第27話  ぼやき集。

文字数 20,789文字

本内容は、特別に目新しことはなにもない。それを改めて俎上にあげてくるってことの意味は目的はなんだ?!。平素は普通は平常は、あまり意識/考慮されてないであろうこともあるわけさ。それらはそのことは〜、ほんと〜は、しっかりと、

、自覚的にて押さられておくべきこと。そもそもの始めに、そのことの始めから〜、徹底的に、絶対の前提として、意識してもらわにゃならんこと、それになる…。それら、それとしてのポイントに関して。微妙なるニュアンス、それの照らし出しを目的にして本稿は書かれてもたる。ことににおいての齟齬をきたすべく働いてしまってるであろう前提の欠如、無自覚、それらを埋めん、是正せんとしてのもの。あくまでも一つの示唆に過ぎない。それになればいいだけんどね〜!。敬具


               今回のメインキャラたち‥


     ジョーク                        このキャベツは
                               未発達未熟極まりない
                              その状態状況にある知性を
                                 表してあるまで。


    これらにおける要項を精髄を抽出して、整理すると、以下の三体になる。




これは即物的な捉え方。実際にそれらが所在としてある領域はまったく別。例えば感情としてのものが起因するそのネットワークとしてのその”場”は、もう全身に広がってると言える。「総毛立つ/寒イボが立つ」とか、「感動する」って現象の、その震源地が、そのトリガーが、もし感情にあるのならばだ。片や、ガットセンターとしてのものはだ…、太陽神経叢、つまりはミゾウチ、そこと丹田としての部位に大きく関わってきてる。一覧、一律に、それはここだ、これだなんてことは言えないんだ。確かに知性/思念/想念まわりは頭蓋内だろうけどね。*また実際に体を割って切り裂いて覗いてみても、それらとしての器官なんてもんは見つからない、見つけることなどできるわけがないんだ。当人本人しか分からないもんなんだって…。

に〜、ハートに〜、そしてガッツ!。この”

”におけるその日本語の意味は”根性”ってことになる。では、「根性って何?」。根におけるそれにそってのおいての”(さが)”って、どうゆうこと?。辞書を引くと〜引きますと〜「その人が、

性質、

性向、性根、あるものに特有な性質」とある。これはなにも言ってないに等しい‥。語源的にはこれは英語のGutの複数形で、その意味は、臓腑(ぞうふ)はらわた(腸)のことらしい。良き酒飲みたれば「五臓六腑に染み渡る〜」が思い浮かび、また思い起こされる‥w。確かに消化器系の臓器は、複数、体内に、連続的にで、備わってる。

。これらの本質的なる機能/役割を要約するならば、外部/外界から

体内に取り込む、吸収するってことでいいんだろう。*ある見地からするならば、それは、誰か/何かによって、持たされてきてる、

、与えられたるもん、

なんだって、言える…。*あれらって、線虫/回虫/プラナリアと、まったくおんなじものだと自分には思われるのだが…。*まず、パーツとしてのものが、それらもまた独立した生物として、造られて〜…。

日本語において、この部位に関わる表現がいくつかある。「腹がある、胆力がある、肝がすわってる」なんてのが。ところで、「これ(ガッツ)の

って一体何なのか?」。きっと「丹田」としてのそのニュアンスがそこにはある。日本文化における切腹ってやつも、実は、この部位に関しての理解ってやつに、基づいている。自らの生を適わしめている、その生命力の根源を、その根幹を、強引に、自ら切断してしまう。その中枢を、ことの源泉たるものを破壊したならば、その命脈そのものを断ち切られたならば、もう決して、絶対に、生きておれるものではない。

丹田としての、この語の意味には、霊妙なる/不思議な活力、それを養い育てる”場/部位”としての田んぼとしての意味合いがある。武道の界隈では、「丹田を作る、丹を鍛える、丹を練る」なんて言葉が使われてる。それはどうやんのかはこの自分は知らないが…。でも一つだけ確実なのは、「実地に死線としてのその修羅場を数限りなくこなしてきてる、渡ってきてる」ってのが有効なることなのは分かるっと。そうなれば相対的に、些少のことにはもう

なるんだろう…。

閑話休題。もう端折って自分としての見解を、ここで先申し上げる。上げてしまう!。このガットとしての部位は、それはもう既に一個の、

なのだ。人体内にて、独立してある一個の生物だってことになる。それとしての特徴はだ、あくまでも原始的なる生物/動物であるってこと。ここ地球上にて誕生進化したるところの在来として生命種だってこと。だから、それ独自として、命たるものを備えてあるってことから、また”霊”としての何かを、また、それをいただいて来るの本源としての何かとのつながりも、持ってるんだ〜…。

そうなの...今回の内容は、あのGが使ったところの、三つの霊的センターとしての人間の成り立ちについて。もう皆様ともなれば〜、今更ながらのこのターム、その意味ではあろうかと思いますが、これらを援用しつつ、自分としての、そのどうしても一度は語っておきたくの、おきたくしての、その脚光を、当てておきたくしてのその内容を、語らせていただきます。敬具。

まずね〜、霊的センターって言葉において、霊的なるってのはなんで付いているのか?。
またセンターって言葉の選択は、どういったニュアンスによってのその理由だったのか?。
人間存在におけるその特徴は、この三つのセンター、中枢、脳によってなる構成なんだって。

ことの核心は、

、””たるものを、独自にて備えている、もってるってことなんだ。

      このことは本当なのだろうか?。事実としての話しなんだろうか?…。

   この問は、各自が、しっかりと、確実にーー、解決、そして理解すべきことになる。





そうなんのこた〜ない、Gが

語った人間の構成に関してのモデルでしかない。

この人間ってタームもまた曲者なんだが‥それに関しての煮詰めはやめとく。真ん中の図において黒のコネクトが大事なんだ。ぶっとく、ダイレクトに、ロスゼロで、フラット、あるがままにおいての交信が適ってあるってのが大事なんだけど。このモデル図においてはお互いの関係性が曖昧で、また発達具合も違うのでこんな風なものになっちゃったんだ。基本、接線との部分が長い大きいほど両者間におけるコミュニケーションは密になるっと‥。



三つのセンターが、三種としての自分が、理想的に協力協調的に親和性をもって、一体化をもって機能しているときの自分が「ME」としてのものの発現。でもこれは人格としての「I」の結像洗練高度化をもって、つまりは経済活動に主眼を置く、現実社会に組み込まれてゆく中で、齟齬が分離が対立が目立ち始める。よってMEとしての自分は曖昧に薄らぎ意識されず忘れ去られてどこか知らぬ領界に領域へと埋没していってしまう‥。上のGのモデルにおいてはこの「I」としてのものは描かれてない。その代わりにジニーとしてのフォーマットリーアパラタスに関しての記述はあった。

自分が想定するそのモデルにおいては、黄色の領域がマインドとしての場になる。それのフロアーマスターとして、ホストとして、誰か何かがいるんだ。それのことをOSと同じものとして自分は考えてる。外界から完全に切り離された、分離されてある状態を作る、自己たるその内面を構成してあるその場そのものがマインド。ステージがあって、フロアマスターの助けを借りて、そうしてこそ初めて、「I」は、出現/登場/結像することができるっと。

この舞台、登場するためのステージは、外界からの情報入力を、再構成したものになる。
一回翻訳が、なにがしらかの形で、処理が為されてからのものだってのが、殊の外重要。

*網膜に眼球レンズを通して写ったその映像は、倒立した形だってのは知ってるよね?。
*では何故に我らは外界を逆さま認識してない?。取り込まれた情報が再加工されてる!。
*誰に?、どんな機能によって?。
*一次としての光学情報も、レンズ自身の性能において、制約がかけられてしまってる。
*すべてを、ありのままに観てる、見れてるわけじゃない…。

各センター間におけるその相互間のコミュニケーションのあり方は、ダイレクトにおいては、あまりかんばしくない。それぞれに思いや考えが異なるので。どこにおいての何の世界においてもことは同じだ。そこにあのジニーの存在価値がある。彼女はこと、身内のことともなれば、誰ソレ構わず、贔屓一切せず、奉仕することに暇がないのだから。あの黄色の領域は伝導率が殊の外いいと思ってください。

さて、こんなところで時間を潰している間はない!、Meが埋没しきっての、し果てての、「I」としての盤石なる自己形成が為されたならばだ、ジニーにとって一番忠誠心を心がけてある、それを傾けてあるのは正にその人格になる。念の為に付け加えておくと、ジニーたる存在には何の理解もありゃしない。あくまでも主人の求めに対して、熱心に心砕いて努力してあるまでの話しなのだ。上図、Gのモデルにおいて、「I」は存在してない。何故だ?。そんなもん実際には、現実には、リアルな世界にては、存在してないからだ!。

これぞ正しく人類における最大にして最悪なる幻想になる。客観的現実、つまりは生きてある
巨大な全体システムにおいて、それは完璧に存在してない。勘案などされるはずがないんだ…。

個人としての

どうでもいいことなんだけど、人類としての生命体には生存においての役目/役割がある。求められてある、設定されてある機能を、果たすべくしての責任と義務が、そこにはあるってもんなんだ。これぞ鉄壁としての制約/構成になる。間違っても自分の為にこの世界があるだなんて思ってはならないんだ。実際のその身分は、端役も端役としてのものでしかないんだから‥。

ついでに、これも言っとくと〜、別勘定として、別の思慮配慮に基づく特別な采配ってのもあって〜、ある種の個人、それ単独に向けて、世界が反映を来す、果たすってこともあるにはあるんだ。その個人がだ、特別/特殊なるミッションをこなす、それを背負ってある、ありえるならば〜としての話し…。第二の河へとその生存の移行が完了したるもののこと‥。


ちょっとコラム…

Windows ってOSがある。これは複数の「窓」としてのニュアンスだ。いろんな情報に対してチャンネルを切り替えてアクセスできるってことなんだろう。窓としてのものを用意してくれるってことならば、ではこれが”門”となったならば、どうだろうか?。そうなったならば、自分自身まるごとが、もう各ドメインに、出入りできるってことになる。Gate なんてOSが登場しても、まったくもっておかしくない。ゆくゆくの未来のことを思うなら、OSは間違いなくAIとしてのそれになる。名称は、所有者がかってに、付けることができる。付けるようなる。それのしての役割は、執事、執務官、書記、メイド、えらく突っ込んだところまで面倒見てくれるコンシェルジュとしてのものになる。要はなんでも屋さん。バトラーとしてのアバターならば、呼び名は「アルフレッド」。それをそうなることを見越しての製品名は「アルファ(α)」。

ここで皆さんに思い至っていただきたくは〜、日常の生活において使い馴染んだ、見知った、粗方そのものが何かが分った、分ってるものが、理解において代用される、代用されるべきだってこと。それそのものではないが本質、有用性においてのその役割は一緒だってこと。簡単に言えば、なにかよく分ってるものにおいて例えるってこと。そうするならば通じが良くなる。ことの本質において話ができるようになる。これもまた意思伝達においての不自由さ、齟齬を回避する為の方便だってことになる。時間の短縮にもなる。元々そこにはどうしたものなのか制約がはたらいてしまってるんだ。人格間においてのその伝達ってやつにおいては…。

追記:
現行のOSとしてのものの、その構造を、その仕組を、理解することには大いなる意義がある。
確実に人間の内にあるそれに該当するものと近似類似としてのものになっているからだ。
既に骨子は完成してる。レイヤー構造をとってきてるってところが。MACならばだが…。

最近のソレとしてのもので目新しいのは、プロボケティブなのは、あの「スーパーストリング・セオリー」ってやつのことになる。何がスーパーなのかは分からないが、まずはさてはてなんで単数形なのん?ってことが自分としては引っかかる。ストリング

ではないんだね?ってことで…。そんでから、ならばだ、糸としてのものであるならば、それ状のものあるから、こそ、

あるんだね?っと、

んだね?っと、やや程なれども得心する部分もある。これに関する話で、高次元としてのその世界の話がでてきてた。それも聞いた。五次元やら六次元、それ以降の多くの次元に関しての話し。数理理論的には、まだまだ先に、多くの次元があるそうな。ものにおいては、超超ミクロの、その世界スケールにおいて

確認できるものであるそうな。

自分的に、それはそれで、一切一向に、構わないのだが、世間の人たちが間違った理解をその事において持たなければいいな〜っと思うまで。注意するべきなのは、人が人類がそれを発見しようしまいが、すべては最初からそこに〜備わってあるってことなんだ。いくつの次元があるのかは知らないが、それらのすべては、然るべくしての目的に従って、少なくとも公理に従って、渾然一体としての混ぜ込ぜになって、完全なる一体性、全一性をもって、そこに存在してるまでの話しなのだ。そもそもからして、人間存在たるものにおいてのその認識可能性は、極端に限定/制限されてあるものなのだ。それにとっての世界たるものが、その領域が、狭すぎるまでのことなんだ。人格においてともなれば、知った/知れれたるの世界が、すべて、元々からしてないにも等しいものなんなんだ…。

補記:

この辺の背景には、あの2021に発表された「宇宙に始まりはなく過去が無限に存在する可能性が示される」がある。

要旨:
イギリス・リバプール大学(University of Liverpool)の研究チームは、因果集合理論(causal set theory)と呼ばれる量子重力の新しい理論を使い、宇宙の始まりについて計算したところ、宇宙に始まりはなく無限の過去に常に存在していたという結果を得ました。

自分なんかは、なんでか知らんが、この記事読んでゲラゲラ笑ってたんだけどね。
もっと現実に人の役に立つ研究しろやと‥。

この辺の理論、与太話は、あの映画「インターステラー」が作られたその根拠、その動機となってた。そもそもだ、あれらアカデミーにおける学者らはいったい何を目的に、何を考えて研究をしてるのだろうかねー!?。彼らからもたらされる学説やら研究理論ってもは、現実においてはなんの役にもたたない。この宇宙は始まりと終わりが無限にループしてるってのが彼らからの主張/報告/発表。宇宙には始まりなどというものはなく、過去が無限に続いているんだと判明しただと!?。「因果集合理論」なんて御大層な表題つけて、お色直しをもって、古くからある概念を、その名称を取り上げてきて、引っ張り出してきて〜…。

あの、「この宇宙に我々地球人以外に宇宙人はいるのか?」の研究と一緒で、時間と経費の無駄使いでしかないな。その行為の無意味なること限りなし。それって、バカとしての、研究でしかないでしょ‥。

今現在我々が生きているこの宇宙に、その始まりがあったことは、事実にして確実だろが!。
また、そのことにおいても、原因たるものが、あったはずなのだ!。

ことは地球上に生命が、大地としてのそれらにとっての生存環境が整ってから、出現したってことを考えればいいだけの話し。なんらかの対象を固定したならば、それには誕生/出現としての事態が、それにおいての原因が備わってる。これは確事。これを動かしたり、この事実がブレたりしたらもうおしまい。←つまりはだ、とりあえずは、この宇宙に、始まりたるものは〜、

と、しといて欲しいんだ‥便宜上はだ…。

このリバプール大の研究者らは、もう『複雑系』としてのものの考え方(非線形、カオス理論、複雑適応性等)が、忘れ去らちゃってるのかな?。ちゃんと理解されているならば、間違ってもあんな論文が発表されるなんてことはなかったはず‥。もう恥ずかしすぎて恥ずかしすぎて…。

*フラクタルとしてのものが抜けた。
 断片としてのその極微としてのものが、全体としてのその形と相似であるってことの直感。
 これはだ、事の概念を伝えるにおいては有用だが、すべてをそれで片付けるならジョーク
 にしかならない。あくまでも相似として捉え得るまででそのフィールドスケールにおいて
 そこに働く法則は、

、大きく違ってきてしまってる…。
 無理な、強固に恣意的にして稚拙なる、単細胞としてのバカの嵌め込みにはご用心っと‥。 

一覧においての電光石火なりもてでの自分の独断を云うと〜、とにかく世間の注目を集めたかったまでのこと。その大学の名を轟かせたかったまで。そんで、馬鹿げた空論理論を、見かけ上、辻褄が合うよう整えて発表した、インチキ、詭弁、誑かし、嘘でしかないことをよく知りながらだ。その発表が世間にて混乱を招くとこにしかならないってことをもちゃんと知りながら〜にだ。

無限の因果の連なりであるってことが、もう既に遠く大昔から当ったり前なんだ。何かがあってであろうことは事実なんだが、それは、

、そこにおいての、出来事でしかない。だから我々人類には

、もう追えないだけ。確認のしようがない。

この地球上に生命の誕生はその出現は確かにあった。この宇宙も同じくしてその誕生出現はあっただ。ここで止めないと…。

おもしろいのが神の存在を回避したってことにある。それをしてしまったなら科学者としての面目丸つぶれになってしまうからだって。共有世界内においての、自己の、名誉栄達ばかりを求め願っているから結果堂々巡りとしての迷宮に陥るばかりになるのだ…。

追記:

当然複雑系に関しても、マハラジによる言説も彼らはそれなりに知ってるはずだ。だが、それらすべてを自分たちとしては消化

し、何よりも論文発表に支障がでる。だから、もうたとえ嘘としての論文内容であろうとも、それによって世界においての知性が混乱に陥ろうが知ったこっちゃない。構いやしないのだ。むしろ、刺激になるであろうからいいことなんじゃない?、ぐらいにしか考えていなかったのだ!。 了

*ここはここで後の内容の前振りとしてのものにもなってます。

複雑系としてのその考え方は、もう一度俎上にあがってくる。

別途、Gが世にて公開した三脳理論もまた、虚栄心満載のアカデミーにおいてのその典型的なる目立ちがり屋さん達によって、その衣装を換えて、変えられて、登場してきてる…。

普通極一般的に、学校という場に、その身を長く幼き頃より置いたなれば、またお勉強勉学においての、その粉骨砕身をもってしてのご努力においてのその成果、その賜物として、現行のアカデミーたるものにおけるその思考マナーたるものが、習慣が、完璧にその身に付いておられるであろう皆様にとっては、起源のまったく異なるその二種を並べて考えることには、また格別なる意味合いがあるのではないでしょうか?。

そのどちらにおいても、語るに足りずとしての事態が備わっています。

それを埋める、補足することにも、本稿の目的はある。

ことの成り行きは、その現実的なる成果は、読者たる皆様の、その積極的にして意思的なるご努力のその加減、その積み重ねにかかってる…、そうしたるものなのです。

終局、ことの一切は、自分が自分の中に何を観るのか見たるのか、発見したのか、また理解したのかに還元される。それにおいて、すべての書き表された内容のご吟味を賜われればと思う次第なのです…。

本稿も、抜け、手抜き、言葉足らず、それらが満載としての仕上がりとなっております。

だから、あくまでも、序章としてのもので、本章に関しては皆様ご自身がうめられることを
ここにお願いしておきます。敬具 その2。

補記:
たとへば感情は、好む/嫌うの色分けが主流としてのものなのだが、では、何が、何に対してその様な反応をしているのか?。これは一概に良心においてなんてことにはなっていない。ことの背景には知性においての秩序、規律への信奉なんてのが絡んでるケースもある。とにかく、原因が震源地がなんであったって〜、嫌うとしての反応はいらないんだ。それらもまたそれらで、可能であれば容認してあげる。そのままに放っておいてあげる。

問題としてのものはガットセンターが主軸と成ったときだ…。それの、そこにおいての嗜好性、指向性とはなんだ?。自分の世界において、その相手、その人間が、どの様な関係性をもって関わってくるのか?に帰結される。端的にはこの自分に対して、迎合するのか?、それとも敵対するのか?。主従の、優劣の関係をどのように意識しているのかを、実際の行動において判断する。簡単にするならば、動物次元としての関係性のあり方、その把握、直感認識がベース。これにおいてのおもしろい、興味深い話が、”威”としてのそのカリズマティックな力の所在だ。これっていったいその正体は何?。これは感情を源泉とするものではない。では、どこから?…。



           Re: あることにおいての、ついての、その整理…




この”I”が、何かの間違いだ、悪者だってことじゃない。それの起源/発生に関しては、分からんが、必要性においての、そが故の必然であったって〜ことは間違いない。ことここにおいての確認は、実在としてのその本体は、海面下にあるその自分なのだ。それこそが実体。それにおいての主体ってやつもチャンとあって〜、それが”Me”としてのものになる。あそこ、オレンジの面そのもののこと。これとしての成立が為されるのは、三つの領域、三つの脳が協調的に、一体化をもって働いてある状態にあるときだけ。ことにおいての不自然なるにして、また異常なる事態は、この便宜上の主体でしかない”I”が自分としてのそのすべてだと見なされて体験させられて思い込んでしまうその事態のことになる。これが原罪としてのもの。それとしての、本当の正体は、単なる習慣の束、それの管理コントロール調整者でしかないジニーしてあることに他ならない!。

仏道等においてのその修業の目的は、自己を忘れて、その拘束から離れ、自己としての実体そのものを識ることそれへと降りて同体確認することにある。とどのつまりは、そのことの究極は、海そのものが正に自分としてのその丸ごとなのだと悟ることにある。これは実体験としての、それに基づく認識になる。還ってこれなかった人も、もしかしたらいたかもね…。





           Re:「カタ・ウパニシャド」よりチョイ抜粋:


      客車にて、鎮座してある主が、真我(アートマン)を表している…。
       そして、更には!、馬車が肉体を、車輪が生気を、御者が理性を、
           手綱が感情を、馬が感覚器官を、表している…。

 「まるで野生の暴れ馬かのような自己(いろんな衝動や感情において煽られある自己)を、
     理性のあるもう一人の自分(御者)が、上手く手綱をもってさばき、操り、
  真の主であるところの真我(アートマン)の望む方向へと、その行いへと導いてゆく」。

 このことを獲得する、為すことができるようなることが、人生たるものにおけるその目的、
    その理想、この世に生まれてきたことにおける人生それその真の課題なのだ…。

                  改稿チョイあり

手綱さばきが上手くできないと、馬は、それそのものにおける衝動/目的にて、勝手に走り回り、もうどこへ行くものやらサッパリわからない。みちくさばっかりしておって、肝心な用をまったくなさない、果たさない。

ときに、暴れ馬かのような行動をとることがあって、そうなれば、主含めて御者は振り落とされしまうことにもなる。後始末が大変だ。もしくは〜、馬車、車体、体自体が、そのことにおいての事故によって、大破してしまう。回復、リハビリ、調子を取り戻すのにえらい難儀する。時間を取られる。喧嘩はヤッパせんほうがいいわいっと‥。

このことの実例、実際を語るのであれば、一時の感情の波に飲まれて飲み込まれて、その激情たる思いと、完全同一化を果たしてしまい、そんで、やみくもに慌てふてめいて右往左往したり、短慮において見境のない行動をおこしたり、愚かな限りの真似をしたり、動揺してもての絶望したりの情緒不安定…、そこにあるべくしての幅広くしての見地、俯瞰的視野を失い、せかしくも人生そのものの目標を見失ったなどと宣っておったり、不摂生不養生の限りの、生活習慣病としてのその姿に凝り固まってしもたり、なったてのしもたるを、してしも〜てる…、まさに、そんな自分の姿なのです。メンゴ‥。

前にも語ったことだが、Gが学んだその教えは、ヒンドスタン系における超古代から伝わってある密教秘教としてのもになる。なんでもかんでも十把一絡げにして、されて、ヨガとして、今日呼ばれているものの中に、その教えは、未だ多く含まれて、残されている。いたく不親切な語りで、そのエッセンスとしての要約において…。ヨーガスートラもう読みました?。そこに秘められてある教えを、その知恵を、愚直なるまでに勤勉実直なるをもって実践し、実際に修行して、ことを成して、修められて、その成果を実地に達成されたあったのだ。つまりは、そこにある奥義、叡智を、現代において蘇らせた。再誕させられてあったのだ。その理解を元に、更にあれやこれやの他国における秘教文化ををも統合して、もしくは再統合や、合体を果たして、現代人が用いてある科学的言語、マナー、文法にそってで最提供を、改めての総括をもって、したんだわ、されたんだわ〜。でッ!いらぬ死霊を‥、いや資料を!、本稿においては持ち込まなければならなかった!。ああ、しんど〜…。

*我々現代に生きる人間にとっては、Gのタームが、その表現が、一番しっくりくる。
 このことはGがことにおいての理解を実際に果たされていたことの明し、証拠なのだ。
 だが、それらを入り口として、かっての古くしてのその内容に関しても、
 我らとしては消化する必要が、確実に、間違いなくある。


補記:

上のカタなんちゃらの内容はかなり〜に”雑”。いらぬ誤解を招くものになってる。例えば、手綱としてのものは、ある種の物質のことになる。それは霊妙なる物質で

分解崩壊していってしまうものなのだ。実際はそれを意識的に精製する必要がある。その方策が苦しみに、忍耐力、インテンショナルサファリングのことになる。ある程度、余剰としてのものが獲得されたなら、その行為を習慣化することが可能になる。つまりは型、癖としてのものに。これが結晶化として語られる事態。ムラっ気がいつの間にか消え失せてしまってる。なんにおいてもだが、最初、最初期ってのが一番大変になる。そんでやがてにおいては、無意識、無自覚に、誰のものであろうが、どんなやつのものであろうが、目に止まった靴が乱雑であれば、それらを揃えておいてあげてやりたくなってしまってるんだ…。誰知らずともまったく気にしない、まったくもって気にしない、構わなくなる。






この絵は全体モデルとしてのものなのだが、今は、外界から、それに関しての

摂取する、それとしての窓口たるものが〜、

あるんだってことを、改めて、しっかりと、意識してもらえればいい!。外界を感受するにおいてのセンサー。これらを”五門”と云う…。ある意味、これらにおいてのルート

、ないんだってことこそが肝要かと‥。

そしてもう一つ、このモデルにある区分け/区分は、確かに、その色合いやら

において、まったく違う、違っているので分けることが正しい、正解なんだが、ことは、そう…あの仏教で云う処の”分別”、”識別”においての

によってでしか、その違いは分からないものになる。

ことの重要なるは、

、あくまでも、それらのすべてが協調をもって働いている”場”、一体化を果たしてこそなすフィールド形成において、その状態にあってこそ、初めて、本当の自分たるものの出現顕現が適う、その、なにかとしての(みずから)たるものが、再構成、再結像再出現されることになるんだっと。自然と…。なっが〜。




ここに表された二枚の絵は至極単純だけど、究極の目標たるものが描かれている。自分たるものを世界に向かって開いてあるが右の図。これとしてのものに完全になれたら幸せだよね〜のはなしでしかない…。*右としてすごいのは”門”ってのがだ、ない。最早、覚知そのものが、宇宙全体としてのダイレクト・インターフェイスになってしまってるーって、ことなんだ…。


                   大日如来(運慶作)
ここでまず強調しておきたくは、五感をもって我々は現実を確認するのだ。リアルなるものとして、本当のものことであるとして、そのことの重要なるは、もはや主観という領域内においては、それは自分にとっては、最早、完璧に、もう絶対に〜、疑うことができないもの、確信してる、できてるってやつ。その自分にとって確信されてあることが、ものが、他人においてもまた同じく確信できるのか?ってことになってくると〜それはまた話しは別!。*ハッキリ言っておこう!。他人においてのことなんてどうでもいいことなんだ。自分において、この自分は、何を確信して持ててあるのか?、あれるのか?ってことだけで十分なんだ…。*その貴方は‥まったくもって孤独なる、その極端としての存在としてでしか、在りえない、それとしてのものにしか、この世においては、なり得ないんだ!。「キリエ〜・エレイソン…」。

そのものずばりやら、検証データ‥計測器等による客観的として認められる記録の提出がいる。要は、再現性やら再確認ができないとダメなんだ。まっそんなことはどうでもいい。この自分においてが大事なことになる。それは聞き齧った話や、伝聞においての見知ったることの話しではない。この自分においてしかと確認されたことになる。

ある時期からはこれのみに基づいて、自分が理解するところのこの世界の現実を再構成する必要がでてくる。こうなると自分の考えたるものがどうしても起こってきてしまうものなのだ。それが他の皆において共感を仰げるものなのかどうかは分からない。しかしだ、どうであろうが最早気にはしない。してる場合じゃなくなる。やはり自分の五感において確認されたものが現実としての最優良候補になるのだから!。

右の方のモデルは、自己としてのユニットが最早消えてなくなってしまってるの状態。
海そのものとの別け隔てが最早無意味と成り果ててしまってる状態…。

さて、この覚悟方針は重要だ。世間が何を言おうが思おうが考えようが、そんなことは知ったことじゃない。そんなもん二の次、三の次の話なのだ。この自分が、現実だとリアルなものだと思うものこそが世界認識においての基礎になる。

よくよく注意して聞いてみれば、世間の皆が、大勢が、権威として認めれている先生たちが言っていることは、どれもみな夢うつつとしての、それにおいての、嘘、偽り、戯言、世迷い言ばかりではないかー!。なにがSDGsじゃ!。なにがこの宇宙にビッグバンはなかったじゃ!。本末転倒としての話し、その行為ばっか!。まっいい‥。この自分においてリアルだと間違いないことだと思われることにのみ基づいてあることこそが大事にしてまた基本。

さて、この五門によってのことの確認は、

果たすこともまた可能。このことを世のほとんどの人がしてない。そのことの要旨となるのが、これまた外界においてのことと同じくして、もはや「疑い得ないこと」に関しての、その情報の蓄積になる。それらを元に自分たる存在の内部事情、内部構成を現実に把握するってことにある…。

この作業ができるってことだけで、もう恵まれてる。おそらくは前世において少しは齧ったことがあるのだろう。繰り返しておく、生存中にこの作業を行う行い得る人間は、ほんのごく僅かしかいないのだ…。

それは実際にはどうやるのかと云うと〜、かんたん!。一人の時間をどこか静かな場所に、個室にもって、何も思考やら思いを持たずに、呼吸だけに焦点を合わせて座ってみる。これのみにあることを絶対の目標としてある。するとだ〜、あることが、明確に、分ってしまうことになる。「できんじゃないかーー!」ってことに‥。これがことの最初に、しかと、我が身にそそなわってある”現実”として、確認されてあるべきことになる…。

一分ならなんとかなるか…いやこんな力づくのもののことではあるまいて…なんと!三秒も保たんではないか!。日頃まわりから冷静沈着なクールにして怜悧なる男とだと認められていることの俺が、一旦すわってみたならば、頭の中はもはや気の狂ったかのようにして木から木へととびまわってる猿ではないか!。どうしてもエロに流れていってしまう…。昼、何食べよう?…。

少し修練としてのものが進んでくると、その成果としての結果が伴ってくると〜、内部におけるその情勢も変わってくる。自分たるものが単一なるものなどではまったくないことが知れる。これでは春秋戦国時代としてのその有り様ではないかいな〜っと…。


  こっからは

、今回の内容において、科学としてのアカデミーが行っている
 啓蒙教育説明としてのそのあり方もみていこう。これはこれで頭ン中の整理には役立つ‥。



       最終的にはすべてはこのシンプルなモデに還元することができる。
   でも処理結果の出力先は、外部のみならば

としてもあり得るからね。




これになりだすと、概要的にはかなり正解に近づいてきてはいるが、いまだ思考のみのアプローチでしかなく、結果、空論、空説、戯言、当て推量としてのもの、その域をでない。未だ概要においてを、その骨子を、名称を変えて言ってるまで。なんも進展はないのさ…。何故にそれとしてのものにしかならないのかと云うと〜、学者らは、自身にて実際を、現実を、ダイレクトに、確認してないからなんだ…。ことのもっとも重要なることは、なにが、ことの十全なる発現を阻害しているのか?に関わってくる。我意、我見としての偏向が、それらによる制約が、情報規制が、それらによる捻じ曲げが、エゴイズムとしてのその夢事においての志向によって為されてるって、起こってるってことが分ってない。このボトルネックを名指しでしっかりと述べることと、その解決打開策としてのものを添えて〜で、これらの解説もまた為されるべきなのだ。分ってるけどそうなれば、ことは宗教としてのその領域に踏み込んでしまうのでやれんってか…。




これがその宗教としての領域において、知恵ある人々によって、後進らに向けて残されたガイドになる。内部においての構成を把握するにあたって、これらの独立した領域がありますよ〜って教えてくれてるんだ。それらを実地にて確認してゆく。右側面の上部の第四の部屋ってのはおいそれとは参入できない領域になってしまってる。それらがそれらとして十全に一体化をもって機能してある間のみ、気づくことができる。これにおいても‥、ではこの気づく、察している、察して在る、この自分としてのモノは、いったいなんなのだ?、誰なんだ?ってな話もまた出てきてしまうんだがね…。それと気づきがもたらされてあるこの知性としての自分はまた違う‥。気づいたことをすぐこのマインドにおける知性に、つまりはそれとしての自分に、受け渡してはならない!。それすると瞬時に切り替わってしまう。せっかくの状況が一瞬にして霧散してしまうことになる。(ここに文章書いてる、紡いでいるのがその知性としての自分になる)。ことにおいては考えてはいけない。言語化する、思念想念を働かせる必要性はそこにはまったくないんだから。自分が識ることのみともなれば、そんなことをする行程は全然いらないのだから‥。それでいるまんまで、あくまでもそれこそが普通として、

、いれれば、ただいい…。あっ、そうそう‥静かに「すわって在る」と同じくして、なにか肉体を動かして果たす仕事においても、それを十全なる意識をもって、つまりは単に意識的にやるってのも修練としてはあるからね。両者は静功と動功って呼ばれてる。荷物をどこかへと運ぶ、移動させる、配膳する、食後にお皿を集めてシンクへと持ってゆく、お皿を洗う、割らないよう注意して、乾燥台に整理する、食器棚に戻す。抱える持ち上げるベッドへと運ぶ、降ろす、体の姿勢を整える。すべてにおいて重要な配慮となるのは、バランス!、バランス感覚の保持だ。安定しており、動きはあくまでも滑らか、また体のどこにも無理が、偏った緊張、力みがない。うまいこと全身において

。これって意外とできてないから‥。あとはとにかく失敗するな!、無用な音を立てるな!、もっと丁寧に!。放りあげた球を一点の集中をもって渾身の力にて打つ。テニス。この遊びにおいても加減を知らないプレーヤーであってはならない。だいたいね〜強すぎるか弱すぎるかのどっちかでしかないから。それらの間にも多段階としての合間ってのがあるから。歩調は緩急の二段のみならず、その間において無限にバリアブルでギアシフを行わなくてはならない。呼吸も滑らかに、深く、怠りなく。息詰めてばかりは駄目よっと。準備体操いらずになってね、いてねっと‥。昔ならば馬車としての荷台が大いに役にたった。それの扱いの熟練度が生活においては必須だった。でも今ともならば、最早それもピンと来ないであろう。その代わりにだ!、我らにはガンダムがあるではないか!。www。

ガイドとしての意識すべきことは、とにかく神経を全身に行き渡らせてあること。無自覚なる動作があってはならない。失敗を絶対にしない。ものを傷つけない。丁寧に。時間は腐るほどあるはずだ。あとは寝るだけでしょっと。引きと抵抗が着目点。壊さない、千切らない、千切れないよう加減を利かす。髪の毛なんか排水溝のフィルターに絡まってるでしょう?。ゆっくり加減をつければきれいに離れてくれる。

には転ける!。前転で受け身をもって地面を叩く!。何事も障害たるものは契機なのだ。恐怖にて身が竦んでしまって、もう身動きできないってのが一番リスキー…。等々色々あるけどもうヤンピっと。w.

先ずは静功において自己としてのその構成を識る。なにとはなしにでかまわない。とにかく吸って吐いての呼吸のみに集中して、できればそれのみになる。繰り返して時を経たならば、何かがさだまってくる。それにおいてを主眼に置く。体を使う動かしての仕事においては、極力あらゆるすべての動きに意識を置く。歩くならば一歩一歩に‥。弾みたるものの正体を、そのありがたみを自覚する。停止を運動エネルギーの溜めとして用いる。誰がそもそもからして動かしてるねん?って驚愕をもって識る。五門、五感をもって、内部にて起こってあることをしかと確認する。するとだ、質的に、感触的に、まったく違うものがそこに働いているってことが理解る。そうなると名称がいる、必要になってくるっと…。

*極端なる対象としては、やはり呼吸運動と心臓の鼓動としてのその動力のことになる。
これって、生存中は休まず、自立をもって、機能してるってことは知ってるよね〜。どうしてそんなことが適っているのか?!。これらを一種の疑似永久機関だってとらえることもまたできると思うんだが…。

*我々人類が生存してあるこの宇宙自体の存在を、根本において、そのようにで適わしめている背景としてのなにかが絡んでいるものと思われる。ある意味簡単に言えば、超越的な要素が絡んでる。心臓としてのポンピングとしての機能は宇宙自体を活かしめてある、在らしめて、サステインしてるその根源的なる律動によって適っているのだ。その音の反復を、声音化するならば「AUM」ってことになるんだろう。それは止むることなくずっと鳴り響いている音なのだ。

*また呼吸としてのその運動も、この宇宙を支えてあるその背景としての力の働きによって、おいてで、その運動は支えられてある。だからなのだ、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2:7)とあるのは…。ことの開始においてのその描写であり説明となっている。伝動ベルトとしてのその役割のものは、超越的次元に〜、その根拠を、もう絶対、確実に〜、置いているー。そのはずー!。だからこそ、准永久機関としてのものとなっているのだ。了





科学としての学問は、既に先にも言ったことだが、社会的共有性が前提にある。その公理とされるべきものは、言語/数式/映像にて記述されて、客観的だとみなしうる検証データが提出されて、再現としての実証が果たされてこそ、からのものになる。ここにおいてのボトルネックとしての最たるものは、センサー機器…。あれらって五感の人工的な再現でしかない。それもある意味においてはいたく劣ったものでしかない。だから、脳に電極埋め込んで、脳波やら電圧やらを測るにしかない。解剖学的な構造精査やらをも含めて。もどかしいとしての思いばかりがこみ上げてくる。そんで、未だ、なんも核心的なことを言わない、語らない。概要、概念ばかり…。

学問の一切において言えることだが、その研究成果は、人の現実の生活を、真に益するものでなくてはならない。これのみにおいて研究学究は測られるべきなのだ。目の前に人類にとっての問題は山積だからこういったことを云うんだが〜…。お前らの虚栄心、それの満足だけにおいて高い税金使って…、

のに、ふんぞり返ったまんまで、権威づらして、TVで語ってんじゃねーよっ!。あの薬学部教授よ、セブンデイズの…。その正体はK国人なんやろな〜、忖度をもってしてのキャスティングなんやろな〜、舛添表出てくんなー、和田A子も、あれもこれもそれらも!、稚拙にしてまた醜い、そしてまたまったく魅力がない!。

アカデミーとしての権威は、もはや、海外に集約されてしまってる。そこの〜そいつらの考えにただひたすら従ってある、それを信奉あることのみが、自身に与えられてある権威を、それによるステイタスを、その教授としての安泰なる人生を保証するものになっているんだ。もし東京区において高級住宅街にその住まいをかこちて持とうと思うならばだ!。全部全員だとは言わないが〜、法曹界なんてのはもう完全にそうだ。そうなってしまってる。つまりはだ‥アメリカの権威らに認められないその限りにおいては、大臣の椅子にはすわれない、省庁のお偉さんにすらなれないってことなんだろう…。


そんな人格としての、それにおいての洗練ばかりともなれば、世界的権威といえども、もはやろくな研究結果をほうこくすることもないって訳だ。そうをするそれを行う動機こそが売名、虚栄心においてのものでしかないのだから。論文発表ってやつは、どうしても義務らしい…。

でだ、論文の題材に困って、アカデミーからしたら禁断禁忌としての領域になるのだが、だって幽霊やらUFOセンサーで探知できないでしょう?、スピリチュアルの一言で括られてしまっているのだが、宗教秘教としてのその文化の中から、アイデアを得て、それを盗作して、自説として発表してきよることするんだわ〜これがまた…。


Re: これがその、あの〜、「三つ脳」としてのその考えになる。








Paul Donald MacLean (May 1, 1913 – Dec 26, 2007、アメリカ人) たら云う人がこの説の震源地らしいんだが写真を観る限りいかにも誠実そうにして純真なるひシト。下手したら子供心を失ってない、女性的なる方にお見受けするのだが、Gは1924年から、アメリカで布教活動を始めている。ならばそのときのこのポールはまだ11才だ。それ以降の時期においてGが初手の初手に教えてた三脳生物とししての人間の考え方は間接的に知った知ってたとしてもおかしくない!。…にしてはその彼の解説には臆見というか〜夢想としての〜拙くしてまた幼い思い込みばかりが陳述されてしまっているのだが…。

真実は、それと知らずとも、勝手に、伝播していってしまうものなのだろう。

おもしろいのが、海外において、アメリカとかヨーロッパ、フランスで権威として華々しく脚光を浴びた人たちの考えは、その新規なるとみなしうる考案は、なんの検閲も検問もないままに、スルーでこの日本にても流行ることになる。同業者としての関係者らが口に泡して、さも大変なことだと、偉大なる発見であるなどとして、喧騒をぶっ放し始めるんだ。このこたぁ〜ネットで検索かければ分かるよ、どんだけそれに類する関する記述、モデルズ、意見内容があるかってことで。

一つ確実なることは、こいつらは一人たりとて、実際には、座ったことはないはずだ。

灯台下暗し…。

こういったつまらない誤謬というか、不完全なる話しは、脚光を浴びる、取り立てての喧騒をもたらすことによって、副次的に、また良からぬ話しを、その突飛なる妄想としての発展を遂げることもある。

あの例の、レプテリアンの話しは、この三つの脳における、爬虫類脳のみで生きている人たち、それが首座に納まって、そこにおいての価値がすべてである人達のことでしかないのだろう。ほんとうに見かけ上は、そういった人間が持つ雰囲気は、爬虫類的な印象としてのものになるのかも知れないが…。

とにかく、漫画、おとぎ話、オカルト三昧としてのレプテリアンなんて存在は、いない…。

さて、ここまでが、自分の構想において概要、概略になる。

こっからは、自分の経験から、加えておきたい微妙なニュアンスを、あくまでもヒント止まりでお伝えできればいいな〜って考えてはいるんだが…はてさてどうしたものか?。既にもう十分に長くなってしまってのでそれはまた別の機会に日を改めて、追加させていただきたく思います。

そのときに使う予定の絵だけ置いておきます。

実際やれば、それもまた長々とした…


敬 具
天村崇
 拝






結局はどいつもこいつもマザコンとしてのその仕上がり、それとしてのものへの嗜好でしかないな、としての話なんかもね。でもね〜、女がやるこた〜、所詮みんな

だから。
ろくな結果にはならんて、なりませんて。愛を、そしてまたその有用性にたいしての尊敬を
保ちつつ下座に置く…、いや、サブとしてのそのお立場に、お控え遊ばしていただく!にっ、
徹するのが正解かと…

カーク船長として、あなたは絶えずいつもあらなくっちゃ…。

「それって誰よ?、どの絵のこと?!」(読者)

カオス理論の話しは重要だ。でもあれも最近はそれに関する話題を聞かなくなった。当然な話しだろ。それを前提にするならばだ、すべての科学的記述ってやつがもはや用をなさない、不可能になってしまう。だから、AI自らに、世界の変数ってやつの相互間の働きを読解させねばならなくなるんだ。追える変数ってやつは、人においてともなれば極端に限られてきてしまうんでね。でもだ、それも所詮はセンサー機器のそれらのキャパに限定されてしまうことになる。対象とされるべきは、考慮されるべきものは、おそらくは無限個、無限数あるはずなんだ。でっ、マハラジは、やはり偉大だな〜っと…。*木の葉一枚の舞い散るその軌道を

計算するならばだ、極端な話し、銀河全体の各星の動きをも、そのシュミレーションの中には組み込まなければならなくなる‥とかwww。それらをもってしても、未だまったくもって足らないんだけどね…。

追記:
それにプログラムとして入力できる法則、公理、方程式としてのものも、人間が掌握できているもの、把握されてあるそのものらの範囲にて、

。それ以外の未知なる法則もまた確実に存在してるはずなのだ。←この辺はシミュレーション世界の不完全性、それが

ってことの根拠として、どっかで取り上げられ、また語られる。


                             「無事、入力が
                               果たされたことだけ…」











        御座(みくら)中央(ちゅうおう)御座(みくら)周圍(まはり)とに、

        四つの活物(いきもの)ありて、(まへ)(うしろ)數々(かずかず)()にて滿()ちておりたり。

        第一の活物(いきもの)

のごとく、第二の活物(いきもの)

のごとく、

        第三の活物(いきもの)(かお)のかたち

のごとく、第四の活物は飛ぶ

のごとし…。




モデルは一断面としてのものでしかないから、それにおいての何を強調するのかによって、そのモデル図としての形態やら構成は変わってきてしまう。それの例えとして選択される動物も!。多角的に、いろんなモデルにおいて、それらを統合する必要がある。その必要がでてくる。でもその為には、そもそも、実際の実情としてのデータを、

、揃えておく必要がある。これもまたコインの裏表の話しさ…。*もうおわかりではあろうが、「愚直なまでのその反復行為、その執念深さ」において、(ワニ)が”牛”に変更になっても、されたとしても、全然おかしくな〜い!っと…。




老婆心:

確認するにゃ〜それそれのものに、それそのものとしての活動を、それそのものとしての顕現を、

、果たさなきゃならない。場合によっちゃ〜そのケダモノとしての自分を、

。そうできなくちゃならない。そういったことができる機会もまた不思議なことに天が準備してくれる。天空の星辰それの作用力において巡ってくる。しゃちほこばった四角四面の人間でいるばかりが能ではないって…。それと完全同一化してしまって、当たり一切を、はばからなくなってしまっては、いけない、ならないけどね…。







                              誰?これて‥
                               陳さんそっくり!
                                90歳なんだって。


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