
「そうだ、教えてもらったこの店に行ったよ」
ちょうど、さっきまでいたカフェの前を通りかかったので、森巣は店を指をさした。
「そうなの!? どうだった?」
「素敵な雰囲気のお店だね。コーヒーもすごく好みの味だったよ」
「アップルパイも美味しいんだよ。リンゴがごろごろして大きいし、生クリームにもよく合うの。テイクアウトもできるから、私は毎週行ってるんだ」
話を聞いていたら、口の中にじんわりと涎が湧いてきて、少し損したような気持ちになる。折角の機会だったから、アップルパイくらいなら頼んでもよかったかもしれない。
ここまでは、三人の会話も弾んだ。が、カフェから離れて歩いていくうちに、段々瀬川の口数が少なくなり、沈んだ表情になっていった。
何か声でもかけようかと思った矢先に、瀬川は立ち止まった。
「ここなの」
一車線の道路で、両端には白線が引かれている。両サイドには、塀や植え込みのある一軒家が並んでいた。
瀬川が僕たちの数歩前で、「マリンとここを歩いてたら」と言って歩き出す。
「そしたら、突然後ろから誰かに突き飛ばされて、私は倒れちゃって。犯人は、私が離したリードとマリンを抱えて、あっちに走っていって、私も慌てて追いかけたの」
瀬川の歩調が早くなり、それに合わせて、緊張感が高まる。十メートルほど進み、曲がり角で瀬川が立ち止まった。
「それで、この先に犯人は逃げたんだけど……」
僕と森巣は顔を見合わせ、角を曲がる瀬川に続く。
そこで待ち受けていたのは壁だった。
二メートル以上の高さはあるコンクリートの壁がそびえ、その上に家が建っている。
「曲がったら、誰もいなかったの」
同じ学校、同じ学年の生徒の犬が拐われた、ということはわかっていたけど、まさか知っている人のことだとは思っていなかった。着崩しのない制服姿で、長い黒髪を伸ばし、赤いチタンフレームの眼鏡をかけている。真面目で控えめな委員長、そんな印象は変わっていない。
「瀬川、平も探すのを手伝ってくれるって」
森巣がそう伝えると、瀬川は少し驚いた様子で僕と森巣を交互に見たが、「ありがとう。平くん久しぶりなのに、ごめんね」とぺこりと頭を下げた。
「いや、瀬川さんも大変な目に遭ったね。僕にできることがあれば、なんでもするよ」
森巣に誘われてついてきた身としては、知り合いの家でほっとしたが、同時に知り合いが事件に巻き込まれたということに、胸が苦しくなった。
「それじゃあ、瀬川も忙しいだろうし、早速案内してもらおうか」
森巣の呼びかけで、瀬川に先導してもらいながら僕らは歩き始めた。
久々に会った瀬川に、クラス替えでは誰と同じになったのか、などと軽い世間話をしながら住宅地を進む。前のクラスの生徒はあまりいないけど、瀬川は楽しくやっているようだ。
森巣と瀬川が話す、六組の面白いクラスメイトたちの話を聴きながら、急勾配の道が続くなぁとぼんやり思った。今は下だからいいけど、例えば自転車でここを上るのは辛いだろう。だけど、周りの家々はどれも大きくて、門や庭もある。自転車は電動アシスト付きの高いやつに乗るから、坂なんて関係ないのかもしれない。
僕も同じ徒歩通学なのに、住んでる場所が全然違うなぁと格差を感じる。
「そう言えば瀬川、警察にはもう行ったんだっけ?」
「うん。でも、あんまり期待はできないかも。犯人を捕まえるのは難しいから、望み通りにならないかもしれないことを覚悟をしてねって言われたし」
警察なのに結構ぶっちゃけるんだな、と少し嫌な気持ちになる。後から逆恨みされないための言葉なのかもしれないけど、もう少し優しい言葉をかけてもいいのではないか。
「だから、懸賞金もかけることにしたの」
「懸賞金!?」
僕は驚いたけど、既に知っていたのか、森巣は動じていない。
「ちなみに、いくら?」
おそるおそる訊ねると、瀬川が控えめな口調で、「三十万円」と呟いた。
その額を、犬のためにぽんと出せのか、と驚かされる。でも、この辺りは家も大きいし、瀬川の家もお金持ちなのだろう。それに、犬と言えども家族であるし、お金は惜しまないのかもしれない。
お金の話になってしまい、なんとなく気まずい空気になってしまった。
森巣をちらりと窺うと、察してくれたようで「そういえば、犬の種類は何だっけ?」と助け舟を出してくれた。
「ミニチュアブルテリアで、名前はマリン」
瀬川はポケットから写真を取り出し、僕らに差し出してきた。
テレビで見たことがあって、ああこの犬かと思う。のっぺりとした愛嬌のある顔立ちをしている犬だった。真っ白で短い体毛は滑らかそうで、左目周辺の染みのような黒い毛がチャーミングだ。
「なるほど、右目が青いからマリンなんだね」と森巣がもらす。写真をよく見ると、確かに右目が水色に近い綺麗な青色をしていた。
「そうなの。実物は写真よりも綺麗なんだよ」
「マリンちゃんは何歳?」
「まだ二歳。小学生の妹がトイレと散歩はするからって誕生日にごねて、私もお世話するからって約束でうちの家族になったんだけど」
「妹さん、犬の散歩がだんだん面倒臭くなってきちゃったんだね」
「そうなの。最近は私ばっかりになっちゃった。うちの家厳しいから、私も約束したんだから、行きなさいって。犬のお散歩は好きだからいいんだけど」
「連帯保証人の苦しみだね」と森巣が苦笑する。
学校に行き、授業を受け、学級委員長の仕事もして、帰宅してからは犬の散歩もちゃんとする。「真面目だなぁ」と、思わず口からこぼれる。
「そんなことないよ。委員会とか用事があれば家族に代わってもらうし」
すでに、代わってもらうという回路になっているらしい。
「そう言えば、瀬川さんは二年になっても委員長やってるんだってね」
「向いてないと思うんだけど、委員長やりたい人って訊かれて、誰かが手を挙げるまでの時間って、すごく居心地が悪くて。なんだか、周りからの視線も感じるし」
時間が経ってから手を挙げると、やるなら早く手を挙げろよと思われそうだし、真面目そうだからやるんじゃないの? という瀬川へのプレッシャーは大きいのだろう。
「二年六組は、瀬川で持ってるようなものだよ」
「そ、そんなことないよ! いつも私はてんぱっちゃうけど、森巣くんに助けてもらってるから、なんとかなってるだけで。平くん、森巣くんすごいんだよ。森巣くんが一声かけたら、みんな話を聞いてくれるし、意見もばんばんくれるの」
「去年のクラスに森巣がいればよかったのにな」
「本当だよー。森巣くんのおかげで、クラスがまとまって感動だよ。私も、森巣くんみたいに爽やかで、みんなを引っ張れるような人になれたらなぁって思う」
「なにそれ褒めすぎだよ。ていうか、瀬川が一生懸命だから、みんなが協力しようって動かされてるんだよ。俺を動かしてるのだって、瀬川だよ」
やりとりをする瀬川と森巣を見ながら、僕は去年のクラスのことを思い出していた。
去年のクラスは賑やかな生徒が多く、その場のノリで意見が変わったり、それはやりたくないと譲らない生徒が出たりして、いつまでも話し合いがまとまらず、黒板の前で瀬川はよく狼狽していた。
放課後に教室で一人残って作業をしている瀬川を見かけ、手伝ったことがある。押し付けられた仕事なのか、一人で背負い込んでしまったのか、それでも瀬川は不満を飲み込んで実直に取り組んでいるようだった。
だけど、学年が変わり、瀬川がその苦しみから解放されたのだとわかる。教室の中心にいるのが、分け隔てなく他人に接する森巣なのだから、平和なクラスなのだろう。
真面目で健気な女の子の元に、格好良くて優しい男子が現れ、支えてくれるなんて少女漫画みたいだな、と二人を眺めてしまう。
瀬川に対して、よかったなと思う。だけど何故か、もやっとした気持ちも芽生えていた。
……しかしさっきから、ずっと二人が見つめ合ってなんだかいい雰囲気になっている。僕は、ついて来なかった方がよかったんじゃなかろうか。
「わー! なんか照れ臭いこと言った! ごめん!」
先に森巣が顔を赤くし、瀬川から顔を背けた。瀬川も、真っ赤になりながら、きょろきょろと視線を泳がせている。
なるほど、とだいたいのことを察した。森巣はお返しがしたいと言っていたけど、瀬川のことが好きなのだろう。瀬川は一見地味に見えるけど、端正な顔立ちをしているし、二重の目も大きい。そして、真っ直ぐだ。
僕と視線がぶつかり、瀬川が「そ、そういえば」と話題を変えた。
「二人はどういう組み合わせなの?」
瀬川が僕と森巣を交互に見つめる。どういう関係なのか? と問われると、一緒に職員室にいた、くらいのものだ。が、森巣は即答した。
「友達だよ」
取り繕っただけなのかもしれないが、不覚にもじーんと胸に響いた。瀬川だけでなく、僕までも、森巣の人柄にやられてしまいそうになる。
「そうだ、教えてもらったこの店に行ったよ」
ちょうど、さっきまでいたカフェの前を通りかかったので、森巣は店を指をさした。
「そうなの!? どうだった?」
「素敵な雰囲気のお店だね。コーヒーもすごく好みの味だったよ」
「アップルパイも美味しいんだよ。リンゴがごろごろして大きいし、生クリームにもよく合うの。テイクアウトもできるから、私は毎週行ってるんだ」
話を聞いていたら、口の中にじんわりと涎が湧いてきて、少し損したような気持ちになる。折角の機会だったから、アップルパイくらいなら頼んでもよかったかもしれない。
ここまでは、三人の会話も弾んだ。が、カフェから離れて歩いていくうちに、段々瀬川の口数が少なくなり、沈んだ表情になっていった。
何か声でもかけようかと思った矢先に、瀬川は立ち止まった。
「ここなの」
一車線の道路で、両端には白線が引かれている。両サイドには、塀や植え込みのある一軒家が並んでいた。
瀬川が僕たちの数歩前で、「マリンとここを歩いてたら」と言って歩き出す。
「そしたら、突然後ろから誰かに突き飛ばされて、私は倒れちゃって。犯人は、私が離したリードとマリンを抱えて、あっちに走っていって、私も慌てて追いかけたの」
瀬川の歩調が早くなり、それに合わせて、緊張感が高まる。十メートルほど進み、曲がり角で瀬川が立ち止まった。
「それで、この先に犯人は逃げたんだけど……」
僕と森巣は顔を見合わせ、角を曲がる瀬川に続く。
そこで待ち受けていたのは壁だった。
二メートル以上の高さはあるコンクリートの壁がそびえ、その上に家が建っている。
「曲がったら、誰もいなかったの」