第7話  とある系譜 序章

文字数 9,293文字

最初に、結論としての思いを述べさせていただきます。
多分、なんのことやらさっぱり分からないかと思いますが。
そうするのは皆様のご負担をちょっとでも減らす為になのです…。

その事態を一言で表わすならば、外見としての(がわ)が、(うつわ)のみが、異常な進化を遂げてしまっており、コンテンツとしての中身が、遥か彼方の過去に忘れ去られてきてしまっている。そういうのなのだ。違う例えをするならば、コンピューターのハードそのもの演算機能ばからがえらく進展してしまったのだが、ソフトの部分、人間自身を活かすべくの肝心の応用がまったくもって進歩してないとなる。利用者はむしろプログラムの一つになりさがってしまっている…。

分裂病者がかって、こころに刻まれて残る印象、それを構成する本一部の断片に、偏執的なるまでに執着してしまっててー、その再賞味を目的としての再現へと駆り立てられいるまで。その実態は

でしかにのだが…。その行為には異常と呼べるまでの冴えと、情熱を込めて再現たるものが…再加工再操作再構成たるものが行われている。シミュラークルの時代であることからの要請ではあるんかもね?。オリジナルはとっくに出尽くして、最早過剰だとまで言える状況にある。飽和状態。既に足りているが為に、故に、もう新たなるものが生まれてくることはないんだ。その必要がない。あとはその表象らにおける真の意味たるものの開放こそが課題となるまで。でもその自覚は彼にはないんだ。そんでハッキし言えば、出来ないんだ…。存在が薄くて軽くって、しかも希薄ときてるもんだから…。けったいな(あつらえ)でしかないマインド

にてのアプローチでしかないもんだから…。←(自分に跳ね返ってくることは覚悟の上での叙述だよ。)鑑賞後には圧倒ばかりで、その実なにも残りゃ〜しない…。

追記:ことあれらオリジナルの析出においても星辰からの作用が原因だった。要は天の導きたるものが星々を通してあったのだ。だがそれはあくまで無意識的にして無意識的なる創造行為製作現象でしかなかった。幻視だ。だから今という時代においては、現れたそれらの記号象徴を意識下においてしっかり読み解くことこそがなされるべきの時代なのだ...。サンキュー

分裂なる言葉はあながち間違いではないのかもしれない。かってのオリジナルが断片化されて、その分節化微分化されたあるパーツ(要素)、かってそこにあった断片としてのイメージのみがクローズアップされて、想起されて、新たなる意匠をまとわされて無理やり全体の中に持ち込まれている。混ぜ込まれている…。断片をもって全体たるのをなんとか形作っているまで。全体は二の次三の次でしかないのだろうな。そうとしかならないのだ。確かに制作においては異常なとも言える情熱が伝わってくる。過剰なるまでの洗練さも認められる。だが全体としては結果としては、何も伝えていない。あくまで伝えているかのような雰囲気まで…。本来的に伝えるべきものが自分には見つからなかった。あるのは幼少期に感受した先行する作品における強烈な部分としての印象のみ。トラウマ?。もしそうであるならば、作者においては、実質上、ことは未解決のままであることになる。そうであるが故の「苦しみ」たるものが所在していることになる。そうであることの、その苦しみにおいて、それを原動力として、制作たるものが行われてしまっているのではないだろうか…。???。もしそうであるならば、これは実質上、病理としての表現でしかないのではないだろうか?!。トラウマや固着があくまでそれ自体としての、それが残存するが故の要請強制として、再確認の再検証の作業を、彼に求めて命じ、求めてしまっているだけ?。そうすることから逃れられなくなってしまってる?。これはもう迷路に嵌まり込んだものがする足掻きにも似た行為でしかない。それも単なる下手にして間違った悪足掻きだ。その彼は正常たる状態を失ってしまってて、脱出の出口を見失ってしまっていて、苦しんでいるにも関わらず、その自覚たるものがまったくない。実際、本当のところは、そうなのだ。あれほどまでに病理たるものを勉強して、精神世界のことさえも研究してきたのにも関わらずに!…。

ハイ。ここまで。

誰のことで、何についてのことなのか、おぼろげにぼんやりとしてでしかしかわかりませんよね〜?。でももうそれで充分なんです。ハッキリ言って彼なんかどうでもいいんだ。むしろ自分が心配して止まないのは視聴者たる皆様のことなんです…。

続いては、冒頭の結論へと至るまでの道筋になるのですが、これはご興味のある方のみ、
お暇な方のみにてで、お願い申し上げます。なんやらつまらんことをダラダラ書いてある
だけなんですから。それもぼかしにぼかしてで!。スキップするのがご懸命かと思います。
そしたらばー、次回の①、*三回シリーズのところまで飛んでやって下さい。
そこからが、本来の、今回の稿になります…。草々。天村


Re:その、つまりは、グダグダとしての前置きパート!。

三作品は、どれも前者を

として発想され、そして意匠や設定やらを変更した上で製作れたものだ。このことは別段問題だとは思わない。

!、先行する作品においての、その作品に込められていた願いや

たるものが、後人たる表現者らにおいて、洋々汲まれて、理解されているならばーでのお話し。

ことは、その再利用においての変遷、変更、ときを経ての変化変質には、なにやら

たるものを、不穏にして不健康なる変節たるものを、そして更には、奇異にして不自然なる逸脱行為さえも、自分は見てしまっているのだ。それについてのご説明を少しばかりさせてもらいたいのです。否、なに、突っ込んだ解説や批判やらを、やるつもりは毛頭ありませんのでご安心しててください。あくまでも意味上の脈絡においてだけなんです。そこにある単純な変更を指摘しさえすれば事足りると思うんです…。

先ずは大前提としての、大切なる事を:

Re: Good News only !!! 副題:
「誰も苦労して金払ってまで、損するような傷負うような真似をする奴は、いないって…」

いかな表現であったとしても、それが創造される、制作されるのは、「善き知らせとしての価値があるからー!」と信じてなのだ。それを広く告知することこそが目的なのだ。表現者たる当人において、本当に大切であると確信されたる

に関しての真実の報告、それこそが作品のエッセンスたるものになる。実際の表現にあたっては、それは色んな色付けや内容/形態の変更をとることになるのは当然だ。そこには「例えをもって語る」しか方法はないのだから。ともかくにも、基本、人類の幸せ、喜びを願っての、祈っての、行為なのだ…。それは、反面教師としての役割をもってしての内容であったとしても構わない…。

個人的な観察においては、それが

であった場合には、そこになにかの真実に関わる表現であった場合には、作品はインパクトを鑑賞者に対して持つ。必ず。その表現が如何に拙いもの/下手なもの/抽象的なものであったとしてもだ…。それが稀なることであったならば一層の効果が期待され得る…。

真実のところでは、人類は意識としては実は一枚岩なのだ。そこに強弱はあったとしても、表層の誂えたるものの巧拙を超えて、その表現者の真意を、思いを、そこに込められたるの真実においてのメッセージを、なんかの形で察すること受信することが自然とできるようになっている。理屈を越えて、それは何故か、届いてしまう。そして、こころを打つ。こころに響いていしまう。何故か正しいと、真実だと、サウンドしてしまう。または、何故か面白いと感じてしまう。その受信がなされるのは、ほんの極少数の、僅かな人達でしかなかったとしてもだ…。


Re: コラム

聖書なんかが、まさにそういった表現物になる…。本当に良いとされる作品は、
ときを越えてゆく。その力を授かって生まれてきてる…。誰に何によって?。

古典的な〜とかクラッシクたる〜とか教本たる〜の本来の意味は:
時を越えて、それによる試練練磨をくぐり抜けて、尚も、人の心に強く訴えかける力を持つ、
その効力を保ち続けている作品に与えられる形容詞だ。要は、飽きやすいヒトのこころにおいて、ときを経て尚も、効果を発揮し続ける。普遍的なる特別なる価値を備え持つ形式や構造、
あれらArchetypal Imagesのことでもある。象徴ね。また七音を基調とする、音階オクターブ
なんかがもまさにそうだ。これに、今現在に至ってさえ尚も、全人類みなして好んで嵌まって
しまってるではないか。それが正しく(自然としての法理に沿った適ったの意味で)正解であることの証だ…。

閑話休題。話を戻して…。表現として作られた以上は、そこには何らかの善きメッセージがなくてはならない。観るもの読むもの聴くものにおいて純然なるメリットたるものがなくてはならない。そうであることを信じて、信頼して、鑑賞してくれるわけなのだから。まあある種の教養、教えとしての役割が期待されているわけだ…。

脱線。なにやら読んでてしんどいわって感じられているかと思います。もしくは、なにを当たり前のことを、長々と、それも下手な文章でっ!とかね…。でもねっ、この当前(あたりまえ)のことがおざなりになりされ出してきてるって感じてしょうがないんだ。世間一般において。
それも長く長くに渡って…。

もっと日常的なことを例題として上げておこう:

自分のことを思ってくれている、慮ってくれているヒトがいたならば、そのヒトは大切に、優しく、礼儀正しく接して上げた方がいい。何故だと思う?。そういった存在は、この世において巡り合う人々において稀でしかないからだ。だからこそ大切にしなくちゃいけない。その相手は、なにも、そうすることにおいて、返礼も感謝も好意も求めちゃ〜いなんだ。だからってそういった人間だからって、甘えて、暴言吐いたり、批判したり、苛めるような真似をしちゃ〜いけない。自分が幸せになりたかったら、せめて、他人に、無償の愛たるものを、それはまったくの自覚なくして為されるまでのものなのだが、これを行えるようにならくちゃねっ!。方円の器は自明の理なり。

これってどうだろう?。あなたは正しいこと、普遍的なる教えだと思えますか?。認識できますか?。もしそうならば、百年たったとしても、その内容に飽き飽きしてしまったとしても、
それを変えてはいけないんじゃないだろうか?…。



Re: 本論

*まだまだ続くぜ、グダグダは…。

物語たるものが、発生する原因は、基本、人間関係におけるエゴの確執。これが起爆力となっている。それによって顕在化する問題、つまりはそこに来たるべくの“困難”“苦難”を解消すべく、関係者らがみなが一団となって奮闘努力する。これが展開に相当する。そして万策尽き果てて、すべてが徒労となり果て、終局にて、関係者等、全員に、破綻/滅亡が訪れてしまう。めでたない、めでたない…。これはイデオンにおける結末だ。先もって喚起をしておこう。

要は、ハデハデしいSFとしての目新しさをまとってはいても、
これって、古典的な意味での「悲劇」じゃなくね〜?(サ〜ヤ調で)。

こと製作にあたっては、関係者らにおいて期待されてあったのは、そんな風に、こんな風に、なってほしくない、そうことにはならないよう注意を換気すべくの思惑。そういった願いを込めて、その願いの元にー、作品は制作されていた(はずだ)。すべて、細部に至るまで、本当に思慮深く、計算されていて、瞬間における演出もまた素晴らしく、そういったすべてを根気をもって支えていたのは、奥ゆかしきその良心と、表現への誠実なる情熱だった。ほんと素晴らしいものばかりだったな〜。宮崎さんね含めて、その関係者周りの方々を思い浮かべています…。

表現としてのあらゆる芸術作品は、それを鑑賞する者等において、明確なる役割や効果が、
その作者において自覚的であるべきなのだ。もしくは、少なくとも祈念としてのなんらかの
想いが願いが込められていなければならない。そういった特別なる思いたるものが作品にて
語られる、封じ込められていて、鑑賞者によって読み解かれてこそなのだ…。観に行くのは。
これ以外の目的で表現をやっちゃ〜ならない。あってはならない。自粛せよだ。
間違って、己が欲求不満や狂気をぶち撒ける、共有させようとなどと考えて、制作を行っては
ならない。万が一、それが金になるとしてもだ…。そんなこと思ってもいなかったとしても、
実相がそうであるならば!。

悲劇たるもののは、なんらかの人間間における確執がテーマとなっている。それの成立ちを時系列的に段階をもって描写することによって、観客たるもの達に、それを対象として、客観的に、理解してもらう。問題点の抽出が完了しており、それを巧みに効果的にクローズアップするべくドラマは構築制作されている。悲劇たるものが本来果たすべき役割は、そんな事態にならないようにとの警告であり願いなのだ。ことの真相原因、そして事態に対しての適切な対処においては、なにを指針とすべきなのかが暗示をもってだが、確実に語られていなければならない。それは、皆さんは決して間違わないでくださいねっとの、思いやりとしての願いを込めての意思伝達なのだ。

悲劇は繰り返されるものだ。何故ならば人間はちっとも変わっていないのだから。
だから、シェークスピアの『テンペスト』も『ロメオとジュリエット』も意匠を改めて
現在に復活させることができる。それらは既にテーマにおいてよく練り込まれた作品なので。
観客のこころに訴えかけるにおいては痛く有効だから…。客を呼び込めるー!。

また違う話をするならば、
ヒトは、正しいこと、善たるもの、美たるもの、愛たるものに接したときにしか、
本当の喜びというものは覚えないだ。つまりはこいったものが、基本的に、本来的に、
人類にとっての普遍的なる価値なのだ。これはもう変えようがない…。

何を急に言い出したのか訳わからんだろうから、簡単なパターンをいくつか上げてみよう:

バカは愚か者は幸せにたどり着くことなど決してありえない。生涯に渡って絶対に無理!。
*聖なる白痴ってのはまた別格なる存在。これは例外とする。フォレスト・ガンプ。
ムイシュキン公爵も入れておこう...。
相手の行動に、正しき判断、良き思い、尊き志を知ることにおいては、何故か安心する。
苦難たるもの試練たるものは避けられず。これらに打ち勝つことこそが人生の課題だ。
然して、もしそれが為されたれたならば、不思議なことに、報酬たるものが、
人によらず、天より、その摩訶不思議なる采配によって、与えられ、身近に備えられる。
*日本昔ばなしとか西洋の童話なんかにはこの手の展開が多い。経験者らが残した。
自分という人間において相性においてマッチする異性との出会いは必然だ。
だが関係が深まるにつれて引き起こる試練葛藤を経てた上で、為されるべきが為されてこそ、
その婚儀は成立する。両者ともに愛たるものの実際がなんであるかまったく分かっていない
からだ。その幸福なる場の完成において子たるものを授かった。
*かってはこの手の映画が多かった。ロマンシング・ストーンなんかはこれに当たるかな?
自分のことは諦めて棄てて他者への愛が全面的となる...。バラバラであった関係者一同が同じ目的において一体化した...。心機一転、一心同体となっての動きになってしまっている...。最初、あれほどまでに嫌って、むしろ憎んでいた相手なのに、今ではその思いがガラリと変わってしまっている...。もう底なしの信頼を寄せ合っている(西田とサーヤみたく)...。憎むべくの敵に対して、あることをきっかけにして尊敬の念とも呼ぶべき感情が湧き起こっている...。戦時下という例外的にして異常な状況下にあって、人間の尊厳たるものの顕現が、卑しき身分のものにおいて証しされる...。*冒険者たち、ガンバの冒険がまさにこれだ...。勇なきものが突如、小さき幼き者の為に勇猛なる戦士へと変貌を果たす...。親が子の命を救う為に自分の命を捨てた...。愛たるものに生まれて初めて触れて、自分の中にもなにか未知なる馴染まないフィーリングたるものが湧起こる。そのことによって、自分の中にもの同じものがあることに気づく...。もう絶対的に絶望の窮地の只中にあって、あわやもう駄目だ、絶体絶命のピンチと思ったその瞬間、思いも知らない助けが突如現れた。そしてそれは圧倒的な力を振るって瞬く間に形勢は逆転されてしまっていた…。*これは赤影でが最初。ロボットアニメでもよくある。いっつも自分はこれに泣いてしまうのさ…。知性こそ最高位の価値としての称号を与えなければならない。だが真に誉として尊ぶべきは自死を賭けてでも皆を救わんとするその勇気。それを持つ人間こそがリーダーとしては相応しい...。まあこれぐらいでいいでしょう。

追記:
結局は、ヒトは不幸になる、それへと落ち込むことになる。これは誰においたって避け難き展開、その人生においての末路なのだ。もしそうならばだ!あなたは自分がその窮地に陥ったとき、何を誰に求めるのだろうか?。基本、他人に何かを求めることはできない。みんな乏しいし忙しいから。ならばだ、そこにはその渦中においては間違いなく苦しみが悲しみが孤独感が苦痛があなたに伴ってある。これを背負って、これに耐えて、その苦難を乗り越えていくことこそが、あなた自身が唯一の為し得る、為すべくしての道になる。

そしてだ、こっからがおもしろくなるのだが、それを果たし終えた後には、あなたにはそうした苦境にある人々を放おっておく、見捨てることなどでもうきなくなってしまってるのだ。ある種の存在の心境の変化がそこにはある。起こってしまってる。ここにおける二者の関係のドラマこそが、それを観るものに感動を、もうドウシヨウモナイほどまでに与えてしまうのだ。ことはもう防御不能。絶対に阻めない。「止めどもなく涙が既に流れ落ちてしまっている」を体験させ得る…。

ここに今述べたことは一つの核心としての、それについてのお話し。このことは無限に変奏させることができる。しかも、その両者が同じ土台に立つ必要はない。つまりはその主人公/登場人物と作者もしくは翻訳者としての関係だってありえる。だが、それができるヒトは、あくまでその経験を経て来てる、つまりは神の/天の導きのもとに、正しい心構えにて、乗り越えてきているヒトのみになる。そうじゃないとむり。発動しない。ここに、この手の奏者が少ないことのその理由を察することも/を、できるのかも知れない。了。

先の、「ヒトは、正しいこと、善たるもの、美たるもの、愛たるものに接したときにしか、
本当の喜びというものは覚えない」において、私がなにを言いたかったかは、もうお分かり
頂けたものかと思います。でだ、文化たるものは、そこにある価値に生きることを

するものでなければならい。肯定とされるべきの内容は、その行いは、強化されなければならない…。*これさえも指針としての一つの価値だ。ポジティブ・レインフォースメントって言葉は知っておられますよね?。

。良いことにおいては、その反復をもって更に強化すべく、皆の応援評価をもって奨励するべきなのだ。

現在は、この価値たるものを、敢えて毀損する、違えることのよって、多くの読者たるもの視聴者たるものの気を惹く、関心を奪うが慣例となってしまっている。暗黙の前提たる価値観を援用すると見せかけて、展開においては確実に裏切ってゆく。(いや)さ踏みにじる。そうやって、とにかく新規性たるものを訴えるのだ。インパクトとなるものならもうなんでもいいから使うまでだ。そういった風潮が見られるようになってしまっている。それが残されたマーケティング戦略となってしまっている…。もう悪意をもって構成変えるしかやれることがないんだ。ここにもデビルマンの影響を自分は観る。基本良心たるものの獲得に、その価値たるの承認に、失敗した人間だ。かれらは…。だが鍛えられ発達した高度に知性は備えている。それを悪用するしか、やりがいのある仕事ってのはないんだろな…。これも時代のせいって言えばそれのせい…。まどか…。



この変遷に関してはオクターブの法則を適用するのがいい。製作者サイドにおいてはあまり意識的な自覚たるものがないんだ。ことの本質的な理解、使命たるものの自覚とかが、完全に脇に除けられてしまってる。なんか、あくまで個人における記憶とか拘りとか思いとか動機のみがドライブになってしまっている。大切なのは、頭の中にあるのは、あくまで視聴率、観客動員数、円盤の売上、つまりは収支に関してだ。それこそが評価と見なされる時代趨勢なもんだから。そったらもんだから、あるべくの新たなる方向性に向けてのメッセージが、総括がまったくないんだ。そしてなんか妙にサウンドしないものばかりとなりにけり…。*バランスが大切なんだけど片側への根付きがなにやらあやふや。あくまでも、時代のせいなのかもしれない。

あって然るべくの目覚め/覚醒がないままに、惰性として創作が続けられているせいで、
ときの流れにおける偏向のそのままに、屈曲してしまって

るんだ。

その傾向性としてのベクトルは現在、かってとはもう真逆も真逆、それも下方に向けての螺旋を形成しつつある。もう既に、下向きの左旋回の螺旋が完璧に出来上がってしまっていると観てる…。そらはもう、全体的な嗜好というか、盲目なれば、みなその色に群がって呼び寄せられて、感応してで、となってしまっている。これは群衆心理に基づいての盲目的にしてなる、無意識的な自動性に基づいての嗜好選択がトレンドとなってしまっているまで。



ここに上流に向けての統合たる奮闘が右回りの上昇螺旋と、
分裂としての更なる下流に向けての不幸なる左回りの下降螺旋がある。
いっとくけど、これは客観的な事実としてのモデルだからね。



普遍的な価値不在のところに真に満足なるものはありえない。あるのは夢現としての共有幻想においての一体感のみ。否定的に観るべき内容が強化されたならば、もう悪い災厄たる事態を増やすばかりとなる。ヒトを傷つける描写を面白とか楽しいとか刺激的だとか思うその感性のことを、自分は言っている。


まず、繊細なる情緒たるものが消えた。


昭和の終わりと伴に。


今あるのはあくまでも回顧趣味における模造品でしかない...。



〈続く〉





あとがき:

本来は①として禁断の惑星に関しての内容が含まれていた。
でもここまでで八千文字越えてきたので分けることにしました。
他愛のない内容であることをどうかご容赦くださいませー!。

いつもありがとうございます。

 謝

 拝

 崇







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