あの人、服を着てないですよね?
文字数 1,960文字
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それが視界に飛び込んできたとき、何かの見間違いかと思った。
僕だけが、見えていないのではないか、と。
男が駅前広場を歩いている。休日なのだから、映画や買い物を楽しむ地元民も観光客もいる。男が歩いているなんて、何も珍しいことではない。が、ぱっと見、彼の姿は肌色が多かった。
黒縁眼鏡、ストライプのネクタイ、ピンクのトランクス、黒い靴下を身につけているのはわかる。手に何かを持っているが、判然としない。
ぱっと、「裸の王様」を思い出した。あの物語で、王様は誰に騙されて、服を着たつもりになっていたのか、と疑問が浮かんだが、思い出せない。
王様は、堂々とした足取りで広場の中央までやってくると立ち止まり、手に持っているものを置いた。それが小さなラジカセだとわかった瞬間に、聞き覚えのある音楽が流れ出した。
マイムマイムのメロディに合わせて、王様が姿勢を低くし、足踏みを始める。
地団駄を踏んでいるようにも見え、何をしているのかさっぱりわからない。
腕を組んで両足を伸ばしていることに気づいたとき、「コサックダンス?」とこぼす小此木さんの声が聞こえた。ちらりと伺うと、小此木さんは自身がつまらない冗談を言ってしまったかのように、恥ずかしそうに目を伏せた。
「あの人、服を着てないですよね」
「よかった! わたしだけじゃないよね」
安堵を共有できたのも束の間、僕はあることに気付き、じわっと額に嫌な汗が浮かんだ。ほっとした様子の小此木さんに、「実は、多分」と伝える。
「あの裸の王様、僕に百万円の入った封筒をくれた人です」
小此木さんが息を飲み、さっと王様に視線を移した。
腰を落としていないから、コサックダンスになっていない。彼の周りだけ、時間の流れが変わってしまうかのように、道行く人の速度が少し遅くなる。立ち止まることはないけど、彼を凝視し、関わらないようにしようと立ち去っていく。
パフォーマンスなのだろうか? と思い、ピエロをちらりと見ると、彼は一緒にしないでと言わんばかりに、見えない壁を作りながら、裸の王様を見つめていた。困惑が見て取れるから、なじみのある大道芸人ではないのだろう。
見かけ通りで体力がないのか、彼は何度も尻餅をつき、その度に立ち上がって座高の高いコサックダンスを続けている。マイムマイムの、嫌に陽気なメロディが痛々しくて見ていられない。
四コーラスくらい終わった頃、三人組の男が、彼に近づいていることに気がついた。
アロハシャツに角刈りの男、ポロシャツの襟を立てた日焼けをした男、黒のTシャツを着た眉の細い男、三人とも格が良く、シャツの肩や袖が窮屈そうに張っている。
歩みに迷いや躊躇いがなく、目をぎらぎらとさせていた。狩りに向かう、肉食動物を彷彿とさせる。
男たちに囲まれ、王様は驚いた様子で尻餅をついた。視線を上げ、きょろきょろと視線を泳がせている。
「なになに、あの人たち」と小此木さんが、心配そうに言う。
角刈りの男が、王様の肩に手を回し、乱暴に立ち上がらせた。叱られている生徒のように、王様は身を縮めている。ポロシャツがラジカセを止め、持ち上げた。お遊びは終りだ、とおもちゃを没収されたようにも見える。
罵声は聞こえてこないが、強面に囲まれ、恫喝を受けているのがわかる。場の空気が一変し、周囲の人たちが足を止め、呆然と成り行きを見守っていた。
膝の上のバッグを、中の封筒を思い出す。王様が僕を指差し、彼らがこっちに来るのではないか? 嵐に巻き込まれるのではないか? と、胃が締め付けられるように痛くなった。
が、僕の予感に話して、強面の彼らは、王様の両サイドに一人ずつ、先頭に一人という、絶対に逃がさない構え、と呼べそうなフォーメーションで移動を始めた。
カラカラと乾いた音と共に、誰かが蹴ったコーヒーの空き缶が、ベンチのそばを転がっていた。少し離れた場所で止まったが、飲み残しが吐き出され、アスファルトに染みを作っている。
はっとし、警察に通報を! と思った頃には、王様たちは人混みの中に消えてしまった。
小此木さんと顔を見合わせる。多分、僕も似た表情をしているだろう、驚きと緊張と困惑が混ざった、なんとも言えない顔をしていた。
ふっと息を吐き、「今のは、なんだったんでしょうか」と呟く。
小此木さんも我に返ったように体を震わせ、「全然わからない」と口にした。
「けど、その百万円が危ないお金だってことはわかったね」
ちらりと見えたピエロが、腰を入れて一生懸命踏ん張っている。が、地面に置かれた鞄は持ち上がらない。僕の膝の上のバッグも、ずしりと重くなったように感じた。
それが視界に飛び込んできたとき、何かの見間違いかと思った。
僕だけが、見えていないのではないか、と。
男が駅前広場を歩いている。休日なのだから、映画や買い物を楽しむ地元民も観光客もいる。男が歩いているなんて、何も珍しいことではない。が、ぱっと見、彼の姿は肌色が多かった。
黒縁眼鏡、ストライプのネクタイ、ピンクのトランクス、黒い靴下を身につけているのはわかる。手に何かを持っているが、判然としない。
ぱっと、「裸の王様」を思い出した。あの物語で、王様は誰に騙されて、服を着たつもりになっていたのか、と疑問が浮かんだが、思い出せない。
王様は、堂々とした足取りで広場の中央までやってくると立ち止まり、手に持っているものを置いた。それが小さなラジカセだとわかった瞬間に、聞き覚えのある音楽が流れ出した。
マイムマイムのメロディに合わせて、王様が姿勢を低くし、足踏みを始める。
地団駄を踏んでいるようにも見え、何をしているのかさっぱりわからない。
腕を組んで両足を伸ばしていることに気づいたとき、「コサックダンス?」とこぼす小此木さんの声が聞こえた。ちらりと伺うと、小此木さんは自身がつまらない冗談を言ってしまったかのように、恥ずかしそうに目を伏せた。
「あの人、服を着てないですよね」
「よかった! わたしだけじゃないよね」
安堵を共有できたのも束の間、僕はあることに気付き、じわっと額に嫌な汗が浮かんだ。ほっとした様子の小此木さんに、「実は、多分」と伝える。
「あの裸の王様、僕に百万円の入った封筒をくれた人です」
小此木さんが息を飲み、さっと王様に視線を移した。
腰を落としていないから、コサックダンスになっていない。彼の周りだけ、時間の流れが変わってしまうかのように、道行く人の速度が少し遅くなる。立ち止まることはないけど、彼を凝視し、関わらないようにしようと立ち去っていく。
パフォーマンスなのだろうか? と思い、ピエロをちらりと見ると、彼は一緒にしないでと言わんばかりに、見えない壁を作りながら、裸の王様を見つめていた。困惑が見て取れるから、なじみのある大道芸人ではないのだろう。
見かけ通りで体力がないのか、彼は何度も尻餅をつき、その度に立ち上がって座高の高いコサックダンスを続けている。マイムマイムの、嫌に陽気なメロディが痛々しくて見ていられない。
四コーラスくらい終わった頃、三人組の男が、彼に近づいていることに気がついた。
アロハシャツに角刈りの男、ポロシャツの襟を立てた日焼けをした男、黒のTシャツを着た眉の細い男、三人とも格が良く、シャツの肩や袖が窮屈そうに張っている。
歩みに迷いや躊躇いがなく、目をぎらぎらとさせていた。狩りに向かう、肉食動物を彷彿とさせる。
男たちに囲まれ、王様は驚いた様子で尻餅をついた。視線を上げ、きょろきょろと視線を泳がせている。
「なになに、あの人たち」と小此木さんが、心配そうに言う。
角刈りの男が、王様の肩に手を回し、乱暴に立ち上がらせた。叱られている生徒のように、王様は身を縮めている。ポロシャツがラジカセを止め、持ち上げた。お遊びは終りだ、とおもちゃを没収されたようにも見える。
罵声は聞こえてこないが、強面に囲まれ、恫喝を受けているのがわかる。場の空気が一変し、周囲の人たちが足を止め、呆然と成り行きを見守っていた。
膝の上のバッグを、中の封筒を思い出す。王様が僕を指差し、彼らがこっちに来るのではないか? 嵐に巻き込まれるのではないか? と、胃が締め付けられるように痛くなった。
が、僕の予感に話して、強面の彼らは、王様の両サイドに一人ずつ、先頭に一人という、絶対に逃がさない構え、と呼べそうなフォーメーションで移動を始めた。
カラカラと乾いた音と共に、誰かが蹴ったコーヒーの空き缶が、ベンチのそばを転がっていた。少し離れた場所で止まったが、飲み残しが吐き出され、アスファルトに染みを作っている。
はっとし、警察に通報を! と思った頃には、王様たちは人混みの中に消えてしまった。
小此木さんと顔を見合わせる。多分、僕も似た表情をしているだろう、驚きと緊張と困惑が混ざった、なんとも言えない顔をしていた。
ふっと息を吐き、「今のは、なんだったんでしょうか」と呟く。
小此木さんも我に返ったように体を震わせ、「全然わからない」と口にした。
「けど、その百万円が危ないお金だってことはわかったね」
ちらりと見えたピエロが、腰を入れて一生懸命踏ん張っている。が、地面に置かれた鞄は持ち上がらない。僕の膝の上のバッグも、ずしりと重くなったように感じた。