ニゲロ

文字数 5,688文字

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 扉の向こうから柳井が戻ってくると、森巣は席から立ち上がった。

「すいません柳井先生、お手洗いを借りてもいいですか?」
「ああ。廊下を出て、左側のドアだ」
「わかりました、左側ですね」

 そう言うと、森巣は僕を一瞥し、扉の向こうに消えた。
 森巣は左側のドアなんて開けずに、どこかにあるガレージへの階段を探すのだろう。早く戻って来てくれよ、と念じてしまう。

「どうした?」
「いえ、なんでも」

 向かいの席に柳井が腰かける。マグカップを口に運んだが、「空だ」と苦笑してテーブルに戻した。ふーっと息を吐き出し、部屋を眺めている。どこか落ち着かないように見えるけど、自分の家に教え子がいる、というのは不思議な感覚なのかもしれない。

 森巣は二つ、僕にアドバイスをした。

 一つ目は、時間を稼ぐために相手が話せる話題に持ち込んで、とにかく向こうに喋らせること。二つ目は、もう間が持たないと思ったら、森巣を待たずに対決をするのもいい、と言った。強引だけど、瀬川の犬がいるんじゃないかと詰問すれば、長い話をすることになるだろう、とのことだった。

 とりあえず、僕にはタイムリーな話題がある。

「柳井先生はどうして先生になったんですか?」
「どうしたんだ急に」
「進路を決める参考にしたいんですけど」

「プライベートな質問はちょっと」と柳井が冗談めいた口調で言い、不覚にも頬が緩んだ。こういう冗談を飛ばしてくれる、人気のある教師だということを思い出す。そうだ、柳井がまだ犯人と決まったわけではない、と少し肩の力が抜けた。

「生徒たちに対して、良い見本じゃないと思うけど、大学で教職を取っていたから、教師になったって感じだ」
「自分もパイロットになろうとは思わなかったんですか?」
「パイロットになりたかったんだけど、親に反対されたんだよ。大勢の命を扱う仕事だから大変な仕事だって」
「そうだったんですか」
「というか、父親が気の弱い人だから、本人がちょっとノイローゼになったっていうのもあると思うんだけどな。だからさ、おれは生徒たちに夢があるなら、それを応援したいと思うんだよ」

 柳井が優しい笑みを浮かべる。僕のミュージシャンのことを言っているのだろう。親に言えば、きっと笑われ、そして激昂されるのだろう。応援する、と言ってくれる人がいるのは、幸せなことだと思った。

「有名な企業に入っても、仕事で理不尽な目にあったり、身体と心を壊す人はいますからね」

 兄のことを思い浮かべた。兄は、就職してから何を感じ、考えながら働いていたのだろうか。目標や夢はあったのだろうか。自分で就きたい職を見つけ、働けたら幸せになれていたのだろうか。

「高校生だし、まだ時間はある。考えられる内に、じっくり考えるといい。おれの生徒でいる間は、できる範囲で応援するよ」
「ありがとうございます」

 そう言って、じっと柳井の顔を見ていたら、あることに気がつき、体が動かなくなった。「どうした?」と僕を見る柳井と視線がぶつかる。

 視線を外せず、じっと柳井の顔を見ていたら、段々人間ではない別の何かに思えてきた。「先生って、左右の目の色が違うんですね」

 柳井が立ち上がって手を伸ばし、ゆっくりと僕の首を締めてきても何もできないだろう。ポケットからナイフを取り出し、首に突き刺し、ゆっくりと首が切り離されていっても、僕はこのまま動けず、何もできないのではないか。

 冷たい手で内臓を掻き混ぜられているような、意識が遠のきそうな緊張感を覚える。

 いっそのこと、爆ぜるように動いているこの心臓を、止めてもらえたら楽になるのではないだろうか。

 殺される、という恐怖が身体を支配していく。

「そうなんだ。実は、父親に殴られてから右目が少しだけ青くなった。その所為で目も悪くなっちゃってな」

 なぜ、犯人はオッドアイにこだわっていたのか、考えたことがなかった。それは、自分に似ていたからではないだろうか。リストカットに近い行為だったのかもしれない。傷を見て、苦しみ、自分はまだ生きていると感じていたのではないか。

 犯人は、自分に似た動物を殺すことで、自分の生を感じていたのではないか。

「先生、この家に、瀬川の犬はいませんよね?」

 柳井の顔が冷たいものに変わる。感情やぬくもり、人間らしさを失った顔だ。
 柳井は左手を机から離し、ゆっくりと自分のこめかみに持って行った。

「GABAという物質が人間の脳内にはある。中枢神経を抑制する、有名な脳内神経伝達物質だ。体内に、ベンゾジアエピン系薬物が取り込まれると、ベンゾジアエピン受容体に結合する。すると、GABAの受容体であるGABA Aがノルアドレナリン神経系、セロトニン神経系、ドーパミン神経系の働きを抑える。これにより、脳内の活動はどんどん落ち込んでいく」

 眠たくなるような話を長々と始められて困惑していると、柳井は「どうだ? 眠くなってきたか? 身体が動かなくなってきたりしないか?」と続けた。

 ぞくりとする。そう言えば、まぶたが重い。立ち上がろうと試みるが、身体が動かない。コントローラーの抜けたゲームのように、自分自身を操作することができない。

「さっきからお前、自分の呂律が回っていないことに気づいてないだろ」
 椅子に背中を預けたまま動けず、ただ柳井を力なく睨みつける。柳井は愉快そうに口を広げ、僕の背後に視線を送っていた。

 ドアノブが回る音がする。
 扉がゆっくりと開き、森巣が戻ってきた。僕と柳井を交互に見つめ、状況を察知したように「あぁ」と口を開いた。

「柳井先生、一服盛りましたね。通りで、身体の調子が……」とおっとりとした口調で言って、隣に腰掛けた。声を絞り出し、「ニゲロ」と声を振り絞るが、森巣はもうこちらを向いていない。
「ガレージを見たのか?」
「はい。なかなか面白いものを見せて頂きましたよ」
「鍵をかけてあったはずだ」
「はい、だから開けました」

 柳井が、やれやれと首を横に振る。自分がこの場を支配している、圧倒的な強者であるという自信にあふれていた。

「先生は、あれを使いたくて動物を殺していたんですか? あれなら、あっさりと首を切れそうですね」
「それが全てではない」
「教えてもらいたいんですけど、先生はなんでクビキリを?」

 森巣に訊ねられ、柳井はふっと一息吐き出してから、口を開いた。きっと柳井も、このことを人に話すのは初めてだろう。

「うちの庭に、よく来る野良猫がいたんだ。おれはそいつを気に入って、顔を見かけたら、よく餌をあげていた」

 柳井は少し視線を上げて、遠くを見るような顔をしていた。

「だけど去年、事故にでもあったのか、傷を負ってぐったりしたそいつが庭で倒れていた。手当てをしてみたけど、俺の手の中で弱って死んだ。悲しかったけど、庭に埋めてあげたよ。それ以来、おれはあの猫のことを頻繁に思い出すようになった。生きているときのじゃない、死ぬそのときのことをだ。あの猫を看取っているとき、おれは、生きてると感じたんだ」
「その猫もオッドアイだったんですか?」
「おお、よく調べたな!?

 柳井が目を丸くし、そして愉快そうに口角を上げた。

「動物を殺して、その感覚を思い出す、そこまではいいとしましょう。なぜ、人の目にふれる場所にクビキリを置いたんですか?」
「何故そうしたのか、森巣には伝わらなかったかぁ。でも、平は狙い通りに感じてくれたよ」

 僕が感じた? 柳井はなんのことを言っているのだろうか。柳井と森巣の視線を受けながら、僕は柳井に何か言ったか? と思い返す。

 一つ、確かに柳井に言ったことがあった。職員室に呼び出され、「理不尽に終わりがくることもあるし、漫然と生きないないで、真剣に考えたい」と伝えた。

「おれは、本当はパイロットになりたかった。けど、大勢の命を守る仕事だから大変なんだ、と猛反対をされた。本当は、息子に同じ職に就きたいと言われて、侮られたと思ったんだろうな。エリート志向の強い人だったから、特別な自分でいたかったんだ」

 柳井はそう言うと、自分の右目を撫ぜた。

「酔ったあいつに殴られて、目をやられて、その道はもう断たれてしまった。おれは、何をやってるんだろうって思うことがある。なんでこんな仕事をしてるのか、なんでこんな生活をしてるのか。生きているんだか死んでいるんだかわからない、同じ日の繰り返しだ」

 どんどんやつれていく兄の姿を思い出した。生きているんだか死んでいるんだかわからない、と頭の中で声が響く。

「そんな風に感じているのは自分だけじゃないんじゃないかと、思い始めた。生きること、そして死ぬことを、みんなにも感じて、考えてほしかったんだ」
「先生は、今の生活が嫌なんですね」
「ああ嫌だね。お前たちガキも嫌いだよ」

 冷たい一言だった。だけどどこかで、やはりそうだったのか、という気もしている。

 柳井は舌打ちをし、「あぁ台無しだ」と呟いた。

「目にこだわっていたし、人間は殺したくなかったのに、帰すわけにはいかないじゃないか」

 このままだと殺されてしまうぞ、と森巣を見る。目が合うと、森巣は何かを思い出したという感じで、「そう言えば」と口を開いた。

「もう一つだけ、質問いいですか? 平は何か言いましたか?」
「平も折角、将来のことを真剣に考えるようになったのに残念だったな」

 柳井が僕をみて、残念そうに首を振った。

「先生、俺は何か言われたかと質問したんですよ」
「あぁ、この家に瀬川の犬はいないかと訊かれたよ。お前たちは馬鹿だな。分をわきまえて、何も知らずにいればよかったものを。見ろよ、そいつの間抜けな顔を」

 柳井の回答を受け、森巣が固まるのがわかった。意外そうな顔で僕を見てくる。
 そして、快活な笑い声をあげ始めた。何事かと目を見張る。森巣はただ、愉快そうに腹を抱えていた。
 柳井は呆気にとられていたようだが、「おい、森巣」と声をかけ、それでも森巣が笑い続けていると、次第に苛立ちをつのらせた様子で、拳でテーブルを殴った。

「おれを無視するな!」

 森巣は、柳井を一瞥し、なんとか笑いを落ち着かせると、マグカップを持ち上げた。

「さっき、生きているんだか死んでいるんだかわからないって言ったよな?」

 冷淡な口調になり、森巣は唇の端を上げた。

「いいか、人間は覚悟を決められなかった瞬間に死ぬんだ。こいつは恐怖に立ち向かう道を選んだ。人間の覚悟に敬意を持てなくなったら、そいつは死んだのと同じだぜ」

 豹変した森巣を見て、柳井が顔を強張らせている。

「俺が無用心にコーヒーを飲むと思ったのか? お前の淹れたコーヒーを飲むくらいなら、酔っ払いのゲロを掬い上げて飲む方がまだマシだ」

 マグカップが落下し、高い音を響かせてフローリングに転がる。カップから吐き出された黒い液体が、じわりじわりと、鈍い光を放つフローリングの上を広がっていく。

 柳井は黙って床を見ていたが、憤怒の表情で顔を上げた。

「お前は、動物の死骸を見せて、生きろとメッセージを投げた。そして、平はそれを受け止めて、何かになろうとして行動した。だけど、その平を否定するのはおかしいだろ。生きるとか死ぬとか、ご大層なことを言ってたけど、結局お前は一人ぼっちが嫌になっただけじゃないのか?」

 柳井はこめかみを痙攣させながら立ち上がり、森巣を見下ろした。

「お前は、自分一人で遊ぶのに飽きたけど、誰かを誘う勇気がなかっただけだ。それで、誰かぼくを見つけてって死骸を置いてたんだろ? それか、人と違うことが好きな自分に酔ってただけじゃないのか?」

 森巣の言葉を受け、柳井が唇を震わせながら足早にキッチンへ向かった。森巣は大きく溜め息を吐き出し、やれやれとかぶりを振って立ち上がった。
 戻ってきた柳井の手には、刃渡り十センチはあるサバイバルナイフが握られている。顔を真っ赤にして、蒸気機関のように荒い息を吐き出し、森巣を睨みつけていた。

「そのナイフ、格好いいじゃん。通信販売で買ったのか?」

 森巣がからかうような口調で訊ねると、柳井は右手に持つナイフを森巣に向けた。

 僕は、森巣に対して呆れていた。いや、度を越えて憤っていた。なぜ、そういうことを言うのか、なぜ逃げないのか、なぜ穏便に解決しようとしないのか。僕には、歯を食いしばりながら、二人のことを見ることしかできない。

 柳井がナイフを突きつけ、森巣に突進した。
 森巣も柳井に向かってすり足で移動し、間合いを詰めていく。
 伸びていく柳井の右腕に、森巣も右の前腕を添えた。レールを作り、その上を滑らせるように、柳井の動きを受け流している。
 今度は素早くその右腕を引き、柳井の右手を上から掴んだ。そのまま地面に向かってスナップを効かせて押し出すと、ナイフだけが柳井の手から弾き飛び、落下した。
 動きに無駄がなく、そして大きな力を必要としない、しなやかな反撃だった。格闘と言うよりも、舞いをしているような流麗さがある。
 柳井が愕然とした様子で、目を剥き、森巣を見上げた。
 そこに、容赦なく、森巣の左拳が鳩尾にねじ込まれる。柳井は大きくのけぞり、乾いた空気を吐き出し、呻きながら膝をついた。
 その様を見下ろし、まるでサッカーボールでも蹴るみたいに、森巣は顎を蹴り上げた。

 柳井がひっくり返って頭を打ち、鈍い音を響かせる。
 しんとした静けさに包まれ、全てが終わったとわかった。
 ゆっくりとした足取りで森巣は戻ってくると、僕を見下ろした。

「超短時間作用型の薬は、すぐに効く代わりに持続時間が短い。平が動けるようになったら、犬を連れて帰るぞ」
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登場人物紹介

平羊介 音楽が趣味の平凡な高校生。だったはずが、同級生の森巣と出会い、平和な日常が終わる。勇気を試され、決断を迫られ、町で起こる事件に巻き込まれて行く。

森巣良 イケメンで優しい、クラスの中心にいる生徒。だけど彼には裏の顔があり……その正体は腹黒毒舌名探偵だった。正義の味方ではないが、自分の町で起こる事件に、森巣なりの美学を持って解決しようとする。

小此木霞 平と森巣の高校の先輩。森巣とは幼馴染で、彼が心を許している数少ない存在。森巣の裏の顔や、彼が何をしているのか知っている。知識が豊富でパズルが得意なので、たまに森巣に協力をする。事件に挑む二人のよき理解者。

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