第35話  ラッコをさがせ!

文字数 5,147文字

出来栄えとしては未だ六割以下なんですが、もう放流しちゃう!。
ごめんなさい。やるやる詐欺ばかりとなってもいけませんので、申し訳ないんで…。
また、当方においては、やる気ってやつが、失せてきてしまってるってのも事実!。
でっ、読者の皆様のご意向ってやつを仰ぎたいな〜って側面もあるんです。
これって、作品として完成させるその意味って、あります?。 崇





コーチはオットセイの

グリップテープの代用としてお使いのようなのだが、どうしてもそれは、どこのテニスショップにあたってみても、見つからなかった…売ってはいなかったのだ。
解説:ハッキリ言ってあの動物の陰茎の皮です。これをサック式で柄の部分にはめ込むんです。すんごく手には馴染むんです。これはやはり男として生まれてきたからこそのその拘り、選択だったのかと思います。草々。ごめん…。






                頑張っとんな〜やっとんな〜〜


         (今日がお前たちとのミーティング、その最後の日になる……)

解説:指導と称して訳の分からん話を度々生徒らに話してきたので、とうとう問題となり学校から”首”を言い渡されてしまってた。本来はこのことを皆に伝えに来てたのだが、いつもの癖で、また訳の分からん話をここでも”ぶって”しまっているwww。


    どうしたんだろう?。なにか惜別の情たるものを今日のコーチからは感じるわっ。


    場所は部室内へと移って、ミーティングとしての、そのシーンになる。変わる……。


                    『ガタ』










          (今頃になって、テニスとは一体なんだ?と……)











本来的には、楽しいもの、心底からの楽しみに、なりえるもの、それとしてあるべきものなのだ…、ましてやそれが、真剣なるもの、勝敗を決する真剣なるゲームとしてのもの、それへの参加であったなら。それへの、まったくの、完璧なる、渾身において、没入感を伴ってのものでであった場合には……。


生が本来基づくべき世界との一体感を如実に顕現、体感、体得させてくれることになるからだ。



ところで、人間が生きるにおいての幸せとはいったいなんだ?。なにを、どんかことをしているときが、ひとは一番幸せなのか?。またそれはどうしてなのか?…‥。答えが遊びであることには間違いはないのだが、このことの実際においてともなれば、もう少し詳細が、条件としてのものいる。お前たちはそれらの要点としてのものを、知っておかなければならない。







たとえば、いまお前たちが取り組んでいるテニスだ。これにおいての条件を考えてみろ!。自身としての持てる力のすべてを出し尽くしての試合、プレイを行うためにはなにが必要だ?。分かっているであろうがこのことは実は簡単なことではない…。では基本、一体なにが、自分が自分として十全あることを阻んでいるのか?。最善最高のプレイ、これを行うことを難しくしてしまっているのか?。不自由さ、ブレーキとして働いている、その一切を構成してしまっているものの正体とは一体なんなのか?。

ことの正体は配慮だ。自分に対しての、また対戦相手に対しての。無意識としての、いらぬ気遣い、心配だ。社会性を培うことにおいて、これまでの人生で築かれてきてある一切の思考、思い、心理的習慣、それらからの縛りこそがその正体なのだ。問題はこれらからの縛りを破ることこそにある。このことは実は簡単なことではない。

勝つことは目的だ。それは最後まで残る。これこそがテニスをテニスとしてあらしめる根本のルールではあるのだから。これを目的としての両者、両チームとしてのプレーヤー達は相まみえることとになる。お互いをライバル敵として意識しての競い合いがここに起こってくる。

この勝敗へのこだわりこそが最大の縛りなのだ。これこそがお前たちの動きを固くする、全力を出し切ることを阻んである最大の要因になる。だがこのことは背理でもある。雌雄を決するこの明確な審判が伴ってくるからこそ全力を出すこともまた可能になるのだから。

ことの核心を話しておこう…。ことの核心はすべて相手との相性にこそある。また相手にとってはお前との相性のことになる。ことはその相手次第なのだ……。分かるものには分かる。分からないものであるならば、そいつらは一生分かることはないであろう……。

大事なことは一者、片方のみにてではことは成り立たない、成り立つことはないってことなのだ。交流…これが突如、偶然性をもって、これのみに基づいて、十全なる、理想的な、ある意味、世界に祝福されてあるかのようにして果たされ得る、そんな場としてのものに、その機会に、恵まれる場合がある。あなたの思いとしては、どうしたものなのか、ただただ嬉しいばかりなのだ。その相手と相まみえてあることが、テニスとしての運動、肉体を通しての会話が行えることがだ。これにはほんと信じられないぐらい多くの情報が行き交うことが可能なのだ。下手すれば言語をもってしての会話を遥かに超えてしまっている。それも瞬時において為され果たされてしまってる。

もし万が一、ことを適える、奇跡としてのその状況を伴に適えることができたなら、その相手は、お前にとっての最重要、最愛の人間となる。

この人生において最も幸せなことは、そういった最愛としての人間との出会いをどれだけもてることになるのか?!。このことに集約される。これは求めても適わない。探すこと事態が無駄ななのだ。偶然によっての引き合わせに期待するにしかない…。

もう少し踏み込んで話しておくと、その相手をかけがえのない良き可能性としてのものだと認じてある必要がある。その予期可能性が芽吹くことこそを今の自分においてのミッションであると覚えていなければならない。そして今度はことの成否は今の自分の奮闘努力、すべてを出し尽くす、自己の完全開放にこそ基づくものなのだと…。ことの本質は既に勝敗ではなくなってしまてる。それは鉄壁としての重要ごとではあるが、背景へと引き下がってしまってる。それはその場を奇跡のものとする一要因でしかなくなってしまってる。ホスト、もしくは親心としての思い、役割が片一方においては状況において定められ求められてしまっているのだ。このことに本人が気づく必要はまったくない。ことは自然と醸造され付与されてしまうものなのだから。ことの核心をまた違う言葉で表しておくならば、それは愛においての交流の機会であるということになる。この愛こそが奇跡を招き寄せ、具現化、顕現させてあるものの正体なのだ。相手の愛の思いに応えようとするその平素あるまじき努力がリミッターをたやすく解除する、してあれる奇跡としての要因、条件になるのだ。その相手とのほん短いこの奇跡としての逢瀬をほんと大事にしたい、十全なるのその内容質において持ちたい、顕現させてありたいといった責任感こそが一切の拘束を無効化する、し得るもの…。ことは両者間にのみ限定されたその両者によってのみ成り立つ世界の顕現になる。

ことはテニスのみの話ではない。勝敗を競い争うスポーツの世界のみに限定されはしない。音楽、演劇、舞台、事業、仕事、あらゆる他者との協業、関係性に基づくその行為のすべてに言えることなのだ。勝利、利益としてのもの、そのなにかは、実はこの奇跡としての状況環境の創造に対しての報酬なのかもしれない。いやそれさえも副次的なもので、本当の価値は、その活性化された時間を過ごすその渦中にて一翼を担うことの充実感こをがそれなのであろう。

だからこそ、もしそういった相手に出会えたなら、運命の相手だとして感謝しなければならない。誰にだ?、天に、自分がいま生きてあるこの世界こそに。ことが起こることには誰も予想がつかない。ことはいつも最中において判明し、突如顕現してくるものなのだから。この祝福された状況環境の到来に対しては、いつも気付けるようなっていないと駄目だ。ことは最初、かそけき、霊妙なる加減にて察知され、その交流の質は、両者伴になされてある努力によっての賜物、結晶、両者の歓喜、信頼において、より大きく、より豊かになってゆくものなのだから。

そういった人間、相手のことは絶対に忘れれはいけない。自己を敬うが如くしてその相手も敬ってあらねばならない。


そういった相手は千人に一人だ。またそれとしての時間の到来は十年に一回あるかどうかであることを肝に命じておけ!。

















  壁打ち練習における、あの

のものとなって、コート内にて立ってあれと!?



 さすがお蝶夫人、核心においてのその実際を、そのズバリを、完璧に理解なさってられる。
  壁打ち練習をしたものなら理解(わか)るはず、絶対にそれには打ち勝てないってことが……。
          いかな、何人たりとて……それはありえない、無理な話し。
       

、それとしてのものとして、臨んであればいいだけの話し!。


そうだ、その通りだ。お前たちは玉を打ち返すときには、大地たるものの、その

としてあれなければならない。ことにおいては大振りも、強打も、戦略もなにもいらない…‥相手コート内に向けて、玉が帰りたいと思う方向へと、自らを壁として、ただ導いてやるだけで十分なのだ。たとえ相手がその玉を打ち返してきたとあっても、また同じく、壁としてあるだけでいい。大地そのものに、

、対処を、ただ任せてあればいいのだ……。






 では、いざそれとしてのものとして自らを成する為には何かいる?どんな条件が必要だ?


                   お蝶答えてみよ!





ですが、それとしての事態は意志や思いだけでは適わない。全身に神経を張り巡らせてあったとしても、それが鋭敏このうえないものであったとしても、それだけでは適うことではありません。完璧にして完全なる受動態としてのものとしてあって、あれてこそ……つまりは、大地そのものとして在るためには、自らを、我意を、我欲の一切を捨て去り、明け渡して、そのままにて、ゲームにては参戦してあることが必要になります…。この異常にして極めて稀な没入感としてのものを、適わしめる為には、確実に先行しての修練たるものが必要になってまいります。禅の修行におけるあの「経行(きんひん)」のようなものとして、あれと同じ理解、感触においての達成たるものが………。





   (だがキット、だいたいはあってる?。正しいので間違いないだろう……。)





         そうだ、まさに、きっと、その通り。そうなんだろう……。


                  *飛びあり


ラケットはゆうまでもなく、ガットとグリップに投資することを惜しんではならない。

ガットはカンガルーのアキレス腱のやつか、チーターのやつを使いなさい。
バイソンのやつでもかまわない…。

それとグリップにはオットセイの陰茎の皮をサック式ではめて使うといい。
握ったときにおける手の感触が、馴染み具合が、まったくぜんぜん違うから。
最高級品として呼べるものは、とにかく色が、黒ずんでいるやつだ……。








       つまりは海生哺乳類の〇〇コの(かわ)ってことか!(東堂さん)


            この私に、オットセイの◯◯◯を(にぎ)れと!。



      確かに一理あるな…。だがそれは男なればこその事情があったればこそ。
   年頃ともなれば親和性が富に、やけに、高まることと、なってしまいよるから……。













































 お父さんお母さんごめん。ちょっとジョバンニのお父さん探しに北海道まで行ってくるわ。













   どこをどう探しても、見つからなんやないか〜〜!って、お怒りのお蝶夫人。




ことによっては、お前たち女には絶対分かりえない、気づくことができないってことも…。

最後に、超最高級品としてのものは、チーターのアキレス腱で編んだガットだ。

だが、これはもう手に入れることが今ともなればいたって難しくなってしまってる。

もう自分自身でアフリカまで捕りにいくにしかない…。














球出しロボット宗像くんを企画しました。
ゆくゆくはテニス教室で、コーチの補佐としてコレ登場すると思うんだが。
コーチがなんらか合図をすると、コートすみっコから登ってくんの...。
コーチが生徒さんらの相手を直接している間は、ボール拾いを、してくれている。
特筆するべきこいつの効能は、生徒さんらは、スマッシュを打つのが、
やけに、めちゃくちゃ、うまくなる…。
オプションで、衝撃に際しての声出し機能がついてくるぞ〜!。
「いでっ!」とか「当てんなよ〜!」とか「次はこっちが当てたる!」などがある。
ベースはガンタンク。
作画しようか、どうか、たいへん悩んでいる…。








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