第13話  翠玉碑板

文字数 28,671文字

何の因果か翻訳をやることとなりましたー!。当然なこととして意訳。メチャ直訳?。
とりあえずは信頼がおけるで

、かのニュートンが秘匿せるのものにおいて。
上段のが私めの訳で、そんで、それに引き続いての下段がウィキにあったものになります。




          【翠玉碑板(エメラルドタブレット)




Tis(It is) true without lying, certain and most true.

()は、嘘偽(うそいつわ)りなくしての(まこと)真実(しんじつ)(たし)かななりて、また(もっと)真実(しんじつ)なること。

  これは真実にして嘘偽りなく、確実にして最も真正である。

That which is below is like that which is above and
that which is above is like that which is below to ”do the miracle of one only thing”

「下位なるものは上位なるものの

」であり、そして、また、

「上位なるものは下位にあるものの

」なのだ。


 

”奇跡、その顕現において…




  下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとくであり、
  それは唯一のものの奇蹟を果たすためである。

 *神性たるもののその御顕現、宇宙の開闢、創造の光、トロゴオートエゴクラテック...。

And as all things have been and arose from one by the meditatione of one:
so all things have their birth from this one thing by ”adaptation”.

そして、(宇宙における)あらゆるものが、ただ一者により、その彼の

において生じ、

そして、その存在を得たり。すべての生物は、その誕生を、この一者から得たるのだ。

/

の、働きたるものに、(もと)ひして!。


  万象は一者の観照によって一者に由って起こり来たれるのであるから、
  万象は一つのものから適応によって生じたのである。

The Sun is its father, the moon its mother,
the wind hath(have) carried it in its belly, the earth is its nurse.

太陽がそれらにとっての父であり、月が母となる。

、(魂を)、女の胎(袋)へと運び込み、

土塊(つちくれ)たる大地、地球が、それらにとっての養育者となる。

  太陽はその父、月はその母、風はそれを胎内に運び入れ、地はその乳母である。

*絶対化ドライブと相対化ドライブに関してはどっかで既に書いている。
*風は聖霊の挙動においても使われている。
*要は、それは水と同じくして何処にでも這入ることができる。
*自由自在なること。流動性がそれの特色なのだ。
*五大が絶妙なりて、ある方のご意思を履行せんが為に活動しているってのが実相。

The father of all perfection in the whole world is here.
Its force or power is entire if it be converted into earth.

世界宇宙を含んでの、それらにおける、あらゆるすべての完璧さ、
そうであることの根拠たる、父(なる神)が、ここには()してある。

  全世界におけるあらゆる完成の父はここにある。

その権能が、もしくは、その力が、もし、それが変換されてた


この地球圏の中へ、ヒトの生存するこの大地の上へと、
純然なるのままに、そのままのすべてが、流れ込んでくることとなる...。

  それが地に転じるならば、その力は円満となる。

*ここに個人における課題たるものが、ある種の特別なる努力の必要性が、示唆されている。
*悪いが先行する既訳は、なに言ってんのか分からない。

Separate thou the earth from the fire,
the subtle from the gross sweetly with great industry.

汝、土類を火から、精妙なるものを総体より分離せよ。
多大なる努力を必要とする。勤勉に精励をもちて、優しく丁寧なるマナーにて。

  地を火から、微細なものを粗大なものから、非常なる勤勉さで丁寧に分離するがよい。

*ここは「火中において」が真相であろう。
*その火がなんであるかについては皆様はもうお分かりですよね...。
*こここそが本碑文においての核心的な部分となる。
*この分離が果たされてこそ識別知(ヴィヴェーカキャーティ)なる能力が獲得される。
*内において、真に自分であるものと、ただの模造品との違いが分かるようになってしまう。
*悪がなんなのか、真価たるものがなんにあるのかが自動的に明確になってしまう...。

It ascends from the earth to the heaven and again it descends to the earth
and receives the force of things superior and inferior.

それは、大地より天界へと上昇し、そして再び、この大地へと下降して戻ってくる。
そして、それは、優れたるものと、劣ったものとの力を受けとるのだ。

 それは地から天に昇り、ふたたび地へと降って、上位のものと下位のものの力を受けとる。

*戻ってくるのは、ここ肉体が留まる地球が、今生においての定められた生存圏だからだ。
*「影響を受けて変質している」なのかもね...。
*上位界と下位界、その両界の質を、両界とのコネクトを、保持する、している存在。
*その個人の存在圏内(体内)において、撹拌が果たされた、なされてあるが為に。

By this means you shall have the glory of the whole world
and thereby all obscurity shall fly from you.

このことは、あなたが、全世界の栄光たるものに包まれたることの、そして、
ことの結果、すべての不明瞭なるもの、無知蒙昧たる了見に囚われるてあることから、
あなたからが解き放たれたることを意味するであろう。

  方法によってそなたは全世界の栄光を得、
  それによって一切の無明はそなたから去るであろう。

*もう解らんことなくなるて...。
*それはとにかくにも素晴らしいことになるんだって...。
*兎にも角にも、真実と偽りなるものが、はっきりと知られて在るってことは...。

Its force is above all force, for it vanquishes every subtle thing
and penetrates every solid thing.

その力は、上位界におけるそれらすべての力を顕してある。その力は、すべての精妙にして霊妙なるものらからの影響を克服し、また打ち負かし、そして、それらを征服する。そして、あらゆるすべての強固にして堅固なるのものに浸透し、また貫通する力があるからなのだから…。

  その力はすべての力を凌ぐ。それはあらゆる精妙なものにも勝り、
  あらゆる堅固なものをも穿つからである。

*生きるにおいて余計な夾雑物を人間は取り込んでしまうのさ。
*そんで以降、それらはまるで生き物かのような挙動を示すこととなる。
*業、煩悩、妄念、執着、悪害心、場合によっては悪魔悪霊。
*こういったものに対しての抵抗力/支配力を、身に付けることともなる。
*ソリッドは「不死なるもの」のことになるのかもねー。
*物質性のことだとも言える。基盤。檻。有機生命体にとってはどうにもならない制約。
*これを穿つ、これにも打ち勝つ、その制約をも超越することと...。

So was the world created.

まさに、そのようにして、世界たるものは創造されたるのだ。

  かくて世界は創造された。

*ここはずばりトロゴを参照されたし。
*ことは現在も、絶えず永遠に、進行進展中であることは、お忘れなく。

From this are and do come admirable adaptations where of the means is here in this.

このことから、見事なる”適応”たるものがあり得て、また行われる運びとなったのだ。
このことの中おいての「此処」の意味において。

  これに由って来たるところの驚くべき適応、その方法(もしくは過程)は、
  ここにある通りである。太陽の作業についてわたしの語ったことは完遂し畢る。

*ここでの adaptations に対しては、あの「転写」が自分においてのイメージになる。
*シンクロニティー(共時性)でもいいんだけどね...。

Hence I am called Hermes Trismegist,
having the three parts of the philosophy of the whole world.

あらゆるすべての世界に対して有効なる、三項の、哲学大系を保持するをもって、
(われ)は、ヘルメス・トリスメジストと、呼ばれるようなった。

ゆえにわたしは全世界の哲学の三部を具するをもって
ヘルメス・トリスメギストスと称される。

*上記の内容は、三項、三領域、として分けられている。

That which I have said of the operation of the Sun is accomplished and ended.

其は、まさしく私が太陽の[作用/働き/業務]について語ったことであり、
今、ことは遂行されて、そして終わったのだ…。

 太陽の作業についてわたしの語ったことは完遂し畢る。 」

*このエメラルド・タブレットを記す行為こそが、ここにある内容が既に、
 ことの証としとなっている。つまりは産物なのだっと...。
*上位と下位を往還するにおいて、この書は編まれてあるのだよっと...。





            なにかが記されてあるのだけは確かなんだが…

                「 まったく読めん!」(怒)

                   わなわなわな...





後日、あとがきとして仄かなるのマナーにての解説を入れます。

これなんでやるのかというと〜、3Fの第10話で引用するからなんです。

あの中にはもう入れる余地がな〜いー。

サンキュー!

 天村崇



一つのみ...

それは、大地より天界へと上昇し、そして再びこの大地へと下降して戻ってくる。
そして、それは、優れたるものと、劣ったものとの力を受けとるのだ...。

いたく形而下の話しとしても日常の生活圏内の話であったとしてもこれは重要になってくる。
有効なるお話しなのだ...。A界とB界がまず有るってことになる。

このA界とB界は、当事者たるそのヒトが、活動の基盤として何処に何に依って立つのかによる。そこがB界として確立されるまで。そんで、A界はそのことの結果として、自然と別界として登場してくるんだ。そんで、為されるべきは、あなたが両界の仲介者としての役割を果たすこと。

簡単な例を一つ。あなたはとある会社(B界)の営業マンで、顧客たる相手会社(A界)にものを売る。売らなければならない。相手会社が求めるものを自社に準備させなければならない。往々にして商売がスムーズにいく為には、自社製品はモディファイされねばならないといった必要性が伴う。起こってくる。これは間違いのないこと。世の中は敢えてをもってことがうまく行かないようなっている。ただ可能性を与えるのみ。

営業マンとしてのあなたは、つまりは仲介者としての役割をもつあなたとしては、相手方ニーズを総括して会社に持ち帰るといった課題がでてくる。これは意外な話しをするならば、相手方においてでさえ求めることは至極曖昧なる場合がでてくる。だからあれやこれやの相手方情報をあなたが消化して総括せねばならない。つまりは顧客にとっての潜在的ニーズを、

、自社へと伝えなければならいのだ。それも正確にだ!。そしてまた、自社の技術には、あなたが伝える総括されたる課題に応えてもらう必要がある。これはこれで素直に最初から全力を尽くしてくれる訳でもあるまいて...。ことの過程においても都度、あなたからの何らかの作用働きかけ影響が必須となることであろう。*彼ら技術はプライド虚栄心の塊である場合が多い。それでしかないのがほとんど。そして旧態依然としたものしかやりたがらない。面倒くさいのとプロ意識にあまりに欠けているので。そんな彼らをやる気にさせるのもあなたの仕事。言いっ放しではことは絶対にならない。このことにおいては権謀術数を用いてよい。嘘も方便として使いましょう。ことの評価は実際にそのビジネス商売が成立してからになる。その販売が順調に続いていくのならば、あなたは為されるべきことを果たしたことになる。また相手会社と自社にとってハッピーな展開となっているのなら、あなたはA界とB界をとりもったことになる。ではその達成によってあなたが得たるの本当のメリットとはなんだったんだろうか?。金一封を期待することはできない。自社はなんらあなたのやったこを知らないし従来の当然の職務としかみなさないであろう。相手方も感謝の意を表わすことはあろうともそれまでのこと。もしその表しとして何かを送られることがあったとしても、それはまた会社が宛先になるので実際にあなたの懐を潤すことはまずありえない。メリットは営業マンとしての活動圏の広がりになる。これは理屈では獲得できない。

。ことに関しての理解の深まりだって言っても構わないだろう。あなたが達成において得たるのは世界が声なくして大声で求めているところ、ことの核心、交歓の必要性においてのその理解なのだ。このミッションの実態は、ほんと、あまりにもしちめんどくさい行為としかならない。だから”愛”を動機として持たない限りにおいては、ことが成立するまでの、その達成に向けての意志は保てやしないのだ。それは両界に向けて、共に〜が前提になる。…ことの実際は、相手の会社も自社も喜んで欲しいとの願いに尽きる。これもまた一種の愛であることは確かであろう…。

愛は核心ごとではあるのだが、あくまで背景として備わってあるべきもの。ことの達成の、前面における肝要は、ことを成さんとするところの”執念”。絶対にこの仕事は諦めないするところの覚悟。ことがなるまでは地獄の底までお供しようとするところの”意志”。忍耐力と根気が必要になる。それらが試されることとなる。ことはエゴの出番とそれの強化ともなってしまうのだ!。そうなのだ。エゴは、それなりに、人生の荒波を渡るにおいて、できる限りの洗練と強化が各個において為されるべきなのだ。強者たらんとせんとするころにしか真の絶望はあり得ない!。この努力における奮闘も絶対に必要な要素になる。世界を知る為には、まずは外界にむけてのチャレンジを実際にせんとね...。勇気と真剣さこそが求められる!。

彼は外部へのエンターテイメントをもって、自己の本質に魂に良心にも喜びと笑いと満足を与えることになるのさ。両界あってこそ、そのパフォーマンスが初めて可能になるのだから。読者ありてこそ...。この自覚の有る無しが後に大きく道を分けることとなる...。終。

追記:つまりはだ! 両者は、両界は、所詮は幻に過ぎず。やがてには消え去るのみ。
   自己の魂、それの満足だけが、彼にとっての報酬なのだ。「世界」からのねー!。









おまけ:


これは読んでもいいし、読まなくったって〜へっ、かまわない。www。


「グルジェフ・弟子たちに語る」前田 樹子 (翻訳)より
 めるくまーる 現在は廃刊状態。

訳が気に入らないので、前田女子が真面目すぎるのと、元のマテリアルが不完全な為、
後日改訳してしまいます。

いや、しないかも...

もうしんどい...

「ゴースン!」

いや、やります。ちゃんと。数年以内に。



Re: 真理を垣間見る。

ーーーモスクワにおけるグルジェフ・サークルの一員による手記
                               一九一四年
*導入部としての計十六頁は省く。

G「あなたは神秘学(オカルト)の書物に通じている。であるから、あなたが知っている
上のように下もそうである』を(翠玉碑)から引用してみよう...。

我々の論議の基礎をここから始めるのは簡単だ。(改:我々がこれから始める議論において、
これを基礎に据えるのであれば、あとの話が楽になる。)

だが同時に『真理を理解する基礎として神秘学を用いる必要はない』と、言っておかなければならない。『真理はいかなる形で現れようと自明である』。時が来れば、あなたはこのことを完全に理解するであろう。

介入:その、あの、いたくロマン性に溢れた”括り”たるものに、つまりは精神世界とか神秘学とかのこと、魅了されたり惑乱されたりしてはならない。ことはある見地においての現実に関わることなのだから。それでしかないのだから。ただ重要なのは真実を志すのかどうかだけ。ちゃんとその身においてその知識が理解されたならば、そこには冷徹なる現実の諸相が横たわっているだけのこと...。介入終。

だが今日は、あなたに少なくとも一片の理解を伝えたい。繰り返すが、私が神秘学の語句から始めるのは“あなた”に話しているからである。私はあなたがこの語句を解読しようとしたことを知っている。あなたがこの語句を“理解している”のを知っている。だがあなたが今理解していることは、神聖な輝きを遠くから鈍く反映しているものにすぎない。あなたに話すのは語句そのものについてではない。私はそれを分析したり解読したりはしない。我々の会話は言葉の意味に関するものではなく、語句は単なる論議のための出発点として取り上げる。

介入:ここで注意を一つ。Gはこの初見の来訪者に対して、なにを行っているのか?をこの記録を読む中において気づけなければならない。先に、これの解答を言ってしまうならば、真理の描写を芸術的なセンスで、その相手に最も適合した形で行うことにおいて「オルグ」を行っているのだ。ことの一面は、暗示洗脳の様相もってしてのことでもある。彼が、Gが、一味違うのは、話している知識を、その存在において本当に理解してしまっている事実にある。新参者の彼はGに取り込まれてしまうこととなるのは当然な展開であろう...。斯様なまでに真実のインパクトたるものは絶大にして強烈なのだ。追記:彼が善人であるのか悪人であるのかはもう関係ないんだ。そのことには意味がなくなる。基本オルグされることは避けた方が良い!。オーム真理教。介入終。

主題の概念を説明するならば、存在するものすべての統一性、つまり、多元性の中の単一性について話したいのだと言えるかもしれない。貴重な水晶の2、3の切り子面をお見せし、そこにかすかに現れる青白い映像にあなたの注意を引きたい。

私は、宇宙を支配している法則の統一性についてあなたが理解していることを知っている。だが、その理解は思索的、いやむしろ、理論的なものでしかない。知性で理解するだけでは十分ではない。あなたは、あなたのその存在をもって、絶対の真実として、この事実の不変性を感じとらなければならない。そうしてこそ、初めて、あなたは意識し、確信を持って『私は知っている』ということができるようなるのだ。」

グルジェフ氏は、このような言葉の解釈から話し始めた。それから彼は、彼が引用した錬金術の語句を解明する考え方を用いて、全人類の生命が活動する領域を鮮やかに描き出した。個人の人生に起こる些細なありきたりの事柄から、

、人類全体の生命の周期にいたるまで推移した。彼はこのような対比の手段によって、地球上の生命という小範囲では、類似性の法則が周期的に作用することを強調した。そうした後、同じ方法で人類から出発し、地球の生命と呼べるもの、つまり人間という有機体のごとく、巨大な有機体としての地球を語り、さらに物理学、力学、生物学等の分野に移っていった。私は彼の思想の光が、徐々に一点に集中してくるのを見守った。

*類推においての基盤は、あれとこれとはスケールやなにやかやが違えども、なにか似たものがそこにはあるとの直感になる。この直感把握もまた、どうしても疑い得ない真実として、その個人においては保持されてあるべきものなのだ。これはね〜芸術的なるものに対しての、接しての反応を呼び起こす感性(センス)のあるなしに帰着するところのものなのかもしれない。

彼が語ったことが必然的に帰納するのは、「三つの統一体」という大法則、
すなわち、作用・抵抗・平衡の三原理の法則、あるいは能動・受動・中和の原理である。

*三の法則。トリアマジカムノ。

地球の

基盤に立ち、この法則で身を固め、思索の大胆な飛行を試みた彼は、この法則を太陽系全体にあてはめた。彼の思考はもはや「三つの統一体」という法則に向けて進むのではなく、既にその法則の外にあって、ますますその法則を強調しながら、人間に一番近い段階、つまり地球と太陽の段階に、この法則の発現を求めた。そこから簡単な言葉で、太陽系圏外へ走り去ってしまった。天文学データが突然現れた後、次第に小さくなり、無限の空間を前に消滅したかのようであった。後に残ったのは、同じ偉大な法則から発する、ただ1つの崇高な思想であった。

彼の言葉はゆっくりと、重厚な響きを持っていたが、同時に低くなり、重要さを失うようであった。言葉の背後に、途方もなく遠大な思想が脈打っているのを感じ取ることができた。

G「我々は、普通の人知では超えることのできない無限のふちに到達したのだ。あなたは、言葉がいかに余計で無用なものであるかを感じることができるだろうか?理性そのものがここにおいては、いかに無力であるかを感じることができるだろうか?。我々は、あらゆる原理の背後にある原理に近づいたのだ。」

こう言い終えて、彼は沈黙し、深い思索にふけっているかのように一点を見つめた。この思想の美しさと壮大さに魅了され、私は次第に言葉を聞くことをやめていた。私はそれをまさしく感じ取っていたのだ。ということはだ、私は理性によってではなく、直観によって、その教えたるものを、把握していたのだと言えよう...。はるか眼下の人類が無に帰し、跡形もなく消滅した。私は不可知なるものの近くにいる感じでいっぱいになり、私という一個人が無であることを深く意識した。

私のこの思考を見抜いたかのようにして、グルジェフ氏は言った。

G「我々は人間から出発した。彼はどこに行ってしまったのだろうか? だが、崇高にしてすべてを抱擁するのが、統一性の法則である。宇宙に存在するあらゆるものは”一つ”であり、違いは単に規模(スケール)にしかない。無限に小さいものの中に、無限に大きいものの中に見いだされるのと同じ法則が見いだされる。“上のように下も”である。

太陽は山頂に昇ったのだが、それでも谷間はまだ暗いままだ。それと同じくして、人間の条件を超越する理性は神聖な光をみるが、みたるのだが、下に住むものたちにとってはすべてが暗黒のままなのだ。もう一度繰り返して言うが、世界のすべては”一つ”としてあるのだ。理性もその一つの内にあるなのだから、人間の理性は探索のための強力な道具となりうる。

さて、原初たるもの、その存在に達したのだから、今度は我々が出発した地球へと下降しよう。我々は地球の位置を、宇宙を構成するその配列の中に見いだすことだろう。ほら!」

彼は略図を描き、力学の法則を参考にしながら、宇宙構造の輪郭を示した。調和を保つ系統立った欄に記された数字や表象が、単一性の中の多元性を現し始めた。数字が意味を持つ衣をまとい、死滅していた概念が蘇生し始めた。同一の法則がすべてを支配している。
歓喜を伴う理解を持って、私は宇宙の調和的発展を追っていた。

彼の図は大原初に始まり、地球で終わった。この解説を与える傍ら、グルジェフ氏は、外部からある場所に達し、二つの相反する原理を一つの調和した統一体へと変えるもの、つまりは彼の言う「衝撃」(ショック)の必要性について触れた。これは力学で言う、力のつりあい機構における加力点に相当する。

G「我々は、地球上の生命が接続する点にまで到達した。」とグルジェフ氏は言った。
G「今のところ、これより先へは行かない。たった今述べたことをもっと綿密に調べ、法則の統一性をもう一度強調するために、ある単純なスケールを取り上げ、それを小宇宙の大きさに比例して拡大し、あてはめてみよう」

彼は、白光のスペクトルや、音階のように規則的な構造を持つなじみのものを、
1つ選ぶようにと言った。私は考えてから、音階を選んだ。

G「あなたは、よいものを選んだ。」とグルジェフ氏は言った。
G「実のところ、現存する形の音階は、古代に偉大な知識を持った人々によって
  組み立てられたものであり、基本的法則を理解する助けとなる。」

彼は音階を構成する法則について2、3語り、あらゆるオクターヴのミとファの間と、1つのオクターヴのシと、その次のドとの間にある、間隙(ギャップと、彼は呼んだ)を特に強調した。これらの音の間には、音が上がる時と、下がる時の両方に欠けている半音がある。オクターヴの上昇展開では、ド、レ、ファ、ソ、ラは次の上の音に変わることができるが、ミとシは、この可能性に欠けている。これら2つの間隙が、「三つの統一体」の法則に従属する一定の法則に従い、他の順位の新しいオクターヴによってどのように埋められるか、そしてそうした新しいオクターヴが、間隙に対して、前述のオクターヴの進化と退化の過程における半音の役目を果たしていることを説明した。

主要オクターヴは木の幹に似ていて、従属オクターヴという枝を出す。オクターヴの主要7音と、「新しい方向の担い手である」2つの間隙が、1本の鎖の9つの()、またはそれぞれが3つの環を持つ3つのグループをなす。

この後グルジェフ氏は宇宙構造の略図に移り、地球を通り抜ける進路を持つ「一条の光」を図上に選び出した。最初の力強いオクターヴは太陽、地球、月の順に力を減じ続けるようにみる諸音を内包し、「三つの統一体」の法則に従って、三つの従属するオクターヴに必然的に下降する。ここでオクターヴの中の諸間隙の役割と、それらの異なる性質について説明され、明瞭になった。

ミとファの間と、シとドの間の2つの音程のうち、一方は能動的で、より意志的な性質を持ち、
他方は受動的な役割を果たす。私にはまるでわからなかった初めの図の中の「衝撃」も、ここでは原則であり、新しい光に照らし出された。この「一条の光」という区分の中で人類の占める位置、役目、運命が明らかになった。その上、一個人としての人間の可能性は、さらに明確である。

グルジェフ氏が言った。
G「あなたには、我々が単一性という目的を追いながらも、それから逸脱し、多元性について学ぶ方向へとやや走ったと思えるかもしれない。これから私が説明することを、あなたは理解するに違いない。だがその理解は、主としてこれから述べることの構造部分に関していることに違いない。あなたの関心と注意を、その美しさや、調和や、巧妙さではなく(この側面さえ全部は理解しないだろうが)、その精神、言葉の背後に秘められているもの、内面の意味に固定しなさい。さもないと、生命のない外形だけをみることになる。これからあなたは、水晶の切り子面の一つを観るのであり、あなたの目がその中に映像を感知できるなら、あなたは真理そのものに近づくことができるであろう。」

そしてグルジェフ氏は、基本的オクターヴがそれに従属する二次的オクターヴと組み合わさる方法と、二次的オクターヴが、さらに次の順位の新しいオクターヴを生じることなどについて説明し始めた。私はそれを成長過程、あるいはもっと適切には、木の形成に例えることができると思った。実を言うと、私の注意は主として、この体系の調和と美しさに惹かれたということを認めなければならない。木の幹の枝のように、オクターヴが発展するということに加え、グルジェフ氏は、あらゆるオクターヴの一つ一つの音が、別の観点からすれば、一つのオクターヴ全体であること、そして同じことがあらゆるところで真理であることを指摘した。こうした「内部」のオクターヴは、一つの円が他の円の中におさまる木目の同心円になぞらえることができる。

*(あらら、何やら既読感が...)

こうした説明はすべて、極めて一般的な用語でなされた。構造の法則性が強調されていた。しかしそれに伴う例証は、むしろ理論的であるかのように思えた。例証が説明に生命を与え、私は言葉の背後に秘められたものを、ときおり本当に推測/類推し始めたかのようさえ思えていた。宇宙構造における一貫性に、それが適応されうるすべての可能性、すべての組合せが例外なく予見され、無限の中の無限が予示されていることを思い知った。それでも私には、そのほとんどのことが理解できなかった。私の理性は、この概念たるものの、無限な広がりの前にたじろいでいたのである。私は再び、全知の可能性が手近にありながらも、同時に、接近できないという意識による、二重のジレンマの感覚に満たされてあった。

*ここで働いているブレーキの正体が興味深いんだ。
 これを解除できるようなるためには存在の深みたるものの獲得がいる。
*死ぬほど苦労して何かの目標の達成に勤しむ。
*そんで人生の苦渋悲哀をその身にしこたま知る。
*それでも眼差しを高くに据えれるかどうか...。

私は、感情に反響する、いたく影響を与えている、グルジェフ氏の言葉を再度耳にした。
G「いかなる通常の理性も、偉大な知識を自己のものとし、失うことのできないものとするには十分でない。それにもかかわらず、そうすることは可能である。だが、初めに、自分の足のほこりを払わなければならない。飛翔(ひしょう)することができる翼を手に入れるには、膨大な努力と途方もない苦労が必要とされてある。流れとともに、あるオクターヴから他のオクターヴヘ運ばれる方が何倍もやさしい。だが、そうすることは、一筋に願い、為すことより、測り知れないほど長くかかる。道は困難であり、登るにつれて険しくなる。だが、人の力もまた強さを増してゆくのだ。鍛えられ、一段昇るごとに視界が広がる。然(しか)り、可能性はある。」

*イエスが弟子たちを単独にての宣教に送り出すときのアドバイスですね。
*翼は決断力。人の世の世界を彼方へと捨て去る勇気。
*真実を瞬きすることなく見続けることにおいて、その無価値なることを初めて知る。

私は確かにこの可能性が存在することを知った。それが何であるかまだわからなかったが、そこにあることを知った。次第に理解が増大したことを、言葉で表すのは難しい。今や判然としてきた法則の力が、実際に一切を包括すること、一見、法則に背反するように思われたことが、さらに細かく調べると、それを確認するだけのことであった。「例外は原則を立証する」と誇張せずに言えるとのと同時に、例外は実際には例外ではないのだ...。

理解できる人たちに対しては、私は、ピタゴラス派の言う意志と運命、つまり神の摂理が働くあらゆる領域が、いかに互いに競いながら共存し、また、融合したり分離したりせずに、それらがいかに混ざり合っているかを理解したのであると言うであろう。このような矛盾する言葉を持って、私の理解を伝えたり明瞭にしたりするという希望を抱いてはいないが、これ以上の言葉は見いだせない...。

グルジェフ氏は続けて言った。
G「オクターヴの体系と呼べるものについて完全な理解を持つ人が、単一性を理解する鍵を持つ。みるものすべて、起こることいっさい、つまり、あらゆるものの本質を把握する。つまり、あらゆるものの場所と原因と結果を知っているからであるのがおわかりであろう。だが、あなたは、これが初めの図のさらに詳細な展開であること、統一性の法則のさらに厳密な表現であること、今まで話したこと、またこれから話すことのいっさいが統一性という基本概念の発展以外の何物でもないことをはっきり理解する。この法則についての、こうした完全で、明確で、透明な意識が、まさに私の言った偉大な知識なのである。そういう知識を持つ人にとって、推論、仮定、仮説は存在しない。もっと明確に言うと、彼はあらゆるものを『大きさと、数と、重さ』で知っている。宇宙に存在するあらゆるものが物質である。したがって、偉大な知識は、唯物論より唯物論的である。このことは、化学を調べてみるならば、さらにはっきり理解することができる。」

グルジェフ氏は、オクターヴの法則の知識なしに様々な密度の物質を研究する化学が、いかに最終結果に影響する誤りを内包しているかを論証した。これを知り、オクターヴの法則に基づく訂正を加えると、計算によって得た結果と完全に一致する。さらにグルジェフ氏は、現代の化学にみられる単体、あるいは単一元素という概念は、オクターヴの化学、つまり、「客観的化学」の観点からは認めることができないことを指摘した。物質はあらゆるところで同じであり、物質がオクターヴの中に占める位置と、そのオクターヴ自体の順位によって、物質の多様性が生じる。

この観点に立つと、原子を単体あるいは単元素の分解できない構成単位とする仮説は、モデルとして役立たない。ある密度の原子、つまり実際に存在する不可分体とは、化学的、物理的、宇宙的特質、すなわち、あるオクターヴの中の特定音をなすという特徴を持つ被調査物質の最少量として理解されなければならない。例えば、現代の化学には水の原子というものはないが、それは水が単体ではなく、水素と酸素の化合物であるとされているためである。だが、「客観的化学」の観点からすれば、水の「原子」とは、水の

であり、肉眼でみることさえできるものである。そしてグルジェフ氏はつけ加えた。

脱線:セメント塗りの仕事がこの夏いっぱい続いているのさ。これがさ〜難しいんだ。あんまり水で薄めちゃうとセメントとしての硬化が中途半端になっちゃう。期待する仕上がりにはならない。後で剥離したりひび割れがおこってきてしまう。それに速硬化性のセメントなのに中々固まらない。それの期待された性能の発現のためには、適切な水との配合比率が前提になってきてしまうんだ。まあ当たり前の話でしかないが…。水も水として、その個性たるものを発現するためには、ピペットからの一雫(ひとしずく)程度の量は絶対に必要となるんだ。追記:ここにある言説の背後には、また深遠なる奥行きってものがあって、天地を跨いで化合された物質はふんだんに必要になるんだ。結晶化っていう事態を思いやって欲しい。中途半端な濃度では核としての結晶が太ることはない。またなによりも、これも別途付加的な話しであることにつきるのだが、その結晶が肥え太るための”核”たるそのものの入手事態が大変な労力を経てからのことになるんだ。終。

G「もちろん当分の間は、あなたは言われるままを信じなければならない。
  しかし、偉大な知識を所有している人の指導に従って知識を求める人々は、
  密度を異にする物質の原子が何であるかを、自分で証明し、調査して、
  確証しなければならない。」

*(自分で実証したものしか理解とはならない。ただの知識。ただの観念。
  それには実体はない。)

私は、このことすべてを数学的表現においおて理解した。
宇宙のあらゆるものが物質であり、あらゆるものがオクターヴの法則に従って、
数で測定できるということをはっきり納得できた。
基本的物質成分は、様々な密度を持つ一連の音として下降する。
これらは一定の法則に従う数の組合せによって表され、
測ることができないと思っていたものが、測れた。
物質の宇宙的特質と言われているものが明瞭になった。
まったく驚いたことに、現代の化学の誤りを示す説明とともに、
例証として、ある種の化学元素の原子の重さが与えられた。
これに加え、さまざまな密度の物質の「原子」構造の法則が示された。
説明が進むにつれ、ほとんど気づかないうちに、
「地球オクターヴ」と呼び得るかもしれないところへと進み、
初めに出発した場所、つまりは、ここ地球へと到着していた...。

グルジェフ氏は続けた。
G「今まで述べてきたのは、新しい知識を伝えるためにではない。むしろ、ある法則の知識が
あれば、無限に大きいものも小さいものも、存在するすべてを、自分のいるところから動かずに、数えたり、重さや大きさを測ることを可能にする、ということを説明したかったまでの
こと。繰り返して言おう、「

」。この言葉をよく考えれば、
なぜ私が、“唯物論以上に唯物論的である″という表現を使ったのかをある程度は理解する
であろう。

さて、我々は、小宇宙の生命を支配する法則を心得て、地球に戻ってきた。“上のように下も”ということを、もう一度思い起こしなさい。あなたはもう、これ以上説明しなくても、一個人、つまり小宇宙の生命も、同じ法則に支配されているという事実に反論しないであろう。だが、細部が明瞭になる実例を一つだけあげて、これを説明しよう。特定の問題、つまり、人間という有機体の、その仕組における仕事の手順を、取り上げて、調べてみよう。」

グルジェフ氏は人体の略図を描き、それを頭部、胸部、腹部で表される3階建ての工場にたとえた。まとめてみると、工場は完全な全体を形成する。これが第1の順位のオクターヴであり、大宇宙の調査を始めた時に述べたオクターヴに類似する。それぞれの階もまた第1のオクターヴに従属する第2の順位の完全なオクターヴを代表する。このように、我々は三つの従属オクターヴを持ち、宇宙構造の図の中のオクターヴに類似する。

三つの階は、外部から、それぞれにふさわしい種類の「食物」を受け取り、同化し、既に加工された材料と

、こうすることで、工場はある種類の新たなる材料を生産する。

さらにグルジェフ氏は言った。

G「工場の設計はこの材料を生産するのにふさわしく出来ているのだが、

、この事業は非常に不経済に経営されている。材料の、絶え間ない膨大な消費や浪費によって、生産の大部分が、その工場を維持することと、材料を消費し、加工することだけに向けられるとすれば、その事業はどうなるであろうか? 残りの生産物は無駄に、無目的に消費される。事業は的確な知識に従って組織されなければならない。そうすれば大きい純益をもたらし、それを自分の判断で使うことができる。ところで、略図に戻ろう。」

介入:ことは自前の活性化元素としてのエネルギーのことになる。いつも疲れ果てて、帰ってきてすぐ「バタンキュー」では何のための人生なのか?。この自己のエネルギーを効率良く生産して、かつ無駄のない賢い使い方を学ばなければならない。そのことにおいて簡単に言うと、流れる河のように。引っかかりを持たないように。あれこれに目くじら立てないように。怒ってもしょうがないから。だからリラックスして、動きにおいては、溜めと弾みを自ら意識的にコントロールできるように。批判する前の一旦停止のこと。意識的に目的をもって仕事を行うこと。全センターが関与できるよう工夫する。すると、何故か前ほど疲れなくなっている。家帰ってから座禅もしくは瞑想をやれるようにもなった。てなことー。終。

そして彼は、下の階の食物が肉や飲物であり、中間の階の食物が空気であり、上の階の食物は「印象」と呼べるものであることを説明した。これら3種類の食物は、いずれも、異なる順位のオクターヴに属し、一定の密度と特質を持つ物質を表す。

介入;ここでの印象は「気づき」と言い換えてもいいだろう…。「はたと気づく」ってな経験を誰もが持ってるはずだ。見てもあるし読んでもあるし聞いても食べても感じてもあることだろう。そのときのあなたの状態とはなんであろうか?。そのときのあなたの状態の特色とは?。簡単に言えばあなたはその気付きのあるとき、覚醒してるんだ。自覚は一切ないだろうが、本体たるものが、稀なことに、そこに結ばれて在るんだ...。終。

ここで私は質問を控えることができず、「思考はどうなのですか?」と尋ねた。

G「思考も、あらゆる他のものと同じように、物質である。」とグルジェフ氏は答えた。

*(ヘビーマインドって言葉があるのは知ってる?)

G「これを証明するだけでなく、思考の重さと大きさを、他のすべてのもののように、測る方法がある。思考の密度は判断でき、こうして、異なる場合における同一人物の思考を比較することができるかもしれない。あらゆる質の思考を定義することができる。既に話したように、宇宙のあらゆるものが物質である。」

この後、グルジェフ氏は、人間という有機体の諸部分に受け取られた3種類の食物が、法則の作用によって相互に接続し、対応しているそれぞれのオクターヴの出発点に、どのように入るかを示した。したがって、この出発点はいずれも、それぞれの順位のオクターヴのドを表す。オクターヴ発展の法則はあらゆるところで同じである。



例えば、胃に入る食物オクターヴのド、つまり第3のドは、ドとレの間の半音を経てレになり、また次の半音を経てその先のミに変わる。ミは半音に欠けるので、自然の発達経路ではファになれない。ミは胸部に入る空気オクターヴによって助けられる。既に示したように、これは高い順位のオクターヴであり、そのド(第2のド)はレに移行するために必要な半音を持っているので、前のオクターヴのミと結合してファになる。ということは、第2のドが、第1のオクターヴに欠けている半音の役割を果たして、最初のオクターヴがさらに発達するための衝撃として役立つのである。

グルジェフ氏は言った。
G「第2のドで始まるオクターヴと、定まった位置でそのドが入る第1のオクターヴについて調べることをここで止めてはいけない。止めれば複雑になる。我々は、問題のオクターヴが、半音のおかげでさらに発達する可能性を持つことを確かめた。ファは半音を経てソ(sol)になる。実際にここで受け取られる材料は、人体という有機体の塩であるようだ。ロシア語の塩は”sol”である。これが人間という有機体が産出できる

である。」

介入:最後は聖書における次の一文を暗示している。『あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである』。つまりはだ、これの産出ができていない人間は人間であって人間ではないのだ。終。

それからグルジェフ氏は数に戻り、数の組合せに関する彼の思考をもう一度明らかにした。

G「オクターヴがさらに発展して、ソが半音を経てラになり、ラが半音を経てシになる。
  シが人間という有機体の新しいオクターヴのドに変化するには新しい衝撃が必要である。
  私が今までに語ったことと、化学に関する会話から、あなたは幾つかの重要な結論を
  引き出すことができる。」

私はこの時点で、頭に浮かんだ考えを明確にせずに、断食の効用に関して、あることを質問した。グルジェフ氏は話すのをやめた。Aが私を非難がましく見たので、私はとっさに、自分の質問がいかに不適切であるかを、はっきり認識した。誤りを訂正したかったのだが、そうする前にグルジェフ氏が言った。

G「あなたに、ある実験を見せたい。その実験は、その問題を明確にするであろう。」

だが、Aと目くばせした後で、彼に何か尋ねてから言った。

G「いや、後にした方がよい。」そして、しばらく沈黙してから続けた。

G「あなたの注意力が疲れによって続かなくなってきているのはわかるが、私が今日話したいと思ったことは、もう終わりに近い。私は人間が発達するにおけるその進路/経路について、ごく一般的に触れるつもりだったのだが、今はそのことはそれほど重要でない。これについての話は、もっと適当な時に、後日にしよう。」

「あなたのおっしゃることから、」と私は尋ねた。「ときどきお会いして、私の関心のあることについて話し合う機会を与えてくださると考えてよろしいのですか?」

G「我々は今、そうした会話を始めたばかりだ。」とグルジェフ氏は言った。

G「続けることに異議はない。多くはあなた次第である。
  この意味はAにくわしく説明してもらおう。」

その時、私が説明を求めてAの方に向くのを見て、
G「だが今でなく、いつか他の時に」と言い足した。

G「今、私は次のことを話したい。宇宙のあらゆるものが1つであり、したがって、あらゆるものが同等の権利を持つ。この観点に立つならば、出発点がどこであろうと、知識は適切で完全な研究によって獲得することができる。人は、いかに“学ぶ”かを、まず知らなければならないだけだ。

我々に一番近いものは人間であり、あらゆる人の中であなたに最も近いのはあなた自身である。あなた自身についての研究から始めなさい。“汝自身を知れ″という言葉を思い起こしなさい。今、あなたはこの言葉の意味を前よりはよく理解できるはずだ。

始めるに当たって、Aが彼自身の力とあなたの力を測る助けとなる。
先ほど示した人間有機体の図をよく記憶しておくように。
将来、ときどきその図に戻り、そのたびに理解の深さを加えてゆきなさい。

さて、Aと私はちょっと用事があるので失礼する。
私が語ったことについて頭を労するより、今は少し頭を休めることを勧める。
たとえあなたが何かを忘れることがあっても、Aが後であなたに思い起こさせてくれる。
もちろん、思い起こさせてもらう必要がなかったら、それに越したことはない。
何も忘れないように習慣づけなさい。さあ、コーヒーを飲みなさい。効き目がありますよ。」

2人が席を立った後、私はグルジェフ氏のすすめに従ってコーヒーを注ぎ、座り続けた。
私の断食についての質問から、グルジェフ氏が私の注意力が疲れたと判断したことに気がついた。私は、会話が終わったときには、思考力が減退し、思考の幅が限定されていたのに気がついた。それで、もう一度すべての図と数に目を通したいという強い願望があったのだが、グルジェフ氏の言うように、頭を休めることに決め、目を閉じ、何も考えないようにして座った。だが、私の意志とは別に思考が起こった。私はそれを追い出すのに努を要した。

私には聞こえなかったが、20分ほどしてから、Aが入ってきて言った。「ところで、どう?」
答える暇もなく、私は間近に、「私の言ったようにしなさい。そうすれば誤りがどこであるかわかるであろう」と誰かに言っているグルジェフ氏の声を聞いた。それから、ドアを覆って掛けてあった絨毯を持ち上げて、彼が入ってきた。前と同じ場所、同じ姿勢を取って、私の方に向いた。

「少しは休めましたか? さあ、これからははっきりした段取りなしに、
 思いついた事柄を話そう。」

私は、会話の主題とは直接かかわりはないが、彼が言ったことの性質をもっと
明瞭にするかもしれない2、3の質問をしたいと伝え、質問した。

「あなたとAは、現代科学のデータを非常にたくさん引用しますが、“あなたの話される知識は、無知で教育のない人にわかるだろうか?″という疑問がおのずと持ち上がります」

G「あのような資料を引用したのは、あなたと話したためだ。あなたは、こうした事柄について幾分かの知識があるので理解する。こうした事柄は、あなたがあることをさらによく理解するのに役立った。そういうものは例として与えたにすぎない。これは、会話の本質ではなく形式に関することだ。形式は非常に異なり得る。現代科学の役割と意義について、今は何も言わないことにしよう。それは、別の話の主題になることだ。これだけ言っておこう。最高の教育を受けた学者が、無学ではあるが知識を持つ羊飼いにくらべ、全く無知な人間であることを立証することさえあり得る。矛盾しているようだが、本質を理解することに、学者は長い年月をかけて細心に調査するが、羊飼いは一目の瞑想中(直感把握)に、比較できないほど充実した度合いで理解するであろう。それは考え方、つまり“

”の問題である。この用語は、今のところあなたには何の意味も持たないが、そのうち、おのずとはっきりする。他に質問は?」

「なぜこの知識は、それほどまでに注意深く隠されているのですか?」

G「何がそういった質問をあなたにさせるのであろうか?」

「神秘学の書物に親しんでいる間に、たまたま知った幾つかのことです」と私は答えた。

G「私が判断するかぎり」とグルジェフ氏は言った。
G「あなたはいわゆる“伝授“についての質問に触れている。そうですか?それとも違いますか?」
私は肯定し、グルジェフ氏は続けた。

G「その問題の真相はというと、神秘学の書籍で言われてきたことの多くは、不必要で真実でないということに尽きる。それらは全部忘れた方がよい。この分野におけるあなたの探求のすべては、知性にとってよい訓練であった。その意味では大きな価値がある、だがその意味においてのみだ。あなた自身が認めるように、それはあなたに知識を授けなかった。

すべてを常識をもって判断しなさい。あなた自身の判断を持ち、何ものも、そのまま信じてはいけない。あなた自身が、筋道立った推論と論拠によって、あることについて動かすことのできない確信と完全な理解に達した時、あなたは一定の水準の伝授を達成する。これについてをもっと深く考えなさい。

例えば、今日私はあなたと話をした。この話を思い起こしなさい。考えれば、あなたは、本質的には私が何も新しいことを話さなかったという私の意見に同意するであろう。あなたは私が話したことを全部知っていた。私がしたただ1つのことは、あなたの知識の中に秩序をもたらしただけのことである。私はそれを体系化したのだが、あなたは私に会う前に、既に知識としては持っていた。それは、この分野におけるあなたの努力を知っていたためである。Aのおかげで、あなたに話すのはやさしかった」

グルジェフ氏はAを指し、「それは、彼が私を理解することを学び、またあなたを知っているからだ。彼の話から、あなたが来る前に、あなたとあなたの知識について、またあなたがその知識をいかに手に入れたかを知っていた。だが、そうしたすべての有利な条件にもかかわらず、あなたは私の言ったことの百分の一も会得はしていなかったことを、私は確信を持って言える。

しかしながら、私はあなたに、新しい視点の可能性への糸口を与えた。
その視点からなら、今まで獲得してきた知識を結びつけ、解明することができるはずだ。

この努力を通して、あなた自身のこのワークのおかげで、
あなたは私の言ったことを、
さらにもっと深く、よ良く理解することができる。
ことは、あなたが、あなた自身に、“

”のだ…。

*マハラジも同じことを言っている。私の元に来る必要はないって。
*ただ「私は在る」だけに成り果ててなさいって。そしてその在るもまた消え失せる...

1年後にも、我々は、また同じことを話しているかもしれないが、その間、焼き鳥が口の中に舞い込んでくるのを待ち望んでいてはならない。あなたは修練し、ワークし、努力を行い、そしてあなたの理解は変わる...。あなたはもっと“奥義を授けられる″のである。人から奪うことのできない、その人自身の属性となるいかなるものも、仕事しない者に伝授することは不可能である。そのような伝授は存在し得ない。

だが、不幸にして人々は、往々にそういう伝授が存在すると信じて考えて憧れるのだ。

あるのは、“自己伝授”だけなのだ。他人は、教え導くことはできても、“伝授”することはできない。この問題についてあなたが神秘学の書物のうちに偶然見つけたものは、他人の言葉をよく確かめもせずにいい加減なままに伝え、その知識を解く鍵を失った人々によって書かれたものだったのだ。

あらゆる

。神秘学の研究は、知性を訓練するには多くを提供するが、しばしば、不幸にして非常にしばしば、人々は神秘の毒で冒され、実際に役立つ結果を目指しながら、何を為すべきか、あるいは、いかに為すべきかについて完全な知識を持たないために、取り返しのつかない被害を被ることとなる。調和(バランス)が破られる。むしろ、何もしない方が、ちゃんとした理解なし知識なしで行うより百倍もよいのだ。(安全なのだ)

介入:ここはちゃんとした瞑想訓練も経てきていないのに、いきなりクンダリーニの覚醒に挑戦する人たちが良い例になるだろう。幸せになる為だって、自己の願望を叶える為にだって!。確実に精神病院行きになる、もしくは人生の大切な時間をドブに無為に捨てたことになる。終。

あなたは知識が隠されていると言ったが、そうではない。知識は隠されてなどいない。人々がそこに目の前にある事実を真実を理解できないだけなのだ。高等数学について、数学を知らない人と話をしたところで、何の役に立つであろうか? 彼はあなたを理解しないだけであろう。

我々にとっての課題はもっと複雑にして至難としてのものになる。相手の理解力に合わせる努力をしないで、自分に関心のある主題について今誰かと話すことができたら、私は個人的には非常にうれしい。だが仮に、私があなたにそのような方法で話し始めたら、あなたは私を狂人、あるいはもっと悪いものとみなすであろう。

*ここでの問題/課題は、如何に自分の理解を相手に伝えることができるか。
*自分もこれに挑戦しているつもり!。創意工夫を積み重ねてきてます♡。

人々は、ある概念を表す言葉を、あまりにも少ししか持たない。
だが、そこでは言葉は問題ではなく、言葉の根源と、背後の意味が問題であり、
単純に話すことができなければならない。理解がなければ、これは不可能だ。

今日あなたは、このことを、あなた自身に立証する機会を得た。私は他の人には、あなたに話したようには話さない。その人は理解しないであろう。あなたは既に、ある程度の伝授に達していた。話す前に、その人がどれだけ理解しているかを知り、わからなければならない。理解は仕事によってだけ得られる。

それで、あなたの言う“

”とは、実は与えることができないということであり、そうでなければ、すべては全く違っているであろう。これにかかわりなく、知識を持つ人たちが説明しようとしても、それは無益であり、全く非生産的である。聞き手が理解するということを知って初めて私は話す。」

「それでは仮に、私が今日学んだことを誰かに話したいと言ったら、反対なさいますか?」

G「話したのは、」とグルジェフ氏は答えた。

G「我々の会話の初めから、私はこの会合が続く可能性を予見したからである。そうでなかったら話さなかったようなことを話したのだ。あなたがまだ十分に準備されていないのを知りながらも、私はこうした問題について、あなたの思索に一定の方向を与える目的で、話したのだ。

「まさしくそのとおりであるのを、よく考察すれば納得するであろう。
 あなたは私の言うことを的確に理解するであろう。あなたがそういう結論に到達すれば、
 あなたの話す相手にとってだけ益となる。あなたは好きなだけ話してよい。
 そうすることによって、あなたに理解できていて明瞭なことが、聞く相手の人たちには
 理解できないということを納得するであろう。この観点を確認することを目的として行うの
 ならば、そういった会話も役には立つ。」

「修練ワークを指導するを目的として、希望者等に示唆を与えることにおいて生ずる関係を、
 そういったサークルを拡大することについて、あなたはどのような心構えをお持ちですか?」
 と私は尋ねた。

G「私の自由時間は、有益であるかどうか確かでないことに費やすには、少なすぎる。
  私にとって時間は大切で、私自身の仕事においても必要なものだ。
  だから、時間を非生産的になこと費やすことはできないし、また望まない。
  だが、このことは既に話したではないか。」

「そうではないのです。私がお尋ねしたいのは、あなたが新しい知人をおつくりになるという
 ことにではなく、報道機関メディアを通して利用して教えを広める、示唆を与えることが
 できるかもしれないという意味です。それならば、個人的に持つ会話ほど時間を取らないと
 思うのですが。」

G「それは、この思想の概要を新聞などにおいて連載といった形で、
  順々に述べることができるかどうかを知りたいということなのだろうか?」

「そうです。」と私は答えた。「しかし、すべてを説明することができるとは全く考えて
いません。それでも目標にもっと近づく方向を示唆することはできるかもしれないと思う
のですが。」

*啓発を世に向かって広く行い、ことの理解者を増やすといった目標のことか?

G「あなたは非常に興味ある問題を提起した。」とグルジェフ氏は言った。

G「それについて私は、数人の話し相手と、しばしば論議してきた。その時に出た意見を今繰り返しても意味がない。かなり前、昨年の夏に、そうすることに決めたということだけ言っておこう。私はその実験に参加することを断らなかったが、戦争のためにそうすることができなかったのである。」

この主題について引き続きなされた短い会話の最中に、グルジェフ氏が、ある見解と方法を大衆一般に知らせることに反対しないのなら、『魔術師たちの闘争』というバレーが単に想像力による作品であるだけでなく、神秘を表わす隠れた意味を持っているのかもしれない、という考えが私の頭の中にひらめいた。それで私はこの意味でシナリオについて質問し、その内容をAが話してくれたことに触れた。

G「私のバレーは神秘ではない。」とグルジェフ氏は答えた。

G「バレーの目的は興味ある美しい光景を見せることである。もちろん、目に見える形の下には、ある意味が隠されているが、それをはっきり示したり強調したりすることが目的ではなかった。このバレーの主な場面はある舞踊で占められている。これについて簡単に説明しよう」

「天体、例えば太陽系の惑星の運行に関する法則を研究するために、そうした法則を表現し記録する特別な装置を組み立てたと想像しなさい。この装置では、どの惑星も適当な大きさの球で表され、こうした球は、太陽を表す中央の球から厳密に定められた距離に配置される。この装置を動かすと、すべての球が回転し始め、天体の運行を支配する法則をありのままに再現した進路を移動する。この装置は、自己の知識を思い起こさせる。同じように、ある舞踊のリズム、的確な動き、そして舞踊の組合せに、一定の法則が鮮明に呼び起こされる。そのような舞踊は宗教舞踊と呼ばれる。私は東洋を遍歴中に、一部の古い寺院で催される宗教儀式で、しばしばこの種の舞踊が演じられるのを見た。こうした儀式は近づき難く、ヨーロッパ人には知られていない」

「これらの舞踊の幾つかが『魔術師たちの闘争』に再現されている。その上、『魔術師たちの闘争』の根底には3つの概念があるということを話してもよいが、バレーだけを上演しても、大衆がこうした概念を理解する希望は持てないので、私はこのバレーを単に美観と呼ぶ。」

グルジェフ氏はもう少しバレーと舞踊について語ってから言った。

G「遠い昔においては、こういうものが舞踊の起源であり意味であった。あなたに尋ねよう、
現代芸術のこの分野において、かつての崇高な意味と目的を呼び起こすものが、少しでも残されているであろうか? そこに陳腐さ以外の何を見いだそうか?」

短い沈黙の後、グルジェフ氏は私の回答を待つかのように、悲しく、もの思いにふけった面持ちで前方を見つめ、言葉を続けた。「総じて現代芸術は、古代の宗教芸術と共通するものを何も持たない。あなたはそれについて考えたことがあろう。あなたの見解は?」

私は、芸術についての問題が、私の興味を引くものの中でも、とりわけ重要な位置を占めていることを説明した。的確に言うと、私は作品、つまり芸術が結果として生じるものにはそれほど関心がなかったが、人間の生活における芸術の役割と意味に関心があった。この問題に私より通暁している人たち、つまり音楽家、画家、彫刻家、芸術家、文学者、また単に芸術の研究に関心を持つ人たちとしばしば論議してきた。多くの種類のおびただしい数の意見を聞いたが、往々にして矛盾していた。少数であることは事実だが、ある人々は芸術を、職業を持たない人の道楽であると呼ぶ。だが大多数の人々が、芸術は神聖であり、芸術を創造すること自体に、人間を超越した霊感のしるしが秘められているということに同意する。私は信念と呼べるほど私自身の見解を持ったことがなく、この問題に関しては虚心であった。こうしたことをできるだけ明瞭にグルジェフ氏に説明した。彼は私の説明を注意して聞き、言った。

G「この主題について多くの矛盾する見解があるというのは正しい。このことだけでも、人々が真実を知らないということを証明するのではないか? 真実があるところに、多くの異なる見解はあり得ない。今日我々が芸術と呼ぶものは、太古においては客観的知識の役を果たしたのである。少し前に述べたように、舞踊について言うと、舞踊芸術は宇宙構造の永遠の法則を叙述し、記録するものであった。探求に献身した人々が、入手した重要な法則の知識を、今日では書物にまとめるように、芸術作品に表現したのである。」

ここでグルジェフ氏は、幾つかの名をあげたが、そのほとんどが私の知らない名であり、忘れてしまった。さらに彼は続けた。

G「この芸術は、“美”や、物や人に似せるという目的を追求しなかった。例えば、そのような芸術家が創造した古代の像は、特定人物の像でもなく、主観的感覚の表現でもない。像は人体に関する知識の法則を表すものか、ある心の状態の客観的伝達手段であるかだ。形と手段、正に表現そのものが、法則に従っている。」

グルジェフ氏は、何かを深く考えるようにしばらく沈黙してから続けた。
G「芸術について触れたのであるから、最近起こったエピソードを話そう。それは我々の会話に出てきた幾つかの点を明らかにするだろう。ここモスクワの私の知人の中に、子供時代の友人である、有名な彫刻家がいる。彼を訪ねた時、書斎にヒンドゥー哲学と神秘学の本が何冊かあるのを目にした。話しているうちに、彼がこうした事柄に本当に興味を持っていることがわかった。私は彼がこうした問題を何1つ単独で調べることができないのを知っていたが、私がそれについて知識があることを明かしたくなかったので、こうした主題について私としばしば話し合ったことのあるPという男に、この彫刻家に関心を持つように頼んだ。

ある日、Pは、こうした問題についてのこの彫刻家の関心は明らかに思索的であり、彼の本質はこうした問題から感銘を受けないこと、それでPは彼との論議にあまり価値を見いださないことを、私に話した。私は彼に、話題を彫刻家が身近に関心を持つ主題に向けるように助言した。私が同席した全くくだけた話の途中で、Pが話題を芸術と創造という問題に向けると、彫刻家は、“彫刻の形の正確さを感じる”ということについて説明し、“アルバット広場にある詩人ゴーゴリの像の鼻が、なぜ長すぎるのか知っていますか?” と尋ねた。そしてこの像を側面から見ると、いかに、彼の言う“横顔の柔かい流れ”が、鼻の先端で害なわれているかを説明した。

この感じの正しさを試したいと思い、彼はゴーゴリのデスマスクを探すことに決め、長い探索の後に、それがある個人に所有されているのを知った。彼はマスクを研究し、鼻に特別な注意を払った。この調査から、マスクをつくった時、横顔の柔かい流れが害なわれたと思われるところに、小さい泡ができたらしいことが明らかになった。マスクメーカーが未熟な手でその泡を埋めてしまい、作家の鼻の形を変えてしまった。ところが記念像の作者は、マスクの正確さを疑わず、ゴーゴリに彼のものでない鼻をつけた。

このエピソードについて、何を批評できるであろうか? このようなことは本当の知識がない場合に限って起こるということが明白ではなかろうか?

ある人は正確さを信じきってマスクをその目的に用い、他の人はその製作の不正確さを“感じ”て、疑惑を確かめる方法を探す。どちらも大差ない。だが、人体の割合の法則を知っていれば、マスクからゴーゴリの鼻先をつくり直せるだけでなく、鼻から、彼の全身を、正確に築くことができる。私が言い表したいことを明確にするため、これについてもう少しくわしく語ろう。

今日、手短にオクターヴの法則を調べた。この法則の知識があれば、あらゆるものの位置がわかり、逆に位置がわかれば、そこに存在するものとその質がわかる。あらゆるものが計算でき、あるオクターヴから他のオクターヴヘの移行を計算する方法を知らなければならないだけである。

全体をなすものがすべてそうであるように、人体は本質的に各部分の大きさの規則性をそなえている。オクターヴの音の数と音程に従い、人体は明確な数字で表わされる9つの基本的な大きさを持っている。もちろん一定の範囲内においてであるが、これらの数字は人によって非常に異なる。最初の順位のオクターヴ全域を構成する9つの基本的大きさは、従属する諸オクターヴに変わり、広範囲の広がりを持つこの従属的組織が人体の諸部分の大きさを与える。オクターヴのいずれの音も、それ自体が1つの完全なオクターヴである。したがって、諸音階の相互関係、組合せ、及び、ある音階から他の音階への移行についての規則を知らなければならない。あらゆるものが、永久不変の規則性を持つ法則で組み合わさる。ちょうど、あらゆる点のまわりに、従属する9つの点が集まったかのようで、これが原子の中の各原子にいたるまで続く。

下降の法則がわかれば、上昇の法則もわかり、その結果、基本オクターヴから従属オクターヴヘ移ることができるだけでなく、その逆も可能である。顔から鼻を築けるだけでなく、鼻から、顔や身体全体を厳密、正確に築ける。美や類似を探求しない。創造とは、創造そのもの以外の何ものでもあり得ない。

ここでは確率に遭遇しないから、創造は数学より正確であり、数学を研究するだけでなく、はるかに深くて広い種類の研究によって達成される。必要なのは理解である。理解の伴わない会話では、数十年話し続けても、最も単純な問題についてさえ、いかなる結果にも達しない。


単純な間題が、人は思考に必要な態度を持っていないことを暴露し、たとえその問題を説明しようとしても、聞き手の準備と理解が欠ければ、話し手の言葉は無効になる。このような、“文字どおりの理解”は、きわめて普通である。

次のエピソードは、私がずっと前から知り、一千回も証明してきたことを、またしても確認する。最近、ペテルスブルグで、ある著名な作曲家と話をした。この会話から、本当の音楽の領域における彼の知識がいかに貧しく、その無知さ加減がいかに底知れないかがわかった。音楽によって知識を教えたオルフェウスを思い起こしなさい、そうすれば私の言う本当の音楽、または宗教音楽を理解する。」

グルジェフ氏は続けた。
G「そのような音楽は特別な条件を必要とし、その場合、『魔術師たちの闘争』は、単なる美観ではない。現在では、私がある寺院で聞いた音楽の断片があるだけであり、たとえそのような音楽でも、鍵が失われてしまったので、聞き手に何も伝えないであろう。おそらく西洋では知られたことはなかろう。すべての古代芸術の鍵は失われ、数世紀前に失われた。そういうわけで、偉大な知識の法則を具現し、民衆の本能に宗教的影響を与える芸術はもはや存在しない。

今日、創造者は存在しない。現代の芸術家たちは創造しないで模倣する。彼らは必要な知識さえなく、美や類似性、または独創性と呼ばれるものを追いかける。知識もなく、何事も為すことができず、暗中模索しているが、群衆に賞賛され、偶像視される。宗教芸術は消え失せ、芸術の従者たちを取り巻く後光だけが残った。神聖なひらめき、才能・天才・創造・宗教芸術という現代の言葉は、全部確かな基礎を持たず、そうした言葉は時代錯誤である。才能とは何であるか?これについては適切な機会に話そう。

靴職人の手工芸が芸術と呼ばれなければならないか、すべての現代芸術が工芸と呼ばれなければならないかのいずれかである。美しくデザインされた流行のあつらえ品を縫う靴職人が、どのような点で模倣や独創性を追う芸術家に劣るのか? 知識があれば、靴を縫うこともまた宗教芸術であり得、知識がなければ現代芸術の指導者は靴直しにも劣る。」ここまで。


Gが呼ぶところの客観芸術において世にては余り知られてないものを一つ...
ハル・サフリエニの地下墳墓 マルタ島


  これは建築構造物としてのそれになる。CG再現


  オリジナル

Gの必要性として、グループを構成する同じ志を持ちうる人々を集めることがあった。メンバー間における確執や軋轢がグループにとっては必須にして絶対に必要とされてて相性の組合せにおいて、いろんな然るべくしての人間が必要だったのだろう。誰かは、誰かにとっていたく相性が悪く、また誰かにとってはとても良い。こんな感じ。敢えて苦たるを耐えて堪えて乗り越えて、かつその渦中において自己観察ができる人じゃないと駄目だったのだ。そんな人々を集めるのには時間がかかるし、その相手がこちらに関心を持ってくれないと話しにならない。


追記:

あれだわ…あの磁力によって、似た者同士は自然と集まってくる、出会うの法則を
ここに確認することもできるだろう。真剣なる求め、願いに対しては世界が
反映を返してくれるであってもいい。世界は不思議で

だ…。



くれるも




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